第二七章 「開城」
スロリア地域内基準表示時刻12月18日 午前8時31分 スロリア中北部
激戦は過ぎ去った。
かつては見渡す限りに緑に包まれた丘陵は、弾着に掘り返されたむき出しの地層と、どす黒い焼け跡と、敵味方死体の折り重なる山にその装いを一変させていた。
わずか一夜……戦争という文明の忌むべき所産は、わずか一夜で、緑生い茂る大地を荒涼たる禿山に変えたのだ。
……カメラを握り、シャッターを切る手が震えたのは、それを考えたせいだけではなかった。
陣地内に設けられたヘリの発着場。輸送任務のため臨時に駆り出された海自SH-60K哨戒ヘリの、その機体を休める片隅で、戦闘に、そして爆撃に潰れた壕から掘り出され、袋に入れられて身元確認のために並べられた陸自隊員の死体は見る見るその数を増し、それに前線での応急処置の甲斐なく命を落とした隊員も加わった。そうして形成された死体の山に、カメラを構えた木佐慎一郎が焦点を合わせようとしたそのとき――――
「…………!」
発作のような絶句に襲われ、木佐はその場に口を押さえて屈みこんだ。間欠泉のごとく溢れる涙が硝煙と土砂に汚れた頬に一条の筋を作り、込み上げる感情の昂りに加え、昨夜から水すら受け付けていない胃の収縮が、彼の胸を疼痛を以て詰まらせ、苛んだ。
恐ろしい夜だった。
だが死んだ彼らは、自らの生命を賭して恐怖に抗い、生命に替えて撃退した。
――――その夜を、自分はただ見ているだけしかできなかった。
間断ない敵の砲撃を壕内で凌ぎ、敵味方の激突を安全な立ち位置から息を潜めて伺い、あるいはそれを写真に撮る……戦場カメラマンとして当然のそのような行為の何処に、勇気が介在する余地があるだろうか?
「…………!」
嗚咽の誘うままに、木佐はその場に屈みこんだ。
……おれはただ、見ているだけだった。
そのおれが生き残り、本当に勇敢だった連中は向こうで単に沈黙しているしかない。
見ているだけ……例えそれが、カメラマンとしての彼の使命であったとしても―――――今更のようにそれが現実だと、木佐は割り切りたくなかった。
「撮らないのか?」
「…………?」
不意に声をかけられ、木佐は泣き腫れた眼で振り返った。その濁った視線の先で、海上自衛隊のパイロットスーツに身を包んだ男が立っていた。
「撮れませんよ……こんなの」
悄然と木佐が言うが早いが、男は彼の襟を掴み上げて声を荒げた。
「じゃあお前、此処に何しに来た!?」
「…………!」
パイロットの烈しい眼光に、木佐は心胆を震わせた。だがそれも一瞬、木佐の襟を掴む男の手から力が消え、男の顔からも怒気が霧散していくのがはっきりとわかった。彼の階級章が三等海佐であることに、木佐はそのとき初めて気付いた。
死体袋の山を指差し、三等海佐は淡々と言った。
「あの中に……弟がいるんだ」
「…………」
「馬鹿なやつだよ……おれが海自に行ったもんだから、あいつは陸自に行くと言い出しやがった……その結果が、これさ」
「…………」
そのとき、部下と思しき乗員の声がした。
「上総機長……積載許可下りましたぁ―――――!」
苦渋から一転、パイロットは笑った。寂しいが、意思の強い笑みだと、木佐は思った。
「弟たちは、ちゃんと仕事をして死んだ。あんたも仕事を果たせ。そして生きて国に帰れ」
「はい……」
木佐は頷いた。
もう、躊躇わない……
再びカメラを握り、泣き腫れた眼で仰いだ戦場の空―――――
その向こうに、ローターを蹴立てて北方へと機体を翻す陸自ヘリの機影―――――
鳥瞰―――――白日の下に平穏を取り戻したはずの平原は、今や敗北の軍勢の墓標と化していた。
かつては戦車や装甲車であり、この大地一帯に覇を唱えるべく解き放たれた金属の塊は、僅か一夜の内に全てが無残な残骸へと姿を変え、その少なからぬ数が、その亀裂や弾痕から未だ天へ達するかのように黒煙を吹き上げていた。だから、それらの姿を上空から見出すのは決して難しいことではなかった。
平原を睥睨するかのように鳴り響くローター音の連なり。
その上空を航過する機影。
「ご覧下さい……!」
キャビンから下方に向けられるカメラとレポーターの声。
「……この平原一帯に、PKFの攻撃に破壊された武装勢力の戦車がその残骸を晒しています。この世のものとは思われない。凄惨な光景です……!」
偵察飛行に出たUH-1Jの、開け放たれたキャビンより下方へ向けられたテレビカメラは、ただ威厳なまでのレンズの煌きを以て戦場址を捉えていた。
「すごい……私たちは今まさに凄まじい激戦の跡を眼下に臨んでいます。地上戦の完全勝利を宣言したPKFの一方で、敗北の淵に叩き落された武装勢力の大部隊!……地上の光景はこれが戦争の現実だということを、私たちに無言の内に訴えかけている……そういう印象を受ける鮮烈な瞬間です!」
マイクを握り実況する間宮 真弓もまた、口でこそ眼下の状況を出来得る限り客観的に言い表すべく努力をしてはいたものの、驚愕に見開かれた眼は未だ彼女がそれを信じ、受け容れることが出来ずにいることを物語っていた。
『――――これより降下する』
機首方向から下向きになるヘリの姿勢―――――テレビカメラはズーム機能と併せ、地上の惨状をなお鮮明に上空から接する者の目に灼きつける。
「すげえ……湾岸戦争みてえだ」
「『死のハイウェイ』ってやつか?」
同乗のテレビクルーが言った。「転移」の遥か前――――間宮たちが未だ年端もいかない時代――――に勃発し、アメリカ合衆国を始めとする多国籍軍が、「侵略者」たるイラク軍を完膚なきまでに粉砕し、その圧倒的なハイテク装備と新戦術の威力を世界中に印象付けさせた戦争……それを年代と存在する世界の変わった現在、日本は戦っている?
