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第四章 「ふたりの肖像」

日本国内基準表示時刻10月9日 午後4時0分 紀伊半島某所


 東名から東名阪の高速自動車道を乗り継ぎ、二時間近くが過ぎた頃には、二人を乗せた車は中天より落ちかけた陽光さざめく木々の間を、流れるように駆け抜けていた。


 カーブと勾配の増えた道は、全開にした車窓から清々しい(もり)の空気を運んできた。立ち上る木々の間を掻い潜って延びてくる日光の腕は、神々しいまでの静謐さを伴ってハンドルを握る青年の胸を撫でるのだった。


 助手席には、うら若い女性。


 整った目鼻立ちの奥に静謐さを閉じ込めたような愁いを帯びた表情が、青年には息を呑むほど美しく感じられた……だが同時に、それ以上の感情―――例えば、恋人同士がお互い通い合わせる種類の感情―――を、青年は彼女に持ち合わせることがもはや出来ないでいた。


 何回目かのカーブに差し掛かったとき、青年の脳裏には、ほんの数ヶ月前に自分がいた場所の記憶が湧く様に蘇ってきた。


 ―――――それは、自分の眼前で銃火に斃れ、剣で喉を抉られ死んでいった仲間達の記憶。


 ―――――それは、銃火を振り乱す敵兵に追われ、平原を駆けた記憶。


 あまりにも忌々しいそれらの記憶を振り払おうとする焦り、それが一方では見知らぬ土地で死んでいった仲間を見捨てるかのような悔悟を呼び、青年を混乱させる。


 ……自然、アクセルを踏む足に力が篭った。


 両脇に広がる潅木の流れが、一層勢いを増した。


 「ねえ……俊二君」


 と、助手席の女性が青年を振り返る。薄い唇から漏れる躊躇いがちな口調が、少女のようないじらしさを感じさせた。長い、艶やかな黒髪と憂いを帯びた眼差し、ふっくらとした頬、形のいい顎が一層その感情を誘う。


 ……アクセルを踏む足が、緩んだ。


 「ごめん……飛ばし過ぎちゃった」

 「ううん……そうじゃないの」

 「ん……?」

 「俊二君……怒ってる?」

 「何が……?」


 ハンドルを操る手もそのままに、青年――――高良俊二は助手席を横目で見た。その視線の先では、穂積 美沙子が女子高生のように畏まり、控えめな笑みを浮べていた。


 「俊二君と別れるって……言い出したこと」

 「…………」


 美沙子と俊二が知り合って、すでに一年近くが過ぎようとしていた。


 きっかけは、大学の合同コンパだった。誰かの下手なカラオケの歌に皆が盛り上がる中、どちらかと言えば無口な俊二と、一座の中で終始控えめに振舞っていた美沙子が眼を合わせて数時間後、二人は人ごみに揉まれながら、風のように夜の歓楽街を歩いていた――――ネオンに彩られた街並に負けまいと、健気なまでに瞬く星々を眺めながら。


 ……それ以来、二人は付き合い始めた。カップルをリードしていたのは、どちらかと言えば美沙子の方だったのかもしれない。数えられぬくらいに食事をし、二人で映画を見た。コンサートにも行ったし、旅行もした……そして、ベッドもともにした。


 彼女は俊二が学生でもあるということを知っていたし、自衛官であることも知っていた。その上で美沙子は自分の全てを受け容れてくれているのだと、俊二はある時が来るまでは信じていた。


 ……だが、美沙子は美沙子で、二人でずっと共にいられるという彼女なりの想像に必死で縋り、幸せな時が続くと信じていたようだ。それが裏切られた時の彼女の姿を、俊二は想像すら出来ていなかった。

 遡ること七月―――――スロリアに行くと告げたとき、美沙子の悲嘆ぶりは尋常でなかった。永遠に別れるわけではないのに……と俊二は弁解したが、それでも美沙子は俊二を惹き止めようとした。やがて何を以てしても俊二の意思が動かしがたいと知った時、そして度重なる隔意と感情の応酬の末、美沙子は普段の慎ましさをかなぐり捨て、振り上げた手で俊二の頬を二、三回打った。


 「あなたなんか!……死んじゃえばいいのよ……!」


 彼女が涙眼で放ったその言葉から、三ヶ月が過ぎた。


 ――――そしてその間、俊二は彼女の言葉を、別れの言葉だと思っていた。


 今思えば、その三ヶ月間は瞬く間だった。短期間の、だが訛りきった身体には過酷な訓練を受け、スロリアの地を踏んだのも束の間。謎の武装勢力の襲撃から始まったすべては、これまで十年間を平和に過ごしてきた日本を今や何時収まるとも知れぬ戦雲の渦に叩き込んでいる。


 俊二もまた、所属すべき部隊を失い彷徨すること一週間……陸海空自衛隊の総力を挙げた救出作戦の末、漸く救出された予備自衛官に対する世間の関心も瞬く間に消え、彼も自衛隊を退くことになっていたはずだった。


 ……だが、俊二は隊に戻った。今度は自衛官の肩書きから「予備」の二文字が消え、彼は正規の隊員となった。俊二は信じた――――正規の隊員に留まり、自分を巻き込んだスロリアの戦乱の一部始終を自分の目で見届けることこそが、自分がこのような境遇に廻り合せた意味であり、死んだ仲間に報いる途だと。


 隊に戻り、予備自に籍を置いていた時以上に束縛され、一方で充実した訓練を続けていた俊二に、旅行に行こうと美沙子は誘ってきた。それが、九死に一生を得て日本に帰ってきた俊二への、彼女の最初の言葉だった。それを拒むべき言葉を、俊二は持たなかった。


