終章 「希望」
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月24日 午前9時15分 ノイテラーネ国際空港
日本本土より飛来してきた民間のチャーター機がPKF専用区画で滑走を止めて翼を休めるのと同時に、地上より脱したF-2Aの四機編隊が翼端より水蒸気を噴出しながら勢い良く上昇し、蒼の彼方へと吸い込まれるようにして消えた。
完全にエンジンをカットし、民間機が駐機したところを見計らい乗降口にタラップが接続されるや、待ち構えていた衛生兵や看護士が前線より後送された傷病者を乗せた寝台を引き、慣れた様子でそれらの移送を始めた。運ばれる負傷者の数は一週間前と比べて目に見えて減っている。それはまた、ここ半年近くにわたり動乱続きだったスロリアに、漸くで平穏が戻りつつあることを感じさせる、象徴的な風景だった。
事前計画では、任務中重傷を負ったPKF隊員は治療のため優先的に本土へと戻されることになっていた。軍用機より人員の積載能力の高い民間旅客機のそうした有事における移送任務への転用は、当の民間航空各社より少なからぬ困惑と反駁とを以て受け止められたが、戦前における緊急事態対処に関する諸法制整備と、何よりもスロリア有事に対し強硬策に傾いた世論が、その種の「非協力的対応」を許さなかった。その結果として、かなりの数の民間機がノイテラーネ方面までの空域に限定しての輸送任務に従事し、PKFの活動を後方から支えることとなったのである。
だが、予想を遥かに下回った負傷者数が、却って負傷者の後送に必要とされた運行計画と輸送機の機数に過分なほどの余裕をもたらしたと言ってもいいのかもしれない。それで余剰となった民間機は元の通常業務に復するか、補給物資及び交代要員の輸送に大きく寄与するところとなっている。それは作戦計画を補給面で支援する防衛省の後方勤務部門はもとより、民間航空の運航及び行政を司る国土交通省の方でも嬉しい誤算とでも言うべき状況ではあった。
寝台ごと負傷者を揚収する電動カーゴは、その動きは緩慢ながらも重傷者に負担をかけることなくその機内に運び入れてくれる。負傷者輸送用に殆どの座席の取り払われた機内には、入れ替わるように各種医療器具が持ち込まれ、負傷者は治療を受けながらに本土へと向かうことができた。
航空機の格納庫を改装した急患待機所。帰国を待つ間、ある者は安らぎに満ちた、あるいは虚ろな視線で宙を仰ぎ、またある者は意識を失った身体を人工呼吸器と点滴とに繋がれながらその寝台に身を横たえる隊員たちの中に、やはりイル‐アム方面の戦闘で負傷した高良 俊二の姿もあった。
「…………」
無言のまま、俊二は寝台から遠方までに広がる駐機場を眺めた。整備を受けるF-2やF-15Jの居並ぶ片隅で佇むように主翼を休めるC-2の姿に行き当たり、その開け放たれた後部扉に運び込まれようとしているあるものに気付いたとき、俊二は軽く声を上げた。
『遺体……』
袋に包まれた人型は、丁重に機内に運び込まれ、地上要員の敬礼を以て本土へ送り出されようとしていた。その数は決して少なくはなく、俊二たちもまた、彼らの列に加わった同僚や友人の名をそれぞれに知っていた。
遡ること五日前、17日の戦闘で死亡した村田一士もまた、あの機に乗り一足早く本土へと向かっていたのに違いない。俊二もまた、激戦の最中でそうなりかけたところを救われ、ヘリコプターで後送された先、野戦医療隊による応急処置を経てノイテラーネに戻ってきた。
俊二を乗せた寝台が衛生兵の手によって動き出し、待機所から出るやそれは機内へと通じる電動カーゴに固定された。本土に戻れば、俊二は同乗の負傷者とともにそのまま九州の自衛隊熊本病院に収容され、本格的な治療に専念することになる。医官によれば負傷の程度は重いが、それでも十分な療養を経れば部隊復帰も夢ではないことを俊二は知らされている。その戦線後方での僅かな療養の合間、ニュース等から伝え聞く本土は、日本近海における敵艦隊撃滅の報も加わり、未曾有の勝利を受け熱狂の極致にあることをも、俊二は知らされた。
その一方で来年に改めて開かれる日本、ローリダ間の停戦交渉の行方に、幾許かの不安が存在することも確かだ。これに関連し、国内では与党間の方針の相違から連立解消の噂すら囁かれている。「武装勢力」の索源たるノドコールの、PKFによる直接解放を主張する共和党。それに対し外交交渉によるノドコールの段階的な独立回復を図る自民党……顕在化している両者の対立は、明らかに今後の情勢に暗い影を落としつつある――――
「…………」
不意に込上げてきたものに対し、俊二は声にならない声で呻いた。
身体の傷は癒せても、心の中に刻まれた傷を癒す手段を、彼は持っていなかった。
俊二は戦友をむざむざと死なせた。
そして、愛する女を失った。
虚ろな目のまま、俊二は回想する――――
『……この人を、殺さないで』
――――その愛する女は、傷ついた俊二にあの真摯な眼差しを向け、言った。
「…………」
『この人は……この人は、私の婚約者なの』
「…………!」
『わたしはこの人を愛しているの……だからお願い……この人を見逃して!……殺さないで』
婚約者なら……死んだ村田にもいたっけ……それを思い、俊二は胸を詰まらせた。
ぼくは、なんて勝手な人間だろう?
あのときぼくは、何故撃たなかった?
何故?……何故?……何故!
そもそも、撃たない方が良かったのか?
否……そんなはずがない。
ぼくは兵士だ。
だから敵を殺さねばならない。
だがぼくは、殺さなかった。
戦友を殺した敵が、思いを寄せる女性の、掛け替えの無い人だったという、ただそれだけの理由で……!
……よく考えてみればそれは、戦場では何ら関係ないことではないのか?
結局タナを失うのなら、タナの婚約者というあの敵兵を殺してしまえばよかったのかもしれない……!
結局ぼくは、愚か者になった。
日本は、この戦争に勝った。
だがぼくは、敗者になった。
「――――高良 陸士長を搬入しまぁーす」
『――――はーい了解』
モーターの軽い駆動音を立て、カーゴが動き出した。俊二の身体はスロリアから離れ、搬送機のキャビンへと昇っていく。
「…………!」
嗚咽――――沸き起こるのは、此処に再び歩を標したことへの後悔。
落涙――――瞳に源を得たその流れは荒れた頬を伝い、枕を濡らした。
スロリア地域内基準表示時刻12月24日 午前10時56分 スロリア中北部
『――――イヌワシよりイーグル‐ワンへ、間も無く戦闘地域上空』
「――――イーグル‐ワン了解」
「イヌワシ」こと、E-767 AWACSによるスロリア上空の空中警戒網が、自然のものとなってすでに久しい。
久しぶりで搭乗を果たしたF-2Bの後席からでも、無限と思えるほどの蒼に支配された雲の岩礁の広
がりを十分に堪能することができた。それだけでも植草紘之 統合幕僚長には大きな収穫と言えたかもしれない。
上空警戒のため前線へ向かうF-2支援戦闘機に搭乗しての前線視察任務。幕僚たちの反対を圧しての搭乗は、未だ滾る戦闘機乗りとしての血の為せる業であるのと同時に、自らの思うとおりに戦況を見極めたいという植草の意思も働いていた。飛行の途上で給油機と会合し、空中給油を行うパイロットの手際も鮮やかなものだ。その全てが規格外で、かつ想定外だった緒戦が、わずか二週間前のことだったはずが遠い昔のことのように感じられる。
「…………」
背後に一定の間隔を置きつき従う3機のF-2A……8日の開戦以来幾度もの実戦を経験してきた彼らの翼には、彼自身歴戦のパイロットたる植草の迂闊な干渉も許さないほどの風格すら漂っていた。かつては飛行隊長として何度も飛んだ編隊の先頭。その頃には想像すらできない目に見えない変化に、内心で驚愕を覚える植草がいたのだった。蒼空を駆け抜ける編隊は、いずれも飛行隊長時代の幕僚長を知っているベテランばかりを選りすぐっているだけあって、空中にあっても堅固な城郭の深奥に身を置いているかのような安心感を覚えるものだ。
『――――高度4000……3700……3400……3000』
パイロットとしての本能か、目は知らず計器盤に向かい、脳裏では下がり行く高度と下降率を刻み始めている。やがて薄い下層雲を透かし、徐々に輪郭を曝け出し始めた地平線の輪郭に、植草は目を細めた。同じく視線を巡らせたMFDの戦術情報表示……それはこの空域全体にわたって展開する空自戦闘機の機種と位置、そして所属する飛行隊を、略称と位置情報とで表示している。その勢力は戦時に比べ遥かに密度を増しているように植草には思われた。
――――そもそもの発端は、去る12月22日の正午。
敵武装勢力の策源地たるノドコールの首都キビルを襲った破壊と殲滅の奔流を、最初に察知したのは地質研究目的のため日本各地に配された計測機器だった。それに災害対策用の地震計が続いた。従来の地震とは明らかに違うその波長から、計測機関が導き出した結論に、日本政府及び統合幕僚監部は驚愕した。
「――――これは全くに、認めがたいことですが……核兵器の炸裂もしくは、それに類する高エネルギー反応に起因するものとしか結論できません」
国立地質学研究所所長たる博士は、冷や汗を拭いながら緊急閣議に居並ぶ閣僚たちの前で事の次第を説明したものだ。
防衛省の反応は早かった。大気集塵装置を搭載したRF-15DJをいち早く戦闘地域上空まで進出させ、戦闘地域上空の戦闘空中警戒に充てる作戦機の数もまた増強された。不意に沸き起こった不安―――――もし敵が核爆弾を保有しているとして、敵がそれをPKF地上軍主力が展開するスロリア中西部で使用したとしたら――――思えばノドコールで行われた停戦交渉により、上空警戒が一時緩和されたのは大きな失策であったのかもしれなかった。
―――――そしてそれ以上に恐るべきは、そうしたこちらの「甘さ」に付け込んだ敵軍の厚顔さと容赦なさではないのか?
「停戦交渉は、今ひとつ早すぎたのかも知れんな……」
閣議の席上、苦虫を噛み潰したような表情を、一層に曇らせたまま椅子に凭れ掛かる神宮寺総理が、ノイテラーネにおける停戦交渉の決裂を知らされたのはその五分後のことであった。それを咎める論拠を、神宮寺はおろかこの場の誰もがもはや持ち合わせてはいなかった――――
――――そして交渉は、現在に至るまでその再開への途を固く閉ざされたままだ。
――――思索を破る報告。
『――――「キャミィ」より報告、間も無くイル‐アム上空』
前席でF-2Bの操縦桿を預かるTACネーム「キャミィ」こと来栖 美里 三等空佐は、植草の松島航空教育団時代の教え子だった。当時熱望叶って戦闘機操縦学生に選ばれたばかり、未だ中級操縦課程を終えたばかりの初々しい面立ちの彼女を知っている彼からすれば、時が移り変わった現在、今やその来栖三佐の背に負われた形で空を飛んでいる自分自身が面歯がゆい。
植草が十分に地上を視察しやすいよう、彼女なりに配慮したのだろう。横に傾けられた機体からは、白雲を透かして広がる激戦地を、神のごとき視点で鳥瞰することができた。
「……すごいな」
絶句―――――戦闘が始まる以前は緑一色に支配された平原だった大地は、いまや地色の剥き出しとなったがゆえの荒涼に染まるがままとなっていた。それが空爆と砲撃の威力の為せる業であることなど、今更他言を要することではない。平和を取り戻さんがために為された全てが逆に大地から豊穣を奪い、荒廃をもたらしたのだ。そしてこれら荒廃の後始末を押し付けられるのは、古来よりこの大地に生きてきた無辜の民なのだ。
植草は実感する―――――それこそが、戦争の現実。
では―――――我々は虐げられし人々に、一体何をしてやれるだろうか?