『――――九時方向!』
機上整備員の声に、搭乗する全員の視線が指し示された方向へ集中した。
彼の指差す先の地上―――――
点々と続く人影の列に、TVクルーは思わず息を呑む。
真弓もまた、言葉を失った。
「…………!」
襤褸を纏い、武器も持たず覚束ない歩調で北へと向かうローリダ兵の列は、それを眼で辿るにつれ地平線に達しようかという数であるように思われた。PKF司令部の包囲網は決して完全ではなかった。だがそれ故に、敵手たる武装勢力の敗北が、真弓たち民間人の目にも明らかなものとなっている。
「ああいうのを、敗残兵って言うんだな……」
誰かが、ポツリと言った。だがその言葉は、真弓の胸に深く焼き付けられる響きを持っていた――――
―――――ニホンの飛行機。
それには何等関心を示さないかのように、誰もが歩き続けた。
遠方から唐突に聞こえてきた回転翼の爆音に驚愕は示しても、彼らはもはやそれに対する敵愾心を態度で示す手段も、そしてその敵愾心自体すら持ち合わせていなかった。とうの昔に武器を捨て、着の身着のままに歩くこと二日余り……戦闘で傷付き、食も水も底を突いた状態で、彼らはかつてそこに覇を唱え、神の名を唱えた地を歩き続けていた。そして土地は、もはや彼らのものではなかった。
タナもまた、その列の中にいた。
両目を包帯に塞がれ、身体にも少なからぬ傷を負ったネスラスに肩を貸し、たどたどしい歩調で歩く彼女が、列に接近し、頭上を飛び過ぎるニホン軍の回転翼機に気付くのに、多少の反応の遅れが必要だった。それほど、タナはネスラスのことに気を取られていた。
「…………!」
思い出したように見回せば、地平線の向こうまで、見渡す限りに戦車の残骸が広がっている。点々と広がるかつては戦車であり、装甲車であった何か、あるいは蝋細工のようにあらぬ方向にひしゃげ、千切られ、濛々と黒煙を噴き上げる鉄の塊を眼にするにつれ、タナの頬から薄いばら色が失われていく。
それらは、かつては世界最強を呼号し、スロリアにその威容を誇った鉄騎兵の群れ。
今では瀕死の姿を燻らせるその姿は生々しく、そして哀しい。
タナは思う。ネスラスが戦傷で光を失っているのは、かえって幸いであったのかもしれない。味方を襲ったこれほどの惨状を眼にすることなく、こうして生きて還れるのだから――――
そのとき――――
急速に近付いてくる回転翼の音。
「敵機が近付いてくる!」
「ちきしょう……追撃部隊か?」
列の中を、落雷の如き動揺が走る。兵士の中には列を離れ、三々五々の方向に散る者もまたいた。抵抗の手段を失った自軍に無慈悲な掃射を加えてくる敵機の姿を、誰もが想像したのだろう。タナはといえば、負傷者を抱えた彼女にそれから逃れる術も無く、また逃れようという意思も持ち合わせていない――――人生に対する諦観ではなく、敵への信頼から、タナはあえて逃げなかった。
タナは知っている―――――ニホン人はローリダ人とは違う。
彼らは、無抵抗の人間は決して襲わない。
敵に対し無慈悲なローリダ人とは、根本的に発想が違う。
そして―――――
だからこそ自分たちは戦争に負けたのだと、タナは思う。
「タナ……敵機か?」
「大丈夫……攻撃してこないから」
焦るネスラスを、宥めるようにタナは言った。ニホン軍の回転翼機はすでに頭上、もはや胴体に描かれた彼らの赤い円のマークと文字とがはっきりと見える高度だった。沸き起こる土埃の中で乱れる列の上空を一巡すると、回転翼機は再び離れていく。地上の人間に対する興味を満たし、そして失ったかのように――――
二人は、再び歩き出した。
そして列もまた、その形を取り戻していく。
地上には安堵と敗北感とが戻り、再び虚無が広がっていく……
ローリダ国内基準表示時刻12月18日 午前8時36分 首都アダロネス 第一執政官官邸
包囲が完成したという報を、共和国の最高権力者たるギリアクス‐レ‐カメシス第一執政官は、昨夜以来一睡もせぬまま過ごした執政官執務室で聞いた。つい20分も前のことで、報告の主は現地軍の司令部である。
「あの痴れ者どもめが……!」
報告に接し、カメシスは豪奢なデスクの上で肩を震わせた。その執政官の怒りの前で、昨夜より国防軍総司令部から執政官執務室に詰めていた軍人達は、ただ無力に立ち尽くしていた。ただナードラのみが、応接用ソファーに深々と腰を下ろし、只一人沈思に耽っているかのようだ。
……そう、ナードラは考えていた。
……共和国国防軍が、敗けた。
敗北した。
紛れも無い、糊塗しようもない敗北。
