第二八章 「第二次日本海海戦 前編」
日本内基準表示時刻12月19日 午後4時35分 日本海上空
青森県は海上自衛隊八戸基地を午前11時40分に発進したP-3C哨戒機は、午後の四時半を回る頃にはすでに北海道の北端たる稚内から北西に400kmの距離にまで進出していた。
視界の広い操縦席―――――
そこでも主操縦席と副操縦席との真ん中に位置し、特に見晴らしのいい機上整備員(FE)席からは、洋上を荒れ狂う冬季特有の低気圧に翻弄される海原が、その強烈な鉛色を奮い立たせていた。
その機上整備員席の主たる機上整備員の宮崎 秀人一等海曹は、機が警戒海域に入った瞬間から、双眼鏡を構え眼下の鉛色に懸命に眼を凝らしている。海原はその広漠たる胎内に至近の脅威を孕んでいるかもしれないことを、宮崎一曹ならずとも意識していたのだった。
プロペラ推進式で、四基のターボフロップエンジンを積むP-3C哨戒機は、就役が「転移」より30年以上も前ということもあって高性能化、省力化の進んだP-1に比べてやはり性能面では劣る。だが「転移」に伴う周辺の脅威の低下と後継機たるP-1哨戒機の調達コストの高騰から、数的には未だ海上自衛隊航空集団の主力哨戒機だった。
だが、元来が民間用の輸送機を改造して完成した機体であり、海上自衛隊においても就役以来長年に渡り実績を積み重ねているだけにその信頼性は高く、乗員としても、習熟し、使いこなしていく内、預かった機に対し一層の愛情も湧くというものであった。主操縦席に座る機長 江川 総司一等海尉にしてからか、上官より再三P-1への機首転換を勧められているにも拘らず、その度に固辞していることからも、P-3Cに対する愛着の度も推し量れようというものだ。
ここ数日、洋上――――特に、日本海の北西方面――――に対する警戒は極度に厳しくなっている。
敵艦隊の撃破と地上部隊の支援任務を兼ね、少なからぬ勢力をスロリア方面へ進出させた一方、本土に残った護衛艦や哨戒機部隊もまた、開戦と同時に重要な任務に取り掛かっていた。それは、敵「武装勢力」による潜水艦を主体とする通商破壊作戦に備えた航路防衛任務である。
「転移」後も、島国日本の生存が、日本の四周を取り巻く広漠たる海洋に左右されているという事実は、微塵とも揺らぐことが無かった。そして強大な洋上艦隊や潜水艦すら持つ「武装勢力」が、本格的な衝突勃発と期を同じくして、日本の大動脈とでも言うべき通商航路を脅かす行動に出る可能は開戦前の段階で海上幕僚監部によって十分なまでに指摘されてきたことではあった。
従って、開戦が不可避のものと判断された時点で、日本各地の哨戒機部隊は空自要撃戦闘機部隊並みの厳重な警戒態勢に入り、厚木の第四航空群に至っては少数機のP-3Cを本土より1000キロあまり海を隔てた硫黄島に分遣させその哨戒網を拡大させることとなった。洋上部隊たる護衛艦部隊、潜水艦隊にしても事情は同じであり、本土展開の海自部隊は護衛艦隊、そして地方隊の別無く艦艇を長駆外洋へ展開させ交易相手国より資源や輸入物資を満載して本土へ向かう輸送船団の護衛任務に付かせることは勿論、補給物資や兵員を積み本土からスロリア方面へ向かう事前集積船の護衛、さらに潜水艦による該当海域の哨戒任務もまた、開戦と同時に海上自衛隊の主要な任務となっていた。
スロリア方面に出撃し、敵艦隊相手に圧勝した艦艇部隊と比べ、外面の華やかさに関し乏しいながらも、こうした護衛任務がその実スロリア方面の海上作戦で最も重要なものであることは、海自及び統合幕僚監部は勿論、政府すら認識するところであった。日本は島国というその地理的な性格上、そして交易立国としての建前を周辺国に示している外交的な性格上、それらを成立させるためには外部と日本本土とを結ぶ海上交通網の安全に万全を期す必要があった。もしそれらの航路のいずれか一つでも長駆侵入してきた敵艦もしくは敵潜の跳梁を許し、その前提が崩れれば、国内にいまだ根強い戦争への慎重論を再び喚起し今後の戦争遂行に大きな障害となることは勿論、「転移」後10年をかけ築き上げてきた日本というブランドの磐石さにも強い疑問符が付けられることになろう。
それに加え、さらなる懸念材料は開戦から五日後、敵国の本土の一角を移した衛星写真を通じもたらされた。「武装勢力」領域の主要港と思しき港から、停泊していた複数隻の大型艦艇が消えたことが確認されたのである。当初はスロリア方面への増援という判断が優勢であったが、電波傍受も駆使した更なる分析の結果、それは驚愕を以って転換された。敵艦隊は、戦前の予想を超えた大兵力を以って、日本本土に対する洋上包囲網を形成しつつある……!