 休暇を得、一泊二日(自衛隊、それも逼迫した国際情勢では、精一杯の休暇だった)の短い旅行に出た車内で、美沙子は言う。


 「あたしさ……びっくりしちゃった。だって俊二君、また自衛隊に入り直すって言うんだもの」


 そのあとで、例の戸惑いがちな沈んだ声で、美沙子は言った。


 「……どうして?」


 次の瞬間には、円らな、黒一色の瞳が、真っ直ぐに俊二を見据えていた。俊二は、淡々と言った。


 「向こうに忘れ物を……して来たんだ」

 「忘れ物?……違うでしょ」

 「違うって……何が?」

 「俊二君……まるで、向こうに女でも作ったみたい」

 「…………!」


 本人が意識しているかどうかは別として、美沙子はよく核心を突くことを口に出す。あの彷徨と死闘に彩られたスロリアの一週間、その中で唯一俊二に救いと安らぎを与えてくれたリーゼ‐タナ‐ランというローリダ人女性のことを、俊二は誰にも言い出せずにいた。


 「そんなこと……」


 あるわけないじゃないか……と言いかけて、俊二は口篭った。タナのことは、できるだけ否定したくは無かった。だがその一方で、ここから遠く離れた場所で生きているであろうタナと、今現在、自分の運転する車の助手席に座っている美沙子とを見比べ、品定めしている俊二がいた。

俊二は言った。


 「どうして……そんなこと言うんだ?」

 「だって……俊二君、スロリアから帰ってきて、人が変わったみたいだから……」

 「あれくらい酷い目に遭えば、人間少しは変わるところがあるさ」声が、自覚できるほど苛立っていることに、俊二は気付いた。

 「でもね……なんか違うんだ。そういう人って、普通性格が荒むものじゃない。でも……俊二君は違うの。あれからずっと……大人になったみたい」

 「大人?……ぼくが?」

 「わたし……怖いの。俊二君が、このまま私の手の届かないところまで行っちゃうんじゃないかって」

 「…………」


 道はさらに奥まった林野に入り、車は急な登りに差し掛かった。変速しようとシフトレバーに懸けた俊二の手に、暖かいものが触れた。


 「美沙ちゃん……?」

 「俊二君……」


 さっきまでの慎ましやかな口調は、熱に浮かされたような、哀願するような口調に変わっていた。


 「……お願い、離れないで」


 俊二の手に自らの手を重ねたまま、美沙子は言った。




ローリダ国内基準表示時刻10月9日 午後5時30分 首都アダロネス市内 リーゼ‐スロム‐テスナ邸


 黄昏がアダロネスの街並を覆い始める頃。より上流の貴族や騎士階層ほどではないが、街の社交界はにわかに活気付き始める。


 夜、一定以上の富裕層に属する市民は思い思いに着飾り、心尽くしの土産を手に付き合いのある人物の邸宅を訪れ、食事会や交歓会に夜の一時を費やすのだった。その間に共有される仕事上の情報と人物評、そして一族の風聞は同じ階層間の連帯を一層強め、人々をさらに多様な交際へと駆り立てていく……この日、アダロネス市中心部の高級住宅街の一角、弁護士を務めるリーゼ‐タナ‐ランの父リーゼ‐スロム‐テスナ邸においても、そのような光景が繰り広げられていた。


 晩餐会の来客を待つリーゼ家の一室で、主の次女たるタナは自室の鏡台に映し出された自らの姿に、その蒼い瞳を見開いていた。


 ノドコールから帰ってきた頃より随分と延びた金髪は、召使の手により愛用の鼈甲の櫛で夜会用に梳かされ、芸術的なまでに結い直されていた。新調したドレスは絹の艶やかさをしっとりと湛え、スロリアからの生還祝いに父より新たに贈られたエメラルドの首飾りは、鏡の中でもタナの胸元で淡い青を放っていた。そしてタナはスロリアで舐めた辛酸を忘れ、一時を鏡に映った自分の晴れ姿に見入っていた。


 「綺麗よタナ……まるでお姫様みたい」


 と、タナの肩に手を回し、タナの母リーゼ‐レ‐ラナ‐リュサが耳元で囁いた。文字通りに深窓の姫君のごとく控えめに微笑むと、タナは腰を挙げ、母と連れたって部屋を出た。このような姿で外に出るのには、少し勇気が要った。


 「…………!」


 渡り廊下より見渡す玄関口に広がる光景に、タナは目を見張った。

そこには既に着飾った来客が集まり、邸の主との会話に花を咲かせていたのだ。母に手を引かれ、タナは階段よりゆっくりと歩を踏み出した。それに気付いた一同の視線が、一斉に彼女の晴姿に集中する。


 「ご来駕の皆さん、あれが、我が家の美しき英雄です……!」


 父の言葉と、間を置かずして沸き起こる拍手にタナは頬を紅潮させた。階下に足を踏み出すや否や、タナの手を引く手は母から父に移り、父娘は互いの頬に接吻を交わすのだった。期せずしてタナの脳裏に、二ヶ月前に我が家へ帰り着いた時の記憶が蘇ってきた。