それを覚えることになろうとは、ナードラならずとも誰もが想像すらしなかったに違いない。そしてナードラは、同じくスロリアの地に消えた二人の友人の顔を思い浮かべる――――度重なる航空戦の失態を贖うべく、本土より増派された貴重な新鋭機部隊を自ら率い、強力なニホン空軍と正面より激突し、結果として空に散ったエイダムス‐デ‐バーヨ。地上戦の最後の望みを担い、装甲部隊を率いて勇躍主戦線へと躍り出ようとしていたロフガムス‐ド‐ガ‐ダーズに至っては、対するニホン軍は何と空から大部隊を降下させてその南下を阻み、部隊は撃退された挙句にロフガムス自身もまた戦死している……
ニホン軍は、強い!……ナードラは、あらためて思った。
敗北を覚えた後には、沈黙が訪れた。その沈黙を誰が破るかに、皆の関心はすでに移っているかのようだ。敗北は、それを一人で受け容れるにはあまりにも大きすぎた。
「……ドクグラム」
彼にとって、もっとも自身に忠実な軍人であるはずの国防相の名を、カメシスは呼んだ。そして名を呼ばれた国防相は、この場で唯一の彼の上司たる執政官にあえて発言を促されたことにより、敗戦の責任を微かに減じられたものと安堵をおぼえたのかもしれなかった。
「これからどうするのだ? どうやって、あの東方のならず者どもを止める? このままではニホン人は国境を越えノドコールにまで雪崩れ込んでくるのではないか?」
恐縮仕切りの表情を作り、ドクグラムは言った。
「ロートの部隊を軍団に昇格させ、徹底抗戦を命じます。あの蛮族どもにノドコールの土は決して踏ませません。ご安心を」
「それで勝てるのか? 戦況は挽回できるのか?」
「勝ち負けなどもはや問題ではありません。執政官閣下」
「な……?」
ドクグラムはデスクに歩み寄った。
「これは国防軍、ひいては共和国の名誉に関わる問題ですぞ閣下。我が軍が極東の蛮族ごときに降伏したと知れれば、我が国の威信は地の底にまで失墜するは必定」
「…………」
「誤熟慮下さいませ閣下。植民地における現地人の騒乱も活発化しております。我が軍は早急にこれらの叛乱を鎮圧し、ニホン人の侵攻に備えねばなりません。反攻への時間を稼ぐと同時に、我が軍のノドコール防衛への揺ぎ無い信念をここで示す上でも、ロート軍団に名誉ある死を得る機会をお与えください」
躊躇……やがてカメシスは、渋々ながらに頷くのだった。
「わかった!……ロート大佐、もとい少将とその部下には気の毒だが、この際致し方あるまい」
「お待ちください執政官閣下……」
光の射そうとしていたかのような空気の漂いかけた執務室に一石を投掛けたのは、この場で唯一の女性だった。
「ナードラ女史、非常時である。この際意見の不一致は無用じゃぞ」
「今なお主力の捨てた拠点に残り抵抗を続けるロートら勇士に、執政官閣下は死ねと仰るのか?」
「…………!」
絶句……その直後に、広い執務室を重い緊張が襲ったかのようであった。周囲から注がれる非友好的な視線。叛意を促す、あからさまな舌打ちの音すらナードラは聞いたが、それで心を揺るがせるような彼女ではなかった。一人の将官が、畳み掛けるように声を荒げた。
「ただの死ではない。共和国の威信を守るための名誉の死である。軍人としての生を選んだ以上、彼等も本望であろう」
「人の死に軽重などない……!」
語気を強め、ナードラは執政官を睨み付けた。
「彼らにとっての戦争はもう終ったも同じ、無用に彼らの苦しみを長引かせるような残酷なことを、戦場を知らぬ我等が何の臆面も無く課すことに何の正道がある? 我等の無策を糊塗する意図あってのことか?」
「彼らにとっての戦争」と、ナードラは言った。つまりは彼女とて軍の敗戦を認識している一方で、国家としてのローリダの敗北は決して認めてはいなかったのである。その点は、この場の誰もが共有する認識であった。
ナードラの言葉に頷き、ドクグラム大将は言った。
「貴公の言や善し。然して我等にはニホン人の捕虜となり、蛮族の苛烈なる待遇の下で民族と軍人としての自尊心を損耗するであろう同胞に、より幸運で名誉ある選択を与える義務がある、ということですルーガ‐ラ‐ナードラ議員」
「…………」
沈黙したナードラに、彼は続ける。
「貴公にもお解かりのはずだ。武人は何よりも名誉を貴ぶ。同じ武人として、我々軍部は前線の将兵が何を考え、行おうとしているのかを汲み、彼らを正道へと誘わねばならぬ責務がある。徒な降伏の容認は彼らを混乱させ、ひいては彼らにさらなる不名誉を与えることとなろう。議員はそれをお望みか?」
「確かに……貴公の娘婿の最期は立派であられたそうですな」
「…………!」
嘯くナードラに、ドクグラムは隔意剥き出しの視線を向けた。それをも意に介しないかのように、ナードラはさらに言う。
「……だが、現地軍の誰もが、貴公の娘婿と同じ途を辿ればよいというものでは無かろうに」
期せずして起こる視線の交錯に、カメシスは無関心を装いつつ口を開いた。
「ロート部隊……否、ロート軍団に降伏を許さず、最後の一兵まで防戦に徹すべし……結論としては、それでよいのかドクグラム?」
