第二一章 「旋風の進軍」
スロリア地域内基準表示時刻12月15日 午前6時32分 スロリア中北部 ローリダ共和国国防軍第26師団防衛線
『――――愛するケティへ
ニホン軍はすでに東方の我が軍防衛線を突破し、今にもこちらまで迫ってくるかのような勢いだ。敵は強く、我が軍は彼らに常に先手を取られ、混乱を強いられている。
まず第一に驚くべきことは、敵の装備及び練度が、我々のそれに比してはるかに優越しているということだ。彼らは我々の動向をあたかも自らの掌の上に乗せているかのように知り尽くし、常の我々の及びもしない時期に、そして及びもしない場所から攻勢を掛けてくる。
空からの攻撃などその最たるものだ。この戦争が始まる前、我々はニホン軍には碌な空軍が存在しないと教えられ、それを信じるままに戦ってきた。だが真実は違った。彼らは我々のそれより遥かに優秀で強力な空軍を持ち、我々の空軍は彼らの前に一日も持ち堪えられずに壊滅した。そして今では彼らの戦闘機は神の振り下ろした雷の矢の如く、正確無比な爆撃を昼夜を分かたずに加えてくる。それに抗すべき装備を地上の我々は未だ持てずに、日々を空爆に怯え過ごしているという有様だ。
ここ数日を我が隊は冷たい缶詰と湿っぽいパンのみで過ごしている。温めようにも煙を上げたら最後、彼らの優秀な探知網は忽ち我々の所在を見つけ出し、無慈悲な攻撃を加えてくるだろう。我々はモグラの如くに暗い塹壕を寝床とし、食事の場とし、そして礼拝の場としなければならなくなっている。
だが今の苦境の要因は、敵の用意周到さも然ることながら、その大部分を我が方の不手際に課せられているように思われてならない。戦争に当たり、我々は敵を知り、自らを知ることを怠った。冷徹な分析に拠らず先入観と偏見のみで敵を判断し、無謀な戦を挑んだのだ。そのつけをまさに現在、我々は課せられている―――――』
そこまで書いたところでグラノス‐ディリ‐ハーレン大尉は筆を置き、ポケットから一冊の帳面を取り出した。ハーレンが帳面の元の持主の処刑命令を下し、すでに四ヶ月が経過していた。
確か……名はシイバとかいったな。
声にならない声で呟くと、ハーレンは帳面を捲った。何度目を通したところでニホンの言葉に堪能になれるわけではなかったが、その筆致から滲み出る持主の人格を感じ取るのが、彼は嫌いではなかった。
自分の予感は正しかったと、ハーレンは思った。
ニホン人は我々が考えているように決して野蛮でもなければ、愚鈍でもなかった。彼らはただ寛容だっただけなのだ。だが寛容であるのにも限度がある。我々は、その越えてはならない一線を越えてしまったのだ。
その結果として我が軍は、各地でニホン軍に撃破され、スロリア中部にまで追い込まれている。
ドンッ……!
不意に襲ってきた揺れに、明かりを取るべく立て掛けて置いたランプの炎が酷く揺れた。ハーレンは帳面を閉じると、冷たく、かつ濁った空気が流れる塹壕の板床から腰を上げた。
「大尉殿っ……!」
指揮を摂る第26師団 第二対戦車中隊の司令部要員にして腹心のアスズ‐ギラス准尉が、背を屈め小走りにハーレンの元へ走り寄って来た。型通りの敬礼を交わすと、准尉は土煙と無精髭に汚れた顔を上げ、ハーレンの耳元に言った。
「連隊長がお呼びです」
大きく頷くと、ハーレンは先に塹壕から這い出した。ギラス准尉もまた、彼の後に続く。暗がりに慣れた眼に、外の晴れ渡った平原は眩し過ぎた。
そのとき、遠方に立ち上る茶色の煙を認め、ハーレンは歩を止めた。何処からか、次第に遠ざかり行くジェット機の爆音が聞こえていた。
「あの方向は確か……」
「駐車場です……輸送トラック用の」
ハーレンは絶句し、忌々しげ頭を振った。どうやって偵察しているのか、彼らは凡そ地上に存在する人工物を目聡く見つけては一瞬の内に攻撃機を繰り出して破壊してしまう。しかも、未だ健全な対空砲が漸く稼動を始める頃には、彼らの攻撃機はその射程の及ばない遥か遠方にまで離脱しているのだ。
「ことあるに備え、分散配置を徹底していたのですが……」
と、ギラス准尉も苦渋の色を隠さない。このままでは、ニホン軍の地上軍と戦う前に自軍は消耗してしまう。
そのニホン軍の戦闘機を、ハーレンは間近で見たことがあった。
――――彼らの戦闘機はあたかも海中を遊弋するエイか、または翼を拡げた鷲のような鋭角的な機影を持っていて、それが対地掃射のため低空を駆け抜けた瞬間、その時地上を移動中だったハーレンは不意に沸き起こった烈しい衝撃波に昏倒を強いられたことがあったのだ。彼らの戦闘機はローリダ空軍の戦闘機より速く飛び、そして高く上昇する――――スロリアの空が、いまやニホン人の掌中にあることをハーレンが痛感した瞬間だった。
「うちの空軍はどうしている……?」
「主力はゴルアス半島の方に投入されているようですが……どうなることやら。ニホン軍は海の上でも強いといいますから」
早足で歩きながら、二人は連隊指揮所の置かれている塹壕へと向かう。ニホン空軍は駐車場や物資集積所などの重要箇所を攻撃はしても、どういうわけか地上を行く人員や戦争に関係ない施設には攻撃を加えてこない上に、得てしてこの種の攻撃に在りがちな誤爆も発生していない。果たしてそれは、彼らなりの道徳の為せる業であろうか?