 ――――その日、「英雄の帰宅」を聞きつけた報道陣の焚くフラッシュに囲まれながら、父娘はリーゼ家の玄関先で向かい合った。


 「お父様……」


 声にならない声で、タナは自分の前に進み出た父に呼びかけた。それでも、父は無言で、無表情だった。


 「…………」


 緊張に張り詰めたタナの頬を、父は静かに、そして軽く打った。瑞々しい顔を打つ乾いた音を、その場の誰もが聞いた。


 「…………!」


 心身の衝撃で顔を歪め、髪を乱したタナの前で、父はゆっくりと両手を広げ、眼で誘うのだった。


 「…………さあ、おいで」


 その瞬間、娘は涙に溢れた瞳もそのままに、父の胸に飛び込んだ。その光景は、翌日にアダロネス市内で発行された新聞の第一面を飾った――――


 「暴虐なニホン軍の魔手を逃れ」、「敵勢力圏である」スロリア東部を一週間近く、それも「たった一人で」踏破し味方の前線に帰りついた「ローリダ女性の鑑」!……その評価がタナに定着しすでに二ヶ月。タナは文字通り政府と軍の推し進める「解放戦争」の広告塔となっていたのだ……本人の意思には関係なく。


 引っ切り無しに依頼される講演と政府要人との接見。さらには軍の要請による部隊や軍病院への慰問……家に帰り着いたその翌日からタナの一挙手一投足がテレビ、新聞、そしてラジオ等あらゆる報道媒体に大々的に取り上げられ、そのような日常に戸惑いを覚える間も無く彼女は政府や軍の促すまま、「戦争の英雄」として各地を回る日々を過ごしていたのだった。そしてその影響は彼女自身のみならず彼女の家にまで及んできた。


 「英雄の父親」として、弁護士たる父の知名度が上がったのと、それに伴う父への仕事依頼が増えたのはうれしかったが、節操の無い取材はリーゼ家の私生活までに及び、家のポストにはタナとの縁談を望む手紙が大量に舞い込んできた。有名な映画会社からは多額の契約金をちらつかせ、彼女の「逃避行」を題材にした映画を取りたいという打診すら来た。主演―――つまり、タナ自身の役―――は誰も知っている有名な歌劇女優で、これもまた家族を驚かせた。その一方で有名な存在になったがゆえに教職への途も断たれ、あまりのことに戸惑い、家族にまで迷惑をかけたことに落ち込むタナを、父は慰めた。


 「まあ、こういうことは一過性の流行のようなものだから……時が静けさを取り戻してくれるだろう。だからお前が気に病むことではないよ」


 と、父は言ってくれた。それはタナにとって、元老院議員やら将軍やらの形ばかりの労いの言葉に勝る一言だった。


 ――――来客の質問がタナの現況に集中したことは、彼女にとって安堵を覚えるものであった。嵐のように多忙な日々は今思えば早足で過ぎ去り、久しぶりでの安寧に身を委ねる中で、涼風のように会話は進んでいく。


 「折角帰ってきたというのに、忙しくてつらかったでしょう?」

 「そんなことありませんわ。だって……お国のためになると思えばこそですし」

そこまで言って、自分の発言に戸惑いを覚えるタナであった。


 「タナお姉さま……!」


 と、玄関に駆け込むなり、小さい胸に息を弾ませタナに駆け寄ってきた少女は、女学生であることを示す折り目正しい制服に身を包んでいた。幼さを漂わせながらもその金髪はタナにも負けずに輝き、子供らしい快活さの任せるまま、少女はタナに飛びつくのだった。


 「ユウシナ!……こんなに大きくなって!」


 今年で10歳になるユウシナ‐レミ‐スラータは、タナの従妹だった。それでも、末っ子のタナと女の兄弟のいないユウシナとの間にはすでに姉妹にも似た絆が出来ている。こういう大人同士の語らいの場では、子供の参加は大抵遠慮されるものだが、背を屈めてユウシナの接吻を受けるタナに、


 「ユウシナはね、どうしてもタナに会うって言って聞かなかったのよ」


 と、タナの叔母に当たるユウシナの母が教えてくれた。


 「馬鹿ね、明日にでも私から行こうと思っていたのに」


 と、ユウシナの顔を覗き込むタナもまた、満更ではないといった表情を浮かべている。


 「タナお姉さま、スロリアの話を聞かせて」

 「晩餐が終ったら、ゆっくりとね」


 来客は、その間も続々と入ってきた。とくに結婚して家を出た兄と姉との再会は、タナの心を一層和ませたものだ。タナが家を離れていた間、お腹の大きかった姉が、すでに可愛らしい男児を出産していたこともタナには嬉しかった。姉より手ずから託された初孫を抱く父は、すでに祖父の顔をしていた。


 「お宅のお嬢さんも、そろそろですな」


 と、来客の誰かが母に耳打ちするのを、タナは聞いた。言い人知れずの言葉は突き刺さるように胸に響き、そして彼女は自分はもう、その流れに抗う術を持たないのだと思った。両親はすでに、自分達の眼鏡にかなう誰かを、彼女のために物色していることだろう。たとえそれが彼女の意思を汲まないものではあっても、両親は彼女のために良かれと思い、彼女に将来への決断を促すことだろう……それを思い、タナは両目を瞑った。


 「失礼します」


 張りのある声に、女性の溜息が続くのをタナは聞いた。


 共和国国防軍の一種礼装、それも近衛軍団に属することを示す肩章も眩しい端正な容貌の青年士官に皆の視線が集中するのに一秒とかからなかった。孫をあやしていた父が、彼に気付くや否や、孫を姉に返し早足で歩み寄った。両親を伴った青年士官は踵を揃え、父に見事な敬礼を送った。


 「今年学校を卒業したと聞いたが、元気だったかね?」

 「はい!……ご無沙汰しておりました。スロム小父」


 差し出された父の手を握りながら、未だ少年の面影の残る溌剌とした口調で青年士官は言った。撫で付けられた金髪と、透き通るような蒼い眼、血色のいい頬に尖り気味の顎が、すでに二十を出たこの青年の顔に、美少年的な要素を十分に残していた。真っ赤な国防軍礼装に包まれた均整の取れた、それでいて長身に属する体躯もまた、その美形振りを一層周囲に印象付けているかのようだ。