「訂正を執政官閣下、持久防戦ではなく最後の攻勢をかけ、敵に消耗を強いることを御命じ下さい。それでこそ、ロート軍団の名誉も益々高まるというもの」
「狂っている……!」
ナードラの絶句は、もはやこの場では何の効果ももたらさなかった。
スロリア地域内基準表示時刻12月18日 午前10時28分 スロリア中北部
最後の防衛線の深奥部、そこに位置する半地下状の司令部―――――
すでに周囲をニホン軍に包囲され、持てる戦力の殆どをすり減らしたロート旅団は、風前の灯火の状態にあった。
「――――降伏はこれを認めず。ロート軍団は共和国国防軍軍人たるの矜持を以て、最後の一兵まで攻勢に邁進せよ。諸君らはすでに英霊なり。この上は不名誉なる生を選ぶべからず。慈悲深きキズラサの神は諸君らに永久の安寧と平穏を以て諸君らの献身と敢闘に報いん。諸君らの英雄的戦闘は、民族の子々孫々まで栄光の記録として銘記されん」
残存部隊の軍団への昇格。少将への昇進……これらの辞令とともに送信された電文を、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート「少将」は顔色一つ変えずに三度読み返した。
軍団? 昇進?……彼を取り巻く生き残りの幕僚の中には、これらの単語に対しあからさまな隔意を表情に出した者も少なくなかった。要するに本土のお偉方は、体のいい美辞麗句を並べ立ててはいても、結局は我々を見捨てたのだ。現下の情勢に対し何等手を打たないどころか、こちらの犠牲を盾に主力軍司令部をいち早く脱出させた植民地軍総司令部もまた然り。
「軍団への昇格」という言葉からして、その文面がまったくの欺瞞であることぐらい子供にも判る。
現在こちらが有している兵力といえば、数だけはわずか1200名で、軍団どころか連隊と呼べるかどうかも疑わしい小兵力。さらにはその多くが戦闘に堪えられない重傷者と、司令部逃走に際しいち早く置き去りにされた非戦闘員や後方支援要員で占められている。つまりは包囲するニホン軍と戦端を開けば結果は目に見えている。
士官の一人がロートの前に進み出た。イル‐アム方面の戦闘で敗退を経験してもなお、彼らはもとより、配下の一兵士にいたるまでこの若い指揮官には未だ信頼を於いている。進み出た彼自身、イル-アムの戦闘で自らの指揮する小隊を失い、そして頭部に巻いた包帯と汚れた野戦服が痛々しい。
悲愴な表情を浮かべ、士官は呼びかけた。
「閣下……」
「閣下はよせ。大佐でいい」
きっぱりと、ロートは言った。その表情から、一切の動揺を見出すことは出来なかった。その様子が、理不尽な状況を自覚しながらも覚悟を決めた士官に発言を促したかのようであった。
「大佐……最後の戦いの準備を」
「ロート大佐の下でなら、何時でも死ねます。どうかご命令を……!」
「後生です大佐。ご命令を……!」
口々に上がる決起を促す声を、ロートはその穏やかな視線を一巡させ制した。そして最先任の中尉に、彼は目を転じた。
「中尉、これが私の最後の命令だ。ニホン軍の司令部に赴き、降伏の意思を伝えろ」
「…………!?」
沈黙のうちの驚愕――――それらをこの眼で確かめ、そして受け流すかのようにロートは続けた。
「これは命令だ。反抗は許さない。いいな、降伏するんだ」
「しかし……本国が」
「命令したのは私だ。降伏は諸君らの意思ではない。全ての責任は私が取る」
「大佐……!」
居並ぶ士官、下士官の間から、嗚咽が漏れるのをロートは聞いた。それに心を動かされた表情を、安易に見せるロートではなかった。
「諸君らは胸を張って生を選ぶだけのことをしたのだ。何も恥じることは無い。もし恥ずるところがあるとすれば、それはすべて私一人に帰せられるべきだろう」
居並ぶ男達を前に、ロートは微笑んだ。それに抗うことのできる者など、もはやこの場には誰も居なかった。
降伏は、決した。
スロリア地域内基準表示時刻12月18日 午前11時12分 スロリア中北部
状況の膠着より一〇時間―――――事態は、唐突に急変した。
地上戦における趨勢が決したのを境に、戦況はまさに掃討戦の状況を呈している。敵の戦力が激減したのを見計らい、方針は敵軍の撃破から敵兵の身柄確保へと変換し、それらの作戦は短時間の内に成果を上げていった。むしろ抵抗の無謀なることを悟り、武器を捨て進んで投降するローリダ兵も多かったのである。
――――そして、昨夜になりイル-アムに隣接する山を利用した歩塁ひとつが残った。捕虜から得た情報により、そこにイル-アム攻撃を指揮した敵の指揮官が潜んでいることが判明した。降伏勧告はその夜から翌18日の午前9時まで四度に及び、その度に黙殺された。
