第二二章 「嵐のなかで」
ローリダ領ノドコール植民地内基準表示時刻12月16日 午前1時40分 第236野戦病院野営地
永遠とも思える闇の中で、靄のような静寂がテント建ての宿舎を覆うのを、リーゼ‐タナ‐ランは久しぶりに感じ取ったように思った。
もっとも、静寂が再び訪れたのは決して久しぶりというわけではない。キビルからの長距離移動、昼の眼の回るような宿営地設営作業、それに続く私的な身繕いといった各種の細々とした作業は、第236野戦病院の従軍看護士たちに漸く訪れた夜の安寧を久しぶりのものであるかのように錯覚させるほど、忙殺を強いたものであったからだ。
キビルから前線に近い、ノドコールと西スロリアの境界に位置する宿営地へと移動する間、タナは植民地ノドコールの「現状」を垣間見る機会を与えられたように思った。
ローリダの植民地となる前、ノドコールの現地種族――――要するに、ノドコール人――――の内、全体の七割に当たる人口が農業及び畜産業に従事していた。彼らのやり方は祖先のそれを踏襲した、決して生産性の高い方法というわけではなかったが、そこから生産され、供給される食糧は、当時の全人口を賄うのに十分な量を満たしており、王国としてのノドコールの独立を確保する上でも必要な要素ともなっていた。
だが……ローリダによる「解放」とその後に続く植民地化が全てを一変させた。植民地総督府の前進たるローリダ占領軍総司令部は独自の土地調査を行い、ノドコール農民の土地所有権の不明確なることを根拠に彼らの土地を強権的に接収し、植民地化の完遂と期を同じくしてローリダ本土より大量に流入してきた入植者に廉価で下げ渡したのである。
彼らは砂糖や煙草、そして天然ゴム等、それらの物資を必要とする本国の企業向けに大規模な単一作物栽培を行い、かつては土地の所有者であった多くの農民を農園労働者として劣悪な環境の下で使役した。その過程で、ノドコール住民が守ってきた先祖伝来の手法は悉くが「野蛮で非文明的」として排撃され、一方でローリダの農業学者や科学者が推奨する化学肥料と大規模な土木工事を多用した「文明的」な土地改良事業が推し進められた。
その結果に引き起こされたのは、食糧生産が著しく制限されたことに起因する慢性的な飢餓と、現状を無視した野放図な土地改良に起因する土壌の急激な劣化であった。植民地化前「豊穣の神の賜りし祝福の地」とノドコール人に謡わしめた国土は、今やその過半が草木一本も生えない荒地と化しつつあった。そこに、「解放戦争」の拠点としてのキビル市拡張と本国向けの建築資材需要の拡大に起因する大規模な森林伐採が拍車を掛けていた。
宿舎の硬いベッドにその肢体を横たえたまま、タナは移動の途上で昼食に招待されたローリダ人農園主の邸宅を思い返す。綿花の農園栽培で財を為した彼の邸宅は、アダロネスの高級住宅地にあると言われても疑いを抱かないほど豪奢な造りをしていた。
そこでは300名の現地人を使役し、一方で邸宅を中心にして広がる100リーク四方の土地では、同じく800名の現地人労働者が昼夜の別なく働かされていた。農園主より課せられた小作料と債務によって生活を束縛され、邸内に四つある来客用の寝室一つの広さにも満たない平屋建てのバラックに集められて寝起きする債務奴隷にも等しい彼等の姿に、タナはその端正な容貌が暗然に染まっていくのを隠すことができなかった。
出された食事はそれなりに美味なものであったが、突きつけられた現実に消沈した彼女の食欲を誘うものではなかった。上座で主賓たる野戦病院の司令官ドルキス軍医中佐と話しこむ農園主は善良な男であるのには違いないだろうが、口から出る言葉は現地人に対する優越感と差別意識を隠すまでもないと言わんかのようだ。
「ニホン人はけしからん……! あの連中がスロリアで暴れているおかげで、無学な現地種族の間にも反乱の機運が高まっている。ニホン人をここに引き入れ、我々を追い出そうという魂胆らしい」
確かに、その気配は農園に入るまでの途上で十分に伺うことができた。開戦以来、報道管制が敷かれているのにも拘わらず、噂や風聞の形で各地より流れ込んでくる反乱や暴動の報は増え続けていた。タナの所属する部隊もまた、今回の前進にあたり護衛は倍に増やされ、看護士たちにも拳銃の支給が行われている。自らの勢力圏内を通過するのにここまで厳重な備えをする必要など、未だ嘗てあっただろうか?……これらの変化に接するにつけ、誰もが怪訝な表情をしたものだ。
そして多くの人間が驚愕を覚えたことには、彼らの中で誰も、開戦からこのような展開を予想すらしていなかったことだ。ニホン軍は皆の予想を超えて強く、噂に拠ればすでにスロリア中南部のゴルアス半島は彼らの手に陥ち、彼らの地上軍は緒戦の勢いを駆り東南の二正面からスロリア中部、ひいてはノドコールへ迫ろうかという勢いだ。上層部はスロリア中部まで敵を誘い込み、そこで決戦を挑む腹積もりだというが、彼らの迅速な進撃を前に果たしてそれがうまく行くものなのだろうか?
ふと……タナは思った。
シュンジ――――運命の導くままに出会い、自分の命を救ってくれたあのニホンの青年もまた、銃を執り彼らの進軍に加わっているのだろうか?
