第一〇章 「ニイタカヤマノボレ 1208」
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月08日 午前2時3分 ノイテラーネ国際空港 PKF前線作戦航空基地
基地員に起こされ、三時間の仮眠より醒めたときには、周囲はすでに眩しいほどの喧騒に包まれていた。
勤務時間の違いか、眠りに付いたときには部屋にいた三人のパイロットは、すでに部屋を抜け出していた。彼らはすでに、スロリア東方上空で定例のCAP任務に就いているのだろう。
北条 智 航空自衛隊三等空佐は仮眠用ベッドより半身を起こし、床に立てかけておいたブーツに足を延ばした。そして、昨日の遅い夕食後にペアの松浦 祥司二等空尉と額をつき合わせ、さんざん検討した侵入コースを書き込んだノートを手に、北条は仮眠室を出た。
部隊がスロリアに進出し、有事の作戦計画を知らされすでに一ヶ月――――その間を、北条たちは徹底的な戦術研究に費やしてきた。
地上要員の中には器用な者がいて、目標とする敵飛行場やその他関連施設の模型を作り、それに衛星や偵察機よりもたらされる写真、さらにコンピューター上のシミュレーションをも組み合わせ、それらの資料をもとに攻撃隊は侵入針路や角度、兵装使用のタイミングなどを打ち合わせたものである。
一方で直援の戦闘機部隊はスロリアに移動してもなお、徹底的な戦技訓練に明け暮れた。やがては攻撃隊すら、その訓練に加わることとなった。
友軍による電子戦の面でのバックアップが存在するとは言っても、敵の航空基地に強襲をかけるという任務上、当然敵戦闘機の迎撃が考えられる。空自の主力戦闘機F-15Jは度重なる改修の結果、レーダーの策敵性能の向上に伴う多数機の捕捉追尾能力、新型中距離空対空誘導弾の運用能力など、強力な視界外戦闘能力を保有するに至っていたが、それでも策敵の不備による突発的な遭遇戦等、様々なケースが想定された。
遭遇戦への対処―――――その究極の形は、やはり古典的かつもっとも有名な空戦手法――――近接格闘戦に尽きる。
具体的には、想定される敵戦闘機に体格の近いT-4中等練習機を仮設敵に見立て、遭遇時のアプローチから各種旋回戦闘に至るまで、制空班と呼ばれた直援部隊、そして作戦班と呼ばれた攻撃隊の別なく作戦に参加する航空部隊は、連日を厳しいドッグファイト訓練に明け暮れた。
空幕(航空幕僚監部)はこうした仮設敵機を運用する特別飛行隊を臨時に編成し、戦闘機部隊の実質上の最精鋭部隊たる飛行教導隊やT-4の運用に長けた曲技飛行隊「ブルー‐インパルス」に所属するパイロットが、そのための部隊に組み込まれた。もともとT-4が運動性能には定評のある機体ということも加わり、彼らベテランの操る仮設敵は強く、一度ミサイルが用を為さない接近戦となれば、新鋭のF-15Jすらその高度な空戦技量と巧緻を極めた連携戦術の前にバタバタと「撃墜」された。それでも度重なる訓練の末、総体としての作戦部隊の技量はじりじりと、着実に向上していった。
―――――そして12月7日。
ギリアクス‐レ‐カメシスとかいう「武装勢力の首魁」の、「宣戦布告」のTV演説を、基地の隊員達は食い入るように見、聞いた。その瞬間、誰もが戦争は避けられない事を知った。そして、これまでの自分達の努力が無駄になることはない……ということも。
俄然、基地内は活気付いた。
―――――その熱気を引き摺ったまま迎えた12月8日午前。
向かった先は基地内の一室。そこが、北条が所属する航空自衛隊第8飛行隊に割り当てられた集会所だった。ドアを開けた先には、すでに8名のパイロットが席に付き、ブリーフィングの開始を待っていた。
「おはようございます、班長」
と笑いかけたのは、松浦二等空尉だ。北条機の兵装システム士官を勤めることになっている。実際、今次の紛争が勃発する以前から共に飛んでいただけあって、飛行中の互いの息遣いに至るまで知り尽くしている間柄だ。
「よく眠れましたか?」
と、彼は北条にコーヒーを勧めた。眠気覚ましには調度いいだろうが、漆黒の液体を満たした紙コップに、北条は眼を曇らせる。
「飛行中に催しでもしたら嫌だからな……いらないよ」
「そうですかぁ……?」
と、松浦は怪訝な顔をする。
意外と、眠る前の予想に反し緊張感は沸かなかった。それは無神経故ではない。度重なる訓練で醸成した自信ゆえの泰然さを、この場の皆が身につけているかのようであった。ノートやメモを拡げ、作戦時の飛行ルートを確認している間、第8飛行隊のパイロットは少しずつ部屋に集り、やがて作戦に参加する定数を満たしたところに、空幕より派遣されたブリーフィング要員の幹部が入って来る。
「起立!」
最先任の北条の号令一下、全パイロットが立ち上がり、一礼する。それに答礼し、幹部は名乗った。
「空幕の佐伯三等空佐です。宜しく。時間がありませんので、早速状況説明を開始いたします」
状況説明用の液晶端末を開き、佐伯空佐は説明を始めた―――――
―――――目標はスロリア西方に点在する三つの敵主要航空拠点。ノイテラーネやスロリア東部の各空港を発進した攻撃隊は、大きく三隊に分かれ個々の目標を攻撃、最終的には敵の滑走路を使用不可能にし、地上の敵作戦機全てを完全に破壊する。
動員戦力は、F-15EJ運用の北空第3空(北部航空方面隊第3航空団)第8飛行隊及び、西空第5空(西部航空方面隊第5航空団)第301飛行隊より各6機。F-2A運用の中空第6空(中部航空方面隊第6航空団)第306飛行隊より8機……これは、航空自衛隊の保有する支援戦闘飛行隊のおよそ半分が今次の作戦に投入されることを意味する。
これら攻撃隊を護衛、援護する要撃戦闘機隊として、F-15J運用の北空第3空第203飛行隊より12機が投入される。攻撃隊の総数は32機、これに不測の事態に備えたリザーブも含めると、攻撃自体に動員された作戦機は40機に上った。
また、実任務に当たる機体の他、これらを支援する機体もまた多様で、そして多種だ。