PKF陸上自衛隊 第2普通科連隊の一人の幕僚が、ローリダ軍の捕虜を使い同僚に降伏を促す方法を具申し、それは即座に容れられた。捕虜の中で最高位の、イル‐アム攻防戦の最中に敵中に孤立した結果、部下共々捕虜となったグラノス‐ディリ‐ハーレンという小隊指揮官に、白羽の矢が立てられた。
「それはできない……」
幕僚の協力要請を、ハーレンは悄然とした表情もそのままに固辞した。説得しようとなおも食い下がる幕僚を諭すように、ハーレンは言った。
「あなた方も軍人なら判る筈だ。喩え捕虜の身とはいえ、同胞を敵に売るかのごとき行為に、我々が手を染めるわけにはいかない。あなた方の寛大な処遇には感謝するが、何と言われようと降伏の勧告だけは我々にはできない」
ハーレンの言葉は正論だった。連隊長佐々二佐は自身の不明をハーレンに詫び、その案もまた立ち消えとなった。
そして包囲の状態のまま解きは過ぎ去り、総攻撃の時刻も決定された―――――ときに午前11時15分。
その三分前―――――
「武装勢力の使節らしき人影を視認……!」
最初に異変を察知したのは包囲網の一角、イル-アムを基点に布陣し前進命令を待っていた第2普通科連隊の一哨所だった。一人の隊員が、双眼鏡の中に白旗を掲げ近付いてくる三名の敵兵を見出したのだ。咄嗟に配置に付く隊員の前、眼の鼻の先に迫ったところで敵兵は歩を止め、声を上げた。
「我々に戦闘の意思は無い。お前たちの指揮官と話がしたい……!」
そして三人は、連隊長たる佐々二佐の前に引き合わされる。三人の中で、年齢、階級とも最も高いと思われる中年の男が進み出、すぐにそうと判るくらい、丁寧な口調で言った。
「あなたがニホン軍の指揮官か?」
「第2普通科連隊の佐々だ。用件を承ろうか」
「……我々の指揮官の意思を伝える。お前たちに降伏する。以上だ」
咄嗟に、佐々は先任幹部の二階堂一尉に目配せする。反射的に一尉は踵を返し、足早に指揮所を後にした――――― 一分前に迫った攻撃再開に待ったをかけるべく。そして攻勢は回避され、降伏は受諾された。攻撃の停止を完全に確認すると、佐々は無表情のまま立ち尽くす三人の敵兵に向き直った。
「ご苦労だが、少し頼まれてくれないか?」
「…………!」
佐々の申し出に、三人は互いの顔を見合わせる。それはあまりにも意外で、大胆な申し出であったから―――――
スロリア地域内基準表示時刻12月18日 午前11時12分 スロリア中北部
待つ者たちにとって、同僚の帰還は意外な形を伴うこととなった。
送り出した三人の連れてきた新たな人影に、ローリダ軍の陣は騒然となる。濃緑色の迷彩、特徴的なヘルメットと胸甲……三人の仲間がそれらを纏った男達を連れているのを眼にした瞬間。一人の兵士が銃を向けた。それに気付いた三人の中で最先任の中尉が露骨に顔を顰め、手を振る。「銃を下ろせ」の合図だった。警戒を解かせて先に入り口に達すると、中尉は後ろを顧み、手振りで自衛隊員に上ってくるよう促した。
ニホン兵が来た!……
死をも覚悟した彼らの前に現れたのは、まさに彼らの知るニホン兵だった。その数二名。一人は指揮官然とした壮年の男。そしてもう一人は容貌からして初老に達したかと思われるものの、その頑健な体躯と表情の険しさに、付け入る余地など何処にも見出せなかった。
ここが、武装勢力の陣地か……驚愕と興奮とを胸中でない交ぜにして、佐々は辺りを見回した。
「…………」
佐々二佐と大山陸曹長の二人を注視する敵兵の人影。その何れも傷付き、服装も粗末なもの。武器にいたってはその殆どが小銃で、大砲などの重火器はその片鱗すら覗くことは出来なかった。手ぶらの者もいるから、おそらくはその小火器でさえ満足に充足していないのに違いない。
これではPKFの攻勢を受けた際、一溜りもなかったであろう。すんでのところで「戦闘」ではなく「虐殺」の発生を食い止められたことに、佐々は天の采配と敵の指揮官に心から感謝した。
さすがに……と言うべきか、その彼らから友好的な空気を感じ取ることは出来なかった。それに気付いた時、佐々はヘルメットのバンドに指を掛け、躊躇いもなくヘルメットを外した。緑の重厚なヘルメットの下から現れた精悍な容貌に、周囲からどよめきの声が漏れる。そして佐々は傍らの大山陸曹長を省み、ヘルメットを外すように目配せした。佐々の挙動に大山は嶮しい目で応じたが、それでも渋々……という風に彼の上官に従う。大山がヘルメットの拘束を解き、それを下ろした時には、周囲の空気は少なからず和らいだものとなっていた。
佐々は息を漏らす―――――おそらくは、安堵の溜息。ローリダの士官へ向き直り、佐々は言った。
「君たちの指揮官は何処だ?」
「こちらです」
敵兵の口調も、すでに改まったものとなっている。中尉に先導され、二人は薄暗い壕の入り口へと足を踏み入れた。幾重もの隘路を踏破し、一層に暗さを増した先に、開けた部屋が口を開けていた。
パアァァァン!
