第5節 太陽のように
痛いほどの静寂が箱庭を満たしていた。
世界が終わってしまったかのような、張り詰めた空気が漂っている。
トールはしばらく呆然としていたが、ようやく意識が戻ったかのように顔を上げた。
彼は外へと目を向ける。
「皆は無事か……?」
彼は力なく立ち上がると、床に寝かせていたトワを抱き上げて昇降機へと向かった。
私はその背中を追いかける。
トールが昇降機に乗ると、中心に記された陣から光が溢れ下降を始めた。
巫女だけが動作させることのできる塔にどうやってトールが入れたのか疑問だったが、ようやくその理由に気づく。
トワだ。
ユミルの娘であるトワが、巫女の素養を持っていたからだ。
妻の身を案じたトールが塔の中に入ろうとして、偶然トワが封印を破ったのだろう。
もしあの時トールが来なければ、間違いなくトコヤミの闇は世界を包んでいた。
世界は首の皮一枚で繋がったのだ。
トールと共に塔から出だが、人の姿はない。
相変わらず異様なほどの静寂が箱庭に満ちている。
風から妙な香りがして、それが海の匂いだとすぐに気づいた。
今まで海の匂いなんてしたことなかったのに。
「皆はどこに行った……?」
トールは生存者を探すも、やはり人の姿はない。
雨から逃れるため屋内に退避したのかと思ったが、違うらしい。
奇妙なことに、地面には灰のようなものが小さな山を作っていた。
それは、祈りの間で消えてしまったユミルのものとよく似ている。
嫌な予感がした。
その予感はトールも感じたようで、彼は躍起になって生存者へ呼びかけていた。
だが、やはりその声に応えるものはいない。
「みんな、闇に呑まれてしまったんだ……」
トコヤミが降り注いだ闇は、箱庭にいた皆を石へ変えた。
そして、石へと変わった人々は急速に朽ち果て、灰となったんだ。
それは、皆が闇に連れて行かれたことを物語っていた。
やがて箱庭の入口に辿り着いた時。
門から外を眺めたトールは、思わずその場に膝をついた。
「何だこれは……」
そこにあるのは、海だった。
高い丘の上に存在していた箱庭は、いつしか海の中にポツンと浮かぶ孤島になっていた。
何が起こったか分からず、私は目を瞑って太陽から世界を俯瞰する。
かつては一つだった大陸が、四つに分断されてしまっていた。
トコヤミの降り注ぐ闇に呑まれ、大陸の大半が海に沈んだのだ。
そして海に沈んだ大陸は、東西南北の四つに分断されてしまったらしい。
箱庭の外へ繋がる階段もまた、今ではその全てが海の中に沈んでしまっていた。
トールは近くの草の上にトワを置き、海へ近づこうと門へ近づいた。
箱庭の敷地の外へと、一歩足を踏み出す。
すると、突然ジュッという音とともに、手や足が焼け始めた。
「うおっ!?」と声を上げ、トールは咄嗟に身を引く。
トールの足先や腕が、まるで酸に手を入れたかのように焼けただれていた。
「どうなっている?」
恐る恐る、もう一度指先を差し出してみる。
だが箱庭の敷地から外に出ようとすると、やはり再び手は焼けた。
どうやらトールは、箱庭から出られなくなってしまったらしい。
すると、トールの肌に巻き付くようにして、黒い痣が浮かび上がった。
それは同時に、トワの皮膚にも浮かび上がる。
ゴクリとトールが唾を呑み込む音がした。
「これは……呪いか。あの化物――闇の神が、俺たちを呪ったんだ」
太陽石に封じられる間際、トコヤミは怨嗟の声を放っていた。
あれはもしかしたら、呪いの言葉だったのかもしれない。
闇を封じた代償として、トコヤミは太陽一族に呪いをかけたのだ。
箱庭から、誰一人として逃さないために。
「トコヤミは、一族の血が途絶えるまで呪うつもりなんだ……」
◯
太陽に戻った私は、空から二人の生活を見守った。