―――――であるとすれば、我々は戦争以外の、だがもっと大切な精神的な何かでも彼らに負けているのではないか?
「ハーレン大尉、参上いたしました」
「楽にしてくれ。直ぐに終る」
と、通常のものより一際広い洞窟のような塹壕の奥でハーレンを迎えたのは、壮年を越えかけた一人の中佐だった。第26師団の靡下部隊で、最も東方に突出している第309歩兵連隊長 ギリアス‐ド‐ファ‐ナガス中佐である。当年50代の半ばを過ぎたばかりの彼は一兵卒からの叩き上げ。黄ばんだ肌着を剥き出しに、ラフに着こなした野戦服を纏ってはいても、その全身から滲み出る歴戦の野戦指揮官らしい雰囲気は些かも霞んではいなかった。
「やるか?」
と、ナガス中佐は量のだいぶ減った酒瓶を覗かせた。だが、その眼は酔いに濁ってはいない。
「いえ……結構です」
微かに頷き、ナガス中佐は言った。
「師団司令部の命令だ。反攻の先頭となり、敵軍を撃滅せよ……ときた」
「反攻……ですか?」
「そうだ、第26師団は第48、17両師団及び前線配置の三個師団の残存戦力、そして民族防衛隊と協同しニホン軍に対する反撃に出る」
「ノドコールからの増援はないのですか?」
中佐は頭を振った。
「それは期待できんな。只でさえ足元に火が付いているのだ。下手に部隊を引き抜けば軍は後方から崩壊する。あまりに馬鹿馬鹿しい話だが……ニホン人が我々の実情を知れば腹を抱えて笑うだろうさ」
やはり内乱の話は本当だったのか……愕然として、ハーレンは土が剥き出しの床に視線を落とした。戦略予備という大義名分こそあるものの、植民地に控置してある二個旅団の存在意義は、今や内乱寸前の状態と化しつつある本国の治安維持にその大半が移りつつあるように思われた。
「前方の竜、後方の獅子というやつさ……」
と、ナガスは使い古された諺を口にした。策源たるノドコールで高まる反乱の気運は、前線部隊の配置にも少なからぬ悪影響を与え、それを抑えるべく前線の兵力を戻そうとすれば無防備な後背を迫り来るニホン軍に晒すことになる。
「……だから、我々は前に進むしかない。言い換えれば、これ以上の後退は許されない」
士官学校出ならすでに将官になっていてもおかしくない年頃の中佐が優秀な野戦指揮官であることをハーレンは知り、中佐もまた眼前の若い大尉が指揮官として優秀な人間であることを知っていた。そしてそれ故に互いが最前線へ配置された……というより追い遣られたということをも、二人は悟っていた。同じ境遇に置かれた者同士の連帯感の誘うままに、何時しか二人は沈黙を以て互いを凝視していた。
「……行動開始は、何時でありますか?」と、最初に沈黙を破ったのは、ハーレンだった。
「作戦発起時刻は、明日早朝を予定している。陣地撤収の準備を整えておくことだ。指示は追って出す」
「はっ……」
背を正すのと同時に出た、浮かない顔をそのままに、視線を巡らせた机の隅に一枚の写真を認めてハーレンは目を細めた。ナガス中佐を中心に、妻と思われる中年女性と六人の子供たちが、寄り添うように丸い写真立ての中に納まっていた。ハーレンの視線に気付き、ナガスもまた写真立てを手にし目を細める。その眼差しは良人のそれであり、慈父のそれであった。
「……今月の末だったかな、七人目が生まれるんだ」
と、顔を綻ばせて中佐は言った。
「それは……おめでとう御座います」
「大尉には、扶養家族はいるのか?」
「本国に……妻がおります」
「結婚して、何年になる?」
「丁度……一年です」
中佐は嘆息した。そして、嘆息の任せるままに彼の上官たる第26師団長を詰った。
「ジョルフスめ!……自分以外の誰かの生活に責任を持たねばならぬ身を、よくもこんな前線に置いて平然な顔をしているものだ」
普段の彼らしくない雑言に、ハーレンは中佐が柄にもなく酔っていることを確信する。だが、それを咎めるべき言葉を彼が持っていなかったのも確かであった。
……再び、地面が揺れるのをハーレンは感じた。感覚から、震源の距離は遠いように思われた。
……今度は、何処がやられたのだろうか?