俄然、敵艦隊の予想進撃針路として最有力といえる北方に対する防備形成は、至上命題となった。
P-3Cの発進した八戸航空基地は、その警戒態勢の文字通りの最前線と化していた。常時四機が警戒飛行に当該海域上空に展開し、基地では搭乗員整備員ともに二四時間体制で任務と待機に当たっている。この方面の洋上作戦部隊たる大湊地方隊に至っては、一個護衛隊三隻を提携港より出動させ、それらはいま現在に至るまで寒波吹き荒れる洋上に展開している。本土に残留する護衛艦隊もまた、即応体勢を整えると同時に増援の護衛艦を北上させ、地方隊の警戒を支援する構えだ。
そして、航空自衛隊―――――北海道千歳基地と、青森県三沢基地に配置された各飛行隊もまた、厳戒態勢を敷き北西海域へと眼を光らせていた。千歳基地からは常に四機のF-15Jが当該海域上空に進出して空中警戒に就き、海自による航空、洋上の哨戒を支援している。また、三沢に展開する支援戦闘機隊は常に八機のF-2から成る攻撃部隊を待機させており、突発的な事態に備えていた。
本土――――陸上自衛隊では北海道に駐屯する二個の地対艦ミサイル連隊全てを出動させ、防衛配備を完了していた。運用するSSM-1及び新鋭のSSM-2C地対艦ミサイルは地形追随飛行能力及び自律航法の機能を持ち、敵より察知されにくい山間部からの発射と百数十キロの距離を隔てた敵洋上艦艇の撃破を可能にする
これだけの陣容を何の齟齬もなく整えられたことには、「主戦場」たるスロリア方面における迅速な制空権確保の成功、それに続く地上戦の順調な推移がやはり功を奏していた。少数ずつ機材と人員を本土に戻して戦力再編への努力を図った結果だった――――あとは、その敵を見出し迎撃するだけである。
――――再び、日本海上空。
燃料節減のため四基の内、外側二基を停止しプロペラをフェザリング状態にしてはいても、P-3Cのプロペラは微塵たりとも崩れることの無いリズムを以て回転を刻み続けている。フェザリングとは、プロペラブレードのヒッチ角を進行方向と水平にし、空気抵抗と無駄な燃料消費を抑える操作のことだ、P-3Cは巡航状態では大抵この状態を保ち、海上に捕捉し、撃破するべき目標を見出した瞬間に、始めてその持てる飛行性能を全開にするのである。
『―――――機長、第三変針点』
戦術航空士の楡 裕子二等海尉の硬質なソプラノが機内に響き渡る。乗員の中で唯一の女性たる楡二尉は教育課程を出たばかりで、実施部隊に赴任して二度目の出撃だった。そしてあと一度の変針でその日の飛行任務は終り、追及してくる機と任務を交替して帰路につくことになる。
旋回のため大きく傾けられた機体の窓から、楡二尉が不審な影を見出したのは、日の落ち行く水平線の彼方だった。
「…………」
新人ゆえの躊躇い……だが彼女は意を決し、インカムのスウィッチを入れる。
「――――機長、三時方向に船影。変針頂けますか?」
『――――了解』
若手とはいえ、戦術航空士の指示と意見は操縦士にとって絶対に近い響きを持つ。ぐんと下がる機首―――――加速を付け、P-3Cはゆっくりと、だが微塵の揺らぎも見せず旋回する。
旋回する機内で注視する戦術航空士席のレーダー画像――――旋回を終えた前方に現れた影を見出すのと、驚愕に形のいい口を半開きにするのと同時。
インカムに篭る指の力。
「機長!……艦影を発見。二隻……三……五……増えています!」
『識別は出来るか?』
そう問われるや否や、第三対潜員の里中一等海曹が赤外線画像に艦影を捉え、机上のキューを動かしコンソールを叩く。呼び出したデータリンクは、瞬時にこれまでの情報収集活動で収集した敵艦艇の艦影を照合させ、彼の眼前に映し出した。
「識別完了!……武装勢力の巡洋艦です」
「こちらも視認した。レーダースクリーンに不審な艦影を確認」
「通信員、基地に報告しろ!
沈黙を察した機長が、声を荒げた。
『どうした……!?』
「妨害電波!……対電子戦装置起動させます」と、楡二尉。
「あれは……!」
次に声を上げたのは、武器員の島本海曹長だった。半球状の窓から外に向ける双眼鏡を握る手が、震えていた。
「艦船を視認!……横陣形で南下中!」
コックピットのレーダーに映る輝点は、すでに十を越えていた。
鉛色の銀海に浮かび上がる複数の艦影。
旋回と報告とを終え、前方に出現した敵艦隊を直に見出し、宮崎一曹と江川一尉、そして副操縦士の遠藤二尉はほぼ同時に息を呑んだ。
なんてこった……ガチンコじゃないか!