「タナ?……未だ寝ていないの」
気が付けば、ロー‐ル‐スラ婦長が、ランプを片手にタナのベッドの傍に佇んでいた。
「明日は早いんだから、もう休まないと駄目よ」
毛布をかけるよう、ローはタナに勧めた。
「見回りですか……?」
「……ここも物騒ですからね。兵隊さんは、外で寝ずの番よ」
と、ローは寂しげな顔をする。
「明日には、前線ですね」
「ノドコールですらこの有様ですもの。向こうに行った方が、気が楽かもね」
「あのう……ロー婦長?」
「ん……?」
「この戦争……本当に勝てるのかしら」
その瞬間、ローの顔に暗さが加わるのをタナは見たような気がした。
「それは、判らないわね……というより、私には判らなくなった。でもねタナ……」
子供でもあやすようにタナに毛布をかけ、離れ際にローは囁いた。
「……そんなこと、私達が考えることではなくてよ」
「…………」
釈然としない思いを抱えたまま、幕舎から出るローに背を向けるかのようにタナは寝返りを打った。その視線の先では、先に寝入ったレイミ‐グラ‐レヒスが、隣接するベッドの中で身を丸め深い寝息を立てている。その寝顔に目を細めながらタナは思う。
シュンジ……あなたは今何処にいるの?
もしスロリアの戦場に身を置いているとして……あなたは何のために戦っているの?
ドオォォォォ……ン……
「…………!?」
その轟きは決して大きくはなかったが、寝床で持て余す気だるさからタナを解放するのに十分すぎた。
弾かれたようにタナは寝床から半身を起し、宿舎の外へと駆け出した。そこで目を凝らした東の果てが明るく瞬いている光景に、タナの蒼い瞳が釘付けになる。夜空を照らす白い瞬きは、蒼の瞳の遥か遠方で一層烈しくなり、やや遅れて断続的な爆発音すらはっきりとした質感を持って聞こえてきた。
「戦闘だ……戦闘が始まったんだ」
警備の兵士達は顔を引き攣らせ語り合った。閑静な宿営地は一転して慌しさを増し、それはタナ自身にも前線に身を置いているような切迫感を抱かせるのに十分だった。
「…………」
ただ呆然と立ち尽くすタナの背後で、起き出した少女たちの話し声がした。
「ニホン軍が攻めてきたのね」
「ここまでやって来るのかしら……恐いわ」
「大丈夫……国防軍が守ってくれるわよ」
戦闘……間接的にとはいえ、タナは生まれて初めて本格的な武力衝突を眼にしているのだった。だが断続的な爆発音の連なりに、戦闘の詳細を掴むことはタナならずとも不可能だった。
「宿営地をすぐに撤収し、安全地域へと退避します。皆さんは準備を……!」
と、警備部隊の隊長が声を上げた。野戦病院はあくまで後方部隊。移動を躊躇するあまり前線の混乱に巻き込ませるのは得策ではないだろう。口では恐怖と不安を唱えてはいても、皆は一斉に動き出し身繕いを始めていた。戦火を間近にしてもあまりに落ち着き払った周囲の様子に、少なからぬ感銘を覚えた者もいたかもしれない。それに……
「ここから北東に40リーク行った先に、近衛騎兵連隊が展開しているそうだ。彼らに合流して今後の指示を仰ごう」
宿舎の外で、警備部隊幹部の言葉を傍聞きした少女看護兵たちの間では、むしろ嬌声に近い声が上がっていた。
「近衛騎兵連隊ですって。かっこいい良家の男子が沢山いる部隊でしょう?」
「むしろ幸運かも……」
「良かったですね。タナさん」
と、寝床から起き出して軍用コートを着込みながら、レイミが言った。
「うん……」
ばつ悪そうに、タナは頷いた。近衛騎兵連隊に身を置いているオイシール‐ネスラス‐ハズラントスのことが思い出された。ノドコールでの任務に倦んでいた彼もまた、新たな戦いの場を得て喜んでいるのだろうか?
