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第二九章 「決着」

ノイテラーネ国内基準表示時刻12月22日 午前7時15分 パン‐ノイテラーネ空港


 人工の大地の上に縦横無尽に張り巡らされたアスファルトの矩形を眼下に見る頃には、太陽はその輝く触手を地平線の彼方から投げ掛けようとしていた。


 『――――ノイテラーネ管制塔へ(ノイテラーネタワー)こちらC22(ズィスイズC22)着陸を(リクエスト)要請(ランディング)


 『――――ノイテラーネ管制塔よりC22へ、着陸を許(クリアードフォア)可する(ランディング)


 日本本土、航空自衛隊入間基地を飛び立ったC-2戦術輸送機は、2時間近くに及ぶ飛行を経て、パン‐ノイテラーネ空港の一角、航空自衛隊スロリアPKF派遣航空群の使用する予備滑走路にその主脚を標すに至った。それは12月8日の開戦以前から、物資や人員の輸送任務で此処と本土との往復を続けている航空自衛隊の輸送機搭乗員からしてみれば開戦以来続く単調なる業務であり、彼らを迎えた光景もまた、あまりに見慣れたそれではあったが、その朝ばかりは、普段と全くに趣の異なる「乗客」の持つ意味と相まって、特別な感慨を惹起させていたかもしれない。


 『――――こちらC22(ズィスイズC22)滑走路中心線放(エスタブリッシュト)射信号上に到達(オンローカライザー)。これより自動着陸機構を作動させる(ALSランニング)


 『――――C22、進入降下(クリアードフォア)角異常なし(アプローチ)、管制塔周波数1100.3(チェンジトゥー)セペタに切換えよ(タワー1100・3)


 計器盤のMFDマルチファンクションディスプレイ上に表示された地形レーダー画像。その上に重なるように縦横に伸びるライン。MFDの液晶スクリーンの中で二本のラインの交差する赤い点が、飛行場に対面するC-2の位置であり針路であった。それは一方では地上の空港から発振された誘導電波(ILS)に機が捉えられ、機がまっすぐに、かつ順調に着陸コースに乗ったことを示していた。


 ここで自動着陸装置を作動させれば、あとは感知した誘導電波の導くまま、着陸に至る全てをフライト‐コンピューターが行ってくれる。パイロットの仕事は、MFDの飛行情報表示端末に数値として知らされるそれらの動作を、不測の事態に備え操縦桿やスロットルレバーに手を添えつつ読み上げ、淡々と操作をこなすのみだ。


 『――――自動着陸機構(ALS)起動(オン)


 『――――ギアダウン……エンジンレベル、アイドリング』


 下がる高度。


 それに連動し展開されるフラップ。


 あらかじめ設定しておいた高度300フィートを切り、電波高度計がイヤホンの中で甲高い電子音を奏で始める。


 ――――そこに、MFDの飛行情報表示端末に目を細める副操縦士の報告。


 『――――フラップ角30度(フラップス30)最低許容速度(ミニマムスピード)110』


 高度は刻々と下がり、空港の全容をはっきりと捉えられるまでになっている。ごく至近で戦争が続いているのにもかかわらず、空港はそれを知らないかのような活況を呈していた。むしろ戦争によってノイテラーネという金融市場はますますその存在感を高め、友好国及び周辺諸国からの絶え間ない資金流入は日本という後ろ盾を得て一層に拡大することとなったのだ。


 また、日本においても、戦争が始まる前に懸念された株価の暴落は当初の予想をはるかに下回る数値で済み、戦況がPKF有利で進んでいることが周知された現在はむしろ反転し増大の一途を辿っている。戦争による国民生活への悪影響が乏しいことが市場に迅速に、かつ好感を持って反映され、日本という国家に対する周辺諸国の抱く安心感が、戦争の推移によってむしろ増幅された形となっていた。


 ――――だが、それも何時まで続くかわからない。


 『――――フラップ角50度(フラップス50)最終点検(ファイナルチェック)


 『――――地上確認(グラウンドコンタクト)……!』


 眼前に迫る滑走路からは、滑走に必要な標識を明瞭に見出すことができた。それらを眼中に収めつつ、機長の足はフットバーに充てられている。横風に備え、何時でも適切な方向に機首を向けて着陸針路を修正できるように――――――


 接地――――アスファルトの上に浮かび上がる白いセンターラインの上に太い胴体を乗せ、C-2は滑走を続けた。それがしばらく続き、今度は見事なまでのブレーキ操作で、アイドリングの金属音を棚引かせながらPKF専用のハンガーへと機首を向ける。


 キャビンの窓からは、機の移動に従い前から後ろへと流れ行く空港の景色の中にも、エプロンの中で二列に向かい合うように駐機し、出撃に備え整備点検を受ける作戦機の機影を見出すことができた。F-15J、F-15EJ、F-2A、そして作戦機不足の煽りを受け応急的に戦術偵察及び前線航空統制任務に投入されたT-4中等練習機……PKFの投入した作戦機全種類がそこには終結を果たし、新たな飛行に備えている。そしてPKF航空自衛隊専用の駐機場に入ったC-2と入れ替わるように、駐機場からは前線への補給物資を空中投下するべく発進にかかる別のC-2が滑走を始め、誘導路へと翼を進めていく――――


 エンジンを停止したC-2の機内に、完全に訪れた静寂――――乗降扉が開き、やがて機上整備員の誘導するまま、機が運んできた人物を地面に降り立たせた。地上で待ち構えていた基地幹部が、C-2の機内から現れた黒いロングコートの人影を認めるや背を但し、敬礼で降り立った男たちを迎えた。12月の風は日本でもノイテラーネでも冷たく、厳しい。機内の充実した暖房に馴れきった体には、正直辛いかもしれない。


 「任務、ご苦労様です」


 「ご厚意、感謝します」


 基地要員との会話はすぐに終わり、先着していたロングコート姿の文官たちが、来客の前に進み出た。その中の一人が、来客の先頭に立つ男に、手を差し出した。


 「ノイテラーネにようこそ。蘭堂()長官」


 「嫌味のつもりか。大学時代から変わらんな」


 「…………」


 官房副長官 蘭堂 寿一郎の言葉に、外務省 東スロリア課長西原 聡は苦笑気味に頷いた。直後蘭堂は笑顔とともに手を伸ばし西原の手をぐっと掴む。それだけで「ご苦労」という蘭堂の西原に対する思いは通じてしまう。