――――ふと、植草は言った。
「『キャミィ』、私が操縦する。替われるか?」
『――――了解、操縦代わります』
機長たる来栖 三佐の承諾を得、植草は後席操縦桿に手を延ばした。同時に、暫く地上に封じてきたパイロットとしての感覚を手繰るように思い出す。
「こちら『ハスラー』、操縦代わった」
ジョイスティック式の操縦桿に篭る微かな力―――――それはF-2の流麗な機影を即座の降下へと誘った。「ハスラー」とは、植草の現役時代のTACネームだ。
尖った機首が下層雲を貫いた先、明瞭さと精緻さとを増す大地の輪郭―――――すでに、未だ地上に展開し西方を伺う友軍地上部隊の布陣が窺える高度だった。
そのとき―――――
『―――――ピッ……ピッ……ピッ……』
「…………?」
イヤホンに聞こえる電子音が、陸上自衛隊が地上に展開させた地対空誘導弾システムの一角を成す、対空レーダーの発する走査波によるものであることに思い当たった瞬間、植草の手に新たな力が篭り、F-2Bの機首を再び元の高度へと引き上げるのだった。味方のものとはいえ、地対空ミサイルに狙われるのはあまりいい気がしない。圧し掛かる加速を全身の力を抜きやり過ごす中、植草はイヤホンに来栖三佐が笑うのを感じた。
「……何だ? 何が可笑しい?」
『――――ええ、松島にいた頃を思い出したもので』
「そうか……」
生暖かい酸素を注ぎ続ける酸素マスクの下で相好を崩し、植草が視線を注いだ先―――――
「あれが……ノドコールだな」
『…………?』
怪訝な表情をヘルメットと酸素マスクの下に宿し、後席の植草の言葉に誘われるがままに、来栖三佐も西方に視線を向ける。ヘルメットのサンバイザー越しに雲海の涯に注がれた瞳からさらに先は、彼女の翼が立ち入れない領域――――――
「…………」
わずか二日前に想像を接する破滅を迎えてもなお、そこで未だ繰り広げられている戦乱を思い、彼女は戦慄する。
ローリダ国内基準表示時刻12月24日 午前11時23分 首都アダロネス 第一執政官官邸
―――――戦闘は、未だ続いていた。
それは支配される側にとっては自国の独立を回復するための戦いであり、支配する側にとっては、暴戻な蛮族から約束された土地の支配権を回復するための戦いであった。そして支配する側による、東方に位置するスロリアへの進攻作戦が無残なまでの破綻を見た直後、それは一層に烈しさを増していく―――――
植民地総督府所在地たる首都キビルにおける反乱鎮圧に使用された「神の火」は、当初に予期した通りの破壊力を示し、キビルより1000リーク以上の海空を隔てたアダロネスの為政者たちを満足させた。ローリダによる支配を受ける前は壮麗を極め、独自の文化及び学問の発信地でもあった首都は、12月22日以降その爆心地から10リークに亘り跡形も無く「消失」し、ローリダの支配を受けながらも細々と守られ、蓄積された文化と歴史もまた、消滅した。
―――――そして数万に及ぶ生命が、振り下ろされた業火の中に消え去った。
「かえすがえすも残念です……!」
ノドコールにおける反乱鎮圧作戦の経過報告に執政官官邸を訪れた国防相 カザルス‐ガーダ‐ドクグラム大将は、彼を接見したカメシス執政官を前に、苦りきった表情をその上辺に浮かべ言ったものだ。
「……『神の火』の破壊力は事前の予測を大きく上回っております。あれを真に使うべき敵に使えなかったことは、極めて無念としか言葉がありませぬ」
ドクグラムの従兄たる国防軍元帥 カーナレス‐ディ‐ア‐フォレマータは先日付けで解任されている。勿論、直接の原因―――――言い換えれば、表向きの事情―――――はスロリア方面における作戦指導のまずさを譴責されてのことだ。だが軍上層部におけるドクグラム閥の専横ぶりを苦々しく思う軍内部の若手将校や元老院内の反軍勢力の感慨は違った。
「……豚は豚らしく、行くべきところに行き着いたと言うべきだろうな」
「行くべきところって、何処だ?」
「決まっているではないか……屠所だよ。豚はただ飼いならされていただけさ。来るべき時に備えてな。豚の使い途なんて、所詮そんなものさ。時が来れば、始末される――――」
ドクグラムの従兄は、政治的影響力では比較にならない彼の従弟にとって、結局のところ従弟の冒した過失を押し付けるための体のいい身代わりに過ぎなかった―――――国防軍総司令部地下の将校クラブの一隅で、将校たちの皮肉に形を借りて詳らかにされた感慨は、実のところ的を得ていたのである。それは同じくドクグラムの妹婿たるエンリキアス‐ル‐フ‐カテラナン次帥が元帥への昇進と共に前任の国防軍総参謀長から昇任し、フォレマータの後釜に座ったことにより証明された形となった。当のドクグラムといえば、彼の後を追う形で、近い将来に現在空席のままの国防軍総参謀長の地位に付くことが確実視されている。そしてさらに確実になったことは、こうした譴責が何もフォレマータ一人に留まることは決してないであろうという、事の当事者たちにとっておよそ戦慄を伴った将来であった。
―――――ドクグラムの発言は続いた。
「――――執政官閣下……幸いにも交渉は停止しております。これを機にニホンに対する再攻勢の準備を行うべきです。『神の火』もまだ備蓄がございますしその製造も可能です。我らはこの世界において指導的立場にある高等種族として、蛮族どもに教訓を垂れてやらねばなりません。閣下……ご決断を――――」
「ニホンの奴らはもういい……!」
予想に反し唐突に荒げられた声に、ドクグラムははっとして眼前のカメシスを凝視した。
「それよりノドコールは確保できるのか? 反徒どもは掃滅できるのか?」
「それは……一月で片が付くでしょう」
「ではそちらに全力を傾注するのだ。それならば結果の出しようもあろう」
「…………」
不承不承……といった凡そ国防軍の長に似つかわしくない表情で睨まれ、カメシスは嘆息し言った。
「そなたら軍人は気楽でいい。国防のみに心を砕いておればよいのだからな。わしはといえばそうはいかぬ……わずか二週間で、我が共和国が物心ともにいかなる損害を蒙ったか、貴公は真面目に考えたことがあるか?」
「それは……」
言葉を失う一方で、ドクグラムは彼の上司の目が柄にも無く充血していることにこのとき気付いた。それが、ここ数日の間満足な睡眠を取っていない者の目であることに思い当たったのは、それから少しの時を経てのことだった。だが執政官の口ぶりは、戦前からは夢から醒めた者の如くに醒め切り、不快な現実を意識している。
「戦死者の遺族に支払うべき金額だけでも、130億デュールに達するという試算が民部省より出ておる。そしてスロリアで喪われた軍備を再建するには、少なく見積もってその十倍は要るという試算が、やはり財務省と国防委員会より出ておる……貴公の娘婿においては無念の極みではあろうが、貴公はこの期に及んでなおもニホン人との戦争を続けようというのか?」
「ですが執政官閣下、この戦争に勝利すればそれ以上を得られます。今戦争を止めれば、我が共和国は全てを失いますぞ」
「表向きには、こう言えばよい……我が共和国は、暴戻な蛮族の西侵に断固として対処し、烈しい戦いの末蛮族を撃退したと……!」
「…………」
カメシスは嘘を言ってはいない。だが東進に失敗したという事実、そして敵手たるニホンに、戦闘の始終に亘り主導権を握られたままであったという事実を明らかにしていないだけである。しかし悪い案ではない。失態とも言うべき敗戦について、元老院の平民派の追求に対し、当座はそれで乗り切れるであろう……だが、ドクグラムに浮かんだ感慨は、それだけではなかった。
「……それは、閣下御自らのご発案でございますか?」
「何……?」
「カメシス執政官閣下に於かれては、常ならぬご慧眼とお見受けしたものですから……つい」
「……わしとて愚昧ではないわ。国防軍と違い、愚昧な者がこの国の長になれるわけがないではないか?」
強烈な皮肉に、ドクグラムは内心で憤った。だがそれを表に顕すほど彼は短慮ではなかった。その彼の内面を他所に、カメシスは葉巻の箱に手を延ばし、手ずからダンビルで火を点けた。
「……貴公、激務続きで少し疲れておるのではないか? 総参謀長への就任も近くに迫っておることだし、しばらく休暇をとってはどうか?」
「そういたしますかな……」
――――引き際を悟る術に、将軍は長けていた。
室外で待たせていた副官を伴い、執政官官邸から自身の根城たる国防軍総司令部へ戻る途上、彼を乗せた公用車は首都中央の株式取引所に差し掛かる。かつての植民地獲得戦争では、勝利の報に接するたびに入口で狂喜乱舞する投資家や資産家の姿が見られたものだが―――――
「…………?」
車窓から伺えたのは、入口に殺到する群衆……不渡りと化した証券を手に殺到した人々が盛んに腕と罵声とを振り上げ、取引所への乱入を図っていたのだ。高等文明の所産たるはずの証券取引所の前では、目算の外れた人々と乱入を阻止するべく配された治安部隊との間で、凡そ非文明的な衝突が始まっていた。只ならぬ戦況により喚起された人々の不安、さらには還元されない投資――――それらが国家経済にまで影を落としつつある。
「なんということだ……」
呆然の次に訪れた慄然……これでは将来の軍備再建も覚束ない。
ややもすれば、これまで確保してきた植民地を維持することすら危ういではないか……!