遠くから、自動車のエンジン音が次第に近づいて来た。看護兵たちのために警備部隊が輸送用トラックを指し回しているのだった。
移動のときが、近付いていた。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前5時30分 スロリア中西部 イル‐アム谷
夜が明けるまで、未だ時間があった。
飛び発ったときにはだだっ広い平原だった眼下は、降着を諮る頃には人跡未踏という表現がピッタリの鬱蒼とした森林に姿を一変させていた。
敵のレーダーを警戒し、低空スレスレを飛ぶこと一時間―――――縦横に入り組んだ丘陵地帯に機首を傾け、ヘリコプターの編隊はさらに高度を落とし始めた。
その内の一機――――丘の頂上に陣取ったUH-1Jから、同時に四本のファストロープが下ろされる。小銃を背負った普通科隊員がロープを掴みつつ機外に身体を乗り出し、「降下準備よし」を告げた。降下を同時に、かつ一気に行うのは機体の重量バランスを取るためだ。
『――――こちら機長、降下を許可する』
「全員、降下……!」
インカムを打つ命令が合図だった。ロープを掴んだ普通科隊員が弾みを付けて一斉に滑り降り、瞬く間に地上へと歩を標した。ファストロープを解かないまま、四名は降着の成功を噛み締める間も無く腰を落として小銃を四方に向け、目を鷹のようにする。
「……こちらタシギ、周囲に脅威は確認されない。送れ」
報告を送った後、高良 俊二は自らの腹部と上空でホバリングを続けるUH-1Jとを結びつけるファストロープを解いた。ダウンウォッシュに抗いながら頭を上げ、ゴーグルに守られた眼前では、すでに降着第二陣の四名がヘリの胴体から背を乗り出していた。
俊二たちばかりではなかった。丘陵の各所ではUH-1やUH-60といった汎用輸送ヘリが続々と隊員を降着させ、場所によってはすでに塹壕の構築すら始まっている。俊二の分隊も例に漏れず、安全を確かめるや背嚢に収めた猿臂で、急造陣地を構築すべく穴掘りを始めるのだった。
一機のUH-1が一際開けた平原の上に着陸する。その胴体の両側に、偵察用バイクが固縛されているのを俊二は見逃さなかった。降着するや、偵察隊は一斉にヘリから飛び降り、軽快なエンジン音も高らかにあっという間に森へと突っ走っていく。
その次に上空に進入してきたのはCH-47だった。そのCH-47は胴体下に120㎜迫撃砲を吊下していた。地上からの誘導に従い一際高い丘の上に迫撃砲を下ろすと、チヌークは再び平地に着陸し、今度は後部ハッチから増援の隊員を吐き出し、また上昇していった。
スロリア中南部に位置し、ノドコールにも近いイル‐アム谷は、PKFを迎え撃つ敵軍にとって、丁度後背に位置する地点だった。だからこそ防備を十分に為しておくべきはずが、そうはならなかった。
この場所を敵が空けておくのには十分な根拠があった。大規模な機械化部隊を展開させるには狭隘かつ峻険すぎ、しかも後背であるがゆえにPKFが地上から浸透を図るにはローリダ軍前線を大きく仰回しなければならず、その分敵の撃滅までの貴重な時間を失することになる上に兵力分断の危険を冒すことになる―――――少なくとも、ローリダ軍司令部はそう考えていた。
……だが、ローリダ軍には陸自が保有しているような空中機動部隊は存在しない。野戦における自軍歩兵の移動手段が地上を行くものに限られる以上、彼らは彼等なりの兵理上の常識で物事を判断せざるを得なかったのである。
それはかのセンカナス‐アルヴァク‐デ‐ロートもまた同様であった。いくらニホン軍が機動力と装備に優れ、後方との連絡遮断の必要性を察知しているとはいえ、孤立の危険を犯してまで自軍後背への進出という大胆な手段を取るであろうか?……彼もまたそう考え、司令部の判断にあえて異は唱えなかった。
……従って、イル‐アム谷の防備は自然、疎かになった。
……そこに、PKFの付け込む隙が生じた。
戦闘開始以来、東方、南方よりのPKF地上部隊の進撃は、迎撃する形となった敵の注意を後背より逸らす好機を生み出していた。戦闘開始からいち早く第71、72の両機甲旅団が敵の南部防御線を突破し、ノドコール方面より南下してくる敵別働隊迎撃のため北上した後、がら空きになった後背に第11、12の両空中機動旅団が迅速に展開し、敵の退路を断つ。
――――第12旅団第2普通科連隊長 佐々 英彰 二等陸佐を始めとする連隊本部が丘陵に降着を果たしたときには、日はすでに東の端にその赤い輝きを覗かせ、イル‐アム谷の防御陣地化はあらかた進行していた。
「……ムカデよりカヤギへ、送れ」
『――――こちらカヤギ、状況知らせ』
ムカデとは第2普通科連隊の暗号名であり、カヤギは第12旅団本部の暗号名である。通信が確保され、連隊本部より周辺に脅威が存在しない旨が告げられた後、旅団本部は戦況詳報の伝達を開始する――――
――――現在、敵はPKFの攻勢を前に各所でその連携を寸断され、ひたすら局所的な防御に徹している。攻めるPKFからすれば、これら敵の小規模な防御拠点を一つずつ潰し、徐々に包囲網を狭めていけばよい。