 蘭堂と西原とでは、大学の剣道部で先輩後輩の間柄だった。何度も武道場で竹刀を交え、同じく何度も学生らしい馬鹿をやった結果として、お互いの性格は十分過ぎるほどに知り尽くしている……だからこそ、蘭堂の到着はこれより重要な作業に臨もうという西原には心強い。それは蘭堂にしても同じだった。


 隊員に案内されるままに基地司令部へ歩を進めながら、蘭堂は言った。


 「ちゃんと仕事をしているか? 西原」


 「先輩じゃあるまいし、自分は暇無しですよ。でも……」


 語を次ぎ、西原は言った。


 「先輩を寄越してくるなんて、官邸、やっぱり本気なんですね」


 「それでも全ては……向こうさん次第さ」


 蘭堂は話題を変えた。


 「捕虜にした武装勢力の中に、向こうの重要人物がいるとか?」


 「はい……すでに接見しています」


 「感触はどうだった?」


 「なかなかの好青年でしたよ。分別もあるみたいですし」


 「向こうには、伝えてあるのか?」


 「伝えてないと、交渉に乗ってくるような相手ではありませんよ」


 「そうか……そうだよな」


 そこまで言って、蘭堂は空を仰ぐ。迷宮のような闇は空からすでに消え去り、透き通るばかりの白が天球へ君臨を始めていた。その白を背景に二条の線を延ばす真白い飛行機雲、それは程なくして蘭堂の眼前で、戦闘空中警戒を終え着陸コースに入ったF-15Jイーグル要撃戦闘機の機影となる―――――


 「第三国」ノイテラーネを通じて匂わせた捕虜の存在は、敵方たる「武装勢力」の注意をこれまでに無く惹いたようだった。12月8日の開戦以来、PKFの攻勢を前にあれほどに敗退と後退を繰り返したのにも拘らず、これまで頑ななまでに交渉を拒んできた彼らローリダ人は、捕虜の件を持ち出されるや一変し、日本側の提示したノイテラーネにおける外交交渉への意思を明瞭なまでに示してきたのだ。異種族に対して信じられない程の冷酷さを発揮する一方で、彼らとてやはり同胞への愛着があるのだろうか? 「非武装の第三国」ノイテラーネにおける停戦交渉という日本側の打診に対し、彼らローリダ人は日本側にとって意外なまでに早い反応を見せ、そして今回の交渉という運びとなった。


 そして蘭堂は神宮寺首相直々の命を受け――――あるいは、彼自らの意思から――――交渉の日本側首席代表を務めるに至ったのだ。


 事前打ち合わせのために用意されたPKF航空自衛隊司令部官舎の一室で、西原は言った。


 「連中は、手強いですよ」


 日本広しと言えども、当のローリダ人と顔をつき合わせて論戦を繰り広げた数少ない人物の一人である西原がそう言う。だがこれまでの経緯からしてそのようなことぐらい、蘭堂にしても言われなくとも判っているつもりだった。何せ相手はこともあろうに総理大臣を含めた一行を、交渉再開を餌に自らの庭も同じノドコールまで誘い出し、騙し討ちを以て遇するような連中である。そしてそれ以外の様々な非人道的行為!……おそらく、彼らの思考様式、さらには文化からして根底から違うのだろう。言い換えれば日本人の常識が通じないことぐらい、おそらく小学生でも理解できるというものだ。


 そのような種族と交渉をする――――それが如何に厳しく、難解なものであるかぐらい、交渉慣れした蘭堂にも容易に想像できた。


 火を点けたばかりのマイルドセヴンを手に、嘯くように蘭堂は言った。


 「ちゃんと人間の顔をしているんだろうな? 向こうの人種は。俺には妖怪と話し合いをする趣味なんて無いぞ」


 「それは保障しますよ」


 すごい美人がいる。と西原は言った。


 「へえ、一行のお飾りかい?」


 「まさか……一番手強いのは、そのご婦人の方です」


 「そのご婦人も、ここに来るのか?」


 「来るでしょうね……おそらくは」


 西原は話題を転じた。


 「……で、蘭堂さん、どうします?」


 「どうしますって……何を?」


 「我々の方針ですよ」


 蘭堂は大仰にタバコを燻らせてみせた。


 「戦術は簡単だ。向こうが無法者なのなら、こっちも無法者の戦法で対抗する」


 「…………?」


 「ヤクザの交渉術ってやつだよ。西原」


 そう言って片目を瞑り、蘭堂は書類包を応接テーブルの上に投げ出した。それを手に取り、書類に記された要求事項に目を通した西原の顔から、一瞬にして生気が飛んだ。


 「向こうは絶対呑めないですね。これ」


 「こっちとしても、元から全部呑んでくれるとは思っていない。むしろ……」


 「むしろ……?」


 「……これをすんなりと呑んでもらったら、こっちが困る」


 「ということは蘭堂さん……要求は別にあると?」


 蘭堂は意味ありげに笑った。


 「孫子曰く、『勝ちを見ること衆人の知るところに過ぎざるは、善の善なるものにあらざるなり』……ってな」


 「そうか……」


 一転、真意を悟った西原の顔に宿るのは、苦笑。




ノイテラーネ国内基準表示時刻12月22日 午前10時17分 ノイテラーネ領空上


 スロリア亜大陸西端のサン‐グレスを経って、すでに6時間……セレス-117型旅客機は、順調なフライトを現在に至るまで続けていた。だがそれが機内に乗り合わせる一行にとって有意義なフライトであるかは、甚だ疑問ではあったかもしれない。