戦果確認も兼ね、今回の攻撃では戦術電子妨害任務担当のRF-15DJが各攻撃隊に2機付随する。その他、本土の電子戦支援隊に属するEC-2電子戦訓練支援機2機もまたスロリア西方空域に進出し敵地上空での電子妨害に当たる。また、RF-15EJはHARM(対レーダーミサイル)を搭載し、地上の策敵電波源の悉くを探知し破壊する役割も負っていた。
地上目標の位置を正確に評定するため、E-102EJ「G-STARS」地上警戒管制機一機が目標上空でレーダー走査を行い、それにより探知された重要地上目標はデータリンクを通じほぼリアルタイムで攻撃隊に通知、誘導されるようになっていた。また、空中では2機のE-767AWACS及び4機のE-2C早期警戒機が待機。いち早く目標周辺の敵機を探知し、攻撃隊に知らせる手はずとなっている。
――――そして……今次の作戦に際し最も重要な役割を果すのが、空中給油機である。
ノイテラーネ国際空港から、最も近い敵前線航空基地まで直線距離にして約1500km。だがF-15EJの最大戦闘行動半径は1270kmであり、これがF-2Aとなると840kmに減少する。これは何も両機種のアシが決して短いわけではなく、作戦地域となったスロリア亜大陸が東西に広過ぎるのである。この点は当然、作戦立案の段階でネックとなった。そしてその難点を解決する方法を、空自は一つしか持っていなかった。
各前線基地を発進した攻撃隊は離陸後すぐさま三波に別れ、任務達成後にあらかじめ指定された空域「アルファ」「ブラヴォ」「チャーリー」まで飛ぶ、各空域には事前に3機のKC-767空中給油機、同じく3機の空中給油キットを搭載したがC-2輸送機が待機し、給油機と会合した攻撃編隊はそこで帰路までに必要な分の給油を受けるのだ。実施部隊の指揮官の中には、任務をやり遂げたパイロットに精神面で余計な負担を掛けさせたくないという配慮から作戦前の空中給油を推す声もあったが、KC-767及びC-2の燃料搭載容量では、到底攻撃編隊が往復に必要な分の燃料を賄いきれないという点からやむなく事後給油という形を取ることとなった――――逆に言えば今回の攻撃機の数は、数少ない空中給油機が対応でき、かつ敵基地破壊を成し遂げられるだけのギリギリの兵力だったのである。それゆえ、今回の奇襲作戦には豪胆なことで知られる桐原空幕長すら逡巡の色を見せた。
だが次の植草の言葉―――というより確約――――が根強い慎重論を封じ込めた。
「これがまともな作戦ではなく、一種の賭けであることぐらい、この植草はしっかりと認識している。このような危険な作戦は二度としない。この作戦一度きりである」
――――攻撃隊の侵入ルートは、事前の電子情報収集機の偵察飛行により敵の電磁放射をモニターし、侵入に利用できるレーダー範囲の「隙間」を割り出すことによりすでに確保されていた。だがその隙間を潜り目標まで辿り着くのが次の問題だった。何故ならレーダーの特性上電波の届かない山岳地の、それも低空域の方に、そのような「隙間」が集中しているからである。当然、山岳を避けようと上昇すれば、忽ち敵のレーダーに察知されてしまう。
その問題を解決するために行われたのは、やはり訓練だった。攻撃隊に指名された部隊は夜間の日本アルプスを低空で通過する訓練を繰り返し、パイロットたちは低空侵入の技量を磨いたのである。飛行隊によってはSEの資格を持つ技術隊員がスロリアに存在する全山地帯のシミュレーションソフトを作成し、パイロットは地上でも徹底的に本番時の侵入ルートを脳裏に叩き込んだ。
攻撃編隊は目標より一定の距離に達した時点で無線封止、レーダーなどの策敵装置も一切カットする。これは敵が逆探かもしくはそれに類する装備を持っている場合に備えての措置だ。
同時に一気に高度を下げ、低空飛行に入る。この間、飛行高度は比高200フィート以下を維持する。これまでの訓練から攻撃隊の全パイロットがDLIRやLANTIANなど受動的位置及び距離測定システムに信頼を置いている。電波高度計に頼らずとも、十分な侵入飛行はこなせるだろう。
――――そして、目標直前。
編隊は急上昇し、一気に高度10000フィートに達する。同時にレーダーをオンにし、無線封止も解除。
このとき初めて、全編隊に真の意味での攻撃命令が下る。つまり、もし――――現状では万に一つも無いことであるが――――敵勢力が停戦なり何らかの融和を打診してきた場合、「進攻停止指令」の下、全編隊は装備を投棄し一斉にもと来た途を引き返すこととなる。
――――では、攻撃が本決まりとなった場合は?
攻撃開始は同時刻、空自の攻撃隊のみならず、スロリアに展開する地上、そして海上のPKF全部隊同時に、一つの暗号コードで知らされることとなっていた。
――――ブリーフィング終了の間際、その暗号コードについて佐伯三佐は言った
「昔……同じ言葉の下で戦いに赴いた我々の先達は、あの世からどんな顔で俺たちの事を見ているのだろうなぁ」
「感傷に浸るのもいいが佐伯サンよ……」
と、席を立ち際に北条は言う。
「ちゃんと俺たちのこと考えて作戦立てたんだろうな?……無茶すぎるぜ、こんなの」
「本官だって痩せても枯れても元はイーグルドライバーだ。ちゃんと君らのことぐらい、考えてあるさ」
「じゃあ、俺の代わりに乗って行くかい?」
皮肉とも取れる北条の言葉に、佐伯三佐はやや苦笑気味に口元を歪めた。
「そうだな、浮輪持参で乗るかねえ……」
日本国内基準表示時刻12月08日 午前2時17分 東京 総理官邸
窓辺の向こうでは、東京都という巨大都市を形成する一角が、夜空の広がる限りに眩い光を放っていた。その光の連なりは、日が落ちる頃から次第に首相官邸を取り囲むように広がり、また日が昇るまで瞬き続ける。
その光の一点一点には、眠ることの無い人々の、様々な営み。
執務室の窓辺に立ちつくしたまま、神宮寺総理は考え続けた。
東京が眠らない街となって、果たしてどれくらい経つだろう?
あの街をこれほどまでの世界に創り上げるまでに、我々の先達は、若き日の我々は、果たしてどれくらいの艱難辛苦を乗り越えていったことだろう?
そして我々の後を継ぐ世代は、これからどれくらいの艱難辛苦に直面し、それを乗り越えていくことだろう?