スロリア地域内基準表示時刻12月15日 午後2時13分 スロリア中北部 PKF陸上自衛隊 前線司令部
緑の平原を劈く爆音――――――
駿馬の如くに雲海を駆け巡るF-15Jは、その胴体に爆弾の連なりを纏っていた。イーグルはその全弾で特科大隊の一斉射撃分に匹敵する威力を持つ爆弾を抱えているとは思えないほどの駿足で蒼穹を駆け抜け、そして雲の向こうに消えていった。
その向かう先は西方……地上から見上げた上空には、それらの攻撃機が上空を駆けた証とでも言うべき飛行機雲が幾重にも伸び、緩やかなカーヴを描いて交差し天球の碧を飾り立てていた。
本来なら爆装することのない要撃戦闘機が爆弾を纏い、それも姿を敵の眼前に晒しやすい昼間を飛ぶこと自体、スロリアの空がPKFの空になりつつあるという事実を戦場の冷厳さの内に物語っていた。もはや空を征く空自攻撃機を妨害する敵機は存在せず、敵の対空砲火もまた、その殆どが沈黙を守っている。精密照準装置を持たない要撃戦闘機が、敵地に自在に掃射を加えられる下地がこの時点では十分に存在していた。
次に地上の耳を苛むのは、続々と舞い降りるヘリコプターの奏でる複数のローター音。規則正しく天幕や戦闘用車両の居並ぶ平地一帯の上空を、濃緑色のヘリコプターが往来し、舞い降りた地上で人員や物資を続々と吐き出していた。
その中でも一際巨大なCH-47が、その四基の脚で大地を踏みしめるや後部ハッチを開き、ローターの風圧に身構え背をやや屈めがちにした司令部要員が足早に地上に進み出る。この日初めてPKF前線司令部はその所在をゴルアス半島からスロリア方面に移し、それはまた、至近に迫ったスロリア中部の武装勢力掃討作戦に備えた準備の最終段階でもあった。
「阪田閣下……!」
出迎えの幹部の敬礼を前に、隊列の先頭を行く阪田 勲 陸将は手早く答礼すると、彼の上腕を掴んで声を上げた。
「司令部は何処か……!?」
「こちらへどうぞ!」
先導する幹部の導くまま待機するパジェロに乗り込み、野営地を進んでいくうち、阪田ならずとも作戦準備の万端なることを確信する。二日前から集積の始まった榴弾砲や自走砲はその長大な、黒光りする砲身を以て野営地の一角に一個の林を成していた。増着装甲を施された73式装甲車がディーゼルの黒煙を立てつつ、隊列を組んで野営地内を移動している。その野営地と隣接して設けられたヘリコプター前線展開拠点では、後方から追及してきたばかりのAH-64DJ攻撃ヘリコプター群が列線を形成し、一部の機はすでに発進して付近の策敵警戒に当たっていた。
現在、PKFには勢いがある。
緒戦の奇襲作戦が大成功の内に終わり、スロリア中部に歩を標したPKFは師団長から一兵卒クラスに至るまで活力に満ち、新たな戦場を渇望している。一方で確保に成功したゴルアス半島の上陸拠点には、西部方面普通科連隊に後続する第13旅団、ひいては第2旅団隷下の各部隊が海上自衛隊の支援の下続々と上陸を果し、主力と呼応しスロリア中部を伺おうとせんかのような勢いだ。
……一方、敵はどうか?
敵手たる武装勢力の動静に関しては先日、G-STARS地上警戒管制機が驚くべき情報をもたらし、同時にスロリア上空で作戦行動中の有人、無人の空自偵察機もまた現在に至るまで刻々と情報をもたらし続けていた。
端的に言えば敵の増援と思しき大兵力がノドコール北東部より動き出し、こちらへと迫っている。その中には最重要目標たる機甲師団も含まれている。現在の移動速度から計算すれば、その機甲師団がスロリア中部に進出を果すのは三日後の12月18日であるはずだった。要するにこれから三日間の内に中部の武装勢力を撃破し、この機甲師団を迎撃できる態勢を取るのが望ましい。
司令部の天幕では、すでに集合を果たした各部隊の指揮官と幕僚が阪田を待っていた。
「敬礼……!」
司令官の姿を認めるや一斉に立ち上がり、彼に背を正す完全装備の男達に、阪田は目を細めた。彼らの最高司令官より一回り以上年若い彼らの多くが緒戦の快進撃を支え、それ故に指揮官としての自信を湛えていた。そして今では歴戦の野戦指揮官の風格すら漂わせている。
「楽にせい」
ドスの聞いた阪田の声に、彼らは一斉に着座する。それが合図だった。戦術情報端末が開かれ、幕僚が戦況を説明する。液晶端末は、スロリア中部の地形とそこに展開する敵味方の戦力をかなり精緻なカラー表示で映し出していた。
「――――スロリア中部に展開する敵の主力は三個師団。これより抽出しゴルアス半島北部に配した二個旅団相当の戦力と緒戦で撃破した前線部隊の残存戦力から成り、総兵力は五万程度と判断されます。対する我が方は、以下の手順を以てスロリア中部の敵野戦軍を攻撃、撃破します……」
第8、9、10の三個師団は翌日0143を期し前進。武装勢力前線拠点を制圧する。
第71、72の両機甲旅団は南西へ迂回機動を続け友軍三個師団の前進に呼応し北上、側面より敵地上軍に攻勢をかけ、これを包囲殲滅する。
第11、12の両旅団は戦略予備として待機、戦線よりの離脱を図る敵軍の機先を制し、空中機動を以て退路を遮断する。
ゴルアス半島方面の第2、第13旅団は半島北部まで前進。ノドコール方面よりの敵の増援及び逆撃に備える。
幕僚の説明に、すかさず指揮官たちの間から驚愕の声が漏れた。衰えたりとはいえ、敵は未だ十分な野戦戦力を残している。対する自軍の主攻三個師団は、その敵に正面から攻勢をかけるのだ。特に機甲旅団の任務は重大だった。迂回機動戦は自衛隊創設というより日本陸軍健軍以来の野戦決戦の伝統であり、その重要な任務を現代陸戦の華たる機甲旅団に担わせたのは少なからぬ因縁の為せる業であるように、この場の少なからぬ者には感じられた。
「――――現在航空自衛隊がこれら敵勢力の補給網及び物資集積所に対する対地攻撃を続行しており、結果として、中部における敵の継戦能力は大幅に減退しているものと判断されます。ですが……」
幹部は、地形の一部を拡大した。