 確かに、敵の索源たるノイテラーネにおいて敵の代表と交渉をするという予定は戦前より存在した。だがそれは敵に対し圧倒的な勝利を得、進撃する大軍を背後に従えての服従の要求であるはずだった。その栄光ある場において敵手にして敗者たるニホン人は一切の発言と要求の権利を失い、ただ勝利者たる共和国の促すまま、敗北宣言文に署名のペンを走らせるだけなのだ。その事実は、後々1000年以上にわたりローリダ民族の輝かしい征服と教化の歴史に、栄光の一行として刻まれたことであろう。


 ――――だが、すべては逆になった。


 わずか二週間前、こちらの最後通牒に対する衝撃的な先制空襲。それに続く怒涛のごとき敵地上軍の進撃。無敵を呼号した機甲師団、そして共和国艦隊の壊滅……それらの事実を積み重ねた先の何処に、戦勝を声高に主張できるオプションが開けるというのか?……それを理解できないほどローリダ共和国の指導層は無能ではない。事態の主導権はもはや、これまで彼らが蛮族と蔑み、戦争へと追い込んだ連中の手にあり、勝ち誇った彼らはこちらに様々な、かつ高圧的な要求を提示するであろう……それを想像し、暗然とする者もまた多かった。これほどの立場の逆転を、はたしてこの世界の誰が想像し得たであろう?


 スロリアにおける戦況の一切が、本国の民衆に対するに未だ厳重な報道管制下に置かれてはいるが、ローリダを取り巻く「世界」はすでに、本来なら「軍事大国」ローリダ優位に進んでいるはずの戦況を只ならぬものと看破し、そして彼らの媒体により報じ始めている。それが廻り廻って、ゆくゆくは自国国民に事実が周知されるのももはや時間の問題だった。


 ――――その上に、彼らには「捕虜」という最強のカードがある。


 総数四万人に及ぶ自国人捕虜の存在をローリダ側が知ったのは、第三国を通じたニホンからの打診であった。それこそが、ローリダ側にとって第二の衝撃であり、ニホン側からの今次の交渉打診に応じる誘因となった。だがそれはローリダ側にとって意外な展開でもあった。かつて彼らがスロリア進攻の過程で捕えたニホン人にそれを為したように、捕虜は全て容赦なく殺されているものとローリダ側は信じていたのである。だが捕虜が生きていたところで、ローリダ側はそれをニホン人の厚意というよりもむしろ人質外交の一種としてそれを捉えた。


 高貴にして神に選ばれしローリダ民族が、こともあろうに蛮族の取引材料にされるとは!……だが衝撃はそれだけではなかった。ニホン側より提示された捕虜の名簿に信じられない名を見出し、絶句を覚えたのは特使としてノイテラーネに赴くこととなったルーガ‐ラ‐ナードラだけではなかった。


 「生きているというのか? ヴァフレムス家の当主が……!」


 もはや法律上の故人となったロルメス‐デロム‐ヴァフレムスの生存を知ったとき、少なからぬ元老院議員が安堵の一方で舌打ちを覚えたのに違いない。反主流派の一翼を担う若手議員の生還は、一面では今次の戦争責任に対する恐るべき弾劾者の復活をも示していたからである。


 ……だが、ノイテラーネへ向かう機上の人となったナードラにとって、そのような政治的思惑を抜きにして、友人の良人が生きて妻の元へ帰るという希望が得られただけでも善しとするべきであった。元老院の主戦派が如何に彼の追及を恐れ、恐慌に駆られるまま敵中に陥ちたロルメスを告発したところで、主戦派の「戦争責任」――――言い換えれば、敗戦責任――――は当然問われるべきであろう。むしろ彼女は共和国と妻ディーナのために、彼の身柄がニホン人の交渉カードとして扱われることを恐れていた。


 「…………」


 煩わしげに、ナードラは窓から臨む地平線に目を細めた。地母神の腰のように丸みを帯びたその大地は眼下の静謐の中に数万に及ぶ同胞の血を吸い、今では敗北を知らぬ共和国をその淵にまで追い込むに至っている。


 戦前に感じた漠然とした不安は、正しかった……だがそれを今になって反芻するなど詮無きことであろう。


 それでも……ナードラは込み上げる憤懣に目を瞑って耐えた。


 実のところ、彼女にはもはや、敵手たるニホン人が全く判らなくなった。彼ら、不倶戴天の敵たるニホン人はこちらの予想を超え圧倒的な軍事力を持っていた。だが何故に、彼らはその当初からそれを前面に押し出さず、ただ交渉と妥協のみによって全てを解決しようとしたのか? 無益な摩擦を避けるための軍事力の誇示(行使ではない)が外交の一手段とすれば、彼らは最初からその選択肢を捨てていたのだ。


 それはナードラにとっておよそ理解の外であった。


 彼らの「無策」の結果として、こちらは何も知らずにニホンを追い詰め、そのさらなる結果として起こったニホンの「暴発」は、烈火の奔流となってスロリア全土を荒れ狂い、ローリダ共和国に今後十数年にわたり回復することあたわざる甚大な損害を与えるに至ったのだ。そういう意味では、今次の戦役で失われた三万に及ぶ将兵の生命は、ニホン人が「適切に」軍事力を行使していれば、本当ならば失われずに済む生命であったはずなのではないのか?


 何という拙い外交か!―――――握り締めた拳、紅を施した爪が食い込み、白皙の手の甲が朱に染まる。

我々は斯くの如くがさつな(・・・・)連中と正面から戦い、予期せぬ敗北を強いられたのだ。

 逆恨み……と言ってしまえばそれまでだが、彼女の視点からこれまでの状況を見る限りでは、ニホン人の対応はあまりにお粗末で、かつ無分別に過ぎるように彼女には思われたのだった。


 「…………」


 そのとき、あることに気付きナードラは窓へ向け顔を曇らせた。そろそろ目的地たるノドコールに近いはずなのに、一機の機影すら目に入っていない。かつて城下の盟を結ばせるべくニホン側の代表団をノドコールまで呼びつけた際、ローリダ側は戦闘機を発進させ彼らの動向を監視させるとともにこちらの軍事力を誇示したものだが、彼らにはその意図も無いらしい。


 『――――間も無くノイテラーネに到達します……!』


 「…………」


 機長の報告に、ナードラは手を白い礼服の襟に延ばした。礼服を調えるうち、敵に対する怒りが消え、表情が女のそれから政治家のそれへと変わっていくのを彼女は自覚する。だが今次の交渉で、この平静さを何時まで保っていられるか、彼女は図る術を持たなかった。


 そういう点でも、我らはニホン人を見誤っていた……!




