第10節 トワの秘密
巨大な爪と、硬い灰色の体毛。
牛のような鼻先からは大きく鋭い角が飛び出ている。
見たこともない獣だけど、何故か知っている気がした。
そうだ、巨獣ベヒモスだ。
東の大陸の民話で語られる、リヴァイアサンと同じように大暴れをしていた伝説の獣。
以前トワが壁に見つけた、大きな爪痕の主だとすぐに直感する。
思えば、この辺はあの傷跡の近くだった。
ここはベヒモスの縄張りで、僕の足音を聞いてここまで来たんだ。
ベヒモスの目は血走り、怒りに満ちている。
縄張りに入った僕を見て、敵だと判断したらしい。
巨大な咆哮が広い室内に満ち、空気が震えた。
思わずすくみ上がりそうになるのを堪え、部屋の奥へと逃げる。
幸いにも奥には別の通路へ繋がる出口があった。
慌てて走り出した僕を見て、ベヒモスがうめき声を上げながら追いかけてくる。
石像が粉砕される音が室内に響いた。
通路へ出てすぐ、ベヒモスが硬い壁を突き破る。
必死に走るも、速度の違いは明瞭だ。
ぐんぐん距離が縮まっていく。
曲がり角を曲がってどうにか距離を取ってみたけど、追いつかれるのは時間の問題だった。
「ミヤコー! すごい音がしたけど大丈夫かー!?」
どこからかトワの声が聞こえた。
外から物音を聞きつけたのだろう。
天からの助けだと思った。
でも、助けを求める余裕はない。
必死に手足を動かした。
息が切れ、心臓がバクバクと鳴り響く。
背中の飛行装置がガチャガチャ揺れる。
重かったけど、降ろしている余裕はない。
せめて屋外に出られればと思った。
そうすれば飛行装置で空に逃げられる。
だけど通路は長く、外に出られそうな場所もなかった。
「くそっ!」
荒い獣の呼吸と重い足音が背後から着実に迫ってくる。
逃げ込める場所を探し、必死に周囲を見回した。
小さな部屋ならいくらでもあるけど、逃げたところで壁を突き破られるだろう。
不意に、通路の先に誰かが立っているのが見えた。
トワだろうか。
影になっていて、その姿はわからない。
ただ、曲がり角の先を指さしているのは見えた。
まるで僕を導くみたいに。
考えている暇はなかった。
僕は全力で影の指差す方へ走る。
僕が近づくと、影の人物は曲がり角の先へと姿を消した。
僕もその後へ続く。
曲がり角を曲がると、一気に視界が開けて光が広がった。
眩しさに一瞬目を細める。
通路が崩れ落ちてしまっていた。
本来なら絶望的な状況だ。
でも僕には、それが希望に見えた。
「ミヤコ!」
テトに乗ったトワが、空からこちらに向かっていたから。
「ミヤコ! 飛んで!」
トワの声に促されるがまま、僕は飛行装置を起動して最大出力で空へ跳躍した。
ベヒモスの鋭く巨大な爪が振りかざされる。
しかしその爪は僕に届くことはなかった。
跳躍した僕とすれ違う形で飛び込んだトワのナイフが、ベヒモスの脳天を正確に貫いていた。
ベヒモスの目から光が失われ、失速した巨体が地面へ落ち、大きな地響きが箱庭を揺らした。
僕は呆然と、その光景を眺める。
「た、助かったのか……?」
「おーい、ミヤコ! 大丈夫かー?」
ポカンとしていると、足場に着陸したトワが何事もなかったかのように笑顔で手を振っていた。
「トワ! 助けてくれてありがとう」
「無事で良かった! ベヒモス走るの早いから普通逃げられない!」
「トワが助けてくれたお陰だよ! 道案内もありがとう!」
「道案内なんてしてないぞ?」
「えっ……?」
確かに、言われてみれば妙な話だ。
トワがこんなに強いなら、わざわざ僕を通路の奥へ誘導しなくとも、さっさとベヒモスを倒してしまえば良いのだから。
じゃあ、あれは誰だったんだ?。
「見間違いだったのかな……」
ふと、あの巫女の姿をした女性の石像が脳裏に浮かんだ。