一都市でありながら、かつての「前世界」において、先進主要七カ国の一角であったカナダ一国と同規模の国内総生産を誇ったのと同様、現在の東京都のGDPもまた、この世界では一中堅国家のそれに匹敵する。「転移」によりこれまで結びついてきた世界より断絶されてはや一〇年。その間東京は「転移」によりもたらされた混乱と危機にもめげず独自の成長と発展を続け、今や再びかつての繁栄と地位を取り戻すに至った。
「転移」だけではない。かつて、自分が眼にしているその壮大な街は、一面の廃墟だった頃があった。存亡の縁に立たされていた頃があった。だがそれは「転移」のような不可抗力の「天災」ではなく、戦争という「人災」によりもたらされたものだ。
太平洋戦争という、従来の国力の枠を超えた総力戦の帰結としての敗北。本来なら戦火の及ぶべくもない後方であった東京もまた戦争の末期には間断ない戦略爆撃に晒され、多くの生命が失われ、その経済主体としての価値の悉くを消失した。その惨状を眼にした誰もが、徹底的に打ちのめされた日本とこの街が、再び立ち上がることはないだろうと思った。
だが……日本は、東京は再び立ち上がった。
神宮寺の祖父、そして父の世代は戦争により失われた悉くを再建し、この街を当時の世界に冠たる経済大国日本の、繁栄と復活の象徴にまで創り上げた。そして神宮寺自身、今や私生活では父と呼ばれ、祖父と呼ばれる身。これまでの人生で、自分が子孫に誇れるような立派なことをしてきたとは、神宮寺は毛頭考えていない。だがそれでも、いずれ先祖と呼ばれるこの身は、後に続く者の安寧を願い、自らのできることを為す義務があると彼は思っていた。
自分のできること……それは、「転移」によりもたらされた混乱を収拾し、日本を再び世界に冠たる経済大国、産業大国に立ち上げること。ともに「転移」を果たした異次元の諸国と誼を結び、この世界に共存共栄の手を差し伸べること。そこに他国への侵略や軍事力の誇示など、一片たりとも入り込む余地はなかった。そしてそうした試みは、今や完全に軌道に乗りつつあったのだ――――彼等が我々の前に現れるその日が来るまで。
彼等――――ローリダ人はこの新しい世界に対し、日本とも、そしてその友好国とも全く違う観念を持っているようだった。敵対する者、信仰を異にするする者をその根底より否定し、反抗する者には武力を以て臨む。自らの信仰と正義を頑なまでに信じ、それらに基づく世界しか、彼らは決して認めようとしない。それ以外の世界を、彼らはあたかも滅ぼし、征服すべき魔界のごとくに見做しているかのようだ。
……そして彼らは、今度は日本を敵と見做し、牙を剥き襲い掛かってきた。
侵略、虐殺、破壊……ここ五ヶ月の間に彼等が為した全ては、もはや対話の余地のないほど取り返しのつかないものだった。それでも我々は戦争を避けるべく様々な努力を講じてきたのだ……否、してきたつもりだった。
その結果はどうか?……それらを思い返し、神宮寺は絶望に沈んだ。
彼らはこちらの対話の打診をことごとく無視し、その対話の機会すら、彼らの主張と野望を通すための手段と見做したかのように振舞った。あまつさえ、こちらが容易に妥協しないことがわかると、今度はその強大な武力を前面に出し、あらゆる物理的手段を以て我々に屈服を強いたのだ。
しまいには、対話を望んだ神宮寺の前任者にして親友を、口先だけの講和で誘い出し、そして殺した……彼の行いが、彼らの正義に反するというだけで!
窓辺に佇んだままにこれまでを振り返るうち、神宮寺の拳が震えた……一体何者が、何の正義があって我々の労苦と繁栄を否定する権利があるというのか? もしこの世に、本当に神がいるとすれば、裁かれるべきは我々ではなく彼らの方ではないのか?
隅に控え、それまでずっと沈黙を守っていた秘書官が、歩を踏み出して言った。
「総理、記者会見までまだ十分時間があります。今の内、少しお休みになられた方が……」
「わしは、いい。それより……」
と、神宮寺は口に出すのを躊躇いような表情を見せる。
「……彼等の、講和打診への返事は?」
秘書官は悄然として頭を振った。かの「最後通牒」以後も、政府は何度となくローリダ側に話し合いのテーブルに付くよう打診を続けている。志半ばで死んだ友に報いるためにも、そして最後まで和平の糸口を探るためにも、これは当然の努力だった。
……だがそれも、あと一時間程で徒労に終りそうだ。
神宮寺は、背後を振り向いた。
「記者会見演説の草稿は、既に作ってあるのだろうな?」
「はい……用意しております」
「そろそろ……時間だな」
神宮寺は呟いた。攻撃隊発進の時刻は、統合幕僚会議からの事前レクチャーで予め知らされていた。
ノイテラーネ国内基準表示時刻12月08日 午前2時40分 ノイテラーネ国際空港 PKF前線作戦航空基地
飛行服の上に下半身全体を覆うGスーツと、緊急用の携帯無線機やマーカー等のサヴァイヴァルキットを綴じ込めた装帯に全身を包めば、自ずと身が引き締まる思いがする。
その上に飛行隊の標識を縫付けたキャップを被り、ヘルメットや航法図を詰め込んだバッグを片手に北条たちが外に出た頃には、それまで飛行場一帯を覆っていた喧騒はすでに峠を越えていた。
眼を細めた先には、広いエプロンを一杯に使い、向かい合うように列線を形成する作戦機の一群。
特にF-15EJの胴体下やハードポイントには、黒光りする低抵抗爆弾や各種対地誘導弾、真白く細長い短距離空対空誘導弾の他、低空侵入に必須のLANTIRNポッド、そして増加燃料タンクもしっかりと吊下されている。それらを目の当たりにし、北条はこれが訓練ではないことを実感する。
外では、業務用の軽バンが待っていた。パイロットはそれに乗り込み、それぞれの乗る機の元へと向かう。
機付長の森下三等空曹以下、四名の整備員が北条機の傍で彼らの乗り手を待っていた。四人はバンを下りた北条と松浦に一斉に敬礼し、二人もまた丁重なまでに答礼する。そのような中でも、寒風に晒され赤切れした機付長の手を、北条は見逃さなかった……精魂を込めて機体を整備してくれた彼らのためにも、必ず戦果を上げてみせる。