 「素敵な人ね。お姉さま」


 と、ユウシナが囁くように言う。タナは力なく頷くしかなかった。幼馴染みの彼が士官学校に入学したことは知っていたが、まさかこのような形で再開するとは、タナには思いも拠らなかったのだ。

 政府の官僚である父の親友の息子で、タナと年齢の変わらないオイシール‐ネスラス‐ハズラントスとは、幼いころより家族ぐるみで付き合い、邸や庭で共に遊んだ仲だ。その彼が長じて士官学校に入り、国防軍の士官として彼女の前に再び現れたのである。やんちゃではにかみ屋だった幼い頃の彼を知るタナとしては、目を見張るほどの彼の変わりように胸の高鳴りを覚えないわけがなかった。


 そのタナの視線の先では、父とネスラスの父との会話が続いていた。


 「ネスラス君の所属部隊は……?」

 「騎兵第17連隊だ。こいつは運が良くてね。いい馬を手に入れ、上官の覚えも目出度い。あとはいい伴侶を得るだけ、というわけさ」


 二人は笑った。そのとき、何気なく振り向いたネスラスの視線が、タナの眼前で止まった。


 「タナ……?」


 と、青年士官は言った。タナが応ずるまでもなかった。次の瞬間には、ネスラスは浮かれたように早足で歩み寄ってきた。


 「久しぶりだね、タナ……」

 「ネスラスも、元気でなにより……」


 応じる内、ネスラスの顔に明るいものが宿るのをタナは見たように思った。


 「君のことは軍でも評判になってる。女ながら大したものだって……」

 「あなたも……お世辞が上手くなったわね」

 「僕も君のように立派な武勲を挙げたいものだ……それにしてもタナ、暫く見ない内に綺麗になったね」

 「綺麗だなんて、そんな……」


 ネスラスと眼を合わせながらも、出すべき言葉が見付からずタナは口篭った。そのタナの顔を、ネスラスは微笑を湛えた口元もそのままに、慈しむように凝視する。その二人に挟まれた形で、ユウシナもまた戸惑いがちな表情もそのままに二人を見上げていた。




日本国内基準表示時刻10月9日 午後5時47分 紀伊半島某所


 山のような湯気が立ち上る川原を見下ろしながら、二人は浴衣姿で歩いていた。


 山中の澄んだ空気が、湯上りの身体には心地良い。行く道を擦れ違う人影は疎らで、街の寂れ具合の程を伺わせた。街角を健気なまでに佇む看板の中の女優の顔は色あせ、錆は看板の表はおろか支柱の一面にまで広がっていた。二人の旅に、寂れた温泉街を美沙子が選んだのは正解だったかもしれない。何故ならそのような雰囲気が、静かな旅情に身を任せるのには好都合とも言えたからだ。木々のさざめく山麓の、だいぶ暑気の引いた湯治場は静かで、俊二に職務の辛さを一時忘れさせる。


 だから、俊二は歩いた。もっと言えば、歩いている間だけ、スロリアの忌まわしい記憶から解放されているかのような気がする。


 宿の夕食までには、未だ時間があった。それが、俊二を山の中腹にある外れの神社まで足を延ばさせた。丹の剥げた鳥居を潜り、ぼろぼろになった社を目の当たりにする頃には、硫黄の匂いを感じながらののどかな散策はやがて二人の間に只ならぬ感情の高ぶりを呼び、二人は互いに繋いだ手を、じんわりと滲み出る汗と共に握るのだった。


 「暑いね……」


 と言う美沙子の頬には一筋の汗が流れ、同じく汗のためか、黒い前髪が額やこめかみにへばり付いていた。俊二もまた浴衣の襟をはだけるようにしたのは、何も動き続ける内に体中に篭ってきた暑さのせいだけではなかった。


 腰を下ろした社の階段からは、所々を木々に遮られながらも、秋の夕日の萎むように沈み行く様を眺めることが出来た。日は落ち、湧く様に漂ってきた冷たい空気が微風となって薄布一枚に隔てられた二人の肌を撫でた。身を落ち着けた途端、汗は次第に引き、秋空は二人から徐々に温泉で蓄えた熱気を奪っていく……


 「俊二君……寒い」


 と、美沙子が身体を寄せて来た。俊二もまた手を回し、彼女の肩を抱くようにした。彼女の仕草にわざとらしさを感じても、俊二は怒らなかった……相手の慈しみを求めるのは、恋人として当然のことだと、彼は思った。


 ……そして彼もまた、恋人の慈しみを欲していた。


 ……だが、それは決して美沙子の自分への愛というわけではなかった。

俊二はあることに気付き、美沙子に顔を曇らせた。


 「御免……あちこちと歩き過ぎたね」

 「俊二君、張り切りすぎだよ。私のことなんか全然考えてないって感じ」


 と言う彼女の顔には、明るい笑みが浮かんでいる。


 「……そうだ、考えてなかった」


 そう俊二が呟いた途端、美沙子の顔に暗いものが宿るのを、俊二は見たような気がした。


 「やっぱり……忘れられないんだ」

 「だって……未だ二ヶ月しか経ってないもの」


 ゆっくりと拡げた手に眼を凝らしながら、俊二はさらに呟いた。俊二の視線の先にあるそれは、かつてはこの手で迫り来る敵に向かって銃の引き金を引き、そしてこの手にナイフを握り、敵の頭目の腹を貫いた、血塗られた手だった。その拡げた手に、俊二は鼻を近づけてみた。