「!?」
銃声――――――二人ならずとも驚愕し、先の見えない道で歩を早める。
地面には、突然の闖入者と取っ組み合った末に、今しがた手から離れたばかりの拳銃が、その銃口から煙を吐き出し続けていた。
「……何故、邪魔をした?」
放心したような眼をそのままに、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートは彼の手から自身の生涯で最後に使うはずだった道具を奪った少年兵を見遣った。それには答えず、彼がこの前線に赴任して以来ずっと彼と行動を共にしてきた少年兵は、只無心に顔を腫らして涙を流し続けていた。敗戦が確定して以来、自分がずっとこの少年に見張られていたことに、今更ながらロートは気付いていた。
「…………」
「そうか……言いたくはないか」
嘆息とともに、ロートは机を見遣り、その上に置かれた遺書と軍服から剥ぎ取った共和国国防軍大佐の階級章に眼を細めた。そしてそのとき初めて、この場に足を踏み入れた人影の存在に気付いた。間近に敵手を見たところで、動揺するロートではなかった。
この男が、敵の指揮官か……感慨にも似た思いと共に手が上がり、敬礼している佐々と大山がいた。
若い……自分よりずっと年下であることはすぐにわかった。おそらくは、まだ30も出ていないのかもしれない。
だが二人は察した―――――相当に有能で、部下の信頼も篤い指揮官なのだろう。何というか、その外面から漂う風格でわかる。
この男が、イル-アムを守っていたニホン軍の指揮官か……佐々二佐に眼を細め、ロートは再び嘆息する。
こういう男たちがいる軍隊を相手にした時点で、我々の敗けは確定していたということか……苦笑とともに、ロートは言った。
「醜態を晒してしまったな……正直こういう姿は見せたくは無かった」
「自決を考えておられたか……愚かな」
「私は軍人だ。私とて軍人として恥というものを知っている。敗軍の将が戦の後始末をした後にすることといえば一つしかあるまい」
「いや……貴官には生きていただく」
ロートは苦笑した。
「……そうか、私は晒し者か」
「我々のためではない。ここにいる貴官の部下のために、そして貴官を待つ故郷のために、貴官は生きなければならない。いま貴官が此処で死を選べば、残された者はどうなる?」
「あなたは……?」
佐々は、ロートから目を逸らすようにする。
「私は……単なるおせっかいな日本人だ」
「おせっかい……面白いことを言う」
その瞳からは戸惑いの色が次第に消え、やがて明るさが戻っていく。
スロリア地域内基準表示時刻12月19日 午前10時32分 スロリア中北部
―――――その日は、空は何処までも晴れ渡り、心を顕すような蒼を天球に拡げていた。
その日の早朝、ロートたち最後の部隊の幹部を乗せた軍用地上車は陸自の高機動車に先導され、協議の末設定された会談の場所へと向かった。
降伏の段階では、ロートの率いる部隊は一両の車両をも保有してはいなかった。彼の部隊の性格からしてそれらの車両を配備する機会に恵まれず、その車両も殆どが戦闘で損傷し、大破していたこともある。そのためPKF司令部はこれまでの地上戦の過程で鹵獲された車両から状態の良いものを「返還」し、運用に供したのであった。
当初、地勢とスケジュールの問題からヘリコプターへの搭乗を勧める佐々に、ロートは頭を振りこう言った。
「私個人としてあの乗り物に少なからぬ興味がある。それは否定しない。だがこれまでの経緯からあの乗り物にいい印象を持っていない部下の方が圧倒的に多い。彼らの心象を悪くしては今後の統制と協調に響くのではないかな」
ロートの言うことはもっともだった。
会談の場所には、スロリア中部に位置する、すでに住民の消えた集落が選ばれた。その途上、ロートは自軍の周囲に展開する敵軍の装備や配置をつぶさに観察することができた。
結論から言えば、ニホン軍は自軍のそれに負けず劣らずまとまった規模を持つ機甲部隊を持ち、その装備の性能、兵員の練度ともに自軍に優越している。そこにきて上空を頻繁に通り過ぎる回転翼機……打撃力の上に卓越した機動力を持つ敵に、戦いを挑んだ時点から勝負は決まっていたのだと、ロートとしては痛感せざるを得ない。
途上では頻繁に見かけたニホン軍の戦闘車両や拠点も、ロートを乗せた車が集落に差し掛かるにつれ、次第に乏しくなっていく。そして集落に差し掛かったとき、そこにいたのは少数の車両と一個中隊ほどの人数しかそこには存在していなかった。
車は広場と思しき平地で止まり。ひとりの幹部がロートの前に進み出た。戦闘用の装備に身を固めてはいたものの、ロートの前に立ったのは明らかな女性。
「PKF司令部付きの氷川一等陸尉です。阪田総司令官閣下がお待ちです。こちらへ……」
氷川一尉の指示の下、一行の周囲を五名の隊員が固めた。小銃を肩から提げていたが、そのいずれにも弾倉が装着されていないことにロートは気付いた……敵意は無いということか? そのロートたちは、実弾の入った拳銃の携帯を許されているのだが……