「……前線に配置されている部隊の中には、拠点を撤収し移動を始めている部隊が存在しております。敵の意図は、後退ではなく前進にあるものと考えられます。敵の後方に目立った動きが一切見られないことも根拠の一つですが、各種情報収集活動により敵前線の各拠点において、砲兵戦力の集結が少なからず確認されております。これらの点から分析するに、敵地上軍はノドコール方面からの増援と協同し、反攻に出るものと考えられます」
「だが、反攻は長続きしないだろう……何よりも今のままでは補給が続かない。敵もそれが判っている筈だが……」
と、第71機甲旅団長の樋口 三郎 陸将補が言った。幕僚もまた頷いた。
「問題はそこにあります。敵が失敗する可能性の多分に大きい攻勢に拘る理由を我々は見出せません。我々に対し消耗を強い、時間を稼ぐことで北西からの増援の到着を待つという意図も考えられないでもありませんが、それには予測される彼等の損害は余りに大きすぎます」
「敵の内情はどうであれ、連中が攻勢に出るタイミングを捉えこちらも攻勢に出るというのは、望ましい形と本官は考えるが」
と言ったのは第9師団長の仰木 良輔 陸将だった。確かに、攻勢に傾斜する敵の防備が薄れればそれだけこちらの作戦が巧く行く目算も立つ。一堂を見回し、阪田は口を開いた。
「彼等にいかなる思惑があろうが、スロリアの武装勢力を掃討し再起不能の打撃を与えるという我々の方針は変わらん。新関二佐……」
名を呼ばれ、航空自衛隊の連絡幹部である新関 杉雄 二等空佐が阪田に向き直った。
「はっ……!」
「また空自に世話をかけることになるだろうが、今度も航空支援をよろしく頼む」
「スロリア展開航空群の総力を上げ、作戦を支援いたします。ご安心ください」
スロリア中部の航空作戦に関し、航空支援を円滑ならしめるべく阪田はすでに手を打っている。彼は各師団及び旅団司令部はもとより、前線の大隊レベルにまで空自の連絡幹部を配し、より柔軟な支援戦闘機隊の運用を図ろうとしていたのである。空自の方としても緒戦の戦略的な作戦目標の悉くを完遂し、その主任務が地上軍の支援に比重の移った現在、援護すべき友軍地上部隊との徹底した意思疎通は、誤爆のような技術的ミスを防ぐ上でもやはり必須の事項であった。
最後に、阪田は言った。
「作戦予定に変更は無い。今夜より本隊は機動し敵軍を叩く。諸君らは直ちに指揮下部隊にとって返し、それぞれの領分において最善を尽くせ。本官の命令は以上である」
スロリア地域内基準表示時刻12月15日 午後2時31分 スロリア中北部 ローリダ共和国国防軍前線
丘の中腹からは、第48師団の保有する全戦力の展開ぶりを俯瞰することができた。
伴っているのは、一人の少年兵。
背負っている銃が身長の過半を占めるほど背は低く、顔は子供と見紛う程若々しいが、双眼鏡を構える彼の当面の上官を前に、少年はたった一人で背負う銃の重みと圧し掛かってくる緊張に耐えていた。それもそのはず、彼が現在仕えているのは、ローリダ共和国国防軍最良の指揮官の一人に数えられる英雄であったからだ。
濃緑色の軍用コートが一帯に吹き荒れる強烈な寒風に靡き、撫で付けたばかりの金髪を乱れさせた。彼の容貌はどちらかと言えば端正な方だったが、軍人としての威厳に欠けていた。傍目から見れば、前線視察という彼の行為など田舎紳士の散策程度にしか見えなかった。
その英雄――――センカナス‐アルヴァク‐デ‐ロート大佐は、ただ無言のまま、構える双眼鏡を丘の麓からさらに東方へと向けていた。少年は待っていた。彼の主人が視察を終え、丘を下りる旨を告げるときを。少年は寒風吹き荒れる中を脱し、暖かいストーヴの待つ天幕に戻りたかった。
やがて少年の期待の赴くままにロートは双眼鏡を下ろし、肩越しに少年を見遣った。
「重いだろう? だから銃は持って来なくていいと言ったじゃないか」
「ですが……規則ですので」
震えがちな声に、少年兵は苦笑した。少年が銃の重みではなく容赦ない寒風に耐えていることに、青年は今更の様に気付いたかのようであった。丘の頂上を振り返り、ロートは言った。
「……向こうに榴弾砲を据え付けるよう司令部に言っておこう」
『まあ、何度言っても無駄だと思うけど……』という言葉を、ロートは胸中に閉じ込める。
「あのう……攻撃が始まるのではないのですか?」
少年の疑問は当然だった。攻撃に必要な榴弾砲を、何故後方に置くのか?
ロートは言った。
「攻撃には二種類ある。目算を立て、勝算が成った時点で行う攻撃と、勝算の立たない上に現下の苦境を誤魔化すために行われる攻撃だ。今我々がやろうとしているのは、明らかに後者だ。そして歴史上後者が成功した験しはひとつとして無い」
「大佐は、この戦争に負けるとお思いなのですか?」
「今のままじゃあ、負けるだろうね」
「…………」
あまりにはっきりとした物言いを前に驚愕する少年兵に、ロートは顎を杓った。「戻ろう」という合図だ。ロートの後を追い中腹を早足で降りる間、少年は意を決しロートを呼び止めた。
「あのう……大佐?」
「ん……?」
「増援もこちらへ向かっているのでしょう? 赤竜騎兵団も駆けつけてくることでしょうし、我が軍は必ず勝ちますよ」
「今の戦争は、陸だけでやるものじゃないからな……だが、ニホン人の戦い方を見るにつけ……」
ロートは一瞬押し黙り、言った。
「……彼らは本当に神様でも味方につけているのではないかと思うことがある」
確かに近衛軍団を中心とした増援は北西より南下を続けていたが、実のところそれはノドコールの植民地軍総司令部の意思ではなかった。増援の主力たる赤竜騎兵団はともかく、ともに展開した増援三個師団まで前線に移動させるというアダロネスの決定は、植民地軍総司令部の同意を得ないまま実行され、少なからぬ困惑を以て受け止められていたのである。
本来首都防衛専用の部隊として編成された近衛軍団は、法規上元老院の直轄部隊としての性格を持ち、増援として植民地ノドコールへ派遣されてもなおその原則は揺らいではいなかった。そして問題は、アダロネスがノドコール国内の治安維持任務を植民地駐留の二個旅団に任せ――――というより一方的に押し付け、植民地軍側の同意を得ないままに部隊を東方に移動させてしまったことにあった。