『―――――基地よりシリウス03へ、監視飛行をやめ、直ちに帰投せよ』
八戸基地からの入電。だが無事に退避を終えるのに、彼らはあまりに敵艦隊に接近し過ぎていた。
「機長! 脅威電波を感知。照射されています!」
「回避する!」
途端に大きく傾くP-3C。そして機長の怒声。
「フレアー!」
対空レーダーの追跡をかわすべく、欺瞞用のフレアーを放出しながら急旋回に入ったが、そこにさらに追い打ちをかける急報。
「対空ミサイル二基、接近中!」
海面から競りあがるかのように急激な軌道を描き、そして急激に速度を上げP-3Cを追う二基のミサイル。一機はフレアーとチャフの織り成す無形の壁に突っ込み自爆したが、もう一基はP-3Cの右主翼至近で炸裂した。
「…………!?」
衝撃!……機を揺るがす振動。
「第一エンジンより発火!」
「燃料供給カット。消火する!」
操縦席パネルの緊急消火レバーを引く。同時に炎と破片とを吹き上げるエンジンの姿に、三人は息を呑む。
風圧で焔を消し飛ばすべく、江川一尉は操縦桿を倒した。機首を下げ急激に高度を下げるP-3C。機外を吹き荒れる雪嵐は、損傷したP-3Cを蠍の毒牙に掛かったオリオンのごとくに死の淵に引き摺り込もうとしていた。
転じて、加速度と警報シグナルの荒れ狂うその機内で、宮崎一曹は本気で心配する……これで無事に帰れるのか、と。
状況は、動き始めた。
……それが、長期の航海の末遂に日本近海に達したローリダ艦隊と、迎え撃つ海上自衛隊との最初の遭遇であった。
日本国内基準表示時刻12月19日 午後4時48分 日本海北方海域 海上自衛隊護衛艦 DD-126「はまゆき」
鉛色の海原を吹き荒れる銀灰の粒ー――――
うねりと氷雪に晒され、儚げに揺らぐ艦体―――――
対水上レーダーと対空レーダーのみが、雪混じりの烈風の荒れ狂う中で、止まることを知らないかのように回転を刻んでいた。海上自衛隊大湊地方隊所属の護衛艦 DD-126「はまゆき」が北方海域に進出し、警戒配置に就いてすでに三日が過ぎようとしている。そして配置に就く乗員の誰もが、つい数分前に入った急報により、個々の緊張を頂点にまで高めていた。
切欠は友軍機のもたらした報告だった。八戸基地を発進した友軍のP-3C哨戒機が艦よりそれほど遠くない海域で敵艦隊と思しき艦影を発見直後に敵艦隊の対空ミサイルを被弾。離脱を告げた直後、現在に至るまで交信を絶っている。この瞬間、「はまゆき」はこの友軍機の墜落海域を特定し、生存者の安全を確保すると同時に、こちらよりそう遠くない距離にまで迫っているであろう敵艦隊の動静を探る大任をも負うこととなった。
「はまゆき」をはじめ、「ゆき」型と称される汎用護衛艦は、「転移」を経た現在に至る海上自衛隊の主力たるヘリコプター搭載汎用護衛艦の原型を確立した型として知られている。当然現在では旧型もいいところで、同型で残存する艦の全てが地方隊等の二線級配置となっていた。「はまゆき」自体、今回の有事がなければ数隻の同型艦と共に今年度中に解役される予定に在った程である。
だがその装備及び個艦の戦闘力は決して低くは無い。「ゆき」型自体アスロック、対潜魚雷、単装速射砲はもとより、対艦ミサイルすら装備し、単艦で対潜、対空、対艦等あらゆる任務に対応できるよう設計されている。そこに哨戒ヘリコプターの運用能力も加わり、艦の戦闘能力を相乗的に高めている。乗員もまた、その練度は決して第一線部隊たる護衛艦隊のそれに見劣りするものではなかった。
現在、本土に残る海上自衛隊は、その洋上及び水中戦力の半分を日本海方面にシフトさせている。ヘリコプター搭載護衛艦DDH-182「いせ」を始めとする主力八隻はすでに日本海洋上で集結を果たし、その北方に展開する四隻の別働隊は敵艦隊出現の報を受け、さらに北方に位置するこちらに合流するべく最大戦速で北上の途中だった。
「はまゆき」の展開する海域には、同じく地方隊に属する同級のDD-124「みねゆき」も展開し、北方より南下してくる敵艦隊に備えている。哨戒機の報告した敵艦隊の推定戦力は二十隻。「ゆき」型が充実した戦闘力を持つとはいえ、わずか二隻でそれだけの大艦隊に当たるなど、結果は知れている――――そのことがまた、「はまゆき」乗員の緊張を一層に高めていたのだった。
荒天――――
艦首に別たれた海面は刃のような波を生じ、波は白い壁を造り、それは寸刻の後には量感あるうねりとなって艦体に叩きつけられる。
同じく吹き付ける波浪に視界は遮られ、照明を点けていない艦橋は廃墟のように薄暗く、重々しい。
波浪は益々烈しくなり、悪天候は遂には作戦機の行動の一切を封じるまでに至っている。つまり、三沢に展開するF-2支援戦闘機による支援が得られないことはおろか、水上目標探知能力を持つE-2早期警戒機による策敵も困難な状況。そして「はまゆき」もまた、それまで前路警戒に充てていた哨戒ヘリコプターの回収を終え、その瞬間索敵手段の過半は減じられた。
「はまゆき」艦長 帆立 昇 二等海佐は、本来詰めるべきCICに副長の泉 三等海佐を残し、動揺を続ける艦橋に足を踏みしめている。敵艦隊との接触を図らんとする使命感が、彼を一切の視界を閉ざされた艦橋に立たせていた。
「航海長――――」
と、帆立二佐は傍らに控える航海長の矢崎一等海尉を呼んだ。
「はっ……」
「こうも揺れると、腹が減ってかなわんな」
「しかし、夕食まで未だ時間がありますが……」
「うん……できれば敵艦隊とは夜飯の後で接触を果たしたいものだ」
矢崎一尉の硬い顔が、少なからず綻ぶのを帆立は感じた。それは正しかった。部下の緊張をほぐそうという艦長の配慮を、矢崎一尉はその短い言葉の内に感じ取っていた。
「そうですね。人生で最後の食事になりそうですから……」
それに対し、相好を崩した帆立二佐が、何かを言おうと口を開けたそのとき――――
『CICより報告……レーダーコンタクト。二時方向より距離70マイル……未確認船団針路1-9-5。速力20ノット!』
反射的にインカムのスウィッチを押し、帆立は眼差しを歪めた。
「識別符号に反応は?」
「反応ありません」
「レーダー、そのまま監視を続けろ。機関減速。取り舵一杯……目標に併進し、監視を続行する……! それと……」
「はっ……?」
「乗員を全て戦闘配置に就かせろ!」
直後に轟いた甲高い警報音が艦内を圧するのに、一分も掛からなかった。狭い通路を潜り、ラッタルを登る乗員の足音と息遣いのみの嵐が過ぎ去ったあとに、完全に戦闘可能な態勢に入った「はまゆき」が現れた。同時に――――
敵艦隊……!?
