第7節 冒険の始まり
「すごい……」
あの巨獣を、小さなナイフで仕留めてしまうなんて。
それも、こんな華奢な女の子がいとも簡単に。
眼の前の光景はどこか現実離れしていて、私の常識や理解を超えていた。
ぼうっとしていると、キマイラの背中からトワちゃんが飛び降りる。
私の直ぐ側に着地した彼女を見て、ハッとした。
「トワちゃん、無事!?」
「うん、大丈夫」
「でも血が……!」
「返り血だよ?」
両手を血に染めたトワちゃんには、確かに外傷がない。
驚いている私をよそに、彼女はマイペースに近くの水場で血を洗い流していた。
「よし、これでスッキリ!」と血を落としたトワちゃんは嬉しそうにいつもの笑みを見せる。
私は改めてキマイラの死体を見つめた。
首を上に傾けないと捉えきれないほどの巨獣。
一度狩りで仕留められた熊を見たことがあるけど、それよりも遥かに大きい。
「こんな大きな獣……よく倒せたね」
「頭蓋骨に少しだけナイフの入る隙間があるんだー。正確に攻撃すればすぐ終わる!」
「すぐ終わるって……」
普通の人はそんな神業できないんだよ。
そう言いたかったが、そんなことを言っても無駄なのだろう。
トワちゃんにはこれが『普通』なのだ。
すると、トワちゃんは木の根元に横たわる遺体に目を向けた。
「その人、ひょっとしてアキナの……?」
トワちゃんの言葉に、私は頷く。
「そっか」と彼女は平坦な声を出した。
「間に合わなかったのかー。ここまで逃げて、力尽きちゃったんだ」
「みたいだね……」
気持ちが落ち着くと、悲しみが再び心を満たした。
手帳を握っていた手が小さく震える。
「私の冒険も、ここで終わりだね……」
お父さんがいない今、私が冒険をする意味はもうない。
結局私は、何も手に入れることができなかった。
お父さんの命も、家族との日常も。
目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。
感情が溢れそうになったその時。
「アキナの冒険はまだ終わってないよ」
不意に、トワちゃんが言った。
私は呆然と、彼女を見つめる。
「だって、アキナは生きてる。またアキナが望めば冒険に出られる!」
「それはそうだけど……」
「トワもね、お父さんが死んだ時とっても悲しかった。何もできなくて、狩りをするのも嫌だった。でも、お父さんが死んでも、お父さんのやりたかったことをトワができるんだって何となく思ったんだ」
「トワちゃんのお父さんがやりたかったことって?」
「生きること!」
トワは腕をぐんと上げ、笑いかける。
「お父さんね、死ぬ前にトワに『元気で生きろ』って言った。だから、トワも生きなきゃって思った! お父さんがトワにお願いしたこと、トワが叶える!」
「トワちゃん……」
「アキナのお父さんは、アキナに何かお願いしてなかった?」
「お父さんの、願い事……?」
その言葉に、かつてお父さんが言った言葉を思い出す。
――父さんやアキナが知ってるこの世界は、ほんのひとつまみ程度なんだ。この世界はたくさんの秘密で溢れている。父さんやアキナの想像を超えた風景や、自然や、文明がこの世にはいっぱいあるんだ。
――ねぇ、お父さん。アキナもいつか冒険に出たい。それで、世界の秘密を知るの。
――そうだな。一緒に見つけよう。父さんが心から感動できるものに出会えた時は、必ずアキナにも見せてあげるからね。
――私はお父さんに負けないくらい立派な冒険家になる!
――ははっ、そりゃあ楽しみだな。
そうだ。
そうだった。
「立派な冒険家になって、心から感動できるものに出会うこと……」
「じゃあ、その願いごと、叶えなきゃ」
そっか……。
うん、そうだよね。
「私の冒険は終わったんじゃなくて、ここから始まるんだ」
私が呟くと、トワちゃんは太陽みたいな笑顔を見せた。
「にしてもすごいなー。こんなきれいな場所があったのかぁ」
「トワちゃんも来たことがない場所なの?」
「うん。トワ、いつもは狩りができる場所しか行かないから」
私はトワちゃんと周囲の光景を眺める。
草花が鮮やかに生い茂る秘境の地。
周囲は水路に囲まれて、まるで湖に浮かぶ浮島みたいにも見える。
水は底が見えるほど透明で美しく、水中には小さな魚たちが何匹も泳いでいた。
壁から流れ落ちる水は滝のようで、跳ねた水しぶきが陽の光を反射して小さな虹を生み出している。
何て美しい場所だろうと、心から思った。
お父さんはこの場所で最期を迎えた。
それはきっと、私やお母さんに見せたかった景色だったんだと思う。
もしここが、お父さんの手帳の最後のページなのだとしたら。
「私の手帳は、ここが最初の一ページだよ、お父さん……」
笑みを浮かべると、自然と頬から涙が流れた。
◯
「よし、できた!」
トワちゃんが嬉しそうに声を上げ、泥だらけの手をパンパンと払う。
その肩にはテトが留まっていて、呼応するように「クェッ!」と鳴き声を上げた。
目の前には墓石が一つある。
お父さんのお墓だ。
「トワちゃん、ありがとう。手伝ってくれて」
「これくらい朝飯前!」
私はお父さんの遺体を箱庭に埋めることにした。
幻想的な美しさに包まれる、謎多き遺跡。