同時に第71、72の両機甲旅団は敵前線突破の後北上を続け、今日の夜間にはスロリア中北部に到達する勢いだ。もっとも、機甲旅団は大して抵抗らしい抵抗を受けることもなく迂回機動に成功している。この迂回起動によりスロリア中部の敵地上軍主力とゴルアス半島北部に展開する二個旅団は完全に分断され、敵側面の無防備ぶりはまた、PKFの攻勢発起と期を同じくして、敵もまた攻勢を指向していたことをも暗示していた。
敵の出鼻を挫いた上での迂回機動の成功。それは一面では、現地司令官の阪田陸将の果敢な決断の為せる業と言えるのかもしれない。あまりの見事さゆえ、本土の防衛省地下司令部で作戦の推移をモニターしていた植草 紘之 幕僚長など、同席の幕僚に
「このままいけば阪田さん、児玉 源太郎を越えるな」
と「前世界」の日露戦争を勝利に導いた偉大な先人の名を出し、苦笑交じりに嘯いたほどである。
「しかし、この時代になって会戦を見られるとは、小官は想像もしませんでした」
「会戦か……確かに、そうだな」
植草は笑ったが、戦況表示ディスプレイを眺めるその眼は、真摯な宗教家のそれを思わせた。本来自衛隊は、広大な戦域で大軍同士のぶつかり合いとも言える会戦を行うようには作られていない。第七師団のような例外を別として、島嶼帯の連なる日本本土を防衛する必要上、限られた広さと地形を持つ場所への局所的な戦力投入を想定して編成されている。
それが……こちらの歴史からすれば「会戦」などというあまりに旧態依然とした方法で戦争を遂行している。
それが……現下の状況に見事な適応を見せている。
側面を突破した機甲師団はそのまま北上、あえて敵主力の包囲体勢を取らず、戦域の中北部まで機動し敵機甲師団の南進に備える。これら機甲旅団の北上に際し、ノイテラーネの輸送航空団は物資の空中投下でこれらの長距離機動を支援する――――敵の勢力圏内で輸送機が作戦飛行可能なあたり、それはスロリアの制空権が完全にPKFに握られたことを意味した。
第11、12の空中機動旅団はいわば後詰めだった。味方機甲部隊の後背を確保しつつ後退する敵の逆撃に対応し、最終的には敵機甲師団を撃破し南に取って返す味方機甲旅団と協同し、追い詰められた敵主力を包囲、これを殲滅する。敵主力の包囲殲滅は、自衛隊創設以来というより、日本に近代戦という概念が定着した百数十年前以来の日本陸軍の壮大な願望であり、果せぬ夢であった。
「0820に各中隊長を集合させろ」
――――佐々二佐が命令を下したときには、すでに周囲は明るさを取り戻していた。丘陵の頂上から目を凝らした先、頂上といわず中腹といわず各所に退避壕や銃座が作られ、擬装もまた始まっていた。隣接する丘の頂上で、擬装網をかけられた120㎜迫撃砲が黒光りする砲口で白んだ点を仰いでいた。そして迫撃砲はあの一門だけではなく、丘陵の麓では指向性地雷の設置も始まっている。簡単には抜けない「要塞」が、谷の一帯に形成されつつある。
畳み掛けるような爆音に少なからぬ隊員が空を仰いだ先、CH-53の二機編隊が南側の丘陵に着陸を果たそうとしていた。増援としてゴルアス半島方面より北上してきた西部方面普通科連隊の分遣隊だった。ラペリングも手馴れたものだ。ブーニーハットを被った屈強な体躯の隊員が続々と降着しては脱兎の如く平野を駆け散開を重ねている。
「走れ走れっ……敵は待ってはくれんぞ!」
「普通科の前で無様なザマを晒してみろ。ハッ倒すからなクソども!」
背中に古参陸曹たちの罵声を受けながら、西部方面普通科連隊の隊員たちはそれぞれの持ち場で円匙を揮い、壕を掘り始めた。
――――その一角。
「センパーイ、敵は本当に来るんでしょうかねぇ?」
と、円匙を硬い地盤に突き立てながら、長田 勇 一士が聞いた。その傍らで同じく黙々と円匙を揮いながら、城 武 士長が応じる。
「そりゃあ出て来るともさ。なんせここは連中にとってアキレス腱だからな」
「アキレス腱……ですか?」
「早けりゃあ今夜当たり、全力で奪い返しに来るかもなあ……」
その言葉に、降着した際に感じた高揚感は消し去られ、戦慄がじわりと自らの心臓を掴むような感覚を、長田は覚えた。
―――― 一方、別の壕。
「掘れ掘れ、そのペースで俺の分の壕も掘ってくれよ」
地面に寝そべりながら、何やら配線を弄くっている高津 憲次 三等陸曹に、山崎 徹 一士は円匙を揮う手を止め、訝しげな視線を向けた。
「高津さん、何やってるんですか!?」
「見てわかんねえか? クレイモア仕掛けてるんだよ……あとは配線を繋いで、と」
「敵さん、何時来るんでしょうねえ……」
「今夜当たり、ヤマだろうよ?」
「今夜……ですか?」
「俺が敵の指揮官なら、夜襲を仕掛けるね」
「なるほど……」
円匙を揮う手を止め、山崎は感心したような表情を見せる。
「西普連分遣隊指揮官の上総 浩一郎 二等陸尉であります!」
降着を果たし、眼前に立った長身の若者に、佐々は目を細めた。若い……だが全身から醸し出す迫力は少なくとも入隊から二年や三年で出せるものではなかった。