狭い艦橋を衝撃が静かに奔り、波浪の中の静寂は動へと装いを一変させる。
矢継ぎ早に各所から上がる号令――――回頭を終えた「はまゆき」CICの対水上レーダースクリーンの映し出す輝点は急激にその数を増し、やがては整然とした船列となって電測士を驚愕させた。
『12……16……20隻を突破。未確認船団、数依然増加中』
『――――併進コースに入りました。彼我の距離50。的針依然変わらず』
『「みねゆき」より入電。未確認船団後方40海里の距離より追尾運動中。以上――――』
「みねゆき」も捉えたか……帆立艦長の口元から、安堵にも似た溜息が漏れる。
「レーダー、目標の動静を逐一報告せよ。些細な変化も見逃すな」
『艦長!―――――』
反射的に叫んだ電測士の眼前で、目標を示す輝点は急激にその間隔を広げ、複数の小集団へとその陣形を変換していく―――――
日本国内基準表示時刻12月19日 午後4時57分 日本領海より北西5海里の海域 ローリダ海軍遠征艦隊旗艦「レ‐バーゼ」
指揮下にある全艦が日本近海に到達した時点で、艦隊総司令官ロヴトス‐デ‐ラ‐ヴァルミニウス中将の胎は決まっていた。
「各戦隊指揮官に打電せよ。既定通り、各隊はこれより独自の作戦行動を取る」
無線通信と発光信号の併用―――――その後の運動は荒天下にも拘らず完璧だった。大小28隻の艦艇から為るローリダ共和国海軍「白獅子艦隊」の各艦は鮮やかな機動で艦列を別ち、各個に割り当てられた方位へ艦首を廻らせる。
首都アダロネスを進発した当初は12隻だった艦艇は、他の軍港や植民地の艦隊拠点より合流を果たした艦艇を加え、日本近海に到達した一週間後には、総勢28隻の大勢力に達していた。これだけでも本土防衛に当たっているであろうニホン艦隊と正面より対決し、それを掃滅できる戦力であるようにローリダ艦隊各艦の艦長たちには思われたが、完全な敵地で、何時遭遇できるとも知れぬニホン艦隊との洋上決戦という非現実的な手段に固執するほど、ヴァルミニウスは無能ではなかった。
彼とその幕僚たちが考案した作戦は唯一つ。艦隊を4~5隻から成る小集団に分け、同時多方面で海上交通路の遮断を行うというものであった。ニホン海軍との遭遇はなるべくこれを避け、あくまで洋上における遊撃戦に徹するのだ。
決して悪い案ではなかった。少数隻の敵艦による一般船舶への同時多発的な襲撃は、その戦力の半分を遠く離れたスロリアに投入しているニホン海軍にとって海上交通路防衛上、重大な危機となり得るはずであった。それは洋上の艦隊決戦以上にニホンを消耗させ、その継戦能力を削ぐに効果ある手段であろう。
作戦案にはもう一つ、有力な論拠があった。ニホン海軍の主力はスロリア方面に集中し、その本土には辛うじて沿岸警備に堪えうる程度の弱小な戦力しか残されていないものと本国の海軍本部は判断していたのである。従って洋上における主力同士の決戦が生起する確率は低く、ニホン海軍もまた洋上決戦を避け希少な戦力を温存するものと見做されていた――――それが、ヴァルミニウスと彼の司令部を通商破壊作戦任務へと傾斜させた。
「酷い嵐ですな」
艦隊旗艦「レ‐バーゼ」艦橋より、波を割り遠ざかり行く僚艦の影を見遣りながら、主席参謀のジュグアス少将が言った。その口調には嵐の中を航行しているとは思われない余裕が多分に宿っていた。
普段鏡のごとくに穏やかな母国ローリダの近海に比べ、ニホンを取り巻く海原は狼のごとくに荒々しく、そして刺々しく思われた。海軍史上に特筆されるべき遠征に当たり、大型艦ばかりを連れてきたのは正解であったかもしれない。このような波浪では、ミサイル艇や魚雷艇のような小艦艇の活躍する余地など殆ど無い……それでも、大艦隊の只中に身を置く余裕の為せる業か、幕僚達の態度には余裕があった。
「これではさしものニホン艦隊も出ては来れまい」
「そうとも言えぬ。現に先刻。敵の航空機と遭遇を果たしたばかりではないか?」
「だが墜とした……レ‐バーゼはまさしく浮かぶ砦よ。一分の隙もない」
沸き起こる哄笑……だがヴァルミニウスは、そうした幕僚達の言葉に耳すら貸さないかのように、艦橋最上の指揮シートに陣取ったまま、嶮しい眼差しを風雪渦巻く外界に向け続けている。敵を侮ること、特に戦う前から敵を軽んずることを、この勇将は何よりも嫌った。そしてそれ以外にも、勇将から勝利の予感を奪う要素はあるにはあった。地上戦の帰趨が既に決したことを、彼は昨日のうちに知らされたのだ。
あの精強を以てなる共和国国防軍が、負けた……それを理解し、受け入れるのにヴァルミニウスですら数刻の時を要した。そして受け入れた後、ヴァルミニウスは自らの使命の、一層に重大なることを自覚した。共和国の命運を考えれば、作戦を中止し引き返すという途など、もはや採れない―――――むしろ、地上戦における敗勢が決定的となった時点で、却って艦隊は引き返すことが出来なくなったと言える。