ノイテラーネ国内基準表示時刻12月22日 午前一一時二〇分 パン‐ノイテラーネ空港


 機体からの出入り口に架けられたタラップに足を伸ばした瞬間、ナードラは自身がこの時を想像し抱いていた恐れが、一気に払拭されたように感じた。


 タラップの階下に居並ぶ儀状兵。興奮しフラッシュを焚く報道陣。歓声を張り上げる群集……彼らにとって勝利式典も同じ今次の交渉を、対外的にも勝利の証として派手に演出するべきそれらが影すら見えないことをその緑の瞳に認め、ナードラは内心で安堵を覚えたのだった。それは何も彼女だけの感慨ではなく、彼女に続きノイテラーネに歩を標さんとする外交部の高等文官たちにも共通した感慨だった。


 そして彼女の緑の瞳は、階下に佇みこちらを見上げる、見覚えのある暗い、画一的な服装をした男たちを捉えていた。意を決してナードラはタラップを降り、そしてノイテラーネの土を踏んだ。


 「遠路はるばる大儀でした。日本側代表の蘭堂です」


 「…………」


 口元に静かな、だが卑屈さなど微塵も無い笑みを湛えつつ、自身に手を差し出してきた男を、ナードラは隔意を含んだ目つきもそのままに見詰めた。


 年の頃は40代。背は高く、黒いロングコートと彼らの独特の礼服の下に文官らしくない屈強な体躯を隠していることぐらい容易に想像が付いた。目元とその中に収まる眼光は柔らかだったが、それは時によっては瞬時の内に烈火のごとき眼差しに変わりうる種類であることを、ナードラはすぐに悟った。


 握手を求めた一方で、こちらに手を出さないナードラに、蘭堂は言った。


 「握手は……好みではありませんか?」


 頭を振り、だが握手に応じる代わりにナードラは言った。


 「そなたの日本側における役職は……?」


 「官房副長官です。首相の補佐役の、そのまた補佐役といったところですかな」


 「釣り合わぬな……私の交渉相手としては」


 「……だが、総理の全権委任状を持っている。極端な話、私の言葉は神宮寺総理の言葉……ということです」


 「あなたのニホン政府内における立場はともかく、もう少し高位の人間と話ができると思ったのだがな」


 「じゃあ……あなたご自身があなたのお国でせいぜい最善を尽くすことだ。猟官運動ならいろいろとやり様があると思いますが」


 「無礼な……!」


 いきり立つ使節団を、ナードラは無言のまま制した。ニホン人の態度は傍目から見ても冗談と非礼との境界線スレスレの線を行ってはいたが、むしろナードラはいきり立つ使節団とは異なる感慨に囚われていた。それは、ニホンにも、このような個性のある男がいたのか……という純粋な驚愕。


 「先制攻撃」にも似た自らの言葉に、微塵も顔色を変えず自己を抑制している使節の長を、蘭堂はまっすぐに見据えていた。


 彼女は確かに、西原が手放しで褒めるのも頷けるほど美しい。年の頃は20代後半? だが外面から発散する波動は、国政を掌る者特有の冷厳さを年齢不相応なまでに含んでいた。事実若くして外交交渉の使節団の舵取りを任されているのだから、その点の才幹のほうもまた西原が警戒する通り、相応に優秀な人物なのだろう。


 ローリダ人の反応を探るように、蘭堂は言った。


 「まだ……あなたの名を伺っていないが」


 「我が名はルーガ‐ラ‐ナードラ。元老院議員にして今回の外交交渉の代表を勤める者である」


 「同じ肩書きの人間が一人、我々の捕虜の中にいる」


 「そうか……」


 ロルメスに関しては、ただそれだけをナードラは言った。


 西原が、駐機場の端を指し示した。


 「車を待たせてあります。向こうへ……」


 「交渉は、あなた方の国の施設で行うのか?」


 「いいえ、この国の由緒ある場所で行います。その方が公平でよいかと……」


 「公平……」


 ナードラの口元が微かに()んだ。西原の言葉に純粋な敬意を感じたのではなく、それは不意にこみ上げてきた自嘲のなせる業であった。我々も落ちぶれたものだ。高等種族たるローリダ人が蛮族にそのような言葉を使われ、配慮の対象と見做されるとは……



 サン‐グレスに比してひときわ広大なノイテラーネの飛行場。その一角に連なる民間機とは明らかに趣の異なる鋭角的な機影の並びを認め、ナードラはそれに目を凝らすようにした。彼女は知らなかったが、そこはちょうどPKF航空自衛隊スロリア派遣部隊専用の駐機場の位置だった。


 「あれは……戦闘機?」


 「そう、わが国の戦闘機だ」


 と、蘭堂は言った。


 「交渉次第によっては、あれらは全部物騒な荷物を積み、ここからずっと西に向かうことになっている」


 「脅しか?」


 「そう取るか取らないかは、あなたの自由だ」


 直後、旅客機のそれとは全くに違う爆音が蒼空を裂き、それは空港上空で編隊を組むべく航過する二機のF-15Jの機影となった。おそらくは定時の戦闘空中警戒に赴くのであろう。ローリダの戦闘機を越える二機の駿足ぶりは、ナードラ以上に随伴の使節団を驚愕させたようだった。翼端と言わず尾翼と言わず機体全体から水蒸気を発散させ、急上昇の姿勢を保ったまま加速する機影。その非現実的とも思える機動にローリダ側は地上から圧倒され、驚愕の呻きを上げる。


 「まるで……鉄の鷲ではないか」


 と、誰かが嘆息する。初めて目にしたイーグルの重厚な存在感に、内心で圧倒されたのだろう。

―――――だが、ナードラは違った。


 「あなた方はいい兵器をお持ちのようだが、それを生かす外交力に恵まれぬと見えるな」


 「…………?」


 蘭堂とナードラ、両者の視線が交差する。


 「……先に失礼する。ランドウ特使」


 無言のままナードラを見遣る蘭堂には目もくれず、ナードラは踵を返し車の待つ方向へと歩き始めた。ただ西原のみが、押し黙ったまま立ち尽くす蘭堂に怪訝な視線を注いでいた。