「上総二尉の出身は少工校か?」と、佐々は聞いた。上総は背を正した。
「ハッ……そうでありますが」
「やっぱりな……ガタイが違う」
笑いかけ、佐々は上総二尉の肩を叩いた。
「今夜当たり敵は来るだろう。頼りにしているぞ」
「お任せください。佐々二佐」
途端、佐々の眼差しが真摯さを増す。
「今だから言っておくが、君たち以外の増勢は期待できない。敵は我々の防御線を突破するべくあらゆる方面で死力を尽くしてくるだろう。それは他の隊の守っている防御線も同じことだ。我々は今手持ちの戦力だけで、ここを守りきらねばならん……第七師が敵機甲部隊を撃破し、こちらに取って返してくるまで」
「最善を尽くします……!」
佐々は頷いた。
「頼むぞ、では君の持ち場に戻れ」
上総二尉を下がらせた後、これまで黙って二人の遣り取りを伺っていた大山 寿信 陸曹長が口を開いた。
「あまりに酷ですな。あのような若いもんに前線の一端を担当させねばならんとは……」
「そう言うものではないさ。曹長」
佐々は苦笑する。
「……どんな軍人だって熟練兵になる前は若造だ。私もそうだったし……そして君も」
「なるほど……」
連隊長の言葉に、大山は皮肉っぽく口元を歪めた。
「ただ悲しむべくは……戦場において、若造に経験を生かす未来は平等には訪れない」
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前7時31分 スロリア中部
『――――ニホン軍の大兵力がイル‐アム谷に侵入。我が軍の後背に布陣するものならん……!』
斥候隊からもたらされた凶報は、瞬く間にローリダ軍の野戦司令部を駆け巡った。
「馬鹿なっ……あの長距離をどうやって機動してきたのだ!?」
第26師団長 エイギル‐ルカ‐ジョルフス中将はわなわなと肩を震わせ、絶句するのみだった。彼だけではなく司令部に詰めていた全ての幕僚が、その場に等しく蒼白な顔を並べていた。
……戦闘開始からすでに六時間余り、三個師団を主軸とするローリダ軍は、すでに防勢に回っていた。
最北方に布陣する第17師団はその六時間で総兵力の三割を失い、戦闘能力を喪失したも同然。生残った複数単位の小部隊が前進するニホン軍に対し絶望的な抗戦を続けている。第48師団に至っては、その当初から先鋒たるを自認し師団主力を突出しすぎたところをニホン軍の圧倒的な長距離火力に晒され、壊滅的な打撃を受けていた。その際師団長ゴーズ少将は重症を負い、現在では参謀長のレイファス准将が指揮を継承していた。
そして第26師団は……前進すべき先頭集団はすでにニホン軍戦車部隊に撃破され、前線はすでに20リークも後退している。戦死した連隊長はすでに3名、その他各級中、小隊長の戦死負傷が相次ぎ指揮通信網もまた寸断直前だった。
陸戦の強さも然ることながら、ニホン軍には強力な空の傘も存在する。ニホン軍の戦闘機は自在に味方前線上空に飛来して爆弾を投下し、ロケット弾を叩き込んでいた。その二種類の爆弾がまことに凶悪な代物で、一つは地上に突っ込むや広範囲に渡り紅蓮の炎を撒き散らし、もう一つは空中で炸裂、数百個の子爆弾を散布し地上の将兵や車両を殺傷、破壊してしまう。これらの空の猛攻を前にローリダ地上軍はまさに面単位で戦力を喪失していったのだ。
……しかも、彼らは武装した回転翼機すら飛ばし、我が軍の前線を脅かしている。
緑の迷彩を纏ったそいつはあたかも神話の世界に登場する、人肉を食らう怪鳥を思わせる姿をしていて、さらには強力な装備を持っていた。そいつが戦闘機の降りてこられない低空を飛来し、銃撃を加える度にローリダ軍の戦闘車両は数十台単位で撃破され、人的損害もまたうなぎ上りに上がっていく……彼等が知る術も無かったが、それは陸上自衛隊のAH-1Sコブラ及びAH-64DJロングボウ-アパッチ武装ヘリのなせる業だった。
「空軍は何をしている? 何故前線に出てニホン空軍を邀撃しない!?」
そうは叫んでみても、それが「無いものねだり」であることを幕僚の多くが知っていた。空軍の攻撃は現在に至るまでゴルアス半島方面の敵艦隊攻撃に集中され、それもまた捗捗しい戦果を上げていなかった。むしろニホン海軍の艦隊を見ることなく、彼らの強力な防空網に阻まれて撃墜される作戦機が多かったのである。
このような状況で地上軍への対地支援など、夢のまた夢だった。各師団には隷下の防空部隊も存在してはいたものの、その大半がやはり事前の航空攻撃により完膚なきまでに破壊され、機能を喪失している。夜間、恐怖心に任せて闇雲に上げた対空機関砲の弾幕から配置が露見し、その空爆により部隊が壊滅するという悲劇すら生じていた。
どういうことだ? 何故あの蛮族どもにあのようなことができるのだ? ニホン軍は魔法でも使ったとでもいうのか?……ジョルフスの質問に、偵察士官は戸惑いがちに頭を振るばかりだった。
「ニホン軍は回転翼機に兵士と装備を乗せ、あの狭隘な地形に一気に展開してきたものと思われます」
「……しかし何故だ? 何故彼らは機械化部隊を以て我等の後背を断たんのだ?」