これではスロリアのニホン軍と戦うことはおろか、騒乱渦巻く植民地内の治安維持すらままならなくなってしまう!……植民地軍の困惑は、そのまま身勝手な判断を下した本土に対する怒りとなった。
「アダロネスのやつらめ!……我等を踏み台に手柄を独り占めにする気だな」
本国の意図はわかっている。自軍がニホン軍と交戦している間に新たな戦線を開き、戦域全体のイニシアチヴを握ることで本国の威信と指導力を政治的に高めることにあるのだ……植民地軍と植民地総督府側は、中央の「暴走」をそう判断した。その彼らの脳裏から、軍功を独占したいがために開戦前の段階から増援を継子扱いした事実など、完全に忘れ去られていた。そして本国からの増援が動き出し、それに制止を加えることができない以上、彼らに残された途は早急に反攻に転じ、増援に先駆けて勝利を得ることにあった。
従って、植民地軍は反攻に走った。そのようにして立案された作戦に戦略的な勝利の裏付けがあったかといえば、甚だ心許ないものではあったが……
ロートは反攻に反対した。むしろニホン軍の西進に備え防備の充実を主張した。具体的には地形を生かしスロリア中西部に縦深陣を構築し、西進するニホン軍を迎え撃つ。その際北西からの増援を機動打撃戦力とし、植民地軍がニホン軍を牽き付けている間にこれらの別働隊を敵の後背へ移動させ、最終的には包囲殲滅する。
攻守三倍則――――攻勢を成功させるのには防御側の三倍の兵力を要するという法則――――は、ローリダ共和国国防軍においても兵理の基本として認識されていた。この原則を忠実に適応すれば、十分な準備を経て防勢に回った我が方は北西からの増援も併せ迫り来るニホン軍に対し兵力の上で互角の戦いが望めることになる。さらに言えば後背にノドコールを抱えた此方の補給線が短く、ノイテラーネより長駆遠征して来た敵のそれが長大になっている分、最悪戦況が膠着しても長期的に見て勝機は我が方に巡ってくるだろう。
だが、ロートの献策は一蹴された。
「近衛のやつらと協同戦線など張れるか!」
通算で28度目の前線における作戦会議の席で、前線指揮官の際先任たる第26師団長エイギル‐ルカ‐ジョルフス中将は机を叩き、自分より丸一世代も若い「余所者」の参謀を面罵した。衆目の前で罵倒されることには慣れていたロートではあり、それに対し沈黙を以て自己を抑える途も彼は知っていたが、この時ばかりは半身を乗り出し抗弁した。
「閣下、ニホン軍は手強い存在です。おそらく、我々がこれまで戦ってきた中で最強の種族であるやも知れません。我々は軍人である以上、この強敵に対するに最善を尽くす義務があります。一時の感情の不和は何れ時間が解決してくれるでしょう。ですが敗北は未来永劫ローリダ民族の汚点として残ります」
「黙れ!……たかが出張参謀如きが差し出がましい口を利くな!」
あまりに論理性と合理性に乏しい難詰を前に、ロートは結局師団司令部すら追われた。ノドコールですらロートの味方は少なかったが、ここ前線に関する限り、「運のみで大佐まで伸し上がってきた若造」に対し、敬意はおろか同情の念すら抱く者は皆無であったのだ。
失意の導くまま専用の幕舎に篭ったロートの前に、ノドコールへの帰還命令が降りたのは進撃準備が大方終了し、日が地平線の彼方に没しようとしている時間帯であった。最後の夜。短い滞在期間の間ロートの身辺の世話をした少年兵が夕食を運びがてらに、彼に尋ねた。
「もし敵が攻撃してくるとして……参謀は何時だと思いますか?」
「早ければ、今夜遅くだろうね」
その言葉は、即答に近かった。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前1時43分 スロリア中部
光量を落とされたライトの瞬きが、さながら疾駆する群狼の飢えた眼光を思わせた。
背部に抱える四角い箱のような多連装ロケットシステムが重厚な油圧の響きを立てて天を仰ぎ、あとは敵地上空に侵入したRF-1無人偵察機の送ってくる目標データに従って諸元を修正するのみだ。
そして――――
停止命令が下された直後には、甲虫のような体躯をした多連装ロケットシステムの車列は、闇の覆う平原にその重厚な肢体を並べていた。
「トラよりタツへ……送れ」
トラとはスロリア中部の敵戦線至近に展開を果たした第9特科連隊所属のMLRS中隊の暗号名だった。呼びかけた後に、期せずして暗号名「タツ」ことPKF陸上自衛隊第9師団砲兵指揮所から『こちらタツ、感明良好』の応答が入って来る。
「こちらトラ。敵砲兵陣地位置をマーク。座標入力完了……只今より試射に入る」
『――――こちらタツ、了解』
|多連装ロケットシステム《MLRS》は、敵前線後方に位置する砲兵陣地及び通信、補給施設を短時間で殲滅するべく開発された自走式の多連装ロケット発射システムだ。一台の自走式発射機は計12発のM26ロケット弾を搭載、同時に最大12の地上目標へ投射することを可能とする。これら12発のロケット弾は全弾を一分間の内に各五秒間隔で発射され、これはMLRS一台で通常の榴弾砲の10倍以上の火力を一挙に投射できることを意味した。M26ロケット弾はその内部に644個の子爆弾を内蔵し、着弾するや地上に存在するあらゆる物体を完膚なきまでに破砕する。12発全弾着弾時の破壊力は、一度にサッカー場六面分の広さの地域を制圧することが可能とされていた。
「試射五秒前……四、三、二、一……発射いま!」
直後、闇夜は一挙に各所より吹き上がる炎に覆われた。轟音とともに白煙を曳き夜空を切り裂く光の矢束は、そのまま鮮やかな放物線を描き水平線の彼方に点在する敵陣へと向かって行った。
「弾着まで、あと十秒……九、八、七……四、三……一……弾着いま!」
着弾!……地上を割るかのような轟音とともに、地平線の彼方が幾重にも瞬く。自らの為した行為の結果としての、地平線の彼方に現れた着弾の点滅にも、特科群は無感動であるかのようだった。中高度を行く無人偵察機は矢継ぎ早に着弾観測による修正諸元を算出し、それは秘匿通話回線を通じ即座にMLRS群に伝達される。