日本国内基準表示時刻12月22日 午前11時35分 総理官邸


 有力な同盟者が、同盟の目的を果たしかけるまさにその時に、強力な敵対者となることは歴史上枚挙に暇が無い。その歴史上の法則を、内閣総理大臣神宮寺 一もまた、今まさに思い知らされようとしていた。

 スロリアにおける戦争の目的の大部分を達成しかけようとしたまさにそのときに、神宮司内閣は崩壊の危機に瀕することとなった。連立与党の一翼たる共和党により占められる防衛、文科、外務の三ポストの内文科、外務の閣僚二人が、神宮寺のスロリア有事に対する方針に異を唱え先日に辞表を提出したのだ。そしてそれが、辞意を表明した二人の意思による行動ではないことぐらい、神宮寺には容易に想像が付いた。


 「神宮寺さん、中途半端は駄目だよ」


 と、正午が近づいた時間帯の総理執務室、今回の事態を演出した男は、応接テーブルを挟み不機嫌そうに自身を睨み付ける国政の最高権力者を前に、含みのある笑みに大きな口を歪めた。共和党首班たる士道武明が、政権運営に関し、自身の目的を果たすべく露骨な介入に手を染めるであろうことは、神宮寺にとって一応は戦前に予測できたことではあった。


 ――――しかし、よりにもよって今この時とは……!


 「湾岸戦争を見てみろ」と、士道は言う。


 「米軍は91年のあの時点で勢いを駆ってイラクまで攻め込み、フセイン政権を打倒していれば、中東を早期に安定化させることができたんだ。だがアメリカ人はそうはしなかった。その結果としてもたらされたものは何か? 中東地域における新たな不安定要因の出現と、十年以上にわたる泥沼のイラク戦争だ。我が国にアメリカが為したような長期戦を戦える経済的基盤は無い。だからこそ、今度の戦争は迅速かつ、何の後顧の憂いも無く終わらせる必要がある」


 「…………」


 神宮寺の沈黙を同意と取ったのか、士道はさらに続けた。


 「今がその好機だぞ。言い換えれば、好機は今しかない。陸自を迅速にノドコールにまで進攻させ、武装勢力より解放するべきだ。さもないと武装勢力はこの先何度でも戦力を回復し東進を図るだろう。それがスロリア、ひいては我が国の安全保障にとって好ましい事かというと、今更他言を要するわけじゃああるまい?」」


 「地上戦は我々が勝利している。それも圧倒的な勝利だ。防衛省によると武装勢力は再起不能の大打撃を受け、連中の再侵略は今後十年は有り得ないそうだ。今月中のスロリアの主権回復だけでも予想以上の成果だというのに、それでもノドコールを取れというのかね? あんたは」


 「ノドコールにも、武装勢力……いやローリダ人の圧制に苦しんでいる人々はたくさんいる。仮にも憲法で全世界に対し諸国民の平和のうちに生存する権利を謳っている我々が、彼らの苦境に知らん振りを決め込むわけにはいくまい」


 「何にも増して国益第一という、普段のあんたらしからぬ言い草だな。士道さん」


 「これも国益だからさ」


 「何……?」


 「この異世界は混沌に満ちている。ここに生きる人々は、この寄る辺ない世界で自分たちを庇護し、平和な生活へ導いてくれる存在を求めている……それも圧倒的に強大で、かつ絶対的に正義の存在だ」


 「だから何が言いたい?……士道」


 「この異世界では、我が国日本こそが、彼らの求める存在になり得るということだよ神宮寺……!」


 「…………!」


 あまりに唐突な言い草に絶句する神宮寺を前に、士道はしてやったりとばかりに笑顔をさらに歪めた。


 「スロリアは勿論、ノドコールをも解放し、今次戦役の圧倒的な勝利と正義を全世界に喧伝すれば、この異世界の全国、全種族が我が国の下に庇護と同盟を求め馳せ参じるだろう。我が国はスロリアに平和と秩序を回復することは勿論、それらの国家、種族を結集し、異世界において文字通りに超大国となることも夢ではない。神宮寺さん、一切の戦争を無くし、この世界を安定させるためには、『日本の下での平和(パクス‐ジャポニカ)』こそ構築する必要があると思わないか?」


 「本気で言っているのか?……士道」


 「私は何時でも正気ですよ。神宮寺さん」


 「馬鹿馬鹿しい!……あんたはどうかしている。日本一国でそんなことができるわけないだろう。一体どうやって諸国の意思を結集しようというのだね? 只でさえ、こちらはスロリアの主権を回復するだけで精一杯だというのに……!」


 「一年や二年の経済的苦境ぐらい、どうとでもなるさ。それさえ乗り切れば、わが国の市場はこれら同盟国にまで一気に拡大するだろう。何度も言うが、これは千載一遇のチャンスだぞ」


 「拒否する……そんな無責任な発想で戦争を続けるわけにはいかん。だいいち国民が納得するわけがない」


 「……じゃあ、政局だね」


 「…………」


 憤怒に満ちた表情で、神宮寺は平然と連立解消を言い切った士道を睨み付けた。食えない男だとは前から知っているつもりだったが、ここまで露骨とは……!