集落の高台に位置する家屋。そこが、彼らの会談の場所だった。事前に聞いていた通り、家の傍に聳える細い木が、すっかり葉を落とした枝から冬の拡がりを侘しげに主張していた。随員とともにその傍に佇む恰幅のいい男の姿を見出した時、ロートは直感する……その直感は、正しかった。
「阪田閣下、ロート大佐をお連れしました」
氷川一尉の報告に、阪田 勲 陸将は来た道を振り返った。それが、両者が眼を合わせた最初の瞬間だった。
「無愛想な男ですね」
と、部下が囁くように言う。ロートはそれに微かに頷いては見せたが、決して同意をしたわけではない。
部下を待たせ、ロートは一歩を踏み出した。阪田陸将もまた、歩を進める。ロートは彼が老境にあることを悟らなかったわけではなかったが、彼の眼はしっかりと、これから対談を交わす若い指揮官を捉えていることをも感じていた。
敬礼――――その形は違えども、同時。
「貴官のご決断に、深い敬意を表する。ロート大佐」
「降伏の打診受諾、感謝します。サカタ将軍」
阪田は、硬い表情を崩さないまま、自らロートに席を勧めた。テーブルを挟み、ロートと阪田を始めPKF地上部隊の各師団長が対面する形で座る。互いの自己紹介が終ったところで、最初に言葉を切り出したのは、阪田陸将だった。
「ご希望があれば、覗おうか」
「……本官にはあの通り、1000名程から成る部下がいます。将軍にはまず、彼ら及びその他の同胞の生命と、人間としての尊厳を保障して頂きたい。かかる戦闘の全責任は本官にあります。彼らは本官の命令に従ったまでのこと」
阪田は頷いた。
「日本国及び日本自衛隊の名誉に懸けて、貴官らの生命及び名誉は守らせて頂く。その点は安心めされよ」
そのとき、ロートは心底からの安堵を覚えた。彼が求めていたのは只それだけの確約であったから――――そして強面のニホン軍総司令官の声と表情に、一片の偽りも無かった。
ロートは、笑った。それにつられ、阪田も微かに笑った。一見して武人のそれと判る、渋い笑顔だった。だがロートはその種の笑顔が嫌いではなかった。
「……それにしても、貴官の軍はお強い。正直勝てるとは思わなかった」
「いや……貴官の敢闘ぶり、この阪田甚く感服した。それはこの場にいる我々の幕僚全員の一致するところ。正直我々の貴官ほどの年代の指揮官で、貴官と同じ戦いを為しえたかどうか正直疑問です。うちの若いものにもっと発破をかけねばならん」
「これから、我が軍の将兵はどうなるのですか?」
阪田の横に座る幕僚が、事情を補足する。
「ノイテラーネ及び我が国本土の収容施設において、停戦まで過ごして頂くことになります。さぞ窮屈な思いをさせるかもしれませんが、ご了承ください」
「……ニホン人の食事が、我々の口に合えばいいのだが」
「ノイテラーネ及び我が国本土の収容施設では、すでに同じ捕虜の手になる調理施設が運営されております。そこではあなた方の故郷と同じ味を堪能頂ける筈です。ついでに言えば、収容施設ではあなた方にとって大切な礼拝所も開かれております。あなた方の信仰に関しとやかく言う意図は我々には無いし、あなた方の内面に干渉するつもりもありません。停戦の日まで、ごゆるりとなさってください」
「それは助かる……部下も喜ぶでしょう」
心から安堵を覚えつつ、ロートは言った。
「捕虜を何人得たか、良ければお教え願いませんか?」
「先日も含め、開戦よりその身柄を確保することざっと40000名です。正直彼らを食わせるのは我々としても少なからぬ負担でしてね。そろそろ戦闘そのものを停止したいところです」
「停止?……ノドコールへは、進撃しないと仰るのか?」
「それは今後の我が国政府の決断次第だ。我々の独断では決められない」
「そうか……あなた方は、いい軍隊なのだな」
我々は負けるべくして負けたということか……それを悟り、ロートは嘆息する。
だが、何故か敗北感とか、悲壮感といったものは何時の間にか彼の胸からは消え去っていた。この日の空のように―――――
この日―――――12月19日。
PKFは地上戦に「勝利」した。そして……
PKF総司令部及び東京の統合幕僚監部は、地上戦の「終結」を宣言した。
ローリダ領ノドコール国内基準表示時刻12月19日 午後0時27分 首都キビル郊外 植民地駐留軍総司令部
降服の報を受け、今しがた同僚たる前線部隊司令官たちの脱出に沸いていたはずの総司令部では、少なからぬ困惑と怒号が飛び交っていた。
「ロートが降伏しただと……!?」
植民地駐留軍総司令官ナタール‐ル‐ファ‐グラス大将は、その肥満しきった体躯包む軍服を揺すり、驚愕と怒りに声を張り上げた。
「あの痴れ者めが!……蛮族なんぞにのこのこと投降しおって!」
「我等の面目はどうなるのだ……これだから成り上がり者は信用ならんのだ!」