冒険家だったお父さんが眠るのにぴったりな場所だと思ったから。
「アキナはこれからどうする?」
「また冒険に出かけたい。まだ誰も知らない場所を見つけて……今度は私の手帳を、私の冒険譚で埋め尽くすの」
「大変そうだなー」
「時間はかかると思う。それでも、ちゃんとやり遂げたい。でもその前に、まずは無事にここから出ないとダメだけど」
考えてみれば、箱庭は大陸から最も遠い場所にある遺跡だ。
そして渡航に成功した人で、生きて戻った人もいない。
船もない自分がここから無事に出るのは不可能に近かった。
するとトワちゃんはしばらく何か考えたあと。
やがて何か閃いたように「そうだ!」と声を上げた。
「トワ、良い場所知ってる!」
「良い場所?」
「案内する!」
トワちゃんが案内してくれたのは、箱庭の一部が崩れ落ち、海に沈んだ場所だった。
周囲の建物や外壁は半壊し、透明な海の底に積み重なっているのが見える。
そこには、ボロボロになった大量の船が浮かんでいた。
漂流船だ。
いずれも、かつて箱庭を目指して帰らなかった船たちだと思う。
箱庭にたどり着けなかった船たちは、皮肉なことに、主を失ってから潮に流されてここに辿り着いた。
「こんな場所があるなんて……」
「壊れてるのも多いけど、探せばきっと乗れるのが見つかる!」
二人で一緒に一つ一つ船の中を見て回った。
人がいない船もあれば、骸骨が散らばっている船もある。
なるべく時間が経っていなくて傷んでいない船を探し、どうにか中型帆船を見つけることができた。
これなら私でも操縦ができそうだ。
「潮の流れは教えられると思う。でもそのあとはアキナ次第」
「そうだよね……」
これから行う航海は、ハッキリ言って失敗する確率の方が高い。
このまま船に乗っても、死んでしまうかもしれない。
それでも、私の決意は揺るがなかった。
「行こうと思う。船で箱庭を出るよ」
私は海を眺める。
これから始まる、果てしない冒険の舞台を。
「この先の人生を冒険で埋め尽くそうって時に、最初の冒険を怖がってたら前に進めないもんね」
そこで、ふと思った。
「ねぇ、トワちゃんも一緒に来ない?」
もし私がここを出たら、トワちゃんはまた一人になってしまう。
無謀な船出かもしれないけれど、可能性があるなら置いて行きたくない。
トワちゃんと、一緒に大陸に行きたい。
それにトワちゃんなら、海に潜って直接魚を獲ったり、色々できそうだ。
もし万が一私が死んでしまっても、彼女ならきっと生き残れる。
このままこの場所で生きていくよりも、幸せなことに思えた。
でも、トワちゃんは「ごめん」と悲しげに笑みを浮かべた。
「トワね、ここ離れられないんだ。だからお別れ」
「……お父さんが眠ってる場所だから?」
「ううん。離れられないんだ」
それは一体、どういう意味だろう。
もっと聞きたかったけれど、私は言葉を呑み込んだ。
私の知らない事情があるに違いない。
「アキナのお陰で、外に人がいるって知れて良かった。トワもいつか、アキナみたいに色んな世界を見てみたい」
「トワちゃん……」
彼女が望むなら、無理強いはしないでおこう。
でもそれなら、私がやるべきことは一つだ。
「じゃあトワちゃん。一つだけ約束しない?」
「約束?」
「もしいつか私が立派な冒険家になったら、またトワちゃんに会いに来る。だからそれまで、絶対待ってて」
「本当にまたここに来れるのか?」
「うっ……なるべく頑張る……」
「じゃあ、期待せずに待ってるかー」
「えぇー? 期待しててよぅ……」
及び腰になった私を見て、トワちゃんは愉快そうに笑った。
「そのために、まずは船に乗せる食料とか準備しなきゃだな」
「あはは、そうだね」
数日後、出航の準備を終えた私は船に乗って箱庭を離れた。
トワちゃんのアドバイスに従って潮の流れが良いルートに航路を定めると、瞬く間に船は速度を上げた。
ここから先は、自分の経験と勘と運だけが頼りだ。
「アキナー!」
声がして箱庭を振り返ると、外壁の上でトワちゃんが手を振ってくれていた。
私もトワちゃんに向けて大きく手を振り返す。
「さよなら! トワちゃん! また会おう!」
数分もすれば、トワちゃんの姿は見えなくなる。
声も届かなくなり、残ったのは穏やかな波の音だけになった。
「不思議な子だったな……」
箱庭の謎も、トワちゃんのことも、結局ほとんど何もわからなかった。
この場所は一体何なのだろう。
そしてあの子は一体何だったのだろう。
それらの答えもいつか、自分が世界一の冒険家になれたら見つけられるのだろうか。
いずれにせよ。
「今は、眼の前の冒険に集中しなきゃ」
私はそっと空を仰ぐ。
見上げた空は青く、広く、どこまでも広がっていた。
不安が胸の中を渦巻いていたが、それ以上に高揚しているのを感じる。
まだ見ぬ世界が、謎が、この世にはたくさんある。
そして目の前の大海原の先には、たくさんの冒険が待っているはずだ。
トワちゃんと過ごした日々は、冒険の楽しさを教えてくれた。
かつてのお父さんと同じように。
「よし、行くぞ! ここからが私の冒険の始まりなんだ!」
胸に希望を抱いた瞳は、太陽のようにまばゆく輝いた。