 「この国を、滅ぼす気か……?」


 「違う!……この国を愛しているのだ」


 士道は言った。一転し、彼の目に煌く真摯なる精神の存在を感じ取り、内心で気圧される神宮寺がそこにはいた。


 ……だが気圧されても、譲れないものがある。




ノイテラーネ国内基準表示時刻12月22日 午後0時45分 スルアン‐ディリ迎賓館(フラール)


 移動の最中、全ては平穏のうちに過ぎた。


 ノイテラーネ中心市たるティナクールの高層ビルディング群。さらにはその間を縦横無尽に走る高速道路網に驚愕を覚えた後に、全ては平穏となってローリダ側使節団の前に広がった。緑地帯を抜ける車列、それは周囲をノイテラーネ国家警察軍の普通警備車両に取り巻かれ、順調に行程を刻み続けたのだった。


 「ニホンにも、あのような街があるのか?」


 「我がノイテラーネの都市計画は、ニホンの助言を得て完成されたものです。ニホンは規模だけなら中央市に匹敵する都市を七つ持っております」


 「…………!」


 随伴するノイテラーネ政府外交当局者の言葉に、ローリダの文官たちは互いに顔を見合わせた。未だ見ぬニホンという敵手の真の姿を垣間見たことに、彼らは今更ながらに衝撃を覚えたかのようであった。

 だがそれ以上にローリダ側を訝らしめたのは、行程の途上、展開する部隊や戦車の車列など、彼らの軍事力を誇示させる何物も見出すことができなかったことにあった。彼らに恫喝の意図が無いことは明らかだったが、だからと言ってこの異邦人がその腹の内に、我らに対するどす黒い何かを含んでいないとは誰が断言できるだろう?


 人工的に造営された緑地帯の、緑に覆われた丘に立つ壮麗な宮殿―――――そこが、事前に設定された交渉の場であった。

 車ごと爆破されるわけでもなければ、周囲を大軍に囲まれているわけでもない。降り立った正門では、銃を捧げ持った儀丈兵ならぬ、礼装を纏った迎賓館職員の恭しく来客を迎える礼が、迎賓館の入り口へ続く大理石造りの長大な通路に列を作っていた。ノイテラーネでも最高クラスの美観と格式を持つスルアン‐ディリ迎賓館(フラール)。その一室たる「青天井の間」が、交渉の場として設定されていた。元来会議や条約の調印用に作られた部屋で、今より9年前にもやはり、ノイテラーネ――日本間の国交正常化交渉がここで行われている。


 ――――そして現在、この青天井の間では、日本―――ローリダ間の停戦交渉が行われることとなった。


 「―――――何をソワソワとしている?」


 交渉当初、日本側と会議用のテーブルを挟んだ向こう側で、この場で唯一の女性を除くローリダ側交渉団の見せた緊張の色は、会議の帰趨に対する不安というより、それ以上に彼らの本能に訴えかける不安により惹起されたものであったのかも知れない。それを察し、内心で相手に対する馬鹿馬鹿しさと憤りを覚えながらも、西原は諭すように言った。


 「……安心されよ。我々には騙まし討ちという野蛮な習慣はない。今日ここに集ったのは、純粋なる交渉のためである」


 生命の危機に対する懸念を払拭された直後、安堵を覚えた彼らの反応は早かった。ナードラの傍らに座る一人――――ゴジェス‐リ‐サナキスがその巨躯に相応しい怒声を張り上げ、論戦の口火を切った。


 「お前たちニホン人の野蛮な行為に断固として抗議する!……この場を借り、お前たちの猛省と服属とを促したい」


 「盗賊風情が、何を気取ってるんだ。虚勢のつもりか?」


 「…………!」


 驚愕と絶句―――――それらを孕んだ全員の視線が、人種の別無く一人の日本人に集中する。言葉の主は、日本側外交交渉団の団長たる蘭堂だった。


 「なっ…………と、盗賊だと? 我等を盗賊だと言ったのか!?」


 「それ以外にあんたらのことを表現する言葉は、我が国にはない。こうやって交渉の場を設けてもらっただけでも、あんたらには感謝の一言ぐらいあってしかるべきだと思うが?」


 「蛮族めっ! 言わせておけば……!」


 殺意と紙一重の憤怒を全身より滾らせ、サナキスは立ち上がった。彼のわなわなと震える拳を臨席する白い手が掴み、白い手の主は顔色一つ変えることなく彼を席へと引き戻す。


 「まず……あなた方の要求を聞こうか?」


 白い手の主――――ナードラの望むものは、すぐに与えられた―――――



要求事項

・12月31日23時59分を期限に、ローリダはスロリア亜大陸に駐屯する全ての軍部隊の武装を解除し、スロリアより撤兵せしめる。


・ローリダはスロリアにおける日本及び各国による平和維持活動の一切を妨害しない。


・ローリダはスロリア地域より不法に連行した現地住民の身柄を全て引き渡す。


・ローリダ側は一連の挑発的行動を、指導者の声明を以て日本に謝罪する。


・ローリダはノドコールの支配権を放棄し、以後を現地住民の自治に委ねる。


・ローリダはノドコール救済及び自治に必要なニホン側人員及び物資の、安全なノドコール入国を無条件で認める。


・ローリダは侵攻により被災したスロリア住民に、自国国内総生産の約半分相当の換算額を補償金として支払う。


・ローリダは今後50年間、いかなる形であれスロリア地域に軍事力を行使してはならない。



 …………!


 蘭堂、そして西原により日本側の要求が提示された瞬間、向かい合うローリダ側に無形の雷光が煌いたかのように思われた。ローリダ側交渉団のある者は文面の記された資料を手に声を潜めて同僚と語り合い、またある者は肩と手を震わせ、ただひたすらに文面に見入っている。もはやそれだけで、日本側の要求がローリダ側の予想を越え、かつ受諾不可能なそれであることぐらい、事情に疎い者でも容易に察せられるというものであった。


 「もし、これらの要求を呑まなかった場合は……?」


 同じく、テーブルの上で拳を震わせ続けるサナキスの、同じく震える声での問いかけに、蘭堂は静謐そのものの口調で答えた。


 「相応の対処を取らせていただく……とだけ言っておく」


 サナキスの沈黙――――それを発言の容認と取り、蘭堂は続ける。


 「これは我々日本人なりの慈悲というものだ。誰かとは違い、我々には無抵抗の相手を無警告でいたぶる文化はないのでね」


 「慈悲……!?」


 その瞬間、ローリダ側の筆頭の緑の瞳に、怒気を示す強烈な光が宿ったように蘭堂には思われた。


 「私は親友を三人、あなた方との戦いで失った。あなた方の苛烈な攻勢で、三人の親友は神に祈る暇すら与えられず、あなた方ニホン人の無慈悲な攻撃の前に散ったのだ!……あなた方の戦いの何処に慈悲がある? あなた方は我等に慈悲を与えたつもりではあろうが、我等が抱いたのは屈辱と憎悪でしかない」