混乱を前に、急に速度を上げたように思われた車が国防軍総司令部前に差し掛かったとき、彼がそこを出た当初にはその片鱗すら伺えなかった光景に我が目を疑ったのは、ドクグラムだけではなかった。
「…………?」
国防相の正面玄関口に殺到する群衆が、己が利得心の赴くままにスロリアに莫大な資金を注いだ投資家たちではないことは明らかだった。なぜなら彼らの多くが、黒い喪服に身を包んでいたから―――――
正門へ差し掛かる正門付近。彼らの目を避けるように車を止めたところで、それを待ち構えていたように衛兵指揮官の少佐が兵士を伴い駆け寄ってきた。
「あれは何だ?」と、ドクグラムの副官。
「申し訳ありません。戦没者の遺族が閣下の釈明を求め大挙して押しかけておるのです。何とか構内に入れまいとしたのですが……」
「釈明だと……?」
「はあ……どうやら親族の死の責任を司令部に求めているようです」
「ばかな……!」
副官の絶句を他所に、ドクグラムの顔から血色が失せ、生気のない土色に染まった顔面を怒りに歪めながら彼は吐き捨てた。
「戦没者の遺族という点では、この私も同じではないか……!」
そのとき、ドクグラムの脳裏で何かが弾けた。「戦没者の遺族」という表現が、冷静な打算ではなく抑制しがたい感情の昂ぶりの導きにより、ドクグラムの思考は先刻に執政官をしてかかる事態の収拾策を吐かせた張本人の影を捉えたのであった……そしてそれが彼の新たな怒りを誘った。
「あの女……やってくれる!」
呻吟にも似た独白は、ドクグラムの公用車を見出し殺到する群衆の喚声、そして彼らを阻止する衛兵の怒声にかき消され、車内の誰の耳にも入らなかった。
ローリダ領ノドコール国内基準表示時刻12月24日 午後1時28分 首都キビル郊外
廃墟と化した首都上空を数え切れないほどに巡り、軍の観測機は急造の野戦飛行場へと滑り込んだ。
一度首都内の暴徒を都市諸共に一掃した直後だけあって、総督府側の対処は早かった。総督デルフス‐リカ‐メディスは幾下警備部隊にいち早く都内の要衝制圧と、なおも市内に残る暴徒鎮圧を命じたのである。その一方で元より現地人を人間扱いしていない彼に、破壊された街の復興と、被災者の救出など考えられようはずも無かったのだ。
「――――願わくばさらなる「神の火」をこの呪われし全土に降り注ぎ、ローリダの恩顧を弁えぬ暴徒どもに永劫の業罰を与えるべきである」
むしろ彼は本国にこう打診し、本国の辟易を他所に、それこそ水を得た魚のように弾圧を進めた。一方でニホン軍による「解放」の望みを絶たれ、自暴自棄になった反徒の中には、鎮圧部隊を前に死に物狂いの抵抗を見せるものもいたが、その殆どが鎮圧部隊を前に投降し、あるいは時を経るに従い自然に解消した。その主導的立場にあった者を除いた、投降した反徒に対する制裁と、そして逃走した反徒に対する追撃が禁じられたのは、圧倒的多数の暴徒を前にした鎮圧部隊にそのための余裕がないこともあったが、むしろ本国から派遣された「特使」の手によりもたらされた「訓令」の効果に拠るものが大きかったのかもしれない。
――――火と死の井戸と化した市中心部を臨むルビア山麓の頂上。かつてはノドコール人にとっての聖地であり、現在キズラサ教の聖殿が置かれているそこは、今や首都鎮圧部隊の前線基地と化していた。
そのわずかばかりの平地を馴らし形成された急造飛行場の上を、「前線視察」に赴いた「特使」と随伴する植民地駐留軍参謀を乗せた小型の観測機は着陸の後、砂埃を巻き上げ滑走する。待ち構えていた警備兵が機体の走る方向へ駆け寄り、漸く停止した機体の乗降ドアを開いた。程なくしてひと二人を乗せるにはやや手狭な機体は、二人の女性の影を地上に解き放つ――――
兵士の敬礼を受け、そして護衛の兵士の先導するままに二人は丘陵の中腹に立った。その中で分厚い軍用コートを纏った眼鏡の女性士官が先に双眼鏡を構え、それを麓へ一巡させた後で見るべき地点を見定めると、長衣の女性に双眼鏡を手渡し、さらに手を延ばしてそこへ双眼鏡の視点を差し向ける―――――
「…………」
ルーガ‐ラ‐ナードラにとって、「神の火」の威力は予想以上のものだった。倒壊した建築物。瓦礫の山から未だ燻り続ける炎、その瓦礫の周囲に散らばり、あるいは折り重なる死体。そのいずれもが生前何者であったのか判然としないまでに全身が黒焦げ、あるいは焼け爛れている……気が弱い者には一瞥すら到底耐えられない惨状を前にしても、その白皙の頬から血色が失われることはなかった……暫くの観察の後、ナードラは双眼鏡を下ろし、それを背後に控える眼鏡の女性士官に手渡した。
「貴官がいなければ、鎮定はこうも順調には進まなかった……貴官の貢献は軍総司令部に報告しておこう」
反乱勃発に際しいち早くこの丘の要衝なることに着目し、いち早く進出させた歩兵二個小隊と機関銃一個小隊とでそこを固めさせたミヒェール‐ルス‐ミレス中尉の手際は、それが上層部の命令を待たず彼女の独断で為されたという点を差し引いても、ナードラから見て鮮やかという他無い。だがミヒェールはそれに応じることなく、眼鏡の奥の瞳から憂いを漂わせる。
「小官の才幹の為すところでは御座いませぬ……ナードラ議員」
センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートがこの山を好んだのは、単にここで博打が出来、現地人と語らい合えるだけではなかった。彼はわかっていたのだ。この地が、キビルにとってその死命を制する戦略上の重要な拠点であることを……そのミヒェールの内心を察し、ナードラは頷いた。
「……ロート大佐には、済まないことをした」
吹き付ける寒風に頬を晒しながら、ミヒェールは話題を転じた。
「今更言っても詮無いことでしょうが、対話の余地も無かったのでしょうか?」
「…………」
「彼らの方から対話の途を閉ざしたのだ。その結果が、これだ」
「それは……納得できません」
「貴公に納得してもらおうとは思わない」
「愛想が無いのですね……噂通りに」
「…………」
それには答えず、ナードラは言った。
「……前線から後退してきた部隊はどうしている?」
「現在、ノドコール――スロリア西部の境界に待機させております……」
その端正な容貌に似合わない苦汁を滲ませ、ミヒェールは答えた。それは決してミヒェールの指示ではなかったし、植民地駐留軍においては司令部付の一士官に過ぎない彼女にそのような権限などあろうはずもなかった。ニホン軍との戦闘に破れ、消耗した前線部隊は、ニホン軍の追撃を振り切って安全域にまで逃れ、そのまま実質上の停戦状態に入った現在においても、本国の総司令部の命令によりノドコールへの越境を許されなかったのだ。それも、彼らの口とその敗残の姿を通じて敗報が拡がることにより、ノドコール国内の反徒どもを一層の独立志向へと勢い付かせる恐れがあるという、まさに見てきたような理由で……!
ナードラは言った。
「健在な隊から早くノドコールに入れ、域内の治安維持に従事させよう。場合によっては再編も止むを得まい。負傷者に対してもいち早く支援を行いたい」
「しかし……国防軍司令部が」
ナードラはミヒェールに向き直った。
「これからは彼らの指示ではなく、私の指示に従ってもらう。なおこれは先刻、臨時総督府を出立した際にカメシス第一執政官閣下の承諾も得たことである」
「…………!」
眼前の女性の、才女といわれる所以を、ミヒェールは改めて実感する。ここに来る前、植民地駐留軍総司令部の一角に設けられた臨時総督府において、定時報告の名を借りナードラが交わした時間にしてわずか十分ほどの本国との交信は、その実ミヒェールの想像以上に重要な話題が扱われていたのである。そしてナードラは、仮初の総督府から一歩も動こうとしない男どもから、彼らの知らないうちにこの地の軍事、行政に関わる大権の一切を剥奪したのだった。
「本国は、この戦争をどう扱うつもりなのでしょうか……?」
今次の戦争の帰趨を「敗戦」と単純に捉えてしまうことの、国内にもたらす危険性ぐらい、ミヒェールのような下級士官すら容易に理解できる。何の免疫も緩衝もなく敗戦の報に接すれば、これまでの勝利に馴れきった国民は動揺し、それは忽ち共和政の崩壊に直結する恐れがある……ミヒェールが微かに覗かせた懸念を、ナードラは静かな笑顔で制してみせた。
「貴官が勘違いしてはならないことは、今次の戦役において我が軍はその作戦発起前から現在に至るまで、寸土たりとも失ってはいない……ということだ。わかるか?」
「…………!」
ナードラの言葉の真意を察した瞬間、ミヒェールは反射的にナードラの横顔を凝視した。確かにそれは事実だが……
「……前進できなかった、という事実は伏せるのですね」
「致し方ない……」
それだけを、ナードラは言った。
「ミレス中尉、貴官にはいろいろと世話になった。国政に関わる身として、貴官の誠心と軍人としての手腕には必ず報いる途を用意したい。ここは色々と不自由ではあろうが、それまで待っていて欲しい」
「議員閣下はこれからどちらへ……?」
分かれる間際、無言のまま、ナードラは東方を指差す。彼女の指差す遥か向こう側に、スロリアの激戦を生き抜いた部隊が帰国を待っているはずであった。その二人の背後で再び奏でられ始める発動機の鼓動……点検と燃料の補給を終えた観測機が、前線へ赴く重要人物を乗せて舞い上がるべく再び稼動を始めたのだ。
踵を返し、砂煙に満ちた滑走路へ向かうナードラを、ミヒェールは呼び止めた。
「あの……!」
「…………?」
「センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート大佐は、健在でしたか?」
「残念ながら……」
「…………!」
「……彼をはじめ捕虜に接見する機会は得られなかった。この業火のおかげでな」
「そうですか……」
「だが健在なのだろう……彼らがそう言っている」
「彼ら……?」
「ニホン人だ」
「…………」
乗降扉を開けた観測機へ向かい遠ざかり行くナードラ後姿を、ミヒェールは呆然としたまま見送る。その彼女の答えに釈然としないものを覚える一方で、唯一信じられるものが敵であることに、皮肉を感じているミヒェールが、そこにはいた。
だが―――――
彼らといえど、この時点では想像すらできてはいなかった。「神の火」たる核反応兵器を使ったことにより、すでにもたらされた物理的破壊以上に戦慄すべき影響が、これから長期に渡り街と大地に黒い影を落とそうとしていることに―――――
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月24日 午後1時30分 ノイテラーネ ディラ‐ヴィラ空港 PKF前線作戦航空基地
12月8日以来、空港に隣接するプレスルームにおいて幾度も行われたPKF広報による記者会見。その度に明らかにされるPKFの作戦の進捗と戦果は、およそメディア網の及ぶ世界全域に広がり、それは期せずしてスロリア戦における日本の優位を知らしめることに成功していた。
だが今日だけは少し勝手が違った。具体的に言えば記者の数が通例よりずっと多く、通常なら150名を収容できるはずの会見場には、入りきれなかった世界各地のプレスが外にまではみ出していた。ノイテラーネ国籍のフリーランスの報道カメラマンたるナンギット‐イリ‐リアンを誘い、席が埋まる前にいち早く見晴らしの良い最前列を確保したグール‐ファイ‐ランは片目を瞑り、意味ありげに笑いかけたものだ。
「ナンギットさん、聞いて驚かないでくださいよ。あのウエクサ将軍、ニホン軍のトップが前線視察のついでに記者会見するっていうんですよ」
「それがどうかしたの?」
かつて東京を根拠に活動していた頃、防衛省の取材で当の植草幕僚長に何度か接しているナンギットにとって、グールたちのはしゃぎぶりは却って奇異に思われたものだ……だが、彼らの熱狂振りにはきちんとした根拠があった。
「転移」を経て、今や世界中が、日本という国に注目している。
スロリアという地域の要衝で、度重なる外交的折衝の破綻の末に勃発した紛争……それが当初、戦争勃発の報に接した中小の国々や人々の抱いた感慨であった。そして紛争の結果については十分に予測の別れるところであった。ローリダと交易関係にある国によっては、軍事強国としてのローリダを知っているがゆえに、戦争の推移をローリダ側優位に解した国も決して少なくはなかった。
……だが、それに続く戦争の衝撃的な経過がその認識を一変させた。
いざ戦端を開いた際に白日の下に晒された日本の圧倒的優勢は、誰も予測し得ない結果であり、経緯であったからだ。衝撃的な緒戦の航空攻勢。それに続く圧倒的なまでの航空優勢の確保。さらに巧緻を極めた地上戦の推移……それらにより構成される全ての経過を支えた圧倒的な軍事技術と情報技術に、世界は驚嘆し、戦慄したのである……そして、衝撃は未だに続いている。
――――では、今次の紛争に際し恐るべき戦闘力を発揮した「ニホン軍」を指揮する将とは、一体いかなる人物なのか? 地上戦を指揮したサカタ、海上戦の指揮官たるシマムラ……その他複数の人物の名が挙がり、その上に立つ一人の人物に、彼らの取材網が行き当たったとき、それは止め処ない興味の発露となった。
――――「世界最強の軍隊」を率いるウエクサ将軍とは、何者だ?
そうした疑念と興味の積み重ね故に、現在では日本は注目を集め、関心の的となっている。外に対しては平和国家たるを謳う日本ではあったが、その名を世界に知らしめたのが戦争とは、まさに皮肉な事態と言えるのかもしれなかった。少なくともナンギットにはそう思われた。
――――期待にざわめく会見場に、まず陸自の制服に身を包んだ広報官が入り、幕僚長の入室を告げた。
『―――植草統合幕僚長 入ります』
声に続き、制服姿の幕僚を伴い、濃緑色の飛行服に身を包んだ一人の男が入室した瞬間、場の空気が一辺に張り詰め、凍りついたようにその場の少なからぬ数の人間には思われた。
あの男が……あの日本国自衛隊の、最高司令官?