司令部の疑念は当然だった。平地に極端に乏しい地形からして、イル‐アムに大規模な野戦兵力を展開させるのは到底不可能である。敵が我が軍の後背を遮断する意図を持つのなら、纏った数と火力を持つ師団級の兵力を、それも機動が容易な平地に展開させることが必須であるはずだった。
……だが、彼らはそうしなかった。
彼らの機械化部隊は貧弱な我が軍側面を突破するや本隊との衝突を避け速やかに北上、未だにその運動は続いているものと思われた。当の我が軍主力が東方より殺到するニホン軍主力への対応に忙殺されているからこそ、それは可能な運動であったが、彼らの挙動は異様なものに見えたのである。
驚愕から一転して困惑する幕僚達の末席にあって、センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート大佐のみが、静謐な視線をテーブルの一点に向けていた。
ニホン軍の意図が、最終的には我が軍の包囲殲滅にあることは確かだ。だがロートには、彼らの機械化部隊の動きからして、ニホン軍が重大な意図をその裏側に隠しているように思えてならなかったのだ。
『そうか……!』
感嘆の声は小さく、誰にも聞こえなかったが、ロートの脳裏に荒波を生じさせるのには十分だった。
「閣下……ニホン軍はおそらく、南下する赤竜騎兵団の撃破を期して北上しているのではありませんか?」
一人の参謀が目を剥いた。
「常識でものを量りたまえ大佐。機械化部隊、特に機甲部隊は莫大な燃料を消費する。喩え北方に展開しえたとしても迎撃体勢を取る前に物資を蕩尽し尽くして自滅するぞ。特に重い戦車のアシは短い。ニホン人とてそれを理解しているはずだ」
「東方の敵軍団は、主攻ではありません。敵の真の主力は、現在北上を続けている敵機械化部隊です。東方の敵は我々を現戦線に釘付けにするための囮です。敵の真の意図は赤竜騎兵団を主力とする本国軍を捕捉し、撃破することにあります。あれほどの装備を持つ彼らです。長距離の機動など朝飯前なのでしょう」
「……では、どうしろというのだ」
「ここは一旦後退し、前線を整理すべきかと……赤竜騎兵団もまた、これを後退させるべきです」
後退……言うは容易く、行なうは難い。何故なら、26師団が後退すべき経路の先には、低いながらもスロリア西部の全戦域を睥睨するに足る標高を持つイル‐アム谷が存在したからだ。そのイル‐アム谷には―――――それに、南下する近衛軍団とは指揮系統が違う以上、作戦の方針転換に関し彼らの同意を得るのは至難の業であるのは明白だった。
……だが沈黙の後、充血した目を末席のロートに向け、ジョルフスは言った。
「センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート大佐……」
「はっ……」
「貴公に指揮を任せる。イル‐アムの奪回に必要な兵の数を言え」
「一個旅団……最低限、それだけは頂きたい」
ロートの目からはすでに気だるさが消え、鋭い煌きに座を譲っていた。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前8時23分 スロリア中部前線
敵師団の最終防御ラインを突破してすでに一時間……なおもしぶどく抵抗を続けている敵の塹壕を前に、PKF陸上自衛隊第八師団の各普通科部隊は停滞を強いられていた。
交戦距離、およそ150m。航空支援や砲撃支援はもはや出せない。それ位、彼我の距離は接近している。まさに一センチの極小距離を奪い合う戦闘が現在に至るまで継続している。こうした抵抗を前に死傷者が続出し、後退を強いられている小隊もまた多かった。
なおも小銃弾の着弾する遮蔽物から、島 亘 三等陸曹は流し目程度に前方の様子に目を凝らした。その視線の遥か先で、複数の緑色の鉄兜が塹壕の中で蠢き、機銃に取り付いていた。
味方のMINIMI分隊支援機関銃がけたたましい射撃音を発し、敵の立て篭もる塹壕の向こうへと吸い込まれていく。匍匐前進でじりじりと距離を詰めていく隊員の周囲に、敵から浴びせかけられる射撃の着弾が不快な土柱を上げ、ボディーアーマーを醜く彩るのだった。
島も撃った。味方の浸透を援護するための射撃だ。部下の分隊員もまた、それに倣う。
軽妙な射撃音とともに続々と吐き出される薬莢……鼻を突く硝煙の匂い……フルオートで丸一本弾倉を使い切り、再び次弾を装填する。
「装填……!」
何本目かの弾倉を叩き込んだ島三曹たちの上空を、二機のUH-1が駆け抜けていく。その胴体脇では銃手がM2 12.7㎜機関砲を構え、地上を睨んでいた。
ドドドドドドドドド……
たちまち、上空から浴びせかけられる機関砲弾の吹き上げる土煙に、敵陣は沈黙する。二機のUH-1は相互に連携し、旋回しながら敵陣上空を掃射し続けた。
すかさず、小隊長の饗庭三尉が叫んだ。
「総員着剣!……着剣だ。命令を出せ!」
「聞いたかみんな!」
島は叫び、分隊員を省みた。島に指示されるまでもなく分隊員は短剣を抜き89式小銃の先端に装着している。島もまた、それに続く。そして……
「突撃ぃ!――――――――――――いくぞぉ――――――――!」