 「これだけは主張しておきたい。今次の戦争責任は我々には無い、かかる事態の全ての責は、あなた方の指導部の不手際に帰せられるべきだ。ちなみに我が国はこれ以上のあなた方との対立を望むものではない。この交渉後も、将来を見据えた建設的な対話の機会を設ける用意はある」


 執り成すように西原が言った。その西原に、ナードラは無表情のまま目を細める。


 「責任とか将来とか……蛮族風情が一端の言葉を使うのか?」


 「その蛮族にこうして叩きのめされたあんたたちは、それ以下の存在じゃないのか」


 「……口が過ぎるぞ。下種!」


 蘭堂の言葉に、サナキスがテーブルを叩いた。対する蘭堂は腕を組み、自分より頭一つ大きいローリダ人外交官を憮然とした表情もそのままに睨み付ける。


 ナードラが言った。


 「将来の対話?……ではあなた方の求めるべきものは違うのではないか? 領土、賠償金……そして利権。およそ文明国にとって、戦勝の対価はそれ以外に無い」


 蘭堂が言った。


 「心外だな、俺たちはそんな詰まらないもののために戦争をしたわけじゃない」


 「詰まらないとは?……国力を増進し、国威を称揚させようとか、こうした向上心に欠ける言い草は、現在わが国に対し優勢にあるあなた方の主張とは思えぬ」


 ナードラの言葉に、西原が半身を乗り出した。


 「我々の考えは違う。領土や賠償金を他国から奪わずとも、国家は十分に国民を養い、栄えさせることができるというのが、我々の考え方だ」


 「そのような空論で、国を富ませられるものか……!」


 ナードラの渇とした声……だが批判は、相手の主張の正論なることに対する、もどかしさすら多分に含んでいた。それを見透かしたように、西原はさらに切り出した。


 「……現に、わが国は過去半世紀以上に亘りそうやって発展を遂げてきた」


 「何……?」


 「押し付けようというわけではないが、我々の考えをよく聞いて欲しい……対立と覇道は何も産まない。むしろ種族間の憎しみを煽り、対立を一層に深刻化させるだけだ……だからこそ、あなた方にはスロリアから、ひいてはノドコールから立ち去って欲しい。我々が望むのは、単にそれだけだ。それ以上を我々は要求しない」


 「もし、拒否すれば……?」


 「力ずくでも、立ち去っていただく……!」


 「それは……あなた方の信仰の為せる業か?」


 「信仰ではない。理想だ」


 「理想……?」


 「スロリアに、平和をもたらすという理想だ」


 「笑止……お前たちの神は、お前たちと異なる神を信じる者との共存を許すとでも言うのか?」


 蘭堂は嘯くように言った。


 「日本には、神は八百万もいる。その上に神様が一人や二人増えたところで、何の不都合も無いさ」


 「…………!」


 「非寛容は、わが国の望むところではない。もしあなた方もまた助けを必要としているのなら、我々は何を置いてもあなた方に支援の手を差し伸べるだろう」


 「何故……そのような断言ができる?」


 「我々は……日本人だからだ。日本人は義と理を何よりも重んじる。あなた方もまた、そうではないのか?」


 ナードラの表情が一変した。白皙の頬からはさらに表情が影を潜め、逆立った柳眉のすぐ下に、日本側を睨む緑の瞳が溶鉱炉のごとくにさらに燃えさかる。彼女の表情が広大で重厚なテーブルを挟んで向かい合う日本人の言葉に、心からの共感を覚えた故ではないことは明らかだった。


 「お前たちは、利権に拠らず単なる義侠心からあのような軍隊を動かし、我々に甚大なる損害を与えたというのか……!? 私の掛替えの無い友は、お前たち蛮族の詰らぬ義侠心に殺されたというのか……!?」


 「あんたの友人の死は哀しむべきことだろうが、それは此処で論じられるべきことではないと思うがな。あんたも一国の行く末を背負う身ならば、言葉を択ぶことだ」


 蘭堂が突き放すように言った。


 「聞くが、あんたらにこれ以上の継戦能力はあるのか? 現にノドコールでは、現地人のあんたらに対する反乱が頻発し、事実上無政府状態にあるそうじゃないか? そこに我々が部隊を進めれば……あんたらの唱える正義は根底から崩壊するぞ」


 「何故それを知っている……!?」


 オルス‐ディガ‐ロス高等文官が声を荒げた。それに対し無言で天井を指差して応じ、蘭堂はナードラを睨み付けた。


 「すでに帰趨は決している。我々は解放軍で、あんたらは侵略者だ。世界中がそう見るだろう」


 「ニホン側には、さぞ優秀な諜報網があると見える……」


 ナードラは言った。その表情からにじみ出ていた嵐の如き怒気は、その時にはやはり嵐のごとくに消え去っていた。


 「……だがあなた方は重要なことを一つ忘れている……否、忘れたふりをしているように思えてならぬ」


 「…………?」


 「何故……今なのだ? 何故、ノドコール占領を果たした時点で交渉を要求しない? その方がより多くを要求できるはずであるのに、あなた方は時を急いでいるように思えてならぬ」


 「…………」


 さりげなく、蘭堂と西原は互いに目配せした。そしておそらくは、その心中で同じ表情をした。


 「特使のご明察、恐れ入る……」


 西原は嘆息し、改まった口調で語り始める――――――


 「――――――身内の恥を晒すようだが、わが国では現在、現状維持派たる現政権とノドコール解放を唱える一派が対立している。もしこの交渉が決裂し、わが国本国でノドコール解放を唱える一派が主導権を握った場合、あなた方にとって深刻な結果になるであろうことは、あなた方も理解できることと思う。我々としては、そうなる前にあなた方の意図を汲み、速やかに今後の和約に反映させたい」