彼を待ち構えていた人々の中には、軍服の胸板に勲章を並べ立てた威厳ある偉丈夫、あるいは老熟した軍師タイプの人間像をその脳裏で勝手に思い浮かべていた者もいたかもしれない。従って単に一般の日本航空自衛隊パイロットのそれと代わり映えのしない飛行服に、同じくパイロットらしい均整の取れた体躯を包んだ壮年の男性が、壇上に歩を標した絶好の瞬間に至っても、眼前の光景に気を取られるあまりカメラのシャッターボタンを押すタイミングを失した者もかなりいた。
「…………」
間の抜けた感覚で連続するフラッシュの砲列と、自らと対面し息を呑むプレスを、緊張の欠片すら窺わせないその涼しげな視線で一巡すると、植草は一礼した。
『――――ご来場の皆様、お初にお目にかかります。ご紹介に預かった植草です。小官多忙に付き、飛行服姿であることをご容赦願いたい。それと日本の皆様にPKFを代表し、メリークリスマス』
程なくして沸く笑い……それに場が和むのを見て取り、植草は質問を促した。それから間を置き、一人の日本人記者が挙手をする。
『―――旭日新聞の前畑です。今次の大規模な戦役に際し、抱いた感慨があればお伺いしたく思います』
『感慨ですか?……それは特別には覚えませんでした。私は自衛官として、ただ粛々と与えられた任務を果たすまでです。それは作戦に参加した陸海空全ての隊員も同じだと思いますが……』
質問は終わり、新たな挙手がそれに続いた。
『―――ノイテラーネ‐クワン通信社のリュー‐ガルです。地上戦の推移に関し質問があります。ローリダ軍……あなた方日本人の表現を借りれば敵武装勢力の本拠地たるノドコールを眼前にした時点で、突如地上軍の進撃を停止した理由をお伺いしたい』
『―――その点に関しては、少なからぬ誤解が国内にもあるようですので、当方の方針を明確にしておきたいと思います。PKFに課せられた至上命題は、去る八月、武装勢力の侵入以前のスロリア地域の秩序回復であります。政府による別名あるまで、その方針は変わりません。任務はなおも、継続中です』
『―――日本政府が再び進撃を指示するまで、PKFは動かないということですか?』
『―――少し違います。武装勢力より奪回した地域の確保及び、敵の反攻への対処。それが当面のPKFの任務ということです』
「当面」という単語に力を入れ、植草は応じた。
「植草幕僚長……相変わらず上手い切り返し方ね」
と、ナンギットは言った。プレスの中には、その出身国の多様性ゆえローリダと通じている者もいるだろう。そうした連中を通じPKFはもとより日本政府の方針が露わになる可能性もある。植草の発言は、彼らにローリダの敵国の今後を掴ませないだけの玉虫色の光を放っている。
「あの人、現役の戦闘機乗りだった頃、何て呼ばれてたか知ってる?」
「なんて呼ばれてたんですか?」
「『ハスラー』……日本の古い言葉で、『詐欺師』、『賭博師』ってね」
「へぇ……確かに、顔付きからして相手に手の内を覗かせないって感じですよね。カード強そう」
グールもまた。感嘆を隠さない。
質問は続いた。
『―――JNWの石川です。今次の作戦行動にあたり、陸上自衛隊の特殊作戦群及び海上自衛隊のSEALSが少なからぬ作戦の重要な局面に投入され、相応の戦果を挙げたという未確認情報がありますが。その点についてご説明を頂きたいと思います』
『―――残念ながら、その点に関しては防機に属することですので、お答えできません。ノーコメントです』
そして最後――――ナンギット自身が手を上げるのに、少なからぬ勇気が要った。
『―――フリーランスのナンギットです。閣下に質問があります』
『―――どうぞ?』
『―――植草閣下は敵武装勢力……言い換えれば、敵手としてのローリダ軍を、どのように評価されておられますか?』
『―――それにはお答えできません。何故なら精緻な分析を経ず、口先だけで相手を論評することは、我々の流儀に反するからです。分析の機会は近い将来、十分過ぎるほどに持たれることでしょう』
『―――ではもう一言……』
『……ん?』
『―――植草閣下は……今回の戦争に、PKFは……いや日本は勝利したとお考えですか?』
『…………』
口元を歪め、植草は笑った。それは軍人特有の男臭さを感じさせる笑みではなかった。ナンギットにとってそれはむしろ、カードゲームで微妙な役が揃ったときに浮かべる種類の笑みであるように思われた。
『―――それは、この場にいる皆様方に判断を任せたいと思います……私に言えることはそれだけです』
質問とそれに対する回答が一段落するや、隅に控えていた広報官が植草の退出を告げた。会見の原稿を纏めながら、植草は一礼し言った。
『……では、私はこれよりまた本国へ飛ばねばなりませんので』
そこに、茶化したようなプレスの明るい声。
『F-2戦闘機でですか?』
『とんでもない!……JASDFのC-2旅客機の、それもファーストクラスでだよ』
どっと沸き起こる爆笑――――ナンギットのみが、心からの苦笑と共に若き幕僚長の軽い歩調を見送っていた。
――――人々の好感触を会見場に置いてきたまま部屋を出るや、植草の顔は元の謹厳さを取り戻していた。外で記者会見の終了を待っていた来栖美里 三等空佐が、早足で元来た道を歩く植草の後を追うのに、少なからぬ労力が必要だった。
「勝利宣言、なさらなかったんですね?」
漸くで並んだ傍から投げかけられた疑念には、軽い失望が含まれていた。
「ああ……」
そして、二人は暫く歩き続けた。
「理由を知りたいか?」
来栖三佐の沈黙―――それを了解と取り、植草は言った。
「もしあのとき私が勝利宣言をしたとして、それが敵に即座に否定されたらどうする?」
「…………!」
「我々は確かに戦闘には勝っている。だが戦争には未だ勝ってはいない」
「……では、この戦争の勝敗は何処で決まると、幕僚長はお考えなのですか?」
「敵が『降参した。参りました』と言い出すまで戦争は続くだろう。それで晴れて、こちらは勝ったことになる」
「それでは……」
「……ローリダ人がそんなことを言いそうな相手だと、君は思うか?」
「思いません」
「……だから、戦争は当分続く。残念だがそういうことだ」
駐機場へと続く道をさらに暫く歩く内、いつの間にか戦闘機パイロットらしい締りを取り戻した来栖三佐の顔を、植草はさり気無く見遣る。その眼差しには、多分に教師が教え子に注ぐような気遣いが篭められていた。
ローリダ領ノドコール国内基準表示時刻12月24日 午後4時34分 ノドコール―――スロリア西部境界
――――冷たく、そして荒々しい寒風がくたびれきった軍用コートを打ち、それを纏う彼女は内面から込み上げる絶望感に一人で耐えていた。
清水を満たした飼馬桶を両手に提げたまま、リーゼ‐タナ‐ランはかつて自分の祖国とその軍隊が制覇しようとした大地の地平線に瞳を注いでいた。憂いの篭った青い瞳は、枯野をその刺々しい手で撫でる寒風を前に、一層の愁いを湛えているかのようであった。そして短からぬ距離を踏破して汲んできた水は、彼女と他の敗残兵たちが逃げ延びた地のものではなかった。
「…………」
嘆息――――タナは、踵を返した。その背後には、遠方に広がる山麓の間から延びる細い河川が、何時途絶えてもおかしくないほどの心許ない営みを続けていた。
容赦ない冬風に頬を赤らめ、白い息を吐きながら元来た途を辿りつつ、戦場を覚束ない足取りで踏破する課程で沃野に斃れた数多の将兵のことを、タナは思った。ニホン軍の包囲を逃れたのも束の間のこと、味方の救援もなく一人、また一人と傷つき力尽きた身体を冷たい地面に横たえ、そのまま動かなくなっていく同胞。それを助ける術をタナたち生き残った者は持たず、真に安寧を得られる彼方に自身を歩ませるだけに全ては費やされたのだった。
そして……持てる気力と自尊心とを蕩尽してたどり着いた味方の領域に、期待した安寧はすでに失われていた。
かつては広大な沃野に拓かれていた農園は、今や農奴の反乱と略奪とを経て、荒涼たる地上の、変わり果てた一部として敗残の部隊を迎えていた。反乱勢力に踏み潰され、火を掛けられた商品作物の耕作地、放置されるに任せられた厩舎には家畜の姿はすでになく、かつては植民者の成功の象徴だった広大な邸宅は、その屋内の全てを持ち去られ、あるいは破壊された挙句に放たれた炎の掠めるところとなっていた。
その一角で壮絶な報復の末、首を吊るされたまま朽ち果てた植民者一家の、無残なまでに変わり果てた姿を前にして、それにわざわざ衝撃と怒りを覚えるには、そこへ辿り着いた誰もが驚愕と戦慄とを使い果たし過ぎていた。それでも、彼女と他の敗残兵たちが漸くで傷つき疲れきった身を落ち着けた農園のごく近くに、河川があったのは僥倖というべきであったかもしれない。何故なら水源たる井戸もまた、その中には人間や動物の死体が無思慮なほどに投げ込まれ、もはや使い物にならなくなっていたから―――――
水を満たし重くなった桶を揺らし、タナは半壊しかけた敷地へ続く門を潜った。その向こうで広がる邸宅址のあちこちに、傷ついた将兵が呆然と腰を下ろし、あるいは寝そべり、漫然と時を過ごしていた。同胞の世話に忙しく動き回るのは、未だ指揮官としての義務感を捨てていない若手士官か、あるいはタナのように、此処まで付き従ってきた従軍看護婦ぐらいなものだ。そして当分、自分たちはこのようにして、未だノドコールの外でしかないこの場所で不安な日々を過ごさねばならないのだと、タナは改めて落胆を覚える。
現所在地より、これ以上の移動を停止し別命を待つ旨、タナの属する部隊(現状では部隊という表現が適当かどうかも覚束ないが)が軍総司令部より命令を受けたのは、漸くでその農園址に身を落ち着けた一昨日のことであった。当然、救援と帰還を期していた将兵は失望し憤った。
「何故ノドコールに入れない? 司令部はどういうつもりなんだ……!?」
「負傷者がこんなにいるのに……我々を見殺しにする気か!?」
彼らの言葉と同じ感慨を抱くと同時に、このような境遇を課した味方に対する疑問を露にしたタナに、的確な答えを与えたのは意外な人物だった。
「……アダロネスの連中は、我々のことが邪魔なのさ」
タナが汲んだ水を運び、歩を進めた木陰……ほぼ一週間、目を覆う包帯を未だ取ることも適わない姿のまま、オイシール‐ネスラス‐ハズラントスは言った。
「…………」
「僕らがこのまますんなりとノドコールに入れば、負け戦が公になる。それは結果的に、現地人の独立志向を一層に強めるだろう。火に油を注ぐようなものさ。タナ、僕らはその油なんだよ」
「そんな……」
言葉を失うタナ……それ以上を詮索する気を失い、そして彼女は、さりげなく話題をネスラスの目に転じる。
「ノドコールに入れば、何とかしてあげられるんだけど……」
「いいんだよ……どっちみち、もう見えないんだ」
「そんなこと言わないで……!」
声を荒げたものの、その中に篭めた苛立ちは水に濡らした布巾で身体と顔を拭うこと以外、ネスラスに何もしてやれることのない彼女自身に対して向けられたものだったのかもしれない。
爆音―――――厚い雲の隙間から聞こえてきたそれは、程なくして二機の高翼式の軽輸送機の機影となり、平地へ向かい高度を落として来た。その真白い塗装から、軍の急患輸送用の機体であることがタナにはすぐにわかった。
「友軍機か……タナ?」とネスラス。
「そうみたい……」
頑丈な主脚を誇示するように軽輸送機は荒地に滑り込み、そして先に停止した一機が荷物を続々と放り出した。その殆どが医薬品であり、この場に最も必要とされる物資だった。そして後続するもう一機から降り立った、衛兵士官を伴った人影に、タナは目を見張った――――
「こちらです……総督代理」
衛兵士官に先導され、ナードラは歩き出した。前線より生き延びた将兵の支援は、反乱の鎮圧と並び今後に跨る重要な課題であり、将兵の状態を把握しておくと同時に、その支援の行き届く様子を、臨時のノドコール総督たる彼女は見届けておく必要に駆られたのだ。そのナードラが緑の瞳の先に一人の人影を見出したのは、荒廃と空虚の支配するこの地に足を下ろし間もなくのことだった。
「……そなたとは、前にも会ったな」
眼前に立つタナを、ナードラは憂いとも慈しみとも付かぬ眼差しで遇した。それは、あたかも望ましい時に古い親友に出くわしたような視線だった。それが、タナを内心で安心させた。
意を決し、タナは言った。
「議員閣下に、質問があります」
「……聞こう」
「……この戦争は、正しい戦争だったのですか?」
「……そなたたちは敢闘し、多大な犠牲を払った末にニホン人の西侵を防ぐことに成功した。そなたたちの献身と犠牲は近いうちに報われよう」
「話を逸らさないで……!」
「…………」
語幹から弾け出た若い感情の昂ぶり、ナードラはそれを、沈黙を以て受け止める。
「……では、何故私たちは東へ軍を進める必要があったのですか? 結局は敵が攻めてきたところを、守ればよかっただけではないですか?」
「貴様!」
色を為した衛兵が、背後からタナの腕を抑えた。やり場のない感情に任せそれを振り払い、タナの詰問はなおも続いた。
「……スロリアで死んだみんなの死は、無駄だったのですか? 仲間たちは何のために死んだのですか? ネスラスやここにいる皆は、何のためにニホン人としなくてもいい殺し合いをして、こんなに酷い目に遭ったのですか? お願い答えて……!」
タナの瞳には、もはや涙すら宿っていた。そのとき流れるように延びたナードラの手が、タナの汚れた頬を伝う涙を拭う。唐突な反応に驚くタナの瞳を覗き込み、彼女は言った。
「……そうだ。これまで為された全てにおいて、我々は間違っていた」
「…………?」
「だが、間違いを修正するのには未だ間に合う。リーゼ‐タナ‐ラン……これだけは約束する。私は必ず、これまでに為された全ての過ちを糺し、全てを元に戻して見せる。だから……悲しむのは止めてほしい」
「…………」
激発から打って変わり俯くタナを、ナードラは何も言わずその胸元に、吸い込むように抱き留めた。
そしてタナは、久しぶりでの同性の腕と胸に抱かれ、堰を切ったように肩を震わせ泣いた。
少女を抱くナードラの口元に宿る、女神のような微笑――――
誰も立ち入れない世界を共有する二人の周囲では、重度の傷病兵から輸送機に乗せ、ノドコールの野戦病院に搬送する作業が始まっている。その患者第一陣の中に、担架に乗せられたネスラスの姿もあった……
スロリア地域内基準表示時刻12月24日 午後4時54分 スロリア中部
「――――悠太郎、暁子へ
お元気ですか? ちゃんとお母さんの言いつけを守って勉強していますか?