だが……
「――――作戦は、継続するのですな?」
最後に行われた本国の海軍本部との交信時、ヴァルミニウスがそう聞いたのは、度重なる敗報に困惑しているであろう上層部に継戦への決意を示す一方で、陰ながら作戦の中止を促す意味合いも多分に込められていた。ヴァルミニウスのように強靭な意志の持ち主ですら、投機性を増した今作戦に逡巡を覚えていたのである。それに対する本国の回答はあまりに型通りで、決断に乏しい「是」であった。
「楽観は許されぬ……索敵を徹底させよ」
戦場に近づいた旗艦の艦橋で、交信で感じた不毛をおくびにも出さず、ただそれだけをヴァルミニウスは言った。そのとき―――――
『第四戦隊前衛より報告。我東方に敵影を捕捉。隻数2、只今より攻撃―――――』
「ほう……もう獲物を見出したか。幸先がいい」
幕僚達のどよめきを他所に、海将は無感動のままに嵐の海原へと向き直る――――――
日本国内基準表示時刻12月19日 午後5時01分 日本海北方海域 海上自衛隊護衛艦 DD126「はまゆき」
自艦との衝突コースを取り迫ってくる二隻の船影を、対水上レーダースクリーンに認めるのと同時に、帆立艦長と彼の部下は覚悟を決める。
「砲雷長。識別不明船舶の位置情報を入力しろ」
『――――小型艦我が方へ方向転換!……数二隻。距離60南西……目標針路1-9-2。的速24……27になりました』
『――――識別不明船舶主力、遠ざかりゆく……距離72……71』
「舐められたか……!」
双眼鏡に鷲のような目を凝らしながら、帆立艦長は唸った。敵が此方を相手にせず、ひたすらに南下を意図していることはこの瞬間に明らかとなった。部下を顧み、帆立艦長は声を上げた。
「司令部に報告……敵は南下しつつ兵力を分散する意図あり」
それだけ言えば、敵が艦隊決戦ではなく当初の想定通りに各航路遮断を指向していることを本土は確信するであろう……その帆立の意図は、完全に正しかった。そして「はまゆき」へ向かう敵艦数隻の意図は、こちらの排除を明らかに指向している。
『――――こちらCIC。敵艦のレーダー波照射を確認。ECM起動』
来たか!……絶句する間も無く。乗員の対処は完璧だった。稼動を始めたECM装置は電子の触手を伸ばして敵のレーダー波を狂わせ、快音を立て矢継ぎ早に打ち出されるチャフが、海風に翻弄されながらも「はまゆき」の周囲で鈍い光の雲を生し、曇天の下で黒に染まった艦影を飾り立てた。そしてレーダー波の照射を受けた瞬間、艦の誰もが相手が紛う事なき敵艦であることを認識するに至った。
そして帆立艦長は、平静そのものの表情で、彼が為すべき命令を下した。
「目標敵艦船。SSM放てっ……!」
直後、「はまゆき」の艦体の半分が、けばけばしいオレンジ色の煙に覆われ、放たれた光の矢はそれを突き破るように荒天へと飛び出した。戦端は開かれ、それは始まりと同時に鉛色の海原を隔てた東京の知るところともなった。
『艦長! 目標よりミサイル発射を確認。弾数1、命中まであと8分!』
「砲雷長。対処を任せる」
『短距離対空誘導弾用意……目標情報入力――――』
艦尾の短SAM発射機が目標方向を指向し、そこで止まった。就役から30年以上が経過した老兵の哀しさか、VLSもなく、3次元レーダーも搭載していない「ゆき」級の索敵能力では対水上、対空ともに単一の目標にしか有効な対処を取ることができない。その上に電子戦装置による敵の索敵網韜晦にも限界がある。それでも当面為すべきは海空を問わず友軍の援護が来るまでの時間稼ぎであることに、「はまゆき」の苦悩があった。
『―――敵ミサイル、距離30を突破』
『―――SSM、弾着まであと1分』
『―――距離20。SAM発射!』
「取り舵一杯。敵艦の側面に回り込む」
護衛艦の反応はいい。回頭を始め、モーターボートのような軽快さを見せ付けるかのように左に傾斜する艦橋で、帆立艦長は手摺に身を支えながらも敵艦より放たれたミサイルの向かって来るであろう方角へと目を凝らし続けていた。
「…………!」
火球―――――帆立艦長は確かに見た。彼の向ける眼差しの遥か向こうで瞬く光。
それは飛来するミサイルを短SAMが捉えた瞬間―――――
『―――SAM命中!』
CICの弾んだ声もまた、緊張を含んでいた。
『SSM命中まで、あと10秒!』
『護衛艦隊司令部より入電。現海域より離脱し、敵艦隊の射程圏外へ退避せよ』
離脱―――――命令するだけなら簡単なそれが、戦闘状態に入った現時点でも有効に実行できるのか、図りかねている帆立がいた。
