記憶食堂――妻の卵焼きを、もう一度
温かい卵焼きの湯気の向こうにある、小さな物語をお楽しみいただければ幸いです。
卵焼きの断面をスキャナーにかけると、モニターに三十七種類の「揺らぎ」が浮かんだ。
塩加減の分散。火の入り方の癖。菜箸を返すタイミングの、わずかなぶれ。
瑞穂はそれらを一つずつ拾い上げ、故人がどんな卵焼きを焼いていたのかを割り出していく。
大阪の裏通りにある〈記憶食堂〉。
看板には、店名の下に小さくこう書かれている。
――もう一口、あの味を。
客が持ち込むのは、故人の脳に残された報酬信号のログ、
生前の調理映像、使い込まれた鍋や包丁などの遺品。
それらを統合し、補完エンジンにかける。
欠けたデータは、統計的にもっとも可能性の高い値で埋められる。
この仕事が始まったころ、人々は「死者の味を取り戻せる」と喜んだ。
瑞穂は、そうではないことを知っていた。
味に似たものは作れる。
けれど、味そのものが帰ってくるわけではない。
瑞穂自身、卵焼きの味を思い出そうとしたことはほとんどなかった。
自分のために焼いた記憶が、なかったからだ。
その日の依頼人は、八十を過ぎた男だった。
谷口という名前だった。
「亡くなった妻の卵焼きをな」
谷口は古いデータカードを差し出した。
「来月、孫が小学校に入るんや。弁当に入れてやりたい」
カードの中には、妻が台所に立つ映像が残っていた。
画質は粗い。
小さな台所。白い割烹着。卵を割る手。菜箸。
そして、肝心の火加減の場面だけが、大きく欠けていた。
「これしか残ってないんですか」
「そうや」
谷口は少し笑った。
「あのころは、こんなもん撮るとは思わんからな」
瑞穂は映像を補完エンジンに送った。
数秒後、画面に数値が並んだ。
最適焼成温度。加熱時間。卵液の凝固率。表面の焼色。
完成した試作品は、きれいだった。
黄色い断面は均一で、端にわずかな焦げがある。
「どうでしょう」
谷口は一切れを口に入れた。
しばらく噛んでいた。
「……違うな」
「どこが違いますか」
「それが、わからんのや」
谷口は困ったように笑った。
「せやけど、違う」
瑞穂は数値を調整した。
塩分を少し下げる。
火を強くする。
巻く速度を変える。
焼き時間を一分増やす。
それでも谷口は首を横に振った。
二度目も。
三度目も。
「すみません。もう少し情報があれば――」
「いや」
谷口は首を振った。
「わしの舌のほうが、もうあかんのかもしれん」
そう言って、笑った。
けれど、その笑顔がどこか寂しそうだったので、瑞穂はそれ以上何も言えなかった。
閉店後、師匠だった老浜が店に顔を出した。
老浜は〈記憶食堂〉の創始者の一人で、今は引退している。
「谷口さんの案件、詰まっとるやろ」
「どうして分かるんですか」
「お前の手つきでわかる」
老浜はカウンターの椅子に腰を下ろした。
「なあ、瑞穂」
「はい」
「お前、自分の卵焼きの味、覚えとるか」
瑞穂は答えられなかった。
最後に、自分のために卵を焼いたのがいつだったのか。
思い出そうとしても、浮かばなかった。
仕事を始めてから、食事は合成食か、店の残りものだった。
「人の味は、何百人分も覚えとるのにな」
老浜が言った。
「お前は見つけるのが上手い」
「……はい」
「せやけどな」
老浜は、しばらく黙ってから続けた。
「見つけるいうんは、もうそこにあるもんを掘り当てることや」
店内には冷蔵庫の低い音だけが響いていた。
「谷口さんが探しとるんは、たぶん、もうそこにはない」
その夜。
瑞穂は谷口の映像を、最初から見直した。
これまで何度も見てきた映像だった。
けれど、今度は欠けた部分を見ようとはしなかった。
卵を割る。
箸を入れる。
卵殻の端を指で払う。
妻は一度、フライパンの横で手を止める。
菜箸を持ち直す。
火を少し弱める。
また戻す。
ほんの数秒の動きだった。
それはデータとしては、ほとんど意味を持たない。
けれど瑞穂には、その数秒が妙に気になった。
迷ったのかもしれない。
考えたのかもしれない。
あるいは、何も考えていなかったのかもしれない。
ただ、その日の朝、そうしただけなのかもしれない。
卵焼きは、そういう小さなことの積み重ねでできている。
昨日と今日で、同じ人間が焼いても少し違う。
機嫌が悪ければ、少し焦げる。
眠ければ、巻くのが遅れる。
誰かを待たせていれば、火を強くする。
数字にはできないものがある。
瑞穂は補完エンジンを閉じた。
そして、厨房に立った。
卵を三つ割る。
だしを入れる。
量は測らなかった。
フライパンを熱する。
卵液を流す。
じゅ、と音がした。
端が少し焦げた。
巻くのが遅れた。
形が崩れた。
瑞穂は一度、眉をしかめた。
もう一度作ろうとした。
けれど、菜箸を置いた。
これでいい。
誰かの味に近づける必要はなかった。
これは谷口の妻の卵焼きではない。
だからといって、失敗でもない。
瑞穂が、その夜、自分の手で焼いた卵焼きだった。
翌朝。
谷口が店に来た。
瑞穂は包みを差し出した。
「データからの再現ではありません」
谷口が顔を上げる。
「私が、奥様の映像を見て、自分で焼きました」
包みを開く。
卵焼きは少しいびつだった。
端には焦げがある。
谷口は一切れをつまんだ。
口に入れる。
目を閉じた。
長い沈黙があった。
「……違うな」
瑞穂は小さくうなずいた。
「はい」
「あいつのとは、やっぱり違う」
「はい」
谷口はもう一度、卵焼きを噛んだ。
そして、ふっと笑った。
「せやけど」
窓の外を見た。
朝の商店街を、自転車が一台通り過ぎていく。
「これはこれで、ええな」
谷口は卵焼きをもう一切れつまんだ。
「あいつの味やない」
少し考えてから、
「でも、誰かが焼いた味や」
と言った。
瑞穂は何も言わなかった。
「孫に持たせるわ」
「奥様の味として?」
「いや」
谷口は首を振った。
「これは、あんたが焼いた味やって話ごと」
瑞穂は、うなずいた。
谷口は卵焼きを包みに戻した。
その手つきは、どこか大切なものをしまうようだった。
帰り道。
瑞穂は商店街の小さな惣菜屋に立ち寄った。
卵を三つ買った。
店に戻ると、厨房の片隅にある端末を起動した。
そこには、料理人ごとの「標準レシピ」が登録されている。
瑞穂の欄だけは、空白だった。
いつでも登録できる。
自分の卵焼きを何十回か焼いて、平均値を取ればいい。
塩分。
温度。
加熱時間。
巻く角度。
そうすれば、瑞穂の味を再現できる。
けれど、瑞穂は入力画面を閉じた。
明日は、今日より少し塩辛いかもしれない。
明後日は、焦がすかもしれない。
誰かと喧嘩をした日は、巻く手つきが乱れるかもしれない。
それでいい。
瑞穂は卵を三つ、冷蔵庫にしまった。
明日、何を作るかは決めなかった。
端末に残った空白を、瑞穂はそのままにした。
読んでくださった皆さまの心にも、大切な誰かの味が残っていますように。