お父さんは元気です。元気だからこそこうしてメールを送りました。安心してください。
すでに二人もテレビで知っている通り、お父さんは実際に戦闘を経験しました。多くの武装勢力を撃退し、そして多くの仲間が死にました。お父さんは悲しいです。たくさんの仲間が死んだり傷ついたりしたことはもちろんつらいですが、敵であるローリダの兵隊を、仕方がないとはいえたくさん殺さねばならなかったことはもっと悲しいです。お父さんは、実際にローリダの人と会い、そして話をしました。そして最初はけだものか悪魔のように言われていたローリダの人々も、本当はわたしたち日本人と同じれっきとした人間であり、お父さんたちと同じように笑い、泣き、そしてお父さんと同じようにふるさとにはお母さんのようにきれいなお嫁さんがいて、そして君たち二人のようにかわいい子供たちがいることを今更のように知ったのです。だからお父さんは悲しいのです。
悠太郎、そして暁子に、お父さんからお願いがあります。今日はクリスマス‐イヴです。どうか、お父さんたちだけではなく、スロリアでお父さんやお兄さん、そして恋人を亡くしたローリダの人や子供たちにも幸せが来るよう、サンタさんにお願いしてあげてください。お父さんはもうすぐお家に帰れます。だから心配しなくともいいです。悠太郎と暁子には、例え今は敵であっても、どうかこの世界の不幸せな人のことを思いやる心を持ってほしいのです―――――」
「送信」のボタンを押すのと、ジェット機の爆音が天幕の直上を駆け抜けるのと、ほぼ同時だった。PKF陸上自衛隊第二普通科連隊長佐々 英彰 二等陸佐はパイプ椅子から腰を上げ、開け放たれたままの入口を顧みた。彼と彼の率いる部隊が交替と休養を得て一時戦列を離れて、すでに六時間が経過している。だが前線から彼らの姿が消えても、全ては機械的なまでの精巧さで進行しているかのようだ。
事実、現在野戦部隊の補給拠点たる段列地域で、本土の家族とメールの遣り取りをできるようになっているほど戦況は安定を見ている。かつては敵武装勢力の飛行場が設営され、緒戦の航空奇襲によりその機能を完全に喪失したこの場所も、その後前進してきたPKFによりその大半を回復し、今や地上部隊の有力な拠点として活用されているのだった。
飛行場に進入したのは、一機のC-2輸送機。
ノイテラーネ方面からの補給物資を載せて飛んできたその上空では、突発的な敵兵の奇襲に備え、数機のAH-64DJが旋回を繰り返していた。さらに目を凝らせば、飛行場の片隅に設けられたスペースでは、擬装網とともに配され、ほぼ垂直に屹立させられたミサイル発射セルの、厳しげに上空を睨む姿を見出すことができた。それは二日前にノドコールを襲った惨劇以来、予想される「反応兵器」を抱えた敵機の侵入に備え、迅速に配置の進んだ03式中距離地対空誘導弾の発射装置だった――――それらは、ここがあくまで後方ではなく、前線なのだという感を強くする象徴的な情景。
『――――国旗降下』
何時の間にか設置されていたスピーカーによって流される時報に、佐々は一方向へ向かい背を正した。仮設の国旗掲揚台のある方向だった。彼と同じく周囲の手空きの隊員もまた背を正し敬礼を送る。これではまるで……
『……内地にいるときと殆ど同じだな』
と思い、自ずと口元が皮肉っぽく歪んでしまうのを覚えてしまう。曲がりなりにもここは、前線のはずなのに……これらの変化はそれだけ、この地に平穏が戻りつつあることの証拠なのだろうか?……願わくば、そのまま戦役の平和的に解決せんことを。
「あ……」
何気なく翳した掌に、はらりと降り行く白いものを見出した瞬間、思わず佐々は相好を崩した。鉛色の積雲の深奥に端を発し、深々とその勢いを増す降雪……そういえば本土の各地では、此処に先駆ける形ですでに相当な規模の降雪が始まっていることを、基地食堂テレビで見た衛星ニュース放送は報せていたっけ……
佐々は思った――――六万人以上の自衛隊員にホワイトクリスマスを、それも戦地で迎えさせることになろうとは、統合幕僚監部でも想定外のことであったに違いない。
「メリークリスマス……」
雪空を仰ぎそう呟く佐々は、父親の顔をしていた。
「段列地域」の一角では、野外炊具一号と野外選択セット、そして野外入浴セットは、前線から一時交替してきた隊員たちを前に、例年にないフル稼働を強いられている。その頻度は緒戦から戦闘中盤における戦闘兵器の忙しさと何ら変わらなかった。
配食を待つ隊員の列から生まれ続ける明るい喧騒。その先頭で、蓋を開けられた大鍋を覗き込んだ高津 憲次 三等陸曹が歓声を上げた。濛々と噴き上げる真白い湯気と、味噌とダシ、そして薬味の香りに接するだけでも、生きた心地を取り戻すというものだ。
「イヤッホウ!……今日の晩飯は豚汁だぜ」
「もう何年も食ってないような気がしますね。三曹」
と、山崎 徹一等陸士。
「ああ、まさかこんな地の果てで人間らしい食事ができるとはなあ……」
配食を経て、仮設食堂のテーブルに二人は腰を下ろした。噛み締めるように合掌し、そして営内と同じように飲むように暖かい白飯を熱い豚汁とともに掻き込む。同じような光景は、すでに彼ら二人の周囲でも始まっている。
ふと、山崎 一士が言った。
「来年は、どうなるのかなあ……」
「ノドコールで正月過ごしてるかもな。おれたち」
「そこを核爆弾でドカンか……ゾッとしないっすね」
自分の冗談に苦笑を覚えつつ、山崎は周囲を見回した。その視線の先に同じく仮設の野外浴場と、その入口に並ぶ縦列を見出したとき、彼の目に再び喜色が宿る。
「三曹、次は風呂行きましょう。丁度開いたばっかだし……」
「ほう……風呂もきてるのか。これならずっと此処で暮らしてもいいなあ」
「冗談でしょう……」
そう苦笑で応じつつも、満更でもないという気分を覚える山崎がいたことも確かだった。
日本国内基準表示時刻12月25日 午前2時頃 某巨大インターネット掲示板にて
421 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:32:45 ID:7897truiW
野営のニュース見たけど、スロリアけっこう落ち着いてるっぽいね。
422 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:34:23 ID:CCcgt023a
でも、あいつら核爆弾持ってるんだろ? やばくね?
426 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:35:09 ID:WWiu786gg
弾道弾は持ってないみたいだから大丈夫だろ。でもこれからどうするかだよな。
430 名前:名無し予備自◆Frtye329Gt 投稿日:20××/12/25(●) 0:35:45 ID:765GRuyti
空自のペトリ部隊に動員かかったみたい。同僚が行くって言ってた。
432 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:36:13 ID:FFyrjh675
≫430
そうなのか……じゃあ状況は相当ヤバイってことかな。ところでやっぱ特殊作戦群って投入されたの?
433 名前:名無し予備自◆Frtye329Gt 投稿日:20××/12/25(●) 0:36:44 ID: 765GRuyti
≫432
行ったんじゃね。おれ陸自じゃないからわからん。
440 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:38:11 ID:ZXght5643
SOGがスロリアに行ったのはマジらしい。軍板の某コテが言ってた。ゴルアス半島西岸上陸で、現地人が反乱起こして収容所から脱走したって話があったじゃん。アレが実はSOGの仕事だったらしい。
442 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:39:54 ID:FRtewWW43
そんなことよりおまいらこれ見てみろ。まじヤバイ。
http://xx-media.newsglobe.net/20○▽12/dd/goworld/2006ccc8212407.3x8.a.jpg
445 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 0:40:04 ID:Uyt7865yu
グラウンド‐ゼロキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━!!!!
447 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 1:23:13 ID:12WAQhu67
何? 何が映ってんの? おれ今携帯で見れないんだけど。
448 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 1:24:02 ID:tTre231ER
≫442
これってキビルってとこだろ……すげえ。
450 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 1:24:51 ID:CCdfs453W
≫447
核爆弾投下直後のキビルの映像……らしい。はっきり言ってグロ。
451 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 1:27:41 ID:jikOL7865
まるで原爆投下後の広島、長崎みたいだね。酷すぎる……
457 名前:カメラ屋古参店員@アキバ◆Dret0987pp/12/25(●) 1:24:51 ID:UUIio98OP
≫442
これはまた……すごいタイミングで出たね。
画像はVi○○orのHDDカメラっぽい。撮ってすぐうpしたのかな?
458 名前:名無し君@1X周年 投稿日:20××/12/25(●) 1:26:33 ID:TTtye342GF
でもこの映像、誰が撮ったんだろう……?