そのとき――――
『SSM命中!』
『ミサイル、なおも急速に接近中!……数2――――』
『目標敵艦。SSMに諸元入力はじめ……!』
勝利の余韻を味わえないまま「はまゆき」は、未だ戦闘の只中に身を置き続ける――――
日本国内基準表示時刻12月19日 午後5時12分 日本海北方海域 ローリダ海軍駆逐艦「ガス‐パロ」
海面スレスレから急激な上昇軌道を描いた火矢が、そのまま急降下の態勢で僚艦の中央部に飛び込んだ直後。光と轟音が僚艦「デ‐ファロ」を包み、その艦上構造物の殆どを吹き飛ばすのを、ローリダ海軍駆逐艦「ガス‐パロ」艦長 ディカス中佐は見た。
「バカな……!」
驚愕と共に、彼は僚艦がその戦闘力を完全に奪われたことを悟った。それはまた、彼の預かる艦の至近の運命であるのかもしれなかった。
「警戒を厳に。些細な異状も見逃すな!」
とは言ってみても、「デ‐ファロ」は攻撃に必要な索敵能力の半分を減じられていた。戦闘開始と同時に敵艦の発した妨害電波がローリダ艦隊各艦の索敵能力を急激に侵食した結果、レーダーはもはや用を為さず。それをかわす術を「デ‐ファロ」をはじめローリダ艦隊の各艦は持っていなかったのだ。
そこに、見張員からの報告。
「艦長!……11時より敵ミサイル、急速に接近中!」
「レーダーに捉えたか!?」
「駄目です! レーダースクリーンに反応なし!」
そうか!……ディカス中佐は悟った。レーダーに敵のミサイルを捉えられなかったのは、電波妨害もあるが、連中のミサイルがレーダー波の及ばない低空を飛行してくるからであったのだ。
だとすれば……ニホン人の技術力はこちらよりも遥かに優越していることになる。それは、中佐のみならず艦隊の無敵を確信してやまなかったローリダ海軍の全将兵にとっておよそ認め難いことであった。ゴルアス半島を廻る洋上戦闘で植民地艦隊が壊滅したのは、将兵の技量と艦艇の能力が決してニホン海軍に対し劣っていたからではなく、無能な指揮官一人の裁量に記せられるべきものと彼らは今現在に至るまで信じていたのだった。彼らにとって突発的な敵艦との遭遇は、それを証明する絶好の機会を神より与えられたように思われたのだ。
だが……現実はどうか?
我が軍は当初の目論見通り、敵艦と遭遇したものの、先手すら打つこと適わずに早々と貴重な戦力を失おうとしているではないか!……唐突に込み上げてくる怒りの任せるままに、中佐は命令を下した。
「全砲門開け! やつらの忌々しいミサイルを何としても近づけるな!」
レーダーと連動した射撃方位盤が稼動し、「デ‐ファロ」の装備する四門の単装速射砲が目標を指向する。
「射撃よーい……!」
方位盤でファインダーを覗き、インカムを通じ指示を下す射撃統制官もまた必死だった。もはや艦の命運は、彼とその指揮下にある速射砲分隊の技量にかかっている。だが妨害電波により電測というオプションを封じられた今となっては、砲手になし得る全ては光学式照準機にまぐれ当たりを期待し、只ひたすらに火砲の発射ボタンを押し続けることでしかなかった。
「撃て!」
続いて起こる軽快な射撃音。
砲塔外へ吐き出される薬莢。
水平線上で連続する砲弾の炸裂。
迫り来る火矢――――直後、照準機を睨む砲術士官の眼前から、それが消えた。
「…………!?」
ホップアップ――――
―――――その瞬間に、「デ‐ファロ」はその防御オプションの全てを失った。「デ‐ファロ」は近接防御用として二門の対空機関砲を装備してはいたが、それらは手動で、急激な機動を見せる脅威への迅速な対応には難があった。
―――――上昇が止まった。
―――――ミサイルは降下に転じ、まっしぐらに「デ‐ファロ」へと向かってきた。
甲板に立ち、それを見上げ目にした見張員が、絶句する。
「悪魔……!」
悪魔――――SSM-1B艦対艦誘導弾――――の振り下ろした天界からの鉄槌は、もはや回避できない距離にまで迫っていた。
日本国内基準表示時刻12月19日 午後5時21分 日本海北方海域 海上自衛隊護衛艦 DD126「はまゆき」
『――――SSM命中!……目標敵ミサイルなおも接近中!』
僚艦「みねゆき」が対艦誘導弾により一隻の敵艦を戦闘不能に陥れた事実は、データリンクを以て即座に「はまゆき」に知らされた。
だが一方で、「はまゆき」には僚艦の勝利を祝う余裕などすでに失われていた。「はまゆき」に迫る敵艦のミサイルは3基に増え、対空誘導弾で内2基を叩き墜としたものの、迎撃を逃れた一基がミサイルの最短防御レンジを越えた至近距離にまで迫ってきたのだ。2隻の敵艦を葬ったのもつかの間、敵艦隊は新手の戦隊を繰り出しこちらを潰しに掛かろうとしている……!