ピイィィィィィ――――――――――
絶叫に近い命令と、警笛が合図だった。普通科隊員は一斉に制圧した塹壕や遮蔽物から飛び出し、銃剣を連ねて敵陣へと疾駆していく。それはまた抵抗を続ける敵兵も同じだった。最後を悟ったのか、彼らも尖った針のような銃剣を真っ先に向け、これまで守っていた塹壕から駆け出してきた。
距離が詰る……徐々に……そして一気に。それはさながら緑の波と濃緑の波とのぶつかり合う様を思わせた。
「…………!」
その眼前に、サーベルを振り上げた黒く汚れた敵兵の顔を見たとき、島は走りながら銃剣を逆さに握りなおした。
激突っ!……島の振り上げた銃床は、敵兵の顔面を直撃する。よろめいた敵兵の胸板に銃剣の切っ先を突き刺したときには、すでに周囲は阿鼻叫喚の巷と化していた。
交錯する彼我の銃剣。喚声と共にぶつかり合う躯。至近距離で轟く銃声……それらの帰結として昏倒するのは何れも敵兵。普通科隊員は日頃の近接戦闘訓練の冴えを生かし、短時間の内にローリダ兵を圧倒している。
銃剣の操作は、銃剣術で鍛え上げられた陸自普通科隊員の方に分があった。また、一部の普通科隊員は素手で飛び掛るローリダ兵を柔術の技で投げ飛ばし、徒手格闘で鍛え上げられた拳で顔面を砕く。それに対しローリダ兵の突き立てる銃剣は、特殊繊維製のボディーアーマーを前に虚しく弾き返されてしまう。そこを、横から振り下ろされた銃床の無慈悲な一撃がローリダ兵の頭部を打ち砕いた。
隊員たちが敵兵の死体の連なりを踏み越え、最後の塹壕を越えた先には、複数のバラックや天幕が立ち並ぶ平地が広がっていた。そこからもなお、少なからぬ数の兵士が現れ抵抗を続ける。分隊支援機関銃の火力支援の下、正確な近距離射撃でそれらを制圧しながらも、島たちは前進する歩を緩めなかった。追及する普通科隊員も続々と敵陣に雪崩れ込み、根強い敵の抵抗を排除していく。
帰趨は完全に決まっていた。ローリダ軍の最後の抵抗は悉く粉砕され、残余の部隊は逃走か降伏かの二者択一を迫られている。状況は、もはや掃討戦の様相を呈していた。
その終盤の混乱の中で、島三曹が至近距離からのバースト射撃の一撃で敵兵を倒した直後、部下の木島一士が叫んだ。
「分隊長、あれを……!」
指し示された方向の光景に、島は我が目を疑った。
陣地の中でも一際大きいバラックを囲むようにして、民間人と思しき男達がバリケードを張り迫り来る陸自隊員を前になおも抵抗を続けていた。その一角、前面に座らされ蹲る複数の人影に、全員の目が釘付けになる。男達より粗末な身なりに身を纏い、痩せ細った身体つきの人々には、少なからぬ隊員が見覚えがあった。
「あれは現地人です!……あいつらなんてことを……!」
これでは、銃を撃つこともままならない。躊躇する隊員たちの前に、男たちは現地人たちに隠れて猟銃と思しき長い銃を向け、ひたすらに撃ちまくっている。遮蔽物に身を隠しながら、饗庭小隊長が無線機に怒鳴った。
「……司令部へ、こちらヒイラギ、敵は現地人を人間の盾にして抵抗を続けている!……送れ」
『――――こちらヒバリ、状況を確認した。指示あるまで攻撃を待て』
と。上空を旋回するUH-60Jに座乗する前線統制官の声が入ってきた。おもむろに、饗庭三尉は再び無線機を取り上げた。
「第一小隊より支援分隊へ……送れ」
『――――こちら支援分隊、どうぞ?』
「迫撃砲、われが包囲している巨大なバラックが判るか?」
『――――視認しました、指示をどうぞ』
「一発であれを破壊できるか?」
「……自信はありませんが、やってみます」
「よし、頼んだぞ」
無線機を無線手に戻すと、饗庭は忌々しげに言った。
「守るべきものがなくなれば、あいつらも抵抗をやめるだろう」
一刻の後……空を切り裂く砲弾の滑空音に続き、81㎜迫撃砲の着弾の衝撃が一帯を揺るがした。黒い爆風と共に吹き上がるバラックの破片に、普通科隊員たちは伏せ、両腕で身体を庇い耐えた。
―――――その中で、分隊員の木島一士は、身を伏せた自分の眼前にあるものが落下しことに気付いた。ボトッ……という音に視線を転じた直後、彼は落下物の正体に愕然とする。
「子供の手……!」
やがて炸裂の硝煙が晴れ、突然の事態に呆然とする男達に、隊員たちは一斉に銃を向けた。
「観念しろ! 武器を捨てて出て来い……!」
呆然とするローリダ人を他所に、人間の盾となっていた現地人が目に涙を浮かべ、自衛隊員に駆け寄り抱きついてきた。その彼等を労い、肩を抱きながら、島はさり気無く、抵抗する術を失ったローリダ人たちに目を転じた。
「…………?」
銃を取り落とし、未だ炎を上げるバラックの残骸に一斉に駆け寄る男達……中には半狂乱になり、涙を流す女性の姿もあった。
「エリムは?……私の可愛い娘は何処!?」
「リュカ!……何処だ! 生きているのか!?」
銃を構えたままバラックに歩を進める普通科隊員に、ひとりのローリダ人が目を剥いた。
「この野蛮人! 私の息子を返せっ!」
「…………!」
遠巻きに見た、声を荒げるローリダ人たちの様子に、島三曹と饗庭三尉は顔を見合わせた。まさか……!
