熱に浮かされて
「かなこは?」
「2次会行く?」
「私は帰らないと夫がうるさいの」
「ねぇ、かなこの旦那さんってちょっとおかしくない?」
「早く帰ってきて身の回りのことやらせようって魂胆よきっと!」
「たまにくらいはめ外したってバチは当たらないわよ」
「そういうんじゃないのよ本当に」
同僚たちのからかいに、かなこは小さく笑って首を振った。 時計はもう22時を回っていた。
「じゃあ私、そろそろ」
そう言って席を立つと、
みんなが「えー」「もうちょっと!」と声を揃えたが、かなこは柔らかく手を振って店を出た。
外に出ると熱風が彼女を襲う。
あつい。
タクシーを拾い、窓の外を流れる夜の街灯を見ながら、かなこは小さく息をついた。
夫のことを言わたのを思い出し、胸の奥がちくりと痛む。 でも、それを説明するのは難しい。
友人達なら事情を察してくれているが、私たちの上辺のことだけしか知らない同僚達に何て言えばいいのか分からなかった。
家に着くと
キッチンだけがぽわんと灯りが付いていた。
世界が小さく切り取られたような、絵本の入り口に立っているような気がした。
「ただいま」
「おかえり」
夫・梶井春人はテーブルに肘をついてマグカップを両手で包み込んでいた。
かなこはふと、遠い夏の日のことを思い出した。
あれは5年前。まだ付き合い始めの頃。
大学の友人たちと海の家に泊まりに行った時のこと。
その日の夜、春人が高熱を出してしまった。
春人は風邪が移るから一人にしてくれと言って皆んなを部屋から追い出した。
みんなが花火を見に行ったり、海辺で騒いだりしている中でかなこだけが様子を見に行った。
ドアを開けると、薄暗い部屋の中に春人が横になっていた。
目を閉じていたが、息が荒く、時折小さく震えていた。
「春人、大丈夫?」
呼びかけると、彼はうっすらと目を開けた。
そして、掠れた声で初めて名前を呼んだ。
「かなこ」
その瞬間だった。
いつも無愛想で無口な春人が、
熱に浮かされ消え入りそうなほど細い声で、自分の名前を呼んだのだ。
かなこは思わずベッドサイドにしゃがみ込み、彼の手を握った。
熱くて、汗ばんでいて、少し震えていた。
抵抗もせず、春人ただその手をぎゅっと握り返した。
春人は泣いていた。
私がいなきゃ。
夏の熱が移ったのか、風邪の熱が移ったのか、
それから二人の距離は急速に縮まった。
今の春人は落ち着いている。
それだけで安心する。
春人は熱が出ていなくても寝ぼけている時、何かに怯えるように泣いている時があった。
「どうかしたか?」
いつの間にかじっと顔を見つめてしまっていたらしい。
「ううん、少し酔ってしまったみたい。」
「水用意する、座って」
「ありがとう」
冷蔵庫の扉を開けている彼の背中を見て安堵する。
良かった。あの日みたいに一人で泣いていなくて。