「対空戦闘! 右砲戦よーい……テェー!」
逆巻く波に覆われた艦首。素早く旋回した76㎜単装速射砲がFCSの指示した方位に向かい破壊の火線を吐き出した。回避運動を繰り返し、間断ない回頭により競り上がる波が艦首を洗い、それは度重なる速射で灼熱した速射砲の砲身をも瞬時に冷却する。同時に形成された弾幕は迫り来るミサイルの針路上で鉄の壁を形成し、ばら撒かれた破片がミサイルの弾体を引き裂き、発火させる。
『ミサイル一基破壊!』
砲術士の弾んだ声は、電測士の絶叫を前に忽ち打ち消された。
『―――ミサイル接近中!……8……いや10! 数が多すぎる!』
「長居しすぎたか……!」
帆立艦長の苦々しい呟きは、艦橋には響かなかった。その感慨を皆に周知させる代わりに、彼が口に出したのは更なる命令―――――
「これより本艦は戦闘を打ち切り、最大戦速で東南方向へ退避する。『みねゆき』にもその旨知らせろ!」
その間も「はまゆき」は短SAMを放ち、それは有効射程まで接近した敵ミサイル8基の内2基を叩き墜とした。ECMにより針路を見失った5基が海面に突入して水柱を吹き上げ、その最後まで命中コースを取った1基は、CIWSの弾幕に捉えられ火球と化し四散する。そして――――
『「みねゆき」、敵誘導弾2基を撃墜!……本艦と同コースを取っています。本艦、間も無く敵艦隊の有効射程外に到達―――――』
「警戒態勢そのまま!……各部署、状況報せ」
いまだ熱狂の冷めない艦橋で命令を下しつつ、帆立艦長は、自分が滝のような汗をかいていること、そして喉がすっかり渇ききっていることに、今更ながら気付いたのだった。
日本国内基準表示時刻12月19日 午後5時23分 東京 防衛省中央指揮所
『「はまゆき」および「みねゆき」、後退中。これ以上の戦線維持は不可能――――』
予測していたものであったとはいえ、突発的な遭遇戦の勃発に、指揮所は重苦しい雰囲気に包まれていた。2隻の護衛艦に対し敵艦は20隻余り、多勢に無勢であることぐらい、戦術情報表示ディスプレイからも容易に判る。2隻の戦闘/被害状況を図示するディスプレイの中で、2隻の有する対空誘導弾及び速射砲弾は急速に数値を減らし、彼女らの防御オプションは次第に奪われつつあった。広範囲に跨る航路防衛の必要性から、そして多方向からの敵艦隊の襲撃に備え、艦艇を日本周辺の各海域に分散配置させていたのが裏目に出た形となっている……だがそれも、現時点では、の話だが。
「護衛艦隊はどうしている?」と、海上幕僚。
『――――現在水上打撃群が最大戦速で北上中。接触まであと三時間』
DDH-182「いせ」を旗艦とし、他イージス護衛艦DDG-175「みょうこう」 DDG-176「ちょうかい」といった護衛艦隊の主力艦から成る水上打撃部隊10隻はその陣容こそ強力だが、最大戦速を以ってしても会敵には時間を要する。さらに言えば、いざ接触を果たしたところで、敵が通商破壊を意図し戦力を分散させた後となっては正面からの決戦も無意味であろう。一番戦闘海域に近く、かつ素早く戦域に到達できるのは、空自の支援戦闘機隊及び海自の哨戒機部隊ではあるものの、折からの悪天候下で効果的な働きが出来るか、この場の誰もが自信を持てないでいた。
航空機を出すべきか……無言のまま、腕を組みディスプレイを見詰める植草幕僚長に、受話器を取った海上幕僚が声を潜めた。
「幕僚長、八戸基地司令が出撃許可を求めています」
「この悪天候にか……!」
打診は植草たちの意図を他所に、即座にディスプレイに反映される。それも意外な形で……
『八戸基地所属のP-3C 八機が、現在戦闘海域へ北上中。対艦誘導弾を装備しています』
「…………」
豪胆というか、無思慮というか、植草が覚えたのは苦笑であった。八戸基地司令の意図は判っている。予め空中で作戦機を待機させ、命令が出次第すぐさま攻撃に掛かるつもりなのだ。晴天下ならこちらの指示を見越した、何等問題ないはずの対処だが、そうでない場合はどうか……?