歩を進めた先、原型を留めない程破壊され、倒壊したバラックの外板の下から覗く腕、そして足、さらには呻き声……それはローリダ人の入植者達が、戦闘に耐えられない女子供をこのバラックに匿っていたことを意味していた。事態を悟り慄然とした饗庭たちの前に、彼らの中で最年長と思しき黒衣の老人が憤然と進み出、声を張り上げた。
「お前達の指揮官は誰だ!? お前達の蛮行に断固抗議する! お前達は、罪も無い女子供を皆殺しにしたのだぞ!」
「私が指揮官だ……」
と、饗庭は進み出た。
「何故こんなことをした? 何故、我々の聖堂に大砲を撃ち込んだ? これはキズラサの神に対する許し難い冒涜だ!」
「私の判断ミスだ……それは謝罪する」
激昂に身を任せ饗庭に掴みかかろうとする老人の襟を、島は引き摺り上げ声を荒げた。
「……じゃあ、あれは誰の指示だ?」
憤然と島が指差した先には、敵味方の銃撃戦に巻き込まれ、衛生兵の応急処置を受ける人間の盾とされた現地住民達の、痛々しい姿があった。彼らを一瞥するや、老人は悪びれず島三曹に抗弁する。
「スロリア人はキズラサの神が我々ローリダ人に賜った下僕であり、神の代理人たる我々が真の文明世界に教え導くべき存在だ。お前達異教徒に何を口挟む資格がある!?」
「何……!?」
堪え難い怒りの任せるまま、島は老人の足を払った。反動で派手に転倒した老人の鼻先に、89式小銃の銃口を突きつける。
「島!……やめんか!」
饗庭三尉の言葉は、既に聞いていなかった。すぐさま木島一士が二人の間に割って入り、色を為して彼の分隊長を諌めた。
「分隊長……止しましょう」
「…………!」
怒りに肩を震わせ、木島を睨む島。木島はさらに口を開いた。
「……こんなやつを撃っても、何の得にもなりません。銃弾の無駄です」
必死の説得に、老人に向けられていた銃口は少しずつ下がり、やがて島は溜息と共に銃を収めるのだった。
「…………」
再び目を転じたバラックの址。とっくに小銃を背負った普通科隊員たちが率先してバラックに集り、生存者の救助活動に入っていた。その中には銃を捨ててもなお、あからさまな敵意を以て此方に対したはずのローリダ人の姿もあったのは意外だった。誰もが敵味方の別無く黙々と作業をこなし、動けない負傷者を陸自の衛生兵に預け、死体を慎重に運び上げていた。あたかも、争うことの無意味さを今更ながらに悟ったかのように――――――
「――――こちら第一小隊、敵の民間人に死傷者多数。至急医務班の前進を要請……急いでくれ」
背後から無線機に呼びかける饗庭小隊長の声がした。その口調から消えない苦渋に、島は戦場の不条理さを見たような気がした。
―――――スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前8時58分 PKF陸上自衛隊第8師団はローリダ共和国陸軍第48師団を壊走させ、スロリア中部中央部を事実上奪回した。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前9時13分 スロリア中部 戦闘区域中北部
砲声は雷鳴の如き煌きを地平線の彼方で瞬かせ、その不気味な轟きは道なき平野を進むにつれ確実に大きさを増していた。
タナたち野戦病院の一行が戦場に足を踏み入れかけた頃には、傍らの近衛騎兵連隊に加え、ノドコール駐留軍に所属する独立戦車連隊もまた隊列の一角を為し南下を続けていた。
土ぼこりを蹴立てて進む独立連隊の戦車は鋼鉄の巨体を小山のように連ね、砲身は槍の如く天を向いていた。それは近衛騎兵連隊の上に自軍も未だこれほどの戦力を有しているという事実を、タナたち一般の軍属に雄弁なまでに知らしめようとしているかのようだった。
『敵の注意をスロリア中南部に牽き付け、北方からの援軍を以て敵軍を包囲撃滅する』
そういった司令部の方針は、すでに風聞に形を変えて連隊指揮官クラスからタナのような軍属レベルに至るまで周知されていたが、タナはそれに懐疑的だった。久しぶりで顔を合わせたオイシール‐ネスラス‐ハズラントスは、不安を隠さないタナに同調するように語を顰め、前線の苦境を教えてくれた。
「第17師団が壊滅したそうだ……」
ニホン軍は強く、国防軍は各地で粉砕され、全前線に渡り後退と防勢を強いられている。とネスラスは言った。
「連中は我々より進んだ装備を持っていて、兵士も恐ろしく勇敢だそうだ。結局、本土で君が僕に教えてくれたことは正しかった。ニホン人は強い。それに勇気がある。僕らはその何れも失おうとしている」
「あなたは、これからどうなるの……?」
「僕の隊は、イル‐アムの攻略に加わることになったよ。ここからさらに南下さ」
ネスラスによれば、中南部の要衝イル‐アム谷に少なからぬ数のニホン軍が侵入し、陣地を確保しつつあるという。近衛騎兵連隊は植民地軍を主力とする攻略部隊に協同し、連隊独自に攻略を行うらしかった。
「赤竜騎兵団も今もの凄い勢いで南下している。彼等が戦場に参入すれば風向きは変わるだろう。それまで植民地軍が持ち堪えていてくれればいいが……」
ネスラスにしてからか、結局は将来を楽観しているようだ。もしくは、タナの不安を逸らそうという彼なりの思いやりが働いたのかもしれない。
「なあ、タナ……」
別れ際、ネスラスが何かをタナに言いかけようとするのを、彼女は見逃さなかった。
「ネスラス……?」
「タナ……その……この戦争が終ったら……」
「終ったら……?」
タナの問い掛けに、ネスラスはこれ以上口に出したいことも出せないかのように押し黙った。彼の言わんとしていること、言い換えれば彼が彼女に求めようとしていることをタナはおぼろげながら理解してはいたが、そのタナにしても、その言葉によって導かれるであろう二人の未来を想像する勇気を持てないでいた。
「いや……何でもない。何でもないんだ。じゃあタナ、僕は行くよ。運が良ければ……また会えるだろう」
躊躇い――――それに続く作り笑いとともに踵を返すや否や、ネスラスは進軍の準備を今まさに終えようとしている彼の部隊へと駆け出した。ネスラスの後姿を見送りながら、タナはこの地に赴いた意味を失おうとしている自分自身に、すでに気付こうとしていたのだった。