第1章 宮中の匂い
私は匂いを嫌いではない。嫌悪と親密は紙一重で、鼻に届くものはすべて何かを語るからだ。焼けた油の臭いは不器用な台所の慌ただしさを、軒先の白梅の香りは年老いた客の思い出を呼び戻す。だが――あの日、私の嗅覚はひとつだけ、どうしても受け付けなかった。人の恐れの匂いである。
「東屋の椿、宮中に来てもらいたい」
その声は短く、冷たかった。声の主は雨宮と名乗る侍医。私は薬袋を肩に、重い扉を押して都へと向かった。扉の向こうには、匂いの層が重なり合う宮中が待っていた。
宮中の空気は、外とは違う。香炉の甘い煙と、磨き上げられた木の匂い、微かに混じる花の香り。だが、それらは巧妙なカモフラージュに過ぎない。私の鼻は、嘘を見抜くためにあるのだ。
「椿殿、こちらへ」
雨宮は薄暗い廊下の先で、白衣の袖を揺らした。冷静で無表情。だが、眼差しは私を見逃さなかった。私は小さく息を吸い込み、香袋から取り出した小瓶を手にした。
「昏睡事件について、詳細を教えていただけますか」
雨宮は小さく頷き、側室の居室へと私を案内した。部屋の空気は重く、かすかな薬草の香りと、誰かの恐怖が混じり合っていた。嗅覚が鋭すぎる私は、その層の奥に隠れた“人の心”まで感じ取ってしまう。
「匂いの中に、何が隠れているのか……見極めなければ」
私は心の中で呟いた。今日、宮中で初めて私の匂いが事件を解く鍵となる――。そして、知らぬ間に宮廷の陰謀の糸に触れることになるとも知らずに。