直ぐには乗り込まない。その後には、パイロット自身による機体状況の確認が続く。それは形式上というより、実戦部隊に配属される遥か前――――彼が訓練生として初めて初級練習機の操縦桿を握った頃からみっちりと教えられ、骨の髄まで身に付いているものだ。飛行機は自動車と違い、飛び上がったところで異状を感じても、そこで停止させて状況を確認する、というわけにはいかない。そしてその種の不手際は、往々にして機体はもとよりパイロットの命まで奪うことに繋がる。だから事前にいくら点検してもし過ぎることはない。
「…………」
そうした外からの点検の最中、北条は自分が抱えていくF-15EJの装備に、改めて驚愕の念を抱く。
胴体下には左右各6発、計12発の250ポンド低抵抗爆弾は、爆撃コンピューターの導くままに全弾を地表の目標にぶち込むだけで、全てを終らせることができるだろう。さらに、翼下のハードポイントに左右各一発ずつ吊り下げられた1000ポンドクラスター爆弾は低空で202発の子爆弾をばら撒き、地上にある航空機、そして人間を旋風の如く薙ぎ倒す。また、ハードポイントに搭載された自機防御用の4発のAAM-5短距離空対空誘導弾は、30G以上の高機動を可能にし、従来の赤外線探知センサーの上に画像誘導方式の追尾センサーも併せチャフ、フレアーなど防御側のあらゆる対抗手段を悉く無に帰す。
北条の隊において、飛行班長の彼と彼の列機の任務は滑走路及び作戦機の破壊だった。他の二機は敵防空網の破壊を担当し、もう二機が敵司令部施設の破壊任務を帯びている。従って、任務ごとにその装備も微妙に異なる。
北条と松浦が乗り込み、ヘルメットと酸素マスクを着用するのを見計らい、四人の整備員は一斉にイーグルの四周に散った。機体に直に接続したインカムを通じ、眼前に立つ森下三曹が「準備OK」のサインを送る。
エンジンの始動……JFSレバーを握る手に、力が篭った。これが空自の草創期を担ったF-86からF-4EJまでが全盛だった時代には、エンジン始動の際には外部から発電機や圧縮空気供給機を接続する必要があったのだが、それも今となっては昔の話だ。
現在のF-15JやF-15EJ、そしてF-2Aはすべて操縦席からの操作で、外部から何の助けもなく始動させることが出来るようになっている。だがそれが便利かといえばそうでもなく、前述のような一刻を要する事態の場合、以前はパイロットが駆けつけたときにはもう整備員の手で済まされていた始動に必要な全ての処置をパイロット一人の手でこなさねばならないから、その分余計に時間が掛かってしまうという難点もまた存在した。
キイィィィィィン……と、コンプレッサーがエンジンに空気を送り込む音、続いてゴゴゴゴゴ……と、覚醒したジェネレーターの回転する音を聞く。それは直後にはその鋼の胎内に炎を宿し、爆音を刻み始める2基のP&W-IHI-F100-220エンジンの鼓動となってコックピットまで伝わってくる―――――始動完了。輝きを取り戻し始めた計器類の躍動。同じく起動した多機能表示ディスプレイは、|目標指示/航法用前方監視赤外線《FLIR》の画像表示システムを通じ、ノイテラーネの飛行場の全景をくっきりと浮かび上がらせていた。広角HUDはその緑色の輝きの中に、黙々と数値化された機体の位置情報を刻み始めている。眼前の森下三曹が再びハンドシグナルを示すのを見る。
すかさず、操縦桿を左右に倒す。補助翼及び昇降舵が正常に稼動するか、この時点で点検をしておくのだ。
「右……左……」
『ハイっクリヤー』
続けてフットバーを踏み、二枚の方向舵が可動するかを確認。
『クリヤーでーす』
その直後、整備員が射出座席、搭載爆弾、ミサイルの信管及び発射装置等機体各所を固縛する安全ピンを引き抜き、操縦席付近まで持ってきて北条に示した。北条はそれらの本数を数え、ピンが規定どおりに引き抜かれているかを確認することになる。
「確認願いまーす」
「はーいOK……ゴクロウサン」
ここまでが、実際に愛機を発進させるまでの手順。これがスクランブル等の緊急出撃の場合、当然これらの作業を悠長に行うことは出来ないため、予め行われ本番では省略される。
北条の愛機が眠りより解き放たれた時にも、まだ出撃予定時刻まで時間があった。その間、密閉されたコックピットの中で効き始めた暖房は、北条に再び眠気を誘わせる。それを追い払うように慣性航法システム(INS)に飛行経路の各座標を入力し、右膝に張り付けたニーボードの各種情報に眼を凝らし、確認する。
彼が乗り込む直前から何となく感じていた違和感の正体に気付いたのは、このときだった。
まるで……いつもと一緒じゃないか。
そう、北条たちはこれまでをそのような淡々としたスケジュールの下で飛んできた。ひょっとすればこの一度の出撃が、日本の命運を決する出撃であるのかもしれないのに、俺にはもっと緊張感が……もっと高揚感があってもいいはずじゃないのか? それが、今日の俺は通常の訓練にでも赴くような感覚で整備員と会話を交わし、点検を終え、愛機を始動し……こうして離陸を待っている。
それは……何かオカシイ……そう、可笑しいのだ。
ふと、周囲を見回してみる。北条の視線の先では列線を形成する僚機もまた、すでにパイロットが搭乗とエンジンの始動とを終え、北条たちと同じく出撃命令を待っていた。
「クックック……」
『班長……?』
不意に込上げてきた笑いに、北条はやや頭を下げた。
「何だか……こうして出撃を待っているのが、嘘みたいだな」
『何なら、腿のあたりでも抓ってみてはいかがです?』
と、松浦の言葉には余裕が感じられる。
「そうだな、敵地上空に入ってから考えるか」
―――――そのとき。
『――――ノイテラーネ国際空港管制塔よりレイノウ特別便へ……離陸を許可する。第一滑走路に進入されたし』
「レイノウ特別便」とは、日本―――ノイテラーネ間の相互協定に基づき、空港周辺の空域を管轄する航空管制室より空自攻撃機部隊に宛がわれた便宜上のコードネームであった。ときに12月8日 午前3時57分。
事前に懸念した通り、爆弾と燃料を多く積んだイーグルは、滑走させるのには重過ぎるように感じられた。とにかく取り回しにくい。
それでも上手く滑走路への進入を果し、加速しようと開かれたスロットルにも、重いイーグルはやはり鈍感であった。だがF-15といえどフル装備の上に満タンの燃料で飛び上がることなど設計上不可能に等しい。だから燃料は辛うじて任務を達成し予定給油空域まで到達する分しか積んでいなかった。
そうしたこともあって、燃料を食うアフターバーナーは使いたくなかった。幸い高度を稼ぐのには未だ時間も距離もある。だとすれば飛び上がるのに方法は一つしかない――――それは、滑走路という限られた矩形の空間を一杯に使い大地を蹴るという方法。