自分を助けてくれたあの影は、あの像の人と似ていた気がする。
かつてここに暮らした人の魂が、今もこの場所に残っているとしたら……。
あんな風に、助けてくれることもあるんじゃないだろうか。
何となく、そう思った。
トワと合流した僕は、先程見たものについて尋ねてみる。
「奥にたくさんの人の石像があったんだけど、何か分かるかい?」
「石像?」
「案内するよ」
トワと共に先程の石像の部屋へと向かう。
ベヒモスのせいで随分破損していたが、瓦礫を乗り越えてどうにか戻ることができた。
だけど――
「あれ?」
そこには、石像の姿は陰も形もなかった。
あるのは何もないただの広い部屋だけだ。
先程は気づかなかったが、どうやらここは元々礼拝堂だったらしい。
「ミヤコ、何もないぞ?」
「おかしいな。確かにさっきは……」
幻だったのだろうか。
しかし、あの時触れた石像の感触は確かに本物だった。
白昼夢や幻覚だったとは考えられない。
首を傾げている僕をよそに、トワは部屋を見渡していた。
「ここ知ってるかも」
「えっ?」
「何か懐かしい感じがする」
「来たことあるの?」
「んー、わかんないけど何となく。でも覚えてない」
もしかしたら、あの女性の像と関係があるのだろか。
あの女性とトワは良く似ていた。
だとしたら、あれはトワの母親か、あるいは血縁者だったんじゃないだろうか。
「トワのお母さんって、ひょっとして巫女だったりするの?」
ダメ元で尋ねてみると、彼女は驚いたように目を丸くした。
「そだよ? 会ったことないけど、お父さんがそう言ってた。でも何でミヤコが知ってるんだ?」
「やっぱり……」
トワの母親はかつて巫女だったのか。
だとしたらやはりあの石像は……トワの母親だったに違いない。
だが、そこで疑問が浮かんだ。
どうして石像になってたんだ……?
母親が石になってたなんて知ったら、トワはショックを受けるだろうか。
言うべきか、言わざるべきか迷った末に、言葉を飲み込むことにした。
ただ、解けない謎だけが僕の中に深く残り続けた。
◯
飛行装置の試験が無事に完了したのは、僕が箱庭を訪れてから一ヶ月が経った頃だった。
旅立ちの準備を終え、箱庭の入口に僕は立つ。
ここが箱庭と外の境界線だ。
海に向き合う僕の後ろには、見送りに来たトワとテトの姿もあった。
「ミヤコ、この時間だったら海も安全。今日はお日様が高く昇ってるから、水が温くて海の生き物も深く潜っちゃうんだ。天気もいいと思う」
「さすが、詳しいね」
安全に箱庭から出られるタイミングを教えてもらえたのは幸運だった。
長年の経験から、トワは箱庭の生物の習性を熟知しているらしい。
あとは飛行装置を使って、大陸に戻るだけだ。
でも、このまま一人でここを去るのは、少し違う気がする。
「ねぇ、トワ」
「何?」
「君も一緒に来ないか?」
言うべきか迷ったが、やはり放っては置けなかった。
予期していなかったのか、トワは目を丸くする。
「やっぱり君を一人で残していくことはできないよ。もっと優れた飛行装置を作るから、それで一緒に箱庭を出よう」
僕の言葉を聞いたトワは、しばらく口ごもったあと。
「無理なんだ」
と、少しさみしげに言った。
「どうして……?」
「前話しただろー? トワはここから出られないんだ」
「でも、この飛行装置を使えば二人で出られるかもしれない!」
しかしトワは首を振った。
「んとね、見ればわかるかも」
トワはそう言って、そっと箱庭の敷地の外へと手を伸ばす。
何をする気だろうと思っていると、トワの皮膚に描かれていた黒い紋様が怪しく輝き始め、次の瞬間。
ジュッと肉の焼けるような音と共に、トワの手が突然焼けただれ始めた。
信じられない光景に、思わず僕は目を見開く。
トワは痛みに顔を歪め、すぐに手を引っ込めた。