ローリダ国内基準表示時刻12月26日 午前10時27分 首都アダロネス 第一執政官官邸
自らの執務室にこの日……否、ここ暫くの間で最も重要な役割を果たした一人の来客を迎え入れたとき、ギリアクス‐レ‐カメシス第一執政官の余裕と威厳とをない交ぜにして造られた表情は、来客たる彼女の一瞥で崩されたように思われた。
「第一執政官閣下には、ご機嫌麗しく……」
ただそれだけのナードラの最初の言葉に、崩れかける威厳を辛うじて保ちながら、カメシスは言葉を吐き出した。
「世辞はよい……それより交渉及び事態収拾、ご苦労であった」
「交渉は未だ終わってはおりませぬ……」
反駁しようとするナードラを、執政官は制するようにした。
「それはわかっておる。ここはまず、対ニホン外交策について、貴公の忌憚ない意見を聞きたい」
「それ以前に閣下、お伺いしたき儀が御座います」
「何じゃ……?」
「去る四日前、キビルの反乱掃滅に使われた『神の火』は、真にキビルに対し用いられるべく、用意されたものだったのでございますか?」
形のいい唇から奏でられた疑念が、その耳に入った瞬間、執政官はその細い目を開け、言葉の主を見返した。
「真意が見えぬ……もう少し、掻い摘んで話してくれぬかな?」
「申し上げます。あの『神の火』は、別の目標を企図したものだったのでは御座いませんか? 一時停戦中であったのにも関わらず……」
「……それを何故、貴公が知る必要があるのだ?」
その瞬間、ナードラの眼差しからもともと乏しかった柔和さが完全に消え、眼差しは無形の剣となって執政官の喉元に突きつけられた。ナードラの冷ややかさすら感じさせる目つきには、明らかに彼女の周知しないところから余計な手を下し、結果的に交渉を破綻させたカメシスたちに対する静かな怒りがあった。
「あまり私を、軽く見なさぬ方がよう御座います。執政官閣下、それに……」
「それに……?」
「ニホン人の中にも一連の『神の火』使用に関し、閣下らの意図に感付いている者もいます。彼らとて、決して無能ではないことは閣下もすでにご承知のはず……」
「…………!」
「ここで彼らをさらに刺激すれば、最悪今度こそ我らはノドコール……もしくはそれ以上を失うでしょう。それでも宜しいのですか?」
「ではそなたは、わしにどうしろと……」
「声明をお発し下さいませ。今次の『神の火』使用、それより遡るスロリアへの進攻の一切は植民地総督府及び駐留軍の独断であり、本国政府及び元老院の一切関知するところではないと……」
「…………!」
身を震わせる愕然に突き動かされるがまま、カメシスはナードラを見遣った。「神の火」使用はともかくとして、それ以前の戦闘行為の全ての責任を前線の当事者たちに帰するとは……一体どういうつもりなのか? 沸き起こった疑念の内容を知ってか知らずか、ナードラの言葉は続いた。
「幸いなことに、当のニホン人に、今次の戦争を国権の発動による全面戦争と看做す意図は御座いませぬ。彼らはこの戦いを、最終的には単なる国境紛争の域を出ぬことを望んでいます。ここは彼らの意に乗り、仕切り直すが得策かと……」
少しの沈黙と苦渋……その結果として彼が開いた口は、当のナードラが意外に思うほどの肯定であった。あるいは打ち続く敗報が、執政官を弱気にしていたのかもしれない。
「そうか……よくわかった。だがたかだか国境紛争程度に払われた、我らの犠牲のなんと多きことか……!」
執政官の嘆きに同意するように、ナードラは無言のまま頷いた。執政官は続けた。
「それで貴公の報告にあった、彼らの求める将来の住民投票についてはどう思う?」
「現在の我らに、怒った彼らの要求を拒否する方法も正当性も御座いませぬ。それ以上を要求されなかっただけでも、僥倖かと……」
執政官は、頭を振った。
「返す返すも異例尽くめだのう……あやつらは本当に領土や賠償金も望まぬのか? 一体あやつらは何のために我らに戦いを挑んだのだ?」
「どうも……彼らと我らとでは、戦争というものに対する思考が違うようです。それ以上は判りかねます。ご容赦を……」
――――報告を終えてもなお、ナードラには総督代理として、ノドコールの治安維持と復興に関する責務が現地に残っている。それら全てに解決の糸口をつけ、いずれ着任が決定する次期総督に引き継がせるべく、ナードラが部屋を退出しノドコールへ取って返そうとした間際、机の上で儚げに手を組んだまま、執政官は彼女を呼び止めた。
「ナードラ議員……」
「はっ……」
「これまで直に顔を突き合わせ、論を闘わせた結論として、ニホン人についてどう思う? 後学のため少し耳に入れておきたい」
沈黙にも似た沈思――――やがてナードラの唇は、経験と感性から紡ぎだした彼女なりの所感を紡ぎ出した。
「彼らは……押せば何処までも退きます。ですがそれが誰の目にも明らかな譲れない一線を越えたとき、彼らは一気にそれを揺り戻しに掛かります。そのとき彼らにもたらされる力は、我らの想像を絶します。そしてそれ故に彼らの騙る義は堅く……そして正しい」
「…………」
「偉大なる執政官閣下、我らはすでに二度、彼らに対し拭い難い背信を犯しました。敵対と融和の何れを択んだところで、もはや三度目は許されませぬ。もしそれを為したとき、我が共和国は確実に危機を迎えるでしょう。我らですら『神の火』を持っているのです。彼らがそれに勝る力を持っていないと、我らの中の誰が断言できるでしょうか?」
「…………」
執政官の沈黙……それがナードラに新たな言葉を生み出させる。
「私とて、かえすがえすも無念です。我らがかつて蛮族と呼び、蔑んできた者どもに、文明的な戦争の方法を教示される結果を迎えるとは……我らはいま、これまでとは異なる方法で彼らに対する必要に迫られているのかもしれませぬ」
「…………」
「御免……」
カメシスの沈黙を、今度は退出の許可と受け取り、ナードラは踵を返し元来た途を外へと歩き始めた――――
――――失意に打ちひしがれた執政官の辞任と、それに続くより国防軍に近い勢力の主導による政権交代を彼女が知ったのは、本土を離れ、再びノドコールの地を踏んで間も無くのこと。
その瞬間、ノドコールにおける彼女の役割と、本国で築いてきた仮初の政治的基盤もまた、終わりを告げた――――
ローリダ領ノドコール国内基準表示時刻12月30日 午前9時14分 ノドコール中部 植民地駐留軍野戦救護所
「――――お父様へ
あなたの娘はどうにかノドコールへと帰り着くことができました。ですがここから東のスロリアには、生への意思半ばにして不毛な戦いに命を散らしていった多くの同胞が、今なお荒れ果てた地上に骸を晒しています。神のご加護により、生き長らえることができたとは、私はもう思えなくなりました。何故なら彼らの死の意味が、私には未だによく判らないからです。神は何故に、彼らを救わなかったのか?――――
みんな何故、死ななければならなかったのか?……それのみを考え、戦場の惨禍から逃げ延びた私は、今や人生の目的を失い、ただ漫然と生きています。そして私は意義のない彷徨の末、ともすればもはや生きていく望みすら失おうとしています。もしこの世に神様が本当にいて、私たちを見守ってくださっているというのなら、どうして神様は私たちを戦争に駆り立て、その結果として死んでいく人々をただ見ているだけなのでしょうか? 私たちはこれまで、神様のために、神様の言葉と救済を信じて戦争をしてきました。その神様は、私たちに何をしてくれましたか?
もう私は、全てがわからなくなりました―――――」
――――そこまで書いたとき、タナは便箋に走らせるペンを止め、軍用トラックの荷台から振動を伴って流れ行く外の光景をさり気無く見遣った。その青い瞳の先で、かつてはそこを通る者の目を楽しませたであろう一面の花畑は、今では見渡す限りに、炎の疾走した痕を示す漆黒に支配されていた。炭化の進んだ地上からさらに伸びる地平線の各所から、ぽつぽつと立ち上る燻り――――それらが増えることがあっても減ることがないであろうことは、この地の実情に疎いタナでも容易に想像できた。
騒乱の巻き添えを食った結果として、僅かな田畑と住居を失い、着の身着のままの姿で焼け出された現地人避難民の列は、ノドコールを西に向かうにつれ、それに遭遇する頻度と列の規模を増していた。支配者に対し抵抗する気力すら無い、ただ自身の最底辺の生活を守るだけで精一杯の慎ましやかな人々。トラックの荷台から彼らのみすぼらしい姿に接する度、タナの胸は締め付けられる……思えば今次の戦争の最大の被害者は、こうした人々ではないのか?
それでも、先に後送されたネスラスの後を追う形で、陸路を伝いタナがノドコールの地を再び踏んだ頃には、国内の騒乱はあらかた終息をみていた状態だった。だが問題の完全な解決には程遠いだろう。総督府が高圧的な支配政策を見直し、ローリダ人による地元民への収奪の構造を改めない限り、全ては繰り返し続けるに違いない。
思えばニホン軍によるノドコール侵攻は、こうした人々の救済という面では、最も効果的で現実的な方法であったのかもしれなかった。彼らなら貧窮と抑圧に苦しむ人々を救い、惜しみない支援を与えるに違いない。だがその過程で、我々が為してきた不正義も、白日の下に晒されることだろう――――
――――だが結局、ニホン軍は何故かノドコールまで攻めては来なかった。思えばタナたちの生命は、それで救われた。
そしてタナが、物理的な障壁ではなく、それ以上に大きな、言い換えればローリダとニホンとの間で為された政治的な取り決めが、ニホン軍の進撃を阻んでいることに薄々気付き始めたとき、タナの属した部隊にも帰国命令が出た――――
トラックは途中で同じ経緯を経てノドコールへの帰路に付く数台と合流し、さらに徒歩で移動していた兵士を拾いながら走行を続けた結果として、ノドコール中央部の、治安維持軍野営地に入った。そこで将兵は所属部隊の申告と休息を経て、再びノドコール国内の治安維持任務に就くことになっていた。
どちらかといえば小柄なタナが背の高い荷台から飛び降り、そして脱兎のごとく駆け出したのは、トラックが未だ停止してもいないときのことだ。現状への失望と同じく、トラックの荷台の上で醸成してきた不安の駆り立てるままにタナが駆け込んだのは、傷病者専用の天幕の居並ぶ一角だった。
「あのう……ネスラス……オイシール‐ネスラス‐ハズラントス少尉はどちらですか?」
道を行く将兵に幾度と無く尋ね、幾度と無く有益無益な回答を得た後、息せき切って駆け込んだ天幕の中では、真新しい包帯に顔の上半分を包んだネスラスが、手術を担当した軍医自らの手によって、今まさに包帯を解かれようとしているところだった。
「…………!」
歩と息を止め、胸を裂かんばかりの緊張と共に見守った先で、全ての包帯が取り払われ、その下には左目を塞がれたネスラスの顔が、元の端正さを取り戻していた。ただ左目はもとより、右目の焦点が少なからず合っていないように思われるのが不安なところだ。
タナの姿を認め、軍医は言った。
「この少尉の知り合いかね?」
タナは頷いた。溜めていた息を吐き出し、壮年の軍医は言った。
「残念ながら、左目は全摘出だ。右目は……時が立てば日常生活に支障ない位には回復するだろう」
「では……軍務は?」
「…………」
タナの問いには無言のまま、軍医は頭を振るばかりだった。そして悲哀を胸に仕舞い、タナはネスラスの寝台に歩み寄る。
「ネスラス……?」
「タナ……そこにいるのか?」
ネスラスが手を延ばした。その目はタナの顔をしっかりと捉えてはいなかったが、それでもタナはさらに近づき、ネスラスに頬を触れさせた。途端、ネスラスの口元が笑みに歪み、伸びた手がタナの頬といわず頭髪といわずにまさぐった。
「ああ……見える、ぼやけてるがぼくには判る……それにしてもタナ、なんて酷い顔だ。顔ぐらい洗って来たらどうだ」
ネスラスの言葉に何度も頷くうち、タナの瞳に湿っぽいものが宿り、それはたちまちに歓喜とも安堵ともつかない細流となって砂塵と硝煙に汚れた頬を洗う。そしてネスラスはそのままタナの肩を引き寄せ、タナの半身をその腕と胸に抱き寄せた。
「ネスラス……!」
「タナ……もう離さない……!」
その瞬間――――
――――さようなら……シュンジ。
――――さようなら……!