滑走距離1000フィート……2000フィート……3000……そして――――
『―――――こちら編隊長……離陸する』
通信と共に、赤と青の識別灯が、F-15の機影とともに漆黒の滑走路の上を一直線に流れ、やがて緩やかなカーブを描いて上昇して行った。日本航空自衛隊に所属する最初のPKF攻撃編隊の一番機が滑走路を一杯に使い、未だ闇の支配する空の彼方へと舞い上がったとき、それが如何なる結果をもたらすことになるか、この時点では神ならぬ身では誰もが知る由もなかった。
―――――そして、日本とローリダ共和国との真の意味での最初の戦いは、誰もが想像もし得ないところで、すでに始まっていたのである。
スロリア地域内基準表示時刻12月08日 午前3時59分 南東スロリア近海 海上自衛隊潜水艦 SS-592「うずしお」
「……目標、あと三十分でノイテラーネ領海に達します」
航海長にして先任幹部の田島三等海佐の報告に、海上自衛隊潜水艦「うずしお」艦長 熊野 浩輔 二等海佐はコーヒーを喉に流し込む手を止め、発令所後方の海図台へと歩を進めた。
追尾を始め、すでに二十時間近く……「うずしお」の鼻先から約三海里の距離を置いて、四隻の武装勢力潜水艦は依然分離することもなく潜航を続けている。
「司令部からの指示はまだか……?」
「受信まだ」
現在、艦は追尾を続けると同時にフローティングアンテナを展張し、現況を報告するとともに本土からの命令を受取っている。熊野二佐の焦燥には理由があった。敵艦は現在速度四ノットでノイテラーネ領海まで一直線に進んでいる。もし領海に入ったとして、友好国とはいえ他国―――それも非武装国家――――の領海で戦闘を繰り広げるのは正直まずい。
仕留めるなら、敵艦が公海上にある今しかない……熊野二佐は、時計を凝視する。幾ら睨み付けたところで、時計が時を止めてくれようはずもなかった。
「目標……依然針路変わらず。領海到達まであと二十分」
「……まずいな」
未だ進路を曲げない武装勢力の潜水艦4隻と、それを追尾する「うずしお」……双方の位置関係を表示した電子海図台から頭を上げ、熊野二佐は先任と顔を見合わせた。遠く離れた司令部とて、こちらの連絡で既に詳細を掴んでいるはずだ。まさかこの期に及んで攻撃を躊躇しているのか?……このまま敵艦を見逃せば、今後に大きな禍根を残すことになるかもしれないというのに。
……そのとき。
「司令部より受信……読みます。『発、潜水艦隊司令部。宛、「うずしお」 武器の使用を許可する』……繰り返します、『武器の使用を許可する……』!」
来た!……通信を艦内放送に切り替え、熊野二佐は命令を下した。
「艦長より乗員へ、本艦は只今より作戦行動に入る。それは即ち……現在追尾中の武装勢力潜水艦四隻を、他国領海に入るまでに撃沈することである。これは訓練に非ず。繰り返す、これは訓練ではない。心してかかれ……乗員へ告ぐ、魚雷戦用意!」
その直後、艦内が騒然とするのを熊野二佐は聞いた――――というより感じた――――ように思った。だが、皆が落ち着くのを待っていられるほど現状では悠長にしていられない。
『……艦長より発射管室へ、一番から四番に魚雷装填』
艦長の命令に、発射管室は機械的なまでに整然とした反応で応じる。
「一番から四番、装填よし」
「ソナー、目標の速力及び針路知らせ」
すかさず、ソナーマンの海野 毅一等海曹が応じる。彼とて耳では敵艦を捉えてはいても、これより戦闘に入るという実感だけは、どうしても捉えられなかった……それでも、その耳で捉えた全てを、彼は艦の乗員と自分自身のために抑制された口調で報告する。
「針路0-1-3。距離2700。速力5……いま7になりました」
『監視対象 目標敵潜水艦……水雷長、目標諸元入力始め』
「マーク……方位0-1-4」
「よろしい……速力12まで上げ。1500を切ったら攻撃する」
『一番四番、注水始め』
「一番四番……注水よし」
「艦長、敵潜の距離1500……1490……推進音近付く」
水雷士が火器管制端末のコンソールを開き、ゆっくりとボタンに指を充てた。そこに艦長の命令。
「一番四番……発射!」
ドスン……という響きは二度。
間隔を置き放たれた97式魚雷は入力された音紋データの導くまま、知性を持った銛となって40ノット以上の高速で敵艦へ向かっていく。母艦よりワイヤーで誘導された二発から、敵潜がもはや如何なる回避行動を取ろうと逃れる術は無かった。「おやしお」型の高度な目標追尾能力を持ってすれば、眼前の敵艦四隻を一度に葬ることが可能だったが、熊野は確実に敵艦を葬れる各個撃破を決断したのだった。
「命中まであと15秒……10、9、8……」
「二番三番に注水……」と、艦長の命令は矢継ぎ早だ。
「命中!……二艦同時に命中しました。」ソナーの弾んだ声。だが反応はない。実戦の中に身を置いているという実感に支配された艦内は、それが身を置く海中深くに負けず劣らず、張り裂けるような静謐さに包まれていた。
ただディーゼルの臭いと空調の稼動する音のみが、艦内に満ちている。
「二番三番発射用意!……五番六番に魚雷装填」
「艦長……水中雑音……目標の位置を失探しました」
「機関停止。トリムを維持せよ」
ややあって、安堵混じりの報告が続く。
「敵潜二隻の位置確認……針路1-3-5、距離1400より遠ざかる。深度80……速力10に上がりました」
「推進機始動、最大速力で追尾。五番六番に諸元入力……」
長い接敵経験から、敵潜の性能はすでに知り尽くしている。加速、速力、潜航性能……どれをとっても、こちらは向こうに優越している。今度は一気に距離をつめ、至近より敵艦を葬る腹積もりだった。
「最大速力アイ……!」
加速――――――それでも、徹底された静粛性の故か、「おやしお」型の加速は乗員にもそうと感じられないほど静かで、かつ良好だ。
「目標マーク完了。何時でも撃てます」
「五番六番に注水せよ」
「敵潜との距離1000……970……」
「五番六番発射っ……!」
更なる発射……既に向こうは味方を失ったことで此方の存在に気付いているはずだ。
「命中まで17秒……15、14……12……」
ストップウォッチを握る水雷長の手には、すでに汗が滲んでいた。
「速力8に落とせ」
「全弾命中!」