 「……まだ、血の匂いがする」

 「しないよ、そんなの……」

 「ぼくには……するんだ」


 不意に延びた美沙子の手が俊二の手を取り、今度は美沙子が形のいい鼻を俊二の掌に接した。何度か嗅ぐような素振りの後、美沙子は真顔になって俊二に向き直った。


 「血の匂いなんて、しない……!」

 「…………」


 きっと自分を睨みつける美沙子に、気圧される俊二がいた。


 ……そのとき、俊二は初めて気付いたのだ。自分の「弱み」に対し、頑なな美沙子に。


 ……そしてそれこそが、美沙子とタナとの違いだった。


 美沙子は俊二の手を、そのまま自分の頬に触れさせた。彼女の両手が、あたかも大事なものを抱くようにそのまま俊二の手を包み込み、あっけに取られた俊二は、思わず美沙子の瞳を覗き込んでいた。


 「美沙ちゃん……?」


 惰性で自分の頬を撫でる俊二の手もそのままに、美沙子は俊二を見詰め続けた。


 「俊二君……来て」


 彼女の瞳は、誘っていた。


 「…………」


 美沙子に誘われるがまま、俊二が身を乗り出したその先に、美沙子の唇が在った。二人の唇が重なった瞬間、小鳥の羽ばたきが潅木を揺らし、何処からともなく沸いた囀りが山間に響き渡る。




ローリダ国内基準表示時刻10月9日 午後六時三〇分 首都アダロネス市内 リーゼ‐スロム‐テスナ邸


 「乾杯!……リーゼ家の洋々たる前途に」

 「乾杯!……この場に集った我等の幸せを祈って」

 「乾杯!……共和国の勝利に」

 「乾杯!……我が美しき英雄に」


 四回目の音頭の主に、タナははっとして食卓の向かい側の一点に目を移した。戸惑いがちな蒼い瞳の先で、グラスを掲げたネスラスが、微笑も眩しくこちらへ視線を注いでいた。


 「タナお姉さま、あの人、お姉さまに気があるみたい」


 と、隣席のユウシナが囁く。


 「うん……」


 顔を曇らせがちに、タナは俯いた。男性に好意を持たれるのは決して嫌というわけではなかったが、こと幼馴染のネスラスに対する限り、どうしても気恥ずかしさと逡巡とが先に出てしまうタナであった。


 晩餐の間、話題の内容はここより遠く離れたスロリア情勢に終始した。仕事柄、タナの父は実業家などとの付き合いも多く、この場に集った彼らの全員がスロリアの植民地経済に何らかの形で関わっていた。


 貿易会社を経営しているタナの父の弟――――ユウシナの父―――――が、ナイフとフォークを扱いながら言った。


 「スロリアにいる穀物商の友人から電報が届いたが、今が一番の掻き入れ時らしい。幾ら法外な値をつけても軍がどんどん買い取ってくれるというからな」

 「ところで軍需関連株が軒並み高騰しているが、あれはさらに上がるだろうか? 知り合いの証券屋によると……いざ戦端を開いたところで、事後処理を含めてあっという間に終るんで今株を買ってもこれ以上含み益が出る見込みがないそうな」

 「戦争が直ぐ終る?……増援の決定が濃厚なのにか?」

 「増援自体は本決まりじゃない、軍はやる気満々だが、肝心な元老院が未だに増援を出すかどうかで紛糾している。特に平民派は、国防費の抑制という観点からこれ以上の戦力投入には反対の一点張りだ。まあ、最終的には閥族派が巻き返すだろうが……」


 と、父の友人――――ネスラスの父――――が言う。高等文官として中央官庁の一部門の長であるだけに、事情通の彼の話は一座に有益であったのに違いない。


 「じゃあ、その間に株ぐらいどんどん上がっていくだろう。今の内に買い増しでもしておいた方がいい。それまで元老院の話し合いが延びることを祈ろうじゃないか……どっちにしたって、最終的にはまた勝つんだから」


 最終的にはまた勝つんだから――――哄笑する座の中で一人、タナは顔を曇らせた。邸の主として上座に座る彼女の父もまた、笑顔を浮べる一人だった。あの一週間の彷徨の後、漸く帰り着いたノドコールで書いた手紙は未だ部屋の机の中だった。あの一週間で自分が体験した真実を、タナは結局今に至るまで家族にすら言い出せなかったのである。


 「…………」

 「お姉さま……どうしたの?」


 と、ユウシナが怪訝な顔もそのままにタナを覗き込んでいた。


 「ううん……何でもなくてよ」


 と、微笑と共に顔を上げた途端。神妙そうな視線を注ぐネスラスに気付き、思わず目を背けるタナであった。


 自分の手でグラスにワインを注ぎながら、父が言った。


 「……だが、何故スロリア戦争は早く終るのだ? 私はその株屋の論拠を知りたいものだね」

 「何でも当のニホン軍が、話にならん程弱すぎるのだと……下手をすれば来月には、我々はニホン降伏の報を聞いているかもしれんな」


 男達は、また笑った。


 「戦争と言えば、ハズラントス家の息子さんの在籍している師団にも出征命令が出ていたな」


 ネスラスは、反射的に背を正した。


 「はいっ……小官も前線勤務を志願し許されました。実を言えば来週、スロリアへ向かいます」

 「ということは……明後日の出征式典にも参加するのかね?」

 「参加するも何も……うちのネスラスは、連隊旗手に抜擢されたんですのよ」と、ネスラスの母が自慢気に言った。その傍らで、ネスラスはばつ悪そうに俯く。


 「きっとお祖父様みたいに、立派な軍人になること間違いありませんわ」


 そういえばネスラスの母方の祖父は軍人で、連隊長にまで出世したんだっけ……その記憶を、タナはグラスの水と一緒に飲み込んだ。それを見た母が、タナにワインを勧めてきた。