目算が外れ憤る将官や参謀たちを、指揮所の片隅からミヒェール‐ルス‐ミレスは冷ややかに見詰めていた。戦局に何ら関与せず、遠方から味方を罵る以外に何も為さなかった彼らの無思慮や横暴振りを諌める口を、彼女はもはや持たなかった。
そして―――――
ミヒェールは安堵を覚えた。
安堵―――――
センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートが生きているという安堵―――――込み上げる歓びの内に、ミヒェールは目を瞑った。心からの落涙に抗いきれないかのように……
スロリア地域内基準表示時刻12月19日 午後2時25分 スロリア中北部
当初昼食を終えた午後一時に終了する予定だった会談は、それを大幅に越えて終った。今後の捕虜の待遇、負傷者の移動計画等突き詰めた話し合いが繰り返されたこともあったが、ローリダ側、日本側とも実際には互いを善き友人と見做し、そのように接したことに起因する遅延であったのかもしれない。
別れる間際、ロートと阪田陸将は、固く握手を交わした。
「閣下のお陰で有意義な話し合いが出来ました。兵士たちも喜ぶでしょう」
「不都合があれば、遠慮なく申し出て頂きたい。我々は貴官のような勇者を何時でも歓迎します」
「ご厚意、感謝します。サカタ将軍」
二人は、車の待つ麓まで歩いた。陣地へと戻る車に身を沈める際、ロートは阪田に一礼し、阪田は敬礼で彼に応えた。帰路につくべく動き出した車を、阪田たちはその姿が見えなくなるまで見送った。
「なかなか……立派な青年でしたね。敵の指揮官は」
「本当に交渉に出るべき司令部は彼らを置いて真っ先に戦場から逃げたそうだ。この分では彼らの将来が思い遣られるというものさ」
随行する幕僚たちの交わす言葉を、その広い背中で、噛み締めるように阪田は聞く。沈黙を続ける阪田に幕僚の注意が集中したとき、彼は言った。
「これで当分、我々に残された仕事は戦場の掃除のみとなった。あとは東京の仕事だ」
ローリダ国内基準表示時刻12月19日 午後2時30分 首都アダロネス 第一執政官官邸
「ロート軍団」の降伏と地上戦における全面敗北の事実を、本国では比較的冷静に受け止めていた。だがそれも共和国の中枢たる第一執政官官邸の一室という狭い空間だけで問題が共有されているが故の冷静さだ。
一般には報道管制こそ敷かれてはいたが、機密を知る立場にある元老院議員の、平民派閥族派を問わず臨時会開会の要求はすでにカメシスの元にも達し、平民派議員の中には、彼らが独自に開く庶民及び下層民から成る民会の場における事実の公表を盾に、臨時会の開会を要求する者すらいた。共和国第一執政官 ギリアクス‐レ‐カメシスは国内においても重大な決断を迫られようとしていたのである。
さすがに言葉を失ったカメシスと一同を前に、ドクグラムは言う。
「……戦争は未だ終ってはおりません。白獅子艦隊が健在であります。彼らの本土を海上より封鎖するという手が残っている」
「そうまで言うのならば、いっそのこと『神の火』も使えばどうか? ドクグラム将軍」
「…………!」
ナードラの言葉―――――その直後、無形の氷に執務室は閉ざされたかのようにその場の誰もが感じた。『神の火』――――それは共和国政府、軍部においても最上位層に位置する少数の人間によって守られる最高度の秘密にして、戦略上最大最後の切札であるはずだった。
衝撃と緊張をない交ぜにした男達一同を前に、ナードラは静かに語った。その言葉に、一切の後ろめたさも無い。
「人間ではないものに『神の火』を使うのです。たとえ蛮族が万単位で殺戮されたとて、我等が何の痛痒を感じることがあるでしょうか? それに我等が望むは単なる勝利にあらず。圧倒的な勝利で御座いましょう? 執政官閣下――――ご決断を」
「一考の価値がありますな。それは……」
口ではそう言っていても、ドクグラムの表情には明らかに逡巡と拒否感とが点滅を繰り返していた。通常兵器による反撃はともかく、この期に及んで「神の火」を使うとは―――――
そのナードラとは眼を合わさず、カメシスは言った。
「……ということは、わしは共和国史上、もっとも重い決断をする執政官として名を残すこととなりそうだな」
「訂正を閣下。名を残すとすれば、最も偉大なる決断をした執政官としてで御座いましょう。しかし勝利を得る手は未だ、幾らでも御座います。『神の火』は、むしろ蛮族に慈悲を与えるようなもの。正当なる戦いにこそ全ては決せられるべきと本職は愚考するものであります。『神の火』は最後の手段であることをお忘れなきよう……」
そう言い、ドクグラムはこの場に混乱を引き起こした唯一の女性を見遣った。彼の鷲のような眼の先で、席を立ったナードラはただ窓辺に佇み、そこから臨める執政官官邸の庭園に春の女神のような視線を注いでいる。
……だが、その言葉は厳冬の氷雪のごとき威圧を以てこちらに迫って来る。