ゴン……という響きを、発令所にいた誰もが感じた。それはまさに、戦いに敗れた敵艦が多数の乗員を道連れに海中奥深くに身を沈めようとする瞬間。
海野の抑制された報告は、なおも続いた。
「敵潜沈みます……深度100……120……200……圧潰音、確認しました」
「二隻全部か?」
「間違いありません」
「ソナー、他に敵潜がいないか警戒せよ」
「了解……警戒します」
五分……十分……一五分……徐々に艦内より緊張が解け、艦内の空気はほんの三〇分前のそれに戻っていく。
「潜望鏡深度まで浮上……横須賀に打電しろ。我敵潜水艦四隻を撃沈……以上」
次第に深度を上げていく艦内で、熊野二佐は喉の渇きと共に、至近に人の気配を感じる……一人の海士が、固い笑顔とともにサイダーの瓶を持って彼らの艦長が振り返るのを待っていた。
「艦長、皆がお飲みくださいと言うので……」
日本国内基準表示時刻12月08日 午前4時34分 東京 防衛省中央指揮所
巨大な広角ディスプレイに映し出された各種地形図や情報を前に、その広大な空間は異様なまでの活気に包まれていた。
防衛省中央指揮所は陸、海、空の三幕僚監部とデータリンクで結ばれ、有事の際行政上のトップたる防衛大臣が実戦部隊を指揮監督するための施設である。その主たる桃井 仄 防衛大臣が入室してすでに二時間、広角ディスプレイの一枚はスロリア東半分の地形図の上に、つい一時間近く前にノイテラーネの各基地を発進した攻撃編隊の状況をリアルタイムで表示していた。
……そして、さらなる一角の、ノイテラーネ領海に近いスロリア東南沿岸部を拡大表示した海上の一点には、戦闘状況の継続を示すマークが赤い光を放ち続けている。
『――――「うずしお」より報告。敵潜水艦四隻を撃沈』
「……始まったわね」
呟きとともに、桃井 仄 防衛大臣は電話を取った。応対に出た秘書官に、神宮寺総理へ繋ぐよう伝える。
『……神宮寺だ』
「総理、始まりましたわ」
『……何処で? 空か、陸か……それとも、海か?』
「海上自衛隊の潜水艦が、ローリダ軍の潜水艦四隻を撃沈しました」
『そうか……』
それに続く溜息が、電話の主の落胆ぶりを聞く者に伺わせた。
「はい……」
『聞くが、それは不可抗力だったのか?』
「敵潜はノイテラーネ領海への侵入を図ろうとしておりました。当然の対処と私は考えますが」
『……では再び聞くが、これはすぐに公表すべきことだろうか?』
「当分伏せておくべきでしょう。彼らの方でも、おそらくはこのことを知りません。その方が作戦遂行上有益です」
『……わかった』
電話を終え、桃井は同席の植草 紘之 統合幕僚長に向き直った。彼女が顔を向けるのを待っていたかのように、植草は言った。
「あと一時間……あと一時間で総理は真に重大な決断を強いられます。だが情勢がどうであれ、総理は平和を望んでおられる……それがかえって、振り上げた剣を鈍らせるようなことにならねばいいが」
「…………?」
興味深げな桃井の目付きに、植草は恐縮する。
「いえ……小官は何も戦争を望むものではありません。ただ、善意と希望的観測による妥協は、ときとして取り返しの付かない悲劇に繋がる危険性があると言いたいのです。閣下も歴史に詳しいのなら、お解かりでしょう?」
植草の言葉に何も言わず、柔らかな微笑と共に、桃井は幕僚長に視線を注いでいた。
「あなたの懸念はよくわかります。幕僚長。でもね……」
語を次ぎ、桃井は語る。
「……内閣総理大臣というのは、個人ではないの。だいいち個人一人の心情や理念でどうこうできるほど、この国は軽い国ではないわ。たとえそれが国政の最高権力者でもね。神宮寺さんは、それをよくわかってる。彼は、彼個人の理念より国民の意思を優先する人よ」
「…………」
植草は、自分でも知らぬ間に桃井を凝視していた。その眼に一片の曇りも無かった。
「植草君は、この戦争に勝算は……?」
教え子をからかう教師のような口調に、植草は笑った。
「それは……あります」
「間違いなく……?」
「そうでなければ、今頃職を投げ出していることでしょう」
――――そして、一時間が過ぎた。
トゥルルルルルルルルッル……!
桃井の隅で電話が鳴り、ゆっくりと延ばした手で、桃井は耳に受話器を当てた。しばしの遣り取りのうち、桃井の顔から一切の表情が消えた。
「どうなさいました?」
「…………」
無言のまま、桃井はゆっくりと電話を置いた。「国政の最高権力者」の意思をこの場に知らしめるべく―――――
スロリア地域内基準表示時刻12月08日 午前4時35分 PKF「β」攻撃編隊
―――――上昇。
軽々と幾層もの雲を越えたとき、HUDの表示は10000フィートを指していた。
地上の暗黒と低空からの開放感は、不思議と湧かなかった。先行する電子戦機による電波妨害が始まっているとはいえ、上昇したところをレーダーに捉えられる懸念は少なくない。むしろLANTIRNの表示する暗視画像に従い、自動操縦装置に任せて低空の山岳地帯を飛びまわった方が、よほど気が楽というものだ。
HUDに眼を凝らす……F-15の場合、飛行と任務に必要な諸元の大方をHUDに表示することが出来るようになっている。だが幸い、高度10,000に達してもレーダーに照射されたことを示す警報は出ていない。
列機は?……と背後を見遣った先では、列機の杉本二等空尉のF-15EJの姿が、圧し掛かってくるかのように迫っていた。
杉本機が翼を振った。その主翼下には、米俵のような形状をしたクラスター爆弾の弾体。他の一個分隊が対空陣地を片付けた直後、北条の隊ともう一分隊が飛行場上空に侵入、これを完膚なきまでに叩く。
眼前―――――丸みを帯びた水平線の向こうは目障りな雲に覆われてはいたが、F-15EJの精密照準装置を以てすればどうということもない。
「…………」
スロットルレバーの無線スウィッチに指が触れた。後30秒で、このスウィッチにもう少し指に力が篭れば、この戦争でおそらく最も重要な通信が、ヘルメットのレシーバーに飛び込んでくるはずだ。
スウィッチに触れた指に力を込めるのに、多少の勇気が要った。
――――それでも、30秒が過ぎるのと、無線のスウィッチをオンにするのと同時。レーダーもまた、ほぼ期を同じくして回復させる。おそらく自分と編隊を組む全機が、同時にこの操作をしたはずだ。
『―――――…………―――――』