 「タナ、もう大人なんだから、もう少しワインを飲みなさい」


 そのとき、来客の一人が身を乗り出した。ネスラスの父だった。


 「タナ嬢は間近でニホン人を見たことがあるそうだが、出征前の息子のために、連中への対処法を是非教えてやってくれないか」


 ネスラスもまた、タナに向き直った。


 「僕からもお願いするよ。自由のために戦い、武勲を立てるためにも。そして……」

 「そして……?」

 「……君の教示に報い、君との絆を一層深めるためにも」


 ネスラスの弾んだ声は、おそらくタナと話すきっかけを再び持ったことへの嬉しさの表れなのだろう。タナにはそう聞こえた。


 「ネスラスったらワインの飲み過ぎね。いつもより口が達者になってる」


 戸惑いを口に出す代わりに、心にもないことをタナは言った。だが誰もそれを嗜める風でもなく、それに対しネスラスは苦笑を浮べる。


 「そういうわけじゃないんだタナ。軍人として……その……事前に敵を知るというのは、実際に戦う以上に重要なことなんだよ」

 「確かに、そうね……じゃあ、参考になるかどうかは判らないけど……」


 タナは、ネスラスを真っ直ぐに見据えた。それをタナの誠意の表れと捉えたのか、ネスラスもまた顔から一切の緩みを消し、真剣な目でタナを見詰めるのだった。隣のユウシナを始め、食卓の一座も皆が押し黙り、興味の篭った視線を主の末娘に注いでいた。


 「……まず、彼らの全員がそうだという訳ではないけれど、私が出会ったニホン人は、とても知的で誠実な人だったわ……」


 その瞬間、気まずく、そして重苦しい空気が一辺に漂い出したようにタナには思われた。だが、そんな反応など、今のタナにはもはやどうでもよくなっていた。


 「それは初耳だなタナ。ニホン兵と直に会ったなんて……まさか捕虜になったというわけではないだろうね?」


 と、父が顔を曇らせる。


 「ニホン兵ではないわ。ニホン人よ、お父様」


 「ニホン人」の一言に力を込め、タナは言った。


 「……それに、捕虜になったというわけではないの。その人……彼は部隊からはぐれてたった一人でスロリアを彷徨っていたみたい。ただ、少し話をした限りではとても勇気があって、真面目な考え方をする人だった」

 「……で、そのニホン人は男前だった? タナ」


 と、姉キッテ‐スムがおどけたように言ったのは、多分に気まずくなった場の空気を和ませようという彼女の配慮なのだろう。それはタナにもすぐに判った。


 「うん……とっても」


 タナは遠くを見詰めるような瞳で頷き、そして再び神妙な顔に戻り、続けた。


 「……私が言いたいのは彼らニホン人も、実はローリダ人と同じ人間だということなの……私はああいう人とは出来れば、戦場以外の場所で出会いたかった……」

 「…………」


 もはや一同の中でユウシナだけが、微笑と共にタナの語りようを伺っていた。その静まり返った一座の誰もが眼の遣りどころに困惑し、食を進める手を止め、出すべき言葉も見付からずに傾げた首と苦々しい表情が、タナの目ならずとも痛々しい。自分が空気を読まない言動をしたのはタナにはわかっているつもりだったが、今さっきまで述べたことだけは、皆の耳に入れていて欲しかったのだ……英雄として、そして「愛国者の鑑」として祀り上げられてきた中で、自分の秘めてきた思いと真実とを外にぶつけてみたいという思いから。そしてシュンジという、自分を救ってくれたニホン人青年に報いるためにも……


 静まり返った一座の中で、最初に口を開いたのはユウシナの父だった。


 「……俄かには信じられないな。タナ嬢の言うことをそのまま鵜呑みにすれば、政府や報道媒体の言っていることはまるっきり嘘だということになるが……」


 彼の言うことには一理あった。確かに今の政府はニホンを敵視し、テレビやラジオ、そして新聞はさかんにニホン人の残虐なること、そして狡猾なる事を盛んに報道し、皆はそれらありのままを受け容れている。タナの言うことに違和感を覚えるのも無理からぬことだろう。


 ……だが現在、皆がありのままに受け容れ、肯定しているそうした風潮を疑い、恐れているタナがいた。たとえ正義や大義があるとはいえ、このまま虚飾を重ねた先に待っているものを想像し、タナは内心で胸を痛めていたのだ。


 震える唇で、タナは言った。


 「彼が、皆が言うとおりに残酷で、ずる賢い人間なら……私は今現在こうして皆さんと食事をしていないわ」

 「……政府が嘘をついているという言葉は、いただけないなタナ嬢。少し僥倖に驕っているのではないか?」


 と、ネスラスの父が眉を顰める。


 「いいかね、ニホン人を殲滅し、スロリアを自由の地にすることは、我々ローリダ人に課せられた崇高な使命であり、天命であるのだよ。私の息子ネスラスはいままさに、そのためにスロリアへ赴こうとしている。来年の春には武勲を挙げ、私のもとに再び帰って来るだろう。これは親として喜ばしいことであるし誇らしいことだ。私から振った話しとはいえ、君の話は息子の門出に相応しいとはいえんな」