「トラよりタツへ、直ちに効力射に移行する。送れ」
『――――タツ、了解した』
諸元修正――――五秒の間隔を置き、分散展開した発射機より続々と吐き出される地獄の業火。それらは天空高く舞い上がり、星一つ無い夜空を幻想的なまでに彩るのだった。だがそれは敵にとって至近に迫った破滅の刻までの、一時の幻であったのだ。
一方、対するローリダ軍の砲兵陣地では、闇空を舞う光弾の連なりを前に少なからぬ混乱が起こっていた。
「何だあれは……!?」
驚愕を多分に含んだ彼らの疑念は永久に解決されることは無かった。流星雨のごとき巨大な光弾は獲物を捉えた白蛇の如く砲兵陣地に突進し、着弾の爆風と火炎とを持って将兵を吹飛ばし、そして居並ぶ野砲、ロケット砲、自走砲群を一斉射で粉砕してしまったのだ。
それは一箇所だけではなかった。ローリダ軍各師団の前線砲兵陣地は一戦も交えぬ内に正体不明の攻撃兵器の攻勢に晒され、面単位で殲滅、数分の内にその機能の過半を喪失してしまった。
それが合図だった。闇夜に隠れるようにハルダウンしていた陸自の各戦闘車両が群れを成して前進し、その上空をOH-1偵察ヘリに先導されたAH-64D攻撃ヘリの編隊が続々と敵陣へと侵入を開始した。そしてニホン軍の急襲を迎え撃つ形となったローリダ軍の前線部隊は、迎撃の体勢を取る暇すら与えられなかった。
『―――榴弾装填! 仰角二〇、方位角三〇……目標R-4、信管触発―――――射撃始め……!』
MLRSに続き展開を完了した99式155㎜自走榴弾砲、そして203㎜自走榴弾砲の砲列がその黒光りする砲口を火焔に煌かせ、一斉に射撃を開始する。砲兵の傘を失った敵陣を攻撃し、機甲科部隊及び普通科部隊の進撃を援護するのが彼らの役割だった。
『―――5……3、2……弾着ぁ――――く、いま!』
大仰角で発射された光弾の群れ、それらは今度はローリダ軍の野戦陣地に降り注ぎ、面単位で敵陣を制圧し、沈黙させていった。自動装填装置と砲撃統制コンピューターの威力か、第一撃を生残った敵の砲列もまた、特科の絶え間なき弾着を前に反撃する間も与えられず次々と叩き潰されていく。そこに間隙が穿たれ、次の段階では孔を抉じ開け拡張する杭のように攻撃部隊が突進してくるのだ。
『前進よーい!……前へ!』
大隊長の命令がレシーバーを打つのを、スロリア中北部に展開する第十戦車大隊の一〇式戦車長 工藤 大地一等陸曹は聞いた。
直後、散開を終えた隊列は一斉に加速し、ラグビーのダッシュの如くに未だ着弾の火焔に覆われている敵前線へと疾駆していく。工藤の指揮する一〇式もまた、その中に在った。
車体各所に配されたカメラを通じ、砲塔内の戦術情報表示端末に映し出された暗視画像は、戦車隊の進撃に揺れるスロリアの大地を、緑のフィルターの下で鮮明に映し出していた。移動を開始してわずか五秒で、一〇式は時速50kmにまで加速する。複合装甲を多用し軽量化の徹底した一〇式戦車は、およそ戦闘車両とは思えないほどの軽快な反応を見せ、快走を続けている。
「一〇時方向に敵野砲陣地」
見える!……暗視画像に映し出された敵のトーチカに、工藤は目を細めた。数名の人影が対戦車砲と思しき砲身に取り付き、装填に取り掛かっていた。
「照準よし!」と、砲手の隅野 隆一 陸士長が叫んだ。
「榴弾装填!」
ファインダーを覗きながら、隅野陸士長はボタンを押し榴弾を選択する。自動装填装置は瞬時の内に弾倉より榴弾を選別し120㎜砲の砲身に弾体を送り込む。同時に、火器管制コンピューターは目標をロックし、矩形のシーカーと共に目標との相対距離、そして方位角を照準機の中で瞬時に弾き出し表示した。
「装填よし! 目標緒元入力よし!」
「テェッ……!」
発射の衝撃! 同時に後退した紐退機は薬莢を吐き出し、照準機の中の敵陣は土煙と共に跡形もなく吹き飛んだ。
「命中! 速度落とせ」
「アイ!……速度落とします」と、操縦手の宮内 久司 一等陸士。
工藤達だけではなく、第十戦車大隊の一〇式戦車は続々と各個の目標を撃破し、混乱する敵陣に雪崩れ込んでいた。戦車隊の任務は砲撃により混乱した敵前線を突破し、後続する普通科部隊の進撃を容易ならしめることにあった。
ガン!……ガン……ガン! と、着弾を報せる不愉快な音が車内に響き渡る。敵もまた抵抗を続けている証だった。前方に未だなお抵抗を続ける塹壕を認め、工藤は再び増速を命じる。暗視画像は、機銃に取り付き、賢明にこちらへ射撃を続けている敵兵の影を映し出していた。
「退けぇっ……!」
叫ぶのと、突進する戦車が塹壕を押しつぶすのと同時。周囲には、砲塔から逃げ惑う敵兵に機銃弾を浴びせかける同僚の姿も見えた。
『――――こちら第十戦車大隊。敵防御陣を突破! 至急普通科の増援を送られたし!』
大隊長の声に、工藤は戦闘が佳境に入ろうとしていることを悟った。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前2時23分 スロリア中北部 ローリダ共和国国防軍第26師団防衛線
ハーレンが湿った寝床より起き出したときには、すでに遠方の陣地は焔に包まれていた。唸り声を立て怒涛の如く着弾する敵の砲弾が続々と火柱を上げ、同時に連続する地響きが、塹壕を行き交う将兵の歩調を乱れさせ、精神的にも焦燥させた。
『こちら09小隊! 敵の攻撃を受けている! 至急に援軍を……』
『第89砲兵大隊、通信途絶!』
『――――第238歩兵連隊より司令部へ! 後退の許可を求む。敵の大軍が接近中。我戦闘不能!……』
野戦用無線機は各戦線から届く無数の悲鳴を拾い、悪夢のBGMとして対戦車隊の指揮所に鳴り響いていた。ハーレンは部下にすぐさま戦闘配置に付くよう命じ、受話器を取った。直ぐ後方の第309歩兵連隊長 ギリアス-ド-ファ-ナガス中佐と連絡を取るためだった。
「…………!」
通常なら交換手が応対に出るはずが、沈黙を持って自身に応える受話器にハーレンの顔から血の気が引いた。電話線が切断されたのか?