最初は、単なる空電音だった。だがそれは次の瞬間には、明瞭な女性の声となった。AWACSに搭乗する要撃管制官の声だ。
『―――イヌワシより全機へ……ニイタカヤマノボレ――――』
「……こちらブラヴォ‐リーダー、復唱してくれ。復唱を要請」
……通信網の沈黙。おそらく全編隊長が自分と同じ事を、ほぼ同時期に聞いたのだろうと、北条は直感する。さらに言えば今この瞬間、スロリアに展開するPKF全部隊がこの一言を一斉に受信し、中には此方と同じように確認を要求した者もいたかもしれない。
『―――全機へ命令、ニイタカヤマノボレ……ニイタカヤマノボレ』
「…………」
溜めていたような息を、北条は酸素マスクの中で反響させた。無線と同時に封止を解いたレーダーの対地モードは、雲海を隔てた遥か遠方の飛行場の全景を、寸分の狂いもない明瞭な像を以て映し出していた。
『アルファ……!』
「ブラヴォ……!」
『チャーリー……!』
事前に決めておいた「了解」の合図を送った直後、不意に背後から光が差し込み、暗いコックピットをゆっくりと照らし出した。身を乗り出すようにしてその光の先に眼を凝らすうち、北条の瞼に熱いものが込上げてきた。
黒い雲の層を貫き、乗り越えるようにして延び上がる赤い太陽……おそらくこの日、攻撃編隊の彼らこそが、この世界で最初に朝日を浴びた人間であったに違いない。
そしてそれは、反撃の秋を告げる旭日の尖兵だった。
スロリア地域内基準表示時刻12月08日 同時刻 スロリア中部上空
『――――ニイタカヤマノボレ……ニイタカヤマノボレ』
与圧の効いたキャビンを支配する空虚の中で、男たちは戦闘の始まりを告げる言葉を聞き、自己に強いた瞑目から自己を解き放った。
警戒下にあることを示す赤い照明に彩られたC-2輸送機の機内、その中で無機物のように向かい合わせに座る人影。その暗がりもあるが、パイロット用のヘルメット、そして顔全体を覆う遮光ゴーグルと酸素吸入マスク。さらに上半身から足先までを覆う迷彩されたジャンプスーツ……彼らの一人一人が纏う服装と装備が、むしろ彼らから一切の個を奪っていた。
ただジェットタービンの鼓動のみが支配する永遠に続くかと思われる沈黙……それを破ったのは、彼らが飛び出すべき後部ハッチから向かって一番前に座る人影の、静謐さを含んだ一言だった。
「……時間だ。時計を合わせろ」
部下たちにそう命じ、陸上自衛隊 特殊作戦群指揮官 御子柴 禎 二等陸佐は、酸素マスクに覆われた顔をゆっくりと上げ、骨材むき出しの天井を仰ぐようにした。
御子柴二佐をはじめ、機内にいる彼ら特殊作戦群の隊員にとって、空からこの地に足を踏み入れるのは決して初めてのことではなかった。この日を迎える可能性が生まれた四ヶ月前以来、言い換えれば破局が輸送機より眼下に広がる荒涼たる大地に訪れたあの時以来、この地にて幾度となく経験した敵地への浸透偵察任務……彼らはもはや、スロリアを自分の庭の如くに知り尽くしていた。
「我々の作戦目標は、敵地上軍の交通網を撹乱し、友軍の前進を支援することにある―――――」
遡ること六時間前、千葉県は習志野駐屯地内に置かれた特殊作戦群基地。ディスプレイに投影されたスロリア上空の衛星写真を背後に、そしてブリーフィングルームに集まった隊員たちを前に、御子柴はそう厳かに告げた。
「―――――作戦行動期間は二週間、この間我々は空中からの物資投下以外、外部からの一切の支援を受けることはできない。そしてこの二週間で、我々は万難を排し所定の任務を達成せねばならない」
ブリーフィングルームを支配する漆黒の中で黙って自分を見つめ、説明に聞き入る男たちの秘める力を、御子柴は決して疑ってはいなかった。彼らいずれもが過酷な空挺レンジャー課程の修了者、そして今現在、この特殊作戦群に籍を置いているという事実からして、苛烈さではさらにその上を行く特殊作戦要員課程を潜り抜けた猛者ばかりであるからだ。そして彼らの威力は、これまでのスロリア方面に対する浸透任務で一人の未帰還者も出さなかったという事実が、それを雄弁なまでに物語っている。
部内で彼らを言い表す言葉はただ「エス」の一言のみ、だがその響きには心からの畏怖が含まれている。部隊の存在こそ一般に周知されてはいるものの、その全容及び作戦行動の内容は一切非公開。そして今回の軍事行動に際し行われる彼らの作戦とその結果もまた、半永久的に公表されることはない……彼らの存在とその任務の、あまりに重要なるが故に。
だが彼らはそれを決して悔やむものではない。
何故なら……
むしろ秘密であることこそが彼らの存在意義であり、そして誇りであるからだ。
『――――エルグランド01よりエスαへ、まもなく降下ポイント上空。後二分で機内の減圧を開始する』
御子柴の沈思を破るように、行動の始まりを告げる機内通話がキャビンに反響する。エルグランドとは彼らを乗せてきたC-2輸送機のコールサインであり、そして現在同時刻に同地域上空を行く同じコールサインの機は、彼らだけではない。
減圧――――――耳から脳髄を貫く、吸い込まれるような感覚にはもう馴れた。
急激に体感温度が下がり行くのと同時に、逆に肌を裂くような冷気が、徐々に、そして着々と機内に浸透し始める。
それこそが、敵地と化したスロリアの空気。
これまでに何度も吸った、敵地の空気。
奥に詰めていた機上整備員が立ち上がり、完全に内気圧の抜けたキャビンの、後部ハッチがゆっくりと開きだす。
開かれたキャビンから覗く空はやや茜に染まり。下方では灰色に輝き始めた雲海が、上空に居座り続ける夜空の残像と境界を為していた。
「…………」
重い装備を纏ったまま歩を進め、朝焼けの烈しさに慣れた目で機外を流れる雲海を凝視するうち、かつて足を踏み入れた敵地で目の当たりにした光景を御子柴は思い返す―――――それは、ローリダ人を名乗る侵略者に土地と人格を奪われ、牛馬の如くに縄で繋がれ、荒野を西方へ引き立てられゆく現地の住民たち……
女子供もいた。そして老人もいた。
その彼らをローリダ人は面白半分にいたぶり、そして虐げ、殺す。
それは、過去の話ではない
それは、現在進行形で行われている現実。
それを直に見、憤りを覚えたのは、御子柴だけではない。
そして政治は、彼らにスロリアの人々を「解放」するという任務を、最後まで与えることはなかった。
―――――そして御子柴は、無心の内に自己を現実へと引き戻す。
「…………」