 「…………」


 叱責にも似た言葉に、タナは悄然として項垂れる。ネスラスの父の声に、感情の昂ぶりが覗くのも致し方ないことなのかもしれない。


 「いや……十分に参考になりましたよ父上。ニホン人の中にも、我々の文明の尺度で測るに足る者がいるということがわかっただけでも、安心して軍務に就けようというもの」


 ネスラスがそう言い、タナに会釈する。タナを庇った積もりなのだろう。タナの父に至っては場を見かねたのか、それとも単に気まずくなった場を取り繕うとする意図か、グラスを掲げ一堂に乾杯を求めた。


 「皆さん、ここはどうかご唱和願いたい……これより戦地へ赴くハズラントス家の長男に、キズラサの神の恩寵あらんことを……!」

 『これより戦地へ赴くハズラントス家の長男に、キズラサの神の恩寵あらんことを……!』


 唱和の声は乾いたグラスの音と重なり、タナには虚しく響くのだった。


 


ローリダ国内基準表示時刻10月9日 午後八時三六分 首都アダロネス市内 リーゼ‐スロム‐テスナ邸


 晩餐の後に、菓子とお茶とを抓みながら談笑するのが集いの慣わしとなっていた。日によってはそこにダンスも加わり、賑やかさと華やかさの内に夜は過ぎていくのだ。


 タナは気分が優れないことを父に告げ、許されて部屋へと引っ込んだ……「大人たちの邪魔になる」ユウシナを連れて。ユウシナもまた、これ幸いとタナに手を引かれ、二階へと続く階段を登って行く。ユウシナとて、食後を小難しい話をして過ごす大人たちに囲まれ、夜を過ごすのはあまり本意ではなかった。


 部屋に入ると、タナは机の引き出しからスロリアで書いた手紙を取り出した。長い付き合いから、従妹が信頼するに足る少女であることをタナは知っていた。


 「ユウシナ、これを読んで御覧」

 「タナお姉さま、これは何?」

 「向こうであった全てが、ここに書かれているわ……ユウシナだけに教えてあげる」

 「じゃあ、ユウシナも誰にも言わない」


 ユウシナが手紙の文面全て――――スロリアでタナが体験した全て――――に目を通すのに、たっぷりと三〇分近くが必要だった。その真実の全てを知った後、ユウシナは驚きの瞳もそのままに頭を上げ、タナを見返した。


 「お姉さま……これ、本当のこと?」


 ベッドに腰を下ろしたまま、タナは頷いた。


 「……信じる、信じないはユウシナの自由よ」


 ユウシナは、手紙を抱くようにした。


 「お姉さまが、少尉さんを前に戸惑った理由がわかったような気がする」

 「どうしてかしら……?」

 「お姉さま、スロリアで銀星の騎士に出会ったのね」


 「銀星の騎士」とは、ローリダが属した「前世界」の古代説話に出てくる伝説の勇士のことだ。美貌の姫君と生来よりの強い絆で結ばれ、一度姫君が窮地に陥るや、その生命と誇りとを賭して戦い、最後には目出度く結ばれるというというのが話の筋であった。ユウシナがその「銀星の騎士」と、シュンジという「ニホン人」とを擬えたことに気付き、タナは笑った。


 「銀星の騎士か……そうかもしれないわね」

 「お姉さま、まさかニホン人に恋をしたの?」


 そこまで言って、ユウシナは顔を曇らせる。ユウシナがいい顔をしないのにも理由があった。ユウシナに限らずローリダの少女は、学校ではローリダのこの世界における使命の崇高なることと同じく、ローリダの女性は民族の純血を守らなければならないことを徹底して教えられるからだ。心配そうに自分の顔を覗き込んでくるユウシナに、タナは木洩れ日のように微笑みかけるのだった。


 「言ったでしょうユウシナ。ニホン人も、ローリダ人と同じ人間だって……」

 「でもお姉さま、少尉さんのこと、好きではないの……?」

 「嫌いというわけではないけど、ネスラスは恐れを知らない……私には、それが怖いの」

 「恐れ……?」

 「シュンジは、自分が完全な人間ではないことをきちんと自覚していた。その上で、彼は私を完全に守ってくれたし、自分に足りないものを補おうと頑張ってきたのが判るの。でも、ネスラスにはそれがない……あの人は自分が何の欠点もない、完全な人間だと思い込んでいる。彼だけじゃないわ。今のローリダの人々がみんなネスラスのような人間だってことに、私はシュンジに出会って今更のように気付かされた……」

 「…………」

 「……ユウシナ、ニホンにはね、きっとシュンジのように謙虚で、思慮深い人間がたくさんいるのよ。そんな国にローリダは戦争を挑もうとしている……それがどんなに大変なことかわかる?」

 「……でも、少尉さんはその戦争に行くんだよ?」


 沸き起こってきた不安の故か、ユウシナの声は震えていた。タナは軽く頷き、ユウシナの頬に手を当てた。柔らかく、そして暖かいタナの手の感触を、ユウシナはふっくらとした頬だけでなく両の手で包み込んだ。


 「私は、ネスラスにはどうか無事で還ってきて欲しいって心から願ってる。でも……」

 「でも……?」

 「私は今になって思うの、この戦争は……間違っているって」

 「…………!」


 絶句と共に、ユウシナはタナを見返した。自分の敬愛する従姉は、国家としてのローリダのあり様を否定することを口に出したのだ。驚かないわけがなかった。


 「お姉さま……それ、絶対にユウシナ以外の人に言っちゃ駄目だよ」

 「…………」


 何かを言う代わりに、タナはユウシナをじっと見詰めた。二人の蒼い瞳が重なった瞬間、少女は従姉の目が「おいで」と誘っていることに気付く。


 間髪いれず、ユウシナはタナの胸に飛び込んだ。従妹が、甘える相手が必要な年頃であることを、タナは知っていた。ユウシナを抱いたまま、タナは窓辺へと近付いた。開け放たれた先に広がる星々は煌々と夜空を、そして邸の周辺の閑静、邸の中の喧騒を分け隔てなく、地上の全てを照らし出していた。