「あ痛たた……。やっぱり慣れないなー」
「トワ! 酷い火傷じゃないか! すぐ手当てしないと!」
「大丈夫。すぐに治るから」
「治るって言ったって……!」
前のめりになる僕を制するようにトワが手を差し出す。
すると、トワの皮膚に浮かぶ白い紋様が輝き始め、焼けただれた手が再生を始めた。
ボロボロになった皮膚にかさぶたが生まれ、みるみるうちに傷がふさがっていく。
数秒もしないうちに、トワの手は健常者のそれへと戻っていた。
たった今目にした信じられない光景に、思わず絶句する。
そんな僕を見て、トワはどこか諦めた顔で「なっ?」と笑った。
「トワはここから出られないんだよ」
「どうして……」
「呪いだってお父さんは言ってた。ここから出ようとすると、焼けちゃうんだって」
そこで思い出す。
礼拝堂で見た、あの大量の石像たちを。
どの石像も苦痛に歪んだ顔を浮かべていて、皮膚が焼けただれていた。
先程のトワのように。
もしあれが、トワの言う呪いに侵された人たちの末路だとするならば。
トワの一族は何かに呪われて滅びたということになる。
箱庭に生息する、未知の動物だろうか。
いや、違う。
――あそこは……行っちゃダメなんだ。悪い神様がいるから。
――悪い神様?
――昔、悪い神様をあの塔に閉じ込めたんだって。
いつか、塔について訪ねた時、トワはそう言っていた。
悪い神様。
それが何なのかは、まったく見当がつかない。
「トワ、君は一体……」
尋ねようとした僕の口に、トワは人差し指を当てた。
「お別れだ、ミヤコ。トワはここに残る」
そしてトワは、いつもの太陽のような笑みを浮かべた。
「トワね、何度も外に出ようとしたけど、できなかった。何度やっても無理だった。だからトワは、ずっと前に諦めた。でもな、ミヤコが諦めずに頑張って、空を飛んだのを見て、トワも頑張ったらできるのかなって思った。だからトワも諦めない。いつかきっと外に出る」
トワは拳を突き出す。
「ミヤコには機械を作る役目があるだろ? だから家に帰れ。トワも、トワのやれることをやる!」
「トワ……」
何か言おうと口を開きかけたけど、すぐに思い直すと小さく首を振った。
そして、トワの拳にコツンと自分の拳をぶつける。
トワに負けないくらいの笑みを浮かべて。
「わかった。ありがとう、トワ。君と過ごした日のことは絶対に忘れない。でも、僕はまだ諦めてないよ」
「諦めてないって?」
「僕は機械でみんなを幸せにする。その中には、君も入ってるってことさ。いつか、君を迎えに来られるくらいすごい機械を生み出してみせる。そして君の呪いを解いて、この箱庭の外に連れ出すんだ」
「……うん! 楽しみにしてる!」
僕の言葉を聞いたトワは、ワクワクした子供のように目を輝かせる。
その姿は、初めて機械の話を聞いた時の僕と似ている気がした。
トワと別れた僕は、飛行装置で海へと出た。
行きしなはあれほど危険だった海は、嘘みたいに穏やかだ。
大陸へ向かう旅の中、海の上でそっと箱庭を振り返ってみる。
未知の古代遺跡。
そこには収穫も、出会いもあった。
「ありがとう、トワ」
胸が期待で満ち溢れているのを感じる。
箱庭で見つけた技術が機械と組み合わさった時、どんな可能性が生まれるんだろう。
今はその想いでいっぱいだった。
「もう一度始めよう。みんなが喜んでくれるような機械を作るために」
その後、東の大陸へ戻った僕は、箱庭で発見したあの陣を用いて新技術を生み出すことになる。
自然界に存在するエネルギーを操る、永久機関をも可能にした新たな技術は『精霊工学』と呼ばれ、この世の文明を大きく発達させることに繋がった。
この技術が生まれた背景について尋ねられた僕は、人々にこう告げる。
「太陽との出会いが、僕を導いてくれたんだ」と。