吹き込んでくる強い冷気が、適度に緊張した躯にはむしろ心地よい。
『――――エルグランド01……降下ポイント上空。高度24000フィート……降下準備よいか?』
高度24000フィート以上からのパラシュート降下。具体的には降下後、地上にいる敵に気付かれることのない高高度でパラシュートを開傘し、携帯GPS受信機の導くままにパラシュートを操作すれば、ごく静穏の内に敵地の、それもあらかじめ入力しておいた座標の地点に足を下ろすことができる。専門用語では高高度降下高開傘と呼ばれる高等技術であり、御子柴をはじめ今回の任務に参加する特殊作戦群の隊員たちは、全員が反復した訓練を経てそれをものにしていた。
「こちらエスα。降下準備完了。指示を請う」
同時に、機上整備員に突き出した親指。
矢継ぎ早に続く、感情の一切を排除したカウントダウン。
『――――降下20秒前……10……7、6、5、4……1、降下、降下、降下……!』
降下を告げるブザー。
最初にハッチを蹴ったのは、御子柴だった。
それに部下が続く。
決して語られることのない戦いに、彼らは黎明の生じ始めた高空から飛び込んでいく―――――
スロリア地域内基準表示時刻12月08日 午前4時35分 スロリア中部南岸 ゴルアス半島東岸より30km沿岸 海上自衛隊ヘリコプター搭載護衛艦 DDH-181「ひゅうが」
「――――海上幕僚監部より入電。読みます……天佑を確信し揚陸を開始せよ」
通信士の報告にも、海上自衛隊 スロリア方面派遣艦隊司令 島村 速人 海将は未だ闇の色濃く残る朝空の、眼前かなたに広がる陸地を黙って見据えるのみだった。
「阪田閣下は……?」
「すでに揚陸の準備に入っておられます」
「ふむ……」
先行させた海上自衛隊特殊部隊による偵察では、上陸予定地点に敵勢力の存在は認められないことが判明している。もう少し艦隊を前進させれば、本格的な上陸作戦も可能となるだろう。
島村は、踵を反した。
「司令、どちらへ……?」
「……阪田司令に」
足を進め、階段を下りた先は、飛行甲板傍の待機所。そこに、多くの幕僚に取り巻かれるようにして阪田陸将はいた。ヘルメットこそ被ってはいなかったが、一般兵と変わらぬ装備に身を固めて瞑目を続けるその姿は、陸戦を知らぬ島村にも、かつての勇敢な野戦指揮官の片鱗を覗かせた。
「どうしたね……島村さん」
と、眼を開けぬままに、阪田は言った。そのような阪田に、島村は彼の神性……もしくは将器を見たような気がした。おそらく島村の郷里の偉人大西郷に生きて出会えるとしたら、おそらく彼のような人物なのだろうと、島村は思う。
「実を言いますと海自の司令部にハッパを掛けられましてね……準備の方は、宜しいでしょうか?」
阪田は笑った。低いが、耳に残る笑いだった。
「この阪田、死地に出る準備は何時でも出来ておる。島村さんは、支援を頼みます」
「ハッ……!」
島村は背を正した。彼を前にしては正さずには要られなかった。
そのとき、飛行甲板が、不意に騒がしくなった。「ひゅうが」型DDHは、その広大な飛行甲板上で、一度に四機の哨戒ヘリを運用できるよう設計されている。上陸支援部隊のSH-60K哨戒ヘリが一斉にエンジンの始動を開始し、ローターの羽ばたきが甲板全体を圧するのに時間は掛からない。
『……ゼロワン、発艦……!』
『……ゼロツー、発艦……!』
艦内スピーカーを通じ、哨戒機が発進していく様子は手に取るように把握することが出来た。
『……こちらキクスイ、発進する』
これは、「おおすみ」型揚陸艦より発艦するUH-60Jであろう。出港の際「おおすみ」型揚陸艦三隻にも、陸自より分遣された各二機ずつのUH-60Jが積載され、揚陸作戦及びその後の進攻の支援に当たることとなっていた。そのUH-60Jは武装した西部方面普通科連隊の先遣部隊を乗せ、彼らは本隊の上陸に先立ち上陸地点を確保する役割を負っていた。
『――――「こんごう」CICより報告。「C」攻撃編隊、艦隊直上を通過。間も無く敵前線飛行場に到達します』
「ひゅうが」CICからの報告に、島村は再び背を正した。
「では、私は旗艦用司令部作戦室の方に」
「うむ……」
阪田は頷いた。そこに、島村はあえて聞いてみる。
「閣下も、FICから指揮をお執りになられてはいかがですか? 向こうの方が安全ですし……上陸なら、何時でもできます」
「陸戦の指揮官が、船の中に篭って司令を出すというのでは格好が付かんだろう? 他の者はどうかは知らんが、わしは皆とともに行こう」
本気では言っていない。だが、表面では平静を装っていても、彼の性分が前線に出ないことを許さないのだろう。それを察し、島村は納得した。
「わかりました。そういうことなら結構です」
『――――「おおすみ」LCAC 第一陣積載完了。発進準備かかります……』
『――――「しもきた」LCAC 機関始動する……以上』
『――――「くにさき」LCAC……』
各所よりもたらされる報告を聞くにつけ、周囲の空気が張り詰めていくのを感じる。果たして、夜が完全に明け切ったとき、海岸に広がるのは勇躍布陣を終えた友軍の勇姿か? それとも敵の反撃を受け、虚しく水面にその夥しい数を晒す友軍の骸か?
阪田は眼を開き、時計を覗いた。
「そろそろ……始まるな」
空自の飛行場攻撃に呼応し、ゴルアス半島東岸に橋頭堡を確保。増援を得つつ西進し、敵航空基地を確保するというのが、上陸部隊の使命だった。否、それは死命といってもよかった。海上自衛隊の保有する全兵員輸送能力を投入したこの揚陸作戦でも、半島に展開できるのは辛うじて一個連隊程度の1500名余り……だが、その1500名に負わされた役割はあまりに重く、過酷。
それを知っているからこそ、阪田陸将は自らの随伴を主張したのだろう。
阪田は腰を上げた。期せずして、完全装備に身を固めた幕僚達が集ってくる。
「この阪田 勲、スロリアの地に骸を埋める覚悟で事に当たる所存である。貴官らにその覚悟はあるか?」
「ありますっ……!」
一斉に幕僚達は叫んだ。彼らとて今次の上陸作戦の容易ならざることを予期し、決意を固めている。彼ら一人一人の眼差しを噛み締めるように見据え、阪田は大きく頷くのだった。
『――――第一陣発進! 第二陣要員は速やかに揚陸準備に移れ。繰り返す!……』
ときに12月08日 午前4時47分。
後に「スロリアの嵐作戦」と称される、PKFによる一連の軍事行動が始まった。