 「ねえお姉さま……」


 と、ユウシナが囁く。


 「何かしら……?」

 「シュンジって人も、きっとこの夜空を見ているのかもしれないわ」

 「……そうね」


 寂しげな声と共に、タナはユウシナを抱く手に一層の力を込めた。それは決して、従妹への愛しさのみの為せる業ではなかった。




日本国内基準表示時刻10月9日 午後11時48分 紀伊半島某所


 「もう……寝ようか」


 夜も更け行く宿で、入浴の後、美沙子がそう切り出すまでを、二人は取り止めもない話をだらだらと続けて過ごした。学校のこと、友達のこと、俊二が身を置く自衛隊のこと。そして、俊二がスロリアで体験した全て……言葉は言葉を呼び、何時しか気付いた時には、俊二は自らの内面に身を潜めていた何かに促されるまま、あの時、スロリアで経験した全てを淡々と打ち明けていた。美沙子が聞いているかどうかは、もはやどうでもよくなっていた。


 「俊二君……人殺しになっちゃったんだね」

 「……うん、たくさん殺した」

 「それに……やっぱり女も作ってたんじゃない」


 タナとのことは、やはりと言うか、美沙子の注意を十分過ぎるほど惹いた様だった。美沙子が彼女との一週間に疑いを持つのも当然のことだろう。


 「タナは……そういう存在じゃないんだ。何と言っていいか……その、一緒にいて心が安らぐっていうか……励みになったというか……」


 そこまで言って、美沙子がこれまで見たことがないほど暗い顔をしていることに、俊二は気付いた。


 「私のこと……あそこにいる間ずっと忘れてたんだ」

 「……うん」


 俊二は頷いた。どんなに言い繕っても、それもまた真実だった。


 「どうして?」


 凛とした声に思わず顔を上げた先で、美沙子は真剣な眼をしていた。彼女の眼をしっかりと捉えながら、俊二は恐らく、自分が美沙子に最も言いたかったことを言った。


 「君との関係は……僕の中ではもう、終ってたから……」


 ……それっきり、ふたりは黙りこくったまま、数刻が流れた。だが、静寂の中に高まりゆく鼓動に身を任せる中で、彼女が何かをしよう、又は何かを言おうとしていることだけは、空気として俊二には感じられた。


 ―――――もう……寝ようか


 その声は小さかったが、内心の静寂を破るのには十分過ぎた。それでも沈黙を守る俊二に気付き、または自分が言ったことを噛み締めるかのように、美沙子は言った。


 「もう……寝よう?」

 「ああ……」


 その瞬間、俊二は美佐子が自分の言葉を―――自分が美沙子に対し一番言いたかったことを―――受け容れたのだと思った。


 ……が、それは違った。


 次の瞬間、押し倒された俊二はその腕と胸に、飛び込んできた美沙子の躯を抱いていた。それは俊二にとってあまりに突飛で、衝撃的な経験だった。


 「美沙ちゃん……?」

 「抱いて……俊二君」


 耳元で、哀しげに囁く美沙子に対する愛情など、とうに失せたはずなのに、その言葉が、俊二の心中の深奥で鬱屈していた何かに火を付けたようだった。それの駆り立てるまま俊二は上下を逆転させ、美沙子の唇を奪うのだった。その後はまさに、怒涛の如き本能の奔流だった。

 ――――混乱の中で薄れ行く記憶と、身を重ね合わせることで喚起される圧倒的な感情の高まりの連続の後に、奔流は来るべき終わりを迎え、気がつけば二人は真っ暗な部屋の中で、生れ落ちた姿のまま一つの布団を共有していた。


 「…………」


 豊かな黒髪の香りを胸に感じながら、俊二は闇に慣れた目で美沙子の寝顔を見詰めた。乱れきった黒髪と半開きの唇にかつては情欲をそそられた俊二がいたはずだが、それは今の彼にとって、もはや子供っぽさの発露でしかなかった。


 闇に慣れきった眼だけではなく、山奥の星明りが彼女の寝姿を美しく照らし出している事に気付いた時、俊二は美沙子を起こさないよう慎重に身を起こし、寝床から起き出して窓辺へと近付いた。


 「…………」


 朝のそれとは趣の異なりながらも、夜の清清しさに感じた溜息と安堵感とが、俊二には快かった。満天の星空をその眼に吸い込もうとするかのように、俊二は両目を夜空に向け大きく見開いた。余計な地上の光を全て削ぎ落とした結果に広がる、素晴らしい光景に惹かれる内、ふと、俊二の胸にちょっとした疑問が浮かぶのだった……タナもまた、自分の知らない何処かでこうして夜空を見上げているのだろうか?……と。


 「……俊二君?」 


 布団からのか細い声に、俊二は思わず振り向いた。恥じらいのせいか、裸体を埋めた布団から、円らな黒い瞳が窓辺の俊二を覗き込んでいた。


 「美沙ちゃん、夜空が綺麗だよ」

 「夜空なんて、どうでもいい」と、美沙子は甘えた声で言った。

 「俊二君、早くこっちにおいでよ……寒い」

 「ああ……ごめん」


 興ざめしたような表情は、星影に隠れて美沙子には見えなかった。美沙子から求めてきたのは、離れ行く自分を惹き止めようとするが故か? それとも……取り留めのなく、それでいて傍目には深刻であろうことを漠然と考えながら、俊二は未だ窓辺の星々に視線を注いでいた。


……その間も、休暇は終わりに差し掛かっている。



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