箱庭で暮らすことを余儀なくされたトールとトワだったが、幸いにも生活に困ることはなかった。
ここには果物も、野菜も、水も豊富にあるし、それらを目当てに集まった動物も多い。
狩りに卓越したトールがトワと暮らすことは難しくないだろう。
月日が経つと、箱庭の生態系に異変が起こり始めた。
それまで草食動物しかいなかったはずの箱庭に、見たこともない異質な外見をした肉食獣が現れ始めたのだ。
箱庭に残った闇の残滓が、動物に影響を与えたのだろう。
異形となった動物たちは大半が箱庭に残ったが、一部は東西南北の大陸に渡って行った。
大陸では魔物と称されたそれらは、多くの土地を荒らし、やがて各地にいる戦士や狩人に討伐され姿を消した。
そんな獰猛な獣を、トールは何匹も単独で狩り続けた。
何年経っても消えた人々は結局戻って来なくて、気が付けばトワも十六歳になった。
トールが倒れたのは、そんな時だった。
最初は風邪かと思った。
身体が冷えると訴え始めたトールは、見る見るうちに衰弱し、動けなくなってしまったのだ。
私は太陽から日差しをトールに降り注いだが、どれだけ温めようとしても、トールを凍てつく寒さから救うことはできなかった。
明らかに呪いがトールの身体を蝕んでいた。
トワは懸命に父の看護に当たっているが、トールの体調が回復することはない。
「お父さん、お湯沸いたよ」
「ああ、すまん」
まともに動くこともできなくなったトールは、器に注がれた湯を少しずつ口に運ぶ。
だがやがて諦めたように器を置くと、静かに横たわった。
もう長くないのは、誰が見ても明らかだ。
だが、トールは決して目から光を離さなかった。
それは彼が持つ、父としての、戦士としての強さだった。
「トワ、一つだけ、父さんと約束をしてほしい」
「約束?」
「太陽のように生きろ。いつもお前らしく、笑顔でな。さすれば太陽の祝福はお前に届く」
トワは一瞬、その言葉にどう答えれば良いかわからないようだった。
だが、真剣な父の眼差しを受け、やがて小さく頷く。
トールは衰弱した手を懸命に伸ばしてトワの頬を撫でた。
「お前は太陽の血を受け継ぐ最後の子だ。どうかたくましく、そして無事に生きぬけ。そのための強さを、俺から受け継いでいる」
トールは静かにそう呟き、まっすぐ私を見つめた。
天の中心に浮かぶ、太陽を。
「太陽神テトよ、どうかこの子に、あなたの祝福をもたらしてくれ……」
二人の姿を空から見守っていた私は、胸が締め付けられる。
私はこの十六年間、ずっと空に逃げていた。
救うことのできなかったトールや、トワの前に姿を示すのが怖かったのだ。
特に、巫女の素養を持つトワが私を見つけてしまうことを恐れていた。
私のせいでみんなが死んだことを咎められてしまうかもしれない。
そう思うと、怖くて姿を現せなかった。
私は神様の癖に、臆病で、卑怯者だ。
でも。
トールは、そんな私をまだ信じてくれていた。
私は意を決して、地上に降りる。
突然現れた私に、トワは困惑したように目を見開いた。
「……誰?」
トワの視線は、まっすぐ私を捉えていた。
私は目を細める。
「……あなたも、私が見えるんだね」
私は長い眠りについたトールに近づくと、そっと手を触れた。
「ありがとう、トール。こんな状況になっても、太陽を信頼してくれて。あなたの祈りは、ちゃんと届いた。だからゆっくり休んで」
トールは私の言葉が聞こえていたかのように微笑むと、やがて動かなくなった。
涙を流すトワに、私は振り返る。
「トワ、祈ろう。あなたのお父さんが安らかに眠れるように」
私が声を掛けると、最初は困惑した素振りを見せたトワは、やがて小さく頷いて隣に座った。
私は彼に深い感謝を抱き、そして偉大な戦士の魂が穏やかに眠れることをトワと共に祈った。