 「譲歩の余地があるというのか……?」


 ナードラの問いかけに、西原は頷いた。


 「重ねて聞くが、それはあなた方の政権の意思か?」


 「……そうだ」


 「我らがそれを容れるとして、あなた方の要求は……?」


 「ノドコールへの日本の各種援助団体の入国及び活動の許可及び、五年後の住民投票によるノドコール独立の可否決定」


 「何……!?」


 「……なお、住民投票に関する決定の発表は、両国首脳の共同声明という形をとる」


 ローリダ側がどよめいた。日本側の要求が尚も望外なものであり、ローリダ側の意表を突いたものであることは、この瞬間、誰の目にも明らかとなった。それでもなお、平然と椅子に背を凭れ掛けるナードラに、西原は抑制の効いた口調で続けた。


 「これが……我々の為し得る最大限の配慮であり、譲歩だ。ミス‐ナードラ」


 「拒否すれば……?」


 「ノドコールの独立は、あなた方にとって名誉ある撤退ではなく、文字通り破滅への近道になるだろう」


 「…………」


 ローリダ側に走る戦慄――――――


 そして西原の言葉は、冷厳なる確信を以て、ナードラの心臓すら掴み潰そうとした―――――


 そして――――――


 日本側の意図が晒されるのと同時にローリダ側に驚愕が広がり、それはただ一人の女性を除き、一層に彼らを困惑させる。


 「……それでも、我らに慈悲をかけているつもりか?」


 全てが語られた後、完全に言葉を失ったローリダ側の一同の中で、動揺の片鱗すら見せず疑念を呈したナードラに、西原は目を細めた。


 「慈悲ではない、双方が傷つかない形での幕引きを、こちらは提案しているに過ぎない」


 「あんたたちの神が正しく、ノドコールの住民があんたたちの統治に満足していると自信を以て断言できるのなら、我々の要求を受け入れられるはずだ」と、蘭堂。


 「それは……」


 ロス高等文官が口籠る。そこに西原の言葉が重なる。


 「ひとつ確認させて頂くが、あなた方は直接選挙に基づく議会制民主主義政体と見ていいのか?」


 「それは間違いない。当然ではないか……!」と、ロス文官。


 「では、何故にあなた方の支配地に民主制を敷かない?」


 「それは……現地住民が民主制を取るにはあまりに未熟で、我らが教え導く必要があるからだ」


 「現地のことは現地人に全てを決定する権利がある……そうは思わないのか?」


 「少なくとも、解放地に居住する種族は我々ローリダ人の文明的な統治に満足している。お前たちニホン人の口を挟むことではない……!」


 「満足している?……では、我々の要求を呑んでも差し支えないということだな?」


 蘭堂がドスの効いた口調で言葉を挟んだ。自らの曝け出した論理的矛盾に顔を蒼白にさせるロスに、それは無形の槍衾となって迫ってくる。


 蘭堂はナードラに向き直った。


 「どうなのだ? ナードラ特使。こちらは今すぐにノドコールを手放せと言っているのではないし、こちらの案ならひょっとすればあなた方は解放地とやらを維持できる可能性もあるわけだ……それは理解できるだろう」


 「成る程……あなた方の言う譲歩とはそういうことか?」


 椅子に背をもたれ掛け、無表情を保ったままのナードラの問いかけに、蘭堂は無言のまま頷いた。


 「…………」


 ナードラに投げかけられる視線は、もはやテーブルを挟んだ日本側からのものだけではなかった。本来なら彼女を補佐すべきサナキスやロスですら、万策尽きたという風に引きつった表情とともに歪んだ視線を彼女の白皙の頬に向けている。それらの眼差し程度で、超然とした表情を崩すようなナードラではなかった。


 だが――――――


 ナードラは、内心で混乱していた。


 ニホン人、何を考えている?


 こちらに配慮を示す一方で、国内の強硬派への配慮から、彼らがそのような案を示したのは判る。

だがそれ以上に、ナードラの外交に関する天性が、無形の警告を未だ彼女の脳裏にもたらし続けていた。


 ニホン人がその交渉の当初から、重要なことを隠していたのはすぐにわかった。


 そして彼女はそれを看破し、ニホン人を「譲歩」させた。


 それでも彼らには未だ軍事力を行使する選択肢が残っている。


 彼らの軍事力の強大なることは、すでに明白。


 翻って我が方に、ノドコールを防衛する戦力は枯渇している。


 ニホン人とてそれを知っている。


 こちらが彼らの「譲歩」を拒否すれば、彼らは何の躊躇いも無くノドコールにあの強大な大軍を投じるであろう。


 従って、彼らの「譲歩」は、これ以上望めないだろう。


 だが交渉がこのまま終われば、ニホン軍がノドコールに侵入することはもはやない。


 それはローリダ側にとっては最大の収穫であるはず……


 だが……


 それ以上に、彼らはさらに重要な――――――何かを隠しているような……


 ナードラの混乱は続いた。


 濃い睫と、醒めない疑念とともに瞑られる瞳。


 ……それとともにナードラは、彼女が外交を掌って初めての、自分ですら想像し得ない言葉を吐き出した。


 「……内々で協議したい。少し時間が欲しい」


 「…………」


 その瞬間、蘭堂と西原は勝利を確信した。その当初に此方が意図しない、だが相手が到底呑めない要求を提示し、困惑した相手の反応に応じそれを此方の望ましい形にまで「譲歩」する。それは通常の外交儀礼では到底考えられない荒っぽい、投機的な手法……そして、眼前のローリダ人は此方の術中に嵌り、此方は望むものを手にしようとしている。


 彼らの望むもの――――――それはスロリアの自立回復のみならず、ノドコール独立の可能性。


 これまでのところ、此方は確かに戦争に勝っている。


 それでも軍事的解決には、政治的にも、そして物理的にももはや限界が見えている。


 従って、後は外交努力なり、その他の努力でノドコールを自力で「解放」させるしかない。


 交渉が此方のペースで進めば、その目算は十分に立つ。


 だが――――――


 彼らはおろか、ナードラたちですら知らなかった。


 彼らの外交を以てしても到底振り払うことの敵わない破滅が、彼らの予期せぬ全く別の方向から生じ、すでに彼らのごく近くに邪悪な影を落とそうとしていることに――――――





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