ネスラスの首筋に顔を埋め、無言のままタナは肩を震わせ、泣き続けた。
日本国内基準表示時刻12月30日 午前9時43分 熊本県熊本市 自衛隊熊本病院
『――――25日未明より複数のインターネット画像掲示板に掲載された、出所不明のキビル爆心地の画像は、未だに大きな反響をもたらし続けています。今回の画像掲載を受け、電話によるSNNの緊急世論調査の結果、日本の核兵器保有を容認する意見が、反対意見を大きく引き離し70パーセントに達しました。一方、連立解消をちらつかせる共政会の、士道武明首班は先日29日午後さいたま市内で演説し、核武装推進を主張すると共に神宮寺政権のスロリア政策を強い口調で批判し――――』
「……これからどうなんのかな。おれ達」
「……やっぱり、年越すんじゃねえか、戦争は……」
「さあ、どうだかな……」
病室のテレビ放送を前に、あれこれと言葉を交わす同室の負傷兵たちを尻目に、俊二は先日来からの降雪により、一面の白銀に覆われた閑静な街並みに目を奪われていた。それは久しぶりで接した祖国日本の、ごくありふれた年の瀬の情景―――――それに心を開くような俊二では、もはやなくなっていた。
不安を交えた当初の予想に反し、日本がいわゆる俗に言う「戦時」一色に染まっていなかったのは、俊二たち帰ってきた者達にとって安堵を誘うものであった。街中を歩く若者の風俗と嬌声は、平時と何ら変わらず。街には車と灯りが溢れ、テレビでは報道特番こそ未だ続いてはいたが、その放送枠に占める割合は潮の退く様にだいぶ狭まり、代わりに復活したバラエティ番組やドラマが、負傷兵たちの目を楽しませ、帰ってきた者たちをいつもと変わり映えしない祖国日本の空気にどっぷりと浸らせていた。負傷から回復し、特に許された者には面会すら認められ、手弁当を手に両親や兄弟、そして恋人と家族が面会に訪れる頻度は日に日に増し、それらはごく短い間のうちに、彩りに乏しい病室の、ごくありふれた風景となりつつあった。
だがそれらは、決して俊二の心を慰めるものではなかった。スロリアに残してきたものを、いまだ取り戻せずにいると、彼は思っていた。
……否、取り戻すどころか、今度の戦いではかけがえの無い存在を失った。二度までの喪失を経験した自分に、果たしてもはや人間として生きる価値などあるだろうか?……戦地とは打って変わり、暖房の効いた清潔な病室のベッドで寝返りを打つ俊二の目は、空ろなままテレビ画面の矩形へと向けられる――――
……ふと、テレビ画面の向こう側が慌しさを増し、画面が速報を記した原稿を読み上げる女性キャスターの切実な表情へと切り替わった。
『――――ここで速報が入りました。本日正午を以て、武装勢力との完全な停戦が成立する見込みとなりました。停戦です……停戦が、成立いたしました。事態収拾に関し、武装勢力側が日本側停戦案受諾を発表。日本側と武装勢力側の方針が大筋で一致を見た模様―――――』
同室の傷病兵たちもまたどよめいた。自らの至近の未来に拘わることだけあって、その口調も知らず真剣みを増していた。
「終わったのか……」
「……で、俺たちは勝ったのか?」
「勝ったに決まってるだろう。少なくともスロリアは取り戻してるからな」
「ノドコールまで行って、ローリダ人の鼻を明かしてやりたかったぜ」
「でも問題は、この後だ」
誰かが言い、そして数人が相槌を打つ。戦場となったスロリアの復興、避難民の安全確保、武装勢力との交渉……今回の戦闘以上に解決に時間と手間を要する問題がなおも残っていることを、この部屋の誰もが知っていた。ことによればこの中の幾人かもまた、退院すればこれらの任に就くべくスロリアへ赴くこととなろう。ともすれば俊二もまた……
「高良士長……」
「…………?」
背後から呼びかけられ、寝返った先の入口に、俊二は我が目を疑った。同じくスロリアの戦闘で負傷し、未だ松葉杖を付く松中一等陸士に伴われた人影――――
「―――美沙……ちゃん?」
松中の幅の広い背に隠れるように、俊二に視線を注ぐ穂積 美沙子を見出した軽い驚愕の赴くまま、俊二は半身を起こした。
そのまま身を置けば、からかいとやっかみとに進退窮まるであろう病室を出て、二人は窓辺の通路で互いにぎこちない歩を刻み始めた。それはむしろ、リハビリを始めたばかりで未だ歩調の覚束ない俊二に、美沙子が合わせたが故の、ゆっくりとした歩み。
「怪我……もういいの?」
「もうすぐ退院なんだ」
躊躇いがちな口調を無視した、あっけからんとした素振……それこそが、一度突き放した彼女への気遣いになることを俊二は知っていた。一方で彼の言葉に以前の蟠りが無いことに気づき、そして安心したのか、美沙子の言葉が弾みだすのを俊二は聞いた。
「……よかったね。帰って来れて」
「ああ……」
俊二は足を止め、そして通路の窓辺に歩み寄った。外は折からの曇天、上空は分厚い鉛色の雲に塞がれてはいたが、黙々と降り注ぎ、やがては地上や建物を覆うに至った雪が、周囲の微かな光を吸い込み、人々の目に幻想的なまでの白銀を晒している。
それらに目を細める俊二の傍に寄り添い、同じく窓辺の風景に瞳を向け、美沙子は言った。
「あの人には……会えた?」
「あのひと……?」
「俊二くんが、好きだった女」
「……会えた」
ただそれだけを俊二は言い、そして美沙子の睦むような問いは続いた。
「そのひと……生きてるの?」
「多分……生きてるよ」
「それも……よかった」
「だけど……もう、会えないんだ」
「どうして……?」
「何となく……そんな気がする」
「平和になったら、また会えるよ」
美沙子の言葉には、将来に対する明るさがあった。そして美沙子の手が、さりげなく俊二の手に伸びていく。
「……美沙ちゃん?」
そう言いながら、俊二の手に自らの指を絡ませる美沙子を、俊二は軽い戸惑いと共に見遣った。俊二と目を合わせることなく、窓に俯きがちな顔を向けたままで、美沙子は言った。
「いつかきっと……一緒に会いに行けるよ」
沈黙―――――こちらと視線を合わさない美沙子の頬に、紅いものが宿っていることに俊二は気付く。そして彼もまた、窓の外へと向き直る。そのとき、不意に開いた雲間から窓辺に注ぐ暖かい陽光に、俊二は戸惑いつつも微笑ましさの込み上げてくるのを覚えたのだった。
「……そうだね」
それは、俊二が久しぶりで覚えた安寧―――――そして機を同じくして仄かに沸く希望。
スロリア地域内基準表示時刻12月30日 午後2時34分 スロリア西部 捕虜収容施設
四輪駆動車はハン‐クット市の郊外を抜け、はるか前方に長城の如くに広がる防護柵の連なりに向け、荒々しい砂塵を刻んでいた。
開け放たれた窓から向こうに広がる、個性に乏しい平原の風景は、かといって助手席に座る長谷川真一の目を決して飽きさせるものではなかった。ただその行く先に何が待っているか判っているだけでも、前から後ろに流れ行くこれらの景色がいとおしく、名残惜しい。そして長谷川の向かう先で待っているものは、決して彼にとって喜ばしい感慨をもたらすものではなかった。
12月8日の開戦を、彼はハン‐クット郊外の難民キャンプで迎えた。その前後を通じ、長谷川は国際協力機構の幹部職員として、遥か西方から戦火と侵略を逃れてきた現地の人々の保護とキャンプ地内での民生に力を尽くしてきた。殆ど身一つで焼け出され、これまで生を刻んできた土地を失った人々の悲哀を間近で見るうち、このような惨状を引き起こした武装勢力に対する怒りも募ろうというものだ。
開戦以来続くPKFの快進撃と、その途上、かつての戦乱の折シンヴァイルの村で別れ、それ以来消息の途絶えていた村の人々との再会を果たせたのは、そうした不遇続きの中に見出された一筋の光明というものであったのかもしれなかった。武装勢力の侵攻の際、彼らの強制収容所に収容され、四ヶ月近くにわたり辛酸を舐めた村人たちはPKFの進撃に浮き足立つ警備部隊の隙を突いて反乱を起こし、逃亡の後にPKFに救出されたのだった―――――椎葉は、彼らの口から直にそれを聞いたが、その彼らの口振りに釈然としない何かを聞いたのは気のせいなのだろうか?
――――そして彼らの口から、長谷川は椎葉 正一をはじめとするスロリア在住日本人に降りかかった運命を知ることができた。
「長谷川さん、窓閉めてくださいよ。寒くてかないませんよ」
「ああ……すまん」
そう言いつつ、長谷川は窓を閉めるハンドルを動かす手を止め、久方ぶりに一片の雲も無い青い寒空を仰いだ。上空の蒼穹に延び続ける白い軌条が眩しい。おそらく輸送任務のためノイテラーネ本土を発ったC-2輸送機だろう。それは度重なる任務でノイテラーネの各空港で離発着を繰り返した末、今やとっくにノイテラーネの空の風景の一部と化したと言っても過言ではなかった。事実PKF司令部における情勢報告会の席上、PKFの幕僚が今回の作戦で重要な働きをした装備に、携帯対戦車ミサイルと軽装甲機動車、そしてC-2輸送機の三つを誇らしげに挙げていたのはあながち間違いではあるまい。
停戦により郷土への帰還の希望が見えてきた難民キャンプを離れ、上から自分に新たに課せられた仕事を思い、むしろ複雑な表情を強いられている長谷川がそこにはいた。
新たな任務――――それは、これまでの戦闘により捕虜となった武装勢力の兵士たちに対する「人道的支援」。
そして彼が収容所への道を急いでいた理由は、それだけではなかった。
「椎葉 正一という名に心当たりがあるだろう?」
「…………!」
「彼らが死の間際に書いたという日記を持っている武装勢力の指揮官がいる。直に会って話を聞いてみてくれ」
ハン‐クットを出立する前に、上司と交わされたその遣り取りこそが、彼を未だ見ぬ収容所へ赴かせる直接の源となっていたのだった。
「―――愛するケティへ
我が軍は戦いに敗れ、私は生き残った。それも、五体満足な姿のままで……!