……しかし、現場が植草の決断を待っているという点では変わらない。両目を瞑り、沈思するそぶりを数秒の間見せたところで植草は口を開いた。
「八戸の哨戒機部隊に連絡――――」
決断を経て続く流暢な指示。
「――――攻撃を許可する。だが無理はするなと……それと……」
「それと」という一言に、力が篭る。
「三沢の支援戦闘機隊も準備でき次第すぐに出せ」
命令の直後、植草は彼自身の言葉を軽く後悔する。彼の眼前に現れたのは、命令を下すまでもなく戦況表示盤に出現した4個の機影とそれが爆装したF-2Aであることを示す戦術情報表示――――
『三沢基地よりF-2四機、まもなく戦闘海域上空に到達します』
「まいったな……」
苦笑交じりな表情もそのままに、植草は幕僚と顔を見合わせた。指揮所の不手際が、現場の臨機応変により補われた形――――だがそれは、決して彼の望まないところではなかった。
広角ディスプレイの中で四機のF-2Aはたちまち増速し、先行するP-3Cを追い抜いていく――――
日本国内基準表示時刻12月19日 午後5時30分 日本海北方海域
『――――クヌギよりカワセミ‐リーダーへ、戦闘海域上空への展開を許可する』
航空総隊からの「GOサイン」を、航空自衛隊第3飛行隊所属のF-2支援戦闘機パイロット 津島 英輔一等空尉が聞いたときには、彼と三機の列機はすでに北海道は渡島半島を北西に抜けた先の洋上に差し掛かっていた。
「隊長機より全機へ、間も無く戦闘海域上空。攻撃態勢を取れ」
眼前――――HUDの緑色のフィルターを隔て広がる分厚い層雲に、津島一尉は目を凝らした。見晴らしのいいF-2のコックピット、全周をカヴァーするキャノピーには、距離を詰めるにつれ層雲が灰黒色の岸壁のごとくに広がり、それはすぐ傍を行く列機の、隼のような機影をその懐奥深くに呑み込まんとしているかのようだ……それに目を見張る一方で、津島一尉は回避のタイミングを計るべく、フットバーを踏む足に注意を傾け始めていた。
「各機散開せよ」
復唱するまでもない。命令一下、各機は即座に主翼を翻し目視不能なまでに距離を開き、忽ち壁の如く立ちはだかる雲の間隙へと吸い込まれるようにして入っていく。その翼下には左右各二基、計四基の空対艦誘導弾 ASM-2。
雲中にあり、計器盤の発する無機的なそれ以外の一切の光を閉ざされたF-2のコックピットの中で、自分は本土に残されて正解だったと津島は思った。
戦争に備えてSF部隊の多くがスロリア方面へ移動し、その一方で皮肉の嘆を託つ形となっていた津島達にとって、敵艦隊の本土近海への来襲は、有事に備えて培ってきた自らの技量を発揮する上でまたとない機会となったのだ。支援戦闘機たるF-2の本来の任務はスロリアで行われている対地攻撃ではなく、本土に接近する敵艦隊の水際撃破にあるはずだ。それを考えれば、自分たちこそ真の働き場を得たと言えるのではないか?
降下――――――
HUDに投影される目標指示輝点は、津島機の下方を指し示していた。逆探知により位置を割り出されることを恐れ索敵レーダー波は出していない。だが護衛艦隊及び日本各地に点在する迎撃管制レーダーサイトよりもたらされる敵艦隊の位置情報はデータリンクにより即座に攻撃隊へ送信され、策敵波を出さずして目標への誘導を可能とする。
『―――クヌギよりカワセミへ、目標までの距離150海里』
鬱蒼とした雲々の密林を縫い、F-2は一斉に高度を下げた。ともすれば機位を失いかけるほどに密集し青黒い機影を包み込む灰色の雲……だがそれすら、日々を海面スレスレの低空を飛び交う過酷な対艦攻撃訓練に費やしている津島達には自らの庭のように手馴れた環境だ。
火器管制装置オン。
高度計が比高100を切った。
エアブレーキ……!
減速しつつも、ハヤブサの嘴を思わせる機首は雲の壁を裂き続ける。
四発の対艦誘導弾、そして増槽といった重い装備を抱え、加速のついたF-2では、引き起こしのタイミングを誤れば忽ち海面に激突する恐れがあった。
そのタイミングを報せるのは、HUDの発射タイミング表示輝点と、身体に叩き込んだ勘でしかない。
だが……そのスリルがいい。
雲高は低い……それを察し、雲を突破しない内に操縦桿に力を入れ始める。
雲を突破した!……見事なまでのタイミングで、F-2は海面スレスレの高度に占位する。同時に悲鳴を上げる低高度警報。荒れる海原の投げ上げる飛沫がキャノピーを汚し、それは凄まじい風圧と冷気により瞬時に塩の塊と化す。
『目標との距離100を突破!』
「隊長機より全機へ、レーダー起動」
操縦桿のレーダースウィッチを押した。
瞬時にして操縦席のMFDが切り替わり、MFDの矩形は広範囲の海域に分散を果たそうとする敵艦の鮮明な影を映し出す。
「レーダーに感。20度左。距離85」
報告しつつ、敵艦隊の陣容に津島は息を呑む。撃破すべき敵艦の数は予想を超えて多く、彼らだけの攻撃ではいかんともし難いことを厳然と印象付けていた。機を同じくして覚醒したASM-2のシーカーが、F-2の火器管制装置と連動して自動的に目標を割り振り、照準はMFDの中で自動的に、そしてあっという間に完成される。HUDの枠内に出現した四つの矩形の輝点とその中で刻まれる5桁の数値は、ASM-2空対艦誘導弾のシーカーが捉えた目標の方位と相対距離とを示している。
「兵装選択……全弾発射」
一隻につき一発……全四機のF-2が一斉に攻撃をかければ、計16発のASM-2が敵艦隊に殺到することになるのだ。敵艦の撃沈など二の次、同時発射により敵艦隊の戦闘力を削ぎ、護衛艦隊の継戦を支援することにこそ攻撃の意義があると津島一尉は判断した。
「隊長機より全機へ、ついてきているか?」
カチカチ……!
カチカチ……!
カチカチ……!
――――スロットルレバーの、送信装置を押す音。
――――戦闘機乗りにとっては、ただそれだけで全ては判る。
「目標までの距離80!」
そこまで言ったとき、眦を決したのは津島だけではなかったはずだ。
「カワセミ01、発射!」
発射ボタンに指の力を篭めるのと同時に、ASM-2はその瞬間、知性と力とを秘めた蒼い銛となって母機より解き放たれる―――――