「無線手、第309と連絡が取れるか?」
「やってみます……!」
無線手の一等兵が無線機のダイヤルを回し、レシーバーに耳を凝らした。だが一瞬の後、無線手は絶望に満ちた顔で彼の隊長を見上げるのだった。
「駄目です! 妨害されています!」
「何……?」
ハーレンは愕然とする。敵の意図が猛烈な第一撃を以て味方の各隊を分断し、各個撃破することにあるのは明らかだった。
無線手に通信を続けるよう命じ、ハーレンは腹心のギラス准尉を伴って塹壕へと取って返した。弾着はすでに陣地に達し、兵士達は着弾の爆風と飛散する破片を恐れ頭を上げることすらままならない。そして弾着に巻き込まれた塹壕からは兵士達の苦悶の声と、衛生兵を呼ぶ声が立て続けに聞こえてくる。
「なんということだ……!」
声を荒げるハーレンの肩を、ギラス准尉が叩いた。
「隊長あれを!」
「…………!」
驚愕は、もはやハーレンのものだけではなかった。かつては前進拠点用の陣地が構築されていた前方では、戦車と思しき複数の影が、焔に照らされ蠢いていた。その瞬間、ハーレンならずとも前進陣地が敵の猛攻を前に瞬時にして抜かれたことを悟った。後背の陣地から打ち上げられた照明弾がハーレンたちの頭上で炸裂し、彼らの輪郭を夜の稜線に浮き上がらせたとき、ハーレンは息を呑み戦慄を覚えたのだった。
あれが……ニホン軍?
彼らの戦車は黒かった。
その外面は角張り、長大な主砲を持っていた。
それらが何十両も我先に一層の重厚さと獰猛さをもって陣地にしがみ付く兵士達の視覚に迫り、土煙を上げ凄まじい速度で防衛線に殺到してきた。
「…………!」
「隊長! 攻撃の許可をっ!」
部下の声に我に帰り、ハーレンは声の方向を省みた。
「徹甲弾を装填しろ! 対戦車砲準備!」
ハーレンの指揮する第二対戦車中隊は一二門の対戦車速射砲を装備している。先程の砲撃で三門が破壊されたものの、それ以外は比較的砲撃に晒されることはなく、厳重な防護陣地による隠蔽もまた功を奏し無傷に近かった。だから敵戦車の攻撃に直面しても大いにやれるとハーレンは踏んでいたのだ。
「砲塔を狙え。300レーテまで牽き付けろ」
さあ来いニホン人!……沸き起こる敵意に任せるまま、ハーレンはニホン軍の「鉄騎兵」に目を凝らした。我が軍の戦車が機能美の粋を凝らした芸術品ならば、彼らの戦車はさしずめ飢えた獰猛な獣だった。そして我々は何としてもニホンの獣を仕留め、味方が態勢を整える機会を掴まねばならない。
「距離400を切りました!」砲隊鏡を覗いていた砲術士官が叫んだ。ハーレンは静かに右手を上げた。胸が張り裂けんばかりに高鳴り、喉から急激に湿り気が失われていくのを彼は感じた。
そのとき、一基の速射砲が轟音を上げ最初の一撃を放った。彼らとて決してハーレンの指示を無視したわけではない。ただ迫り来る未知の敵に対する恐怖が、彼らを激発にも似た発射へと駆り立てたのである。
彼らの一撃は、見事にニホン軍の戦車一両の正面に命中した。その光景を目にした誰もが瞬時の内に撃破を確信する。だが喜ぶのは速かったのだ。ニホン軍の戦車は水を掛けられたカエルの如く、平然と快速を保ったままこちらへと突っ込んでくる。
「…………!」
絶句したのはハーレンだけではなかった。そして驚愕は、そのまま恐怖へと変わった。拡散する恐怖は隊長たるハーレンの命令すら軽がると超越し、無軌道な速射があちこちの砲座から始まったのだ。
忽ち、着弾に巻き上がる土と硝煙の匂いとが入り混じった不快な香りが陣地に充満し、将兵を咳き込ませた。発射を続ける速射砲は瞬く間に空薬莢の山を砲座の下に作り上げ、それでも各砲の砲手たちは砲弾を装填する手を休めることなく破壊の咆哮を奏で続けた。
しかし……連続する対戦車砲弾の炸裂の前にも、ニホン軍は前進を止めなかった。ニホン軍の戦車は前進しながらその長大な主砲から続々と破壊の返礼を返し始め、それは瞬時にして対戦車陣地を阿鼻叫喚の巷へと変えた。敵の戦車砲の威力は大きく、その射撃は正確だった。
爆風に髪を乱れさせ、頬を汚し、ハーレンは叫んだ。
「対戦車ロケット砲用意!」
すかさず、携帯対戦車ロケット砲を抱えた射手が前進し、黒い砲身を迫り来る敵戦車へと向けた。射手の横には装填手が陣取り、迅速な次発装填に対応する。
すでに、敵戦車の先頭集団は眼前にまで迫っていた。躊躇する間など無きに等しかった。
「撃て!」