現在、君に送るこの手紙をニホン人の捕虜収容所で書いている。それだけの自由を、私はここで与えられている。だから君には安心してこの手紙に目を通し、私の帰りを待っていて欲しい。眠り、食べ、そして住まうことに関して、現在私の居る場所は私たちに何ら不自由をもたらしてはいない。まるで久方ぶりで休暇を貰ったかのように、私は日々を平穏のうちに過ごしている。
だが、ここに至る過程で多くの仲間が戦闘に斃れ、傷病に命を散らしたことを君には伝えておかねばならない。それは敵の強大なることよりむしろ、味方の無能と不調和により引き起こされたものであるということだ。それは戦争に敗北した以上に悲しむべきことであり、怒るべきことであろう。それらの破綻を引き起こした連中に責任を取らせ、教訓を即座に反映させねば、同じ過ちは再び繰り返されるだろう。
だが願わくば、我々を勇者として遇し、寛大な処遇を以て現在の環境を与えてくれたニホンの人々と我々が互いをさらけ出し、心から意思を共有し合える日が近いうちに来たらんこと……私自身、ニホンの捕虜となり、そこで初めてニホン人のものの見方、考え方に接する機会を得ることができた。結論を言うと、彼らは政府や軍上層部の言っているような、獰悪で堕落した下等種族では決してなかった。彼らほど高潔で、寛大で、真摯なる人々を私は他に知らない。一兵卒から将官にいたるまで、ニホンの軍人は、しばしば自らをサムライという彼らの古の戦士に喩える。サムライは、一度忠誠を誓った主君をその最後まで守り、戦場に斃れることを無上の喜びとし、自らの過失をその自死を以て償うという。我らがとっくの昔に失ってしまった精神を、文明、技術力共に我らに遥かに優越する彼らが未だに持っているとは、一体どういうことであろうか?―――――」
ふと、便箋に走らせたペンを止め、グラノス‐ディリ‐ハーレン大尉は士官専用に割り当てられた部屋の、机から臨む収容上の敷地に視線を投げかけた。彼の視線の先では、彼と同じ、もしくは彼と異なる様々な経緯でニホン軍の捕虜となったローリダの男たちが、跳ね回るボールを追って広大な運動場を駆け回っていた。当初予期していた形こそ違え、戦闘からの開放感が、彼らを突き動かしているかのようだ。
二人部屋の隅に聳える二段ベッド。主のいないその上段に、ハーレンは視線を巡らせた。ベッドの主たるギュルダー‐ジェスという名の空軍大尉は、ゴルアス半島方面の海空戦に参加した際、乗機をニホン軍に撃墜され、本人は脱出し海上を漂流していたところをニホンの艦隊に拾われて捕虜になったらしかった。再び目を転じた窓の外……その彼は宿舎の外で仲間を集め、今やカードゲームの抜け目ない親として振舞っている。ローリダのカードゲームの輪の中には、監視役であるはずのニホン人すら加わり、カードがてらの談笑に花を咲かせていた……これまで彼らといがみ合い、銃火を交えてきたのがまるで嘘のような光景でもある。
停戦を、ハーレンたちはその日の午前の内に知らされた。それが純粋な勝敗の確定を告げるものではなく、単に戦闘行動の停止を確定するものであることを知ったとき、捕虜たちの多くが覚えたのは意外さだった。これまで彼らは、ニホン軍が自国ローリダを完全に屈服させるまで、戦争を止めないであろうと思っていたのである。
それが……戦争は終わった。
「勝ち負けは、政治屋さんがこれからの交渉で決めるということだろうぜ」と、収容所の将校用食堂で停戦を告げるテレビ放送に見入る将校たちの環の中で、ジェス大尉は言ったものだ。それを否定する論拠を持たなかったのは、ハーレンだけではなかった。
ノック……それに続く入室の許可の後に入ってきた人影を、ハーレンは慈父のような眼差しで見詰めた。イル‐アム方面の戦闘で敵中に孤立した結果として、同じく捕虜となった腹心のアスズ‐ギラス准尉だ。ハーレンの机の上に広げられた便箋に気付き、准尉は言った。
「大尉殿……お手紙を書いておられましたか」
「ああ……妻にね。君は書かないのか?」
「やかまし屋の女房のことを考えるのは、もう少し後にしまさァ」
と、豪快な笑い。それにハーレンは苦笑で応じる。ニホン人が万策を尽くして祖国に手紙を届ける確約をしてくれたのは幸いだった。そのおかげで敗残の身でも生き甲斐を得た将兵はずっと増えたに違いない。
「書いて置いた方がいいぞ。帰ってきたら別の男と懇ろになっていた……なんてことになったら目も当てられない」
「それもそうですね」
苦笑し、准尉は話題を変えた。
「戦争、停戦になりましたね」
「停戦だが、実質は負け戦だ。今頃本国は上や下への大騒ぎだろうさ……」
これを負けと言わずして、本国のお偉方は何と言うつもりなのだろうか?……だが敗北が敗北として捉えられたとして、本国の民衆の受ける衝撃は相当なものとなるに違いない……それを考え暗然とし、ハーレンは話題を転じた。
「それはそうと、中隊の戦死者の遺品整理は済んだか?」
「兎にも角にも、今度の戦争は人が死に過ぎですよ……遺族の悲しむ顔が目に浮かぶようです」
「また、徴兵基準が緩和されるだろうな……そして戦争のできない兵隊が増えていく」
「本国で遺族が暴動を起こしているって話、本当でしょうか?」
いつの間にか、准尉の目は真剣みを増していた。
「それは……怒りたくもなる。司令部の作戦指導は問題あり過ぎだ。批判は甘んじて受けるべきだろうな」
受けるような連中とは、到底思えないが……という言葉を、喉にまで出掛かったところで飲み込む。
引き出しを開け、ハーレンは一冊のボロボロになった帳面を取り出した。かつては彼のものではなかったが、度重なる激戦を潜った末に、もはや彼の体の一部といっても差し支えないほどのものになっていた。色あせ、埃を被ったそれに気付き、ギラス准尉は眉を顰めた。
「大尉殿、それ……未だ持っておられたのですか?」
「いずれ然るべきニホン人に、これを託したいと思っている」
「前にも言いましたが、小官は反対です。もし大尉殿のことを悪く書いていたらどうしますか?」
ハーレンは微笑んだ。
「実を言うと、もうニホン人には話をしている。私が聴取を受ける日も近いだろう」
「それでは大尉の身が……」
「その時はその時だ。それにニホン人なら弁明の機会ぐらいはくれるだろう。こちらの軍法会議と違ってな」
そうは言ってみたものの、弁明する気はハーレンにはさらさら無かった。自分はこの持ち主の処刑命令を下し、結果的に多くの、無実のニホン人の生命を奪った。今に至るまでその責任を隠し続けることは、彼の若い正義感が許さなかった。
そのとき―――――
「新しい幹部が来たみたいですよ」
と、ギラスが言った。視線を転じた窓の外。金網に囲まれた収容所事務所の入口に横付けした車、そこから降り立った自分と同年齢と思しき青年に、ハーレンは目を細めた。
ハーレンと長谷川、収容所事務室で程なくして引き合わされた二人は、一時の間、相手を観察するように沈黙を保った。
「あなたに、渡したいものがある」
最初に口を開いたのはハーレンだった。言葉と共に手渡された帳面、それを取り、それに記された椎葉 正一という名に、長谷川は目を見張った。
「…………」
「知った名か?」
「何故、あなたがこれを持っているのですか?」
「私は……この手帳の持ち主の死に、責任を持つ者だ」
長谷川は、はっとしてハーレンを見上げた。嘘を言う男ではないことを、長谷川は彼の目から知った。それは長谷川にとって決して不快な煌きではなかった。
「……そうでしたか」
所長の文民警察官がハーレンに退出の許可を伝えた。帳面の内容を吟味の上、彼には後日事情を聞くつもりだった。黙って一礼し、踵を返し歩み去る彼を、長谷川は呼び止めた。
「待って……!」
「…………?」
「名前を……まだ伺っていない」
「ハーレン、グラノス‐ディリ‐ハーレン……共和国国防軍大尉だ」
「ハーレン大尉……」
「…………?」
「この帳面の持ち主は、私の友人です……ありがとう」
「…………」
神妙さと驚愕をない交ぜにした視線を、ハーレンは長谷川に向けた。その彼の眼差しの先で、ニホン人の青年は静かな笑みを湛えていた。
「あのう……お願いがあるのですが」
「…………?」
長谷川の沈黙を了解と受け取ったのか、ハーレンは言った。
「その文章の内容を、本官に教えていただきませんか?」
「わかりました。ご期待に沿えるよう努力しましょう」
「ご厚意……感謝する」
ハーレンも笑った。それは静かな、だが物寂しい微笑。
ハーレンが去って間も無く、事務室で割り当てられた机の上で、手にした文面に目を通してはいても、それを読む長谷川の目はそれより遥か遠くへと向いていた。
「――――止め処無い不安と諦観に揺れ動いている自分の心を、離れたところから冷静に眺めながら、自分は見せる宛てのない文章を書いている。
収容所の待遇は、さすがに良くは無い。若い所長が我々の健康に心を砕き、配慮をしていることはよく理解できた。だが悲しいかな彼には権限がない。我々に対する積極的な害意は、彼より上の人間と、無知な兵隊に多くが帰せられるものだ。それゆえに我々の存在と苦境は、彼の若い心を苦しめ続けている。若い彼の力の遥かに及ばないところで我々への抑圧と虐待は課せられ、我々を苦しめている。そして苦しみの末に、我々は傍目から見れば理不尽な死を負わされようとしている。
自分は苦しんだ。それ以上に悩んだ。何故なら自分は、盛りを過ぎた人生の残り大半をこの地に捧げることを決心した……否、決心したつもりだった。この新しい場所でどんな困難に直面しようと、自分はそれに正面から立ち向かい、あるいは殉じていくつもりであったからだ。
だが今はどうだろう? 想像を絶した経験の末、自分は以前の決心を忘れ、死の恐怖に身を震わせる一介の老人に堕そうとしている。自らの覚悟が、かくも脆く儚いものであったことに、酷い失望をおぼえるのだ――――」
文面の一行一行をまさぐる度に募る悲しみと怒り……一遍に圧し掛かるそれらを一度に受け止めるには長谷川は未だ若すぎ、一度にそのまま椎葉の残した日記を読み切ることなど、到底できそうに無かった。帳面に向き直っては行間から喚起される感情の奔流に耐え切れずに目を逸らし、再び顔を上げては熟読を続ける……豪放磊落な椎葉しか知らない長谷川にとって、日記の文面はある意味では衝撃的な内面の告白であり、その一方で、迫り来る死を冷静に捉えている彼に、純粋に驚愕を覚える長谷川がいたことも確かだった。
知らず、帳面のページを手繰る手が早まる。あたかもそれが、いま現在の長谷川の使命であるかのように―――――
「――――自分は死んでいく。偏見と恐怖に基づく彼らの憎しみを一身に受け、彼らの神の敵として死んでいく。だがそこに悲壮感はない。何故ならそれが止めることのできない歴史の流れであり、もし自分が此処スロリアに生きる道を人生に見出さず、結局此処で死ななくとも、他の誰かが現実の自分と同じ役割を果たすのであろうからだ。ならば自分ひとりが生きながらえようとあがいたところで、そこには何の意味も無いし自分という人間が生まれ出でた意味もまた、失われてしまうだろう。
だから自分は此処で死ぬ。歴史の転換点を司る者として死んでいく。自分という人間の死により、あるいはいま現在、この大陸の何処かで自分と同じく死を迎えようとしている誰かの死によりこの世界の歴史が動き、日本の歴史も新たな展望を迎えるというのなら、喜んで時代に殉じていこうと思う―――――」
ばかだなあ……煩悶と共にそう思い、長谷川は熟読を続けた。初めの頃に感じた感情の昂ぶりはすでに何処かへ消え去り、苦笑が若者の脳裏を占めていた。敵の強制収容所でこの文章を書いていたのがいつもの椎葉であったことに、長谷川は少なからぬ安心を覚えていた。
「――――自分という人間はこれより消え行くのみだが、それでも椎葉正一という名の人間は、例え犠牲者としての名であっても、この歴史の激動を生き抜いた人間の幾人かの脳裏に刻まれるであろう。それを思えば、まことによい人生であった。自分の人生は、その終わりから最後まで希望に満ち溢れていた。そう、例えその最後が傍目にはどんなにみっともなく、そして悲惨でも、希望に満ちている限り当人にはそれは何の問題にもならない。少なくとも自分に関してはそうだ。
……もう多くは語るまい。遠方より、自分を死に場所へ連行しに来た敵兵の軍靴の音を聞く。そろそろ筆を折らねばならぬ刻が近付いてきたようだ。
自分はこれより死ぬが、だが希望に満ち溢れている」
文章は、その最後の一行で終わっていた。
その最後の一行を、何故か静かな苦笑と共に読む長谷川がいた。
椎葉さんは気取り屋だった。そして気取り屋は、案に相違しその最後まで気取り屋として一生を終えた。それが気取り屋の友人たる長谷川には誇らしかった。
―――――そして長谷川は、一つの単語を思う。
「希望……」
古代ギリシャ神話の女神パンドラが、好奇心に駆られ開けた箱は、結果としてこの世にありとあらゆる災厄をその箱から蔓延させたという。
だがその中に最後まで残ったもの……それが希望。
スロリアの戦争もまた、その地全体に災厄の渦を広げ、多くの生命をその中に飲み込んでいった……その戦禍の過ぎ去った跡にも、未だ希望は残っているのだろうか?
希望はそれを語る人間ではなく、それを真に望む人間により作られる……
希望――――到来する平和への希望。
希望――――長い復興の果てに待つ繁栄への希望。
希望――――対立と戦を経た、和解への希望。
希望を抱けば……それだけ椎葉は自分、そして希望を共有する皆の心の中に生き続けることができるのではないか……?
思い当たった直後、おもむろに取り出したペンと用紙。
椎葉をその心に生き続けさせるべく、長谷川は彼の最初の仕事に取り掛かる。まずは椎葉の最後を看取ったこの場で唯一の人間に、彼の最期の心境を伝えるべく―――――




