↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

記憶食堂――妻の卵焼きを、もう一度

掲載日:2026/10/06

温かい卵焼きの湯気の向こうにある、小さな物語をお楽しみいただければ幸いです。

卵焼きの断面をスキャナーにかけると、モニターに三十七種類の「揺らぎ」が浮かんだ。


塩加減の分散。火の入り方の癖。菜箸を返すタイミングの、わずかなぶれ。


瑞穂はそれらを一つずつ拾い上げ、故人がどんな卵焼きを焼いていたのかを割り出していく。


大阪の裏通りにある〈記憶食堂〉。


看板には、店名の下に小さくこう書かれている。


――もう一口、あの味を。


客が持ち込むのは、故人の脳に残された報酬信号のログ、

生前の調理映像、使い込まれた鍋や包丁などの遺品。


それらを統合し、補完エンジンにかける。


欠けたデータは、統計的にもっとも可能性の高い値で埋められる。


この仕事が始まったころ、人々は「死者の味を取り戻せる」と喜んだ。


瑞穂は、そうではないことを知っていた。


味に似たものは作れる。


けれど、味そのものが帰ってくるわけではない。


瑞穂自身、卵焼きの味を思い出そうとしたことはほとんどなかった。


自分のために焼いた記憶が、なかったからだ。


その日の依頼人は、八十を過ぎた男だった。


谷口という名前だった。


「亡くなった妻の卵焼きをな」


谷口は古いデータカードを差し出した。


「来月、孫が小学校に入るんや。弁当に入れてやりたい」


カードの中には、妻が台所に立つ映像が残っていた。


画質は粗い。


小さな台所。白い割烹着。卵を割る手。菜箸。


そして、肝心の火加減の場面だけが、大きく欠けていた。


「これしか残ってないんですか」


「そうや」


谷口は少し笑った。


「あのころは、こんなもん撮るとは思わんからな」


瑞穂は映像を補完エンジンに送った。


数秒後、画面に数値が並んだ。


最適焼成温度。加熱時間。卵液の凝固率。表面の焼色。


完成した試作品は、きれいだった。


黄色い断面は均一で、端にわずかな焦げがある。


「どうでしょう」


谷口は一切れを口に入れた。


しばらく噛んでいた。


「……違うな」


「どこが違いますか」


「それが、わからんのや」


谷口は困ったように笑った。


「せやけど、違う」


瑞穂は数値を調整した。


塩分を少し下げる。


火を強くする。


巻く速度を変える。


焼き時間を一分増やす。


それでも谷口は首を横に振った。


二度目も。


三度目も。


「すみません。もう少し情報があれば――」


「いや」


谷口は首を振った。


「わしの舌のほうが、もうあかんのかもしれん」


そう言って、笑った。


けれど、その笑顔がどこか寂しそうだったので、瑞穂はそれ以上何も言えなかった。


閉店後、師匠だった老浜が店に顔を出した。


老浜は〈記憶食堂〉の創始者の一人で、今は引退している。


「谷口さんの案件、詰まっとるやろ」


「どうして分かるんですか」


「お前の手つきでわかる」


老浜はカウンターの椅子に腰を下ろした。


「なあ、瑞穂」


「はい」


「お前、自分の卵焼きの味、覚えとるか」


瑞穂は答えられなかった。


最後に、自分のために卵を焼いたのがいつだったのか。


思い出そうとしても、浮かばなかった。


仕事を始めてから、食事は合成食か、店の残りものだった。


「人の味は、何百人分も覚えとるのにな」


老浜が言った。


「お前は見つけるのが上手い」


「……はい」


「せやけどな」


老浜は、しばらく黙ってから続けた。


「見つけるいうんは、もうそこにあるもんを掘り当てることや」


店内には冷蔵庫の低い音だけが響いていた。


「谷口さんが探しとるんは、たぶん、もうそこにはない」


その夜。


瑞穂は谷口の映像を、最初から見直した。


これまで何度も見てきた映像だった。


けれど、今度は欠けた部分を見ようとはしなかった。


卵を割る。


箸を入れる。


卵殻の端を指で払う。


妻は一度、フライパンの横で手を止める。


菜箸を持ち直す。


火を少し弱める。


また戻す。


ほんの数秒の動きだった。


それはデータとしては、ほとんど意味を持たない。


けれど瑞穂には、その数秒が妙に気になった。


迷ったのかもしれない。


考えたのかもしれない。


あるいは、何も考えていなかったのかもしれない。


ただ、その日の朝、そうしただけなのかもしれない。


卵焼きは、そういう小さなことの積み重ねでできている。


昨日と今日で、同じ人間が焼いても少し違う。


機嫌が悪ければ、少し焦げる。


眠ければ、巻くのが遅れる。


誰かを待たせていれば、火を強くする。


数字にはできないものがある。


瑞穂は補完エンジンを閉じた。


そして、厨房に立った。


卵を三つ割る。


だしを入れる。


量は測らなかった。


フライパンを熱する。


卵液を流す。


じゅ、と音がした。


端が少し焦げた。


巻くのが遅れた。


形が崩れた。


瑞穂は一度、眉をしかめた。


もう一度作ろうとした。


けれど、菜箸を置いた。


これでいい。


誰かの味に近づける必要はなかった。


これは谷口の妻の卵焼きではない。


だからといって、失敗でもない。


瑞穂が、その夜、自分の手で焼いた卵焼きだった。


翌朝。


谷口が店に来た。


瑞穂は包みを差し出した。


「データからの再現ではありません」


谷口が顔を上げる。


「私が、奥様の映像を見て、自分で焼きました」


包みを開く。


卵焼きは少しいびつだった。


端には焦げがある。


谷口は一切れをつまんだ。


口に入れる。


目を閉じた。


長い沈黙があった。


「……違うな」


瑞穂は小さくうなずいた。


「はい」


「あいつのとは、やっぱり違う」


「はい」


谷口はもう一度、卵焼きを噛んだ。


そして、ふっと笑った。


「せやけど」


窓の外を見た。


朝の商店街を、自転車が一台通り過ぎていく。


「これはこれで、ええな」


谷口は卵焼きをもう一切れつまんだ。


「あいつの味やない」


少し考えてから、


「でも、誰かが焼いた味や」


と言った。


瑞穂は何も言わなかった。


「孫に持たせるわ」


「奥様の味として?」


「いや」


谷口は首を振った。


「これは、あんたが焼いた味やって話ごと」


瑞穂は、うなずいた。


谷口は卵焼きを包みに戻した。


その手つきは、どこか大切なものをしまうようだった。


帰り道。


瑞穂は商店街の小さな惣菜屋に立ち寄った。


卵を三つ買った。


店に戻ると、厨房の片隅にある端末を起動した。


そこには、料理人ごとの「標準レシピ」が登録されている。


瑞穂の欄だけは、空白だった。


いつでも登録できる。


自分の卵焼きを何十回か焼いて、平均値を取ればいい。


塩分。


温度。


加熱時間。


巻く角度。


そうすれば、瑞穂の味を再現できる。


けれど、瑞穂は入力画面を閉じた。


明日は、今日より少し塩辛いかもしれない。


明後日は、焦がすかもしれない。


誰かと喧嘩をした日は、巻く手つきが乱れるかもしれない。


それでいい。


瑞穂は卵を三つ、冷蔵庫にしまった。


明日、何を作るかは決めなかった。


端末に残った空白を、瑞穂はそのままにした。

読んでくださった皆さまの心にも、大切な誰かの味が残っていますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。