バックブラストも鮮やかに、対戦車ロケット砲が一斉に火を噴き、放たれた赤い光弾は緩やかな軌道を描き敵戦車に向かっていった。だが敵戦車の装甲は光弾をあらぬ方向へ弾き返し、戦車隊は何事もなかったかのようにこちらへ突き進んでくる。
「ばかな……!」
ハーレンの脳裏が一瞬、白濁に染まった。その一瞬の後、ハーレンは最も重大な命令を下した。下すしかなかった。
「総員退却! 退却!」
「しかし、司令部の許可は……?」
と不安げな顔を浮かべるギラス准尉の両肩に、ハーレンは触れた。
「一切の責任は私が取る。君は負傷者を連れて早く後方に下がれ!」
「隊長は……?」
「私は……隊長としてやらねばならぬことがある」
そう言ってハーレンは前線を省みた。圧倒的な敵を前に前線はすでに崩壊に瀕し、兵士達は必死の防戦を続けていた。戦車の蹂躙の前に崩落する塹壕とともに数多の将兵が生き埋めになり、両軍から打ち出される機銃弾の弾幕の交錯は刻々とその密度を増し、すでに目と鼻の先にまで迫っていた。銃座やトーチカは敵戦車の砲撃の前に一つ、また一つと潰され、彼等が踏破した稜線の向こう側からは、すでに大規模な後続部隊が迫っていた。自分の任務が失敗したことを、ハーレンは即座に悟った。
「隊長を置いては行けません!」
ギラスは声を荒げハーレンを睨み付けた。その熱い眼差しを、ハーレンは自らの眼光で撥ね付けるようにした。
「これは命令だ。君らは何としても後方に辿り着き、情勢を司令部に報告するのだ! いいな」
准尉を突き放し、それ以上何も言わないという風にハーレンは踵を返した。そして拳銃を引き抜いたとき―――――
「…………!?」
――――不意に、眼前が明るく、そして白く輝くのをハーレンは感じた。直後全身を雷に打たれたような感覚とともに、彼の意識は消えた。至近で着弾した戦車砲弾の爆風が、彼の身体を大きく跳ね上げたのだった。
スロリア地域内基準表示時刻12月16日 午前2時45分 スロリア中北部
不意に訪れた静寂に引き寄せられる様に、一〇式戦車の砲塔ハッチから頭を出した直後、切り裂くようなジェットエンジン音が夜空を駆け抜けて行った。
目を凝らした先、星空を背景に上空を航過する二機の支援戦闘機の主翼が派手に煌き、ロケット弾の束を遠方の敵へ撃ち込むのを工藤一曹は見た。陸自だけではなく、空自もまた今回の作戦で重要な役割を担っている。それは敵地上軍を上空より叩き、味方の進撃を容易ならしめる役割だった。
司令部の命令は単純で、かつ明快だった。すなはち「前進し、敵を撃破せよ」である。司令部が前進停止の命令を出すまでその任務は続き、このペースで行けば任務は今日の午前中に完遂されるはずだ。
砲塔に据え付けられたM2 12.7㎜機関銃の装填レバーを引き、工藤は周囲を見回した……夜を支配する冷たい空気の中に火薬、火災、そして死臭の入り混じった嫌な臭いが、工藤の嗅覚を擽り、彼の顔を顰めさせた。
視線を巡らせた先、塹壕の中で折り重なるように斃れる敵軍の将兵の姿に気付き、工藤は砲塔から身を乗り出すようにした。自分達が倒した敵兵の顔は若く、声を掛ければ今にも眼を開け起き上がりそうな気がした。
そのとき、戦車に駆け寄る人影に気付き、工藤は反射的に身構えた。引き抜いた拳銃の銃口の前で、人影は周囲の闇を拭い去り、完全武装の普通科隊員の姿になった。
「9師39普連本管通信の小須田三曹であります。貴隊の大隊長どのはどちらでありますか?」
9師39普連本管通信とは、第9師団第39普通科連隊本部管理中隊通信の略称だ。連隊本部が入ってきたということは、戦車大隊の前進もまた近いということでもあった。
大隊長の搭乗する戦車の位置を教え、本管中隊の去っていくのを見届けると、彼らと入れ替るようにして補給部隊のトラックが続々と入ってくるのを工藤たちは眼にする。周囲にハルダウンする一〇式の中にはエンジンに不調を生じたものもいると見え、降り立った乗員がエンジンカバーを開け点検作業に取り掛かっていた。
再び、戦闘機が灰色の雲間を縫い、占領地の頭上を航過していった。その向かっていった先で繰り広げられるであろう破壊と殺戮に、何時の間にか焦燥感を覚え始めている工藤がいた。
「戦車長、腹が減りましたね」
残弾の確認をしていた隅野陸士長が言った。確かに、ここ五時間ほど何も口に入れていない。食べ物はおろか水すらも――――
「もうしばらくの辛抱さ」
そう言い、夜空を噛み締めるように見上げながら、工藤は思った。しかし戦いは、未だ始まったばかりなのだ……と。