第1話 メーデー
9月2日、アメリカ東部時間11:47:24。
その日、世界から【火】の概念が消失した。
「……メーデー! メーデー! メーデー! こちらアメリカン213!! 両エンジンがトラブルにより、高度を維持できない。現在位置はマンハッタン上空。直ちに滑走路の指示を――」
異常が生じたのは、飛行中の航空機のエンジン。
機長が無線越しに助けを求めるものの、言葉を失った。
――目の前に広がるのは、絶望。
数十機の航空機が流星群のように、マンハッタンに降り注ぐ。
世界の終わりに思える光景に、助けを求める気力が失せてしまった。
仮に『スーパーヒーロー』の支援があったとしても、順番は回ってこない。
「終わりだ……。何もかも……」
悲嘆にくれる機長が取り出したのは、タバコとライター。
万が一の場合に備えて、 最後の一服として用意したものだった。
「機長! 機内は禁煙です!!」
すると声を荒げたのは、隣に座っている副操縦士だった。
ルールに厳格なのは良いことだが、例外というものを知らない。
「うるさい! 今際の際ぐらい好きに過ごさせろ!」
ガン無視を決め込み、タバコを一本取り出し、口にくわえる。
流れるようにライターを口元に近付け、取り急ぎ火をつけようとした。
――しかし、付かない。
何度繰り返そうが、カチッという空虚な音が響くだけ。
オイル切れか、発火石の不具合か、それとも、運が悪いのか。
「ちくしょう。こんなことなら、海兵隊に……」
最後の一服を諦め、思い馳せるのは、唯一の心残り。
除隊前の送別会。軍服を着た自分の敬礼する姿が浮かぶ。
辞めなければこうならなかった。恐らく死ぬことはなかった。
後悔に押し潰されそうになりながら、窓越しの絶望に目を向ける。
「――――」
そこには、赤いフルフェイスマスクを被った少女がいた。
黒スーツに袖を通し、バイザー越しに見える顔と目が合った。
なぜ。どうして。そんな疑問を解消する術は物理的に存在しない。
無線で繋がっているわけもなく、隔てる窓の厚さで言葉は伝わらない。
「………………」
ただ少女は、右手の親指をグッと立てた。
肯定的な意味合いの強いハンドジェスチャー。
OK、大丈夫、準備完了。様々な状況下で使われる。
軍隊のみならず、世間一般で日常的に使われている合図。
夢や幻覚のようにも思えたが、人間とは都合のいい生き物だ。
「……助かるのか? この状況で?」
突如現れた希望に縋る。あり得ない光景を受け入れる。
「高度1500フィート! 機長! もう間に合いません!!」
そんな中、絶望は同時に進行する。副操縦士が状況を報告する。
仮にここでエンジンが直ったとしても、高度を回復させるのは難しい。
再点火まで最低でも数十秒かかる。その頃には地面か建物に衝突するだろう。
「……諦めるな! こいつを信じて、最善を尽くせ!!」
夢か現実か分からないまま、操縦桿を握り込む。
衝撃に備えつつ、緊急着陸に向けての準備を開始する。
近くには広大な公園。セントラル・パークが目に入ってくる。
幸いにも一般人は見えず、芝生と池を緩衝材にできる可能性がある。
着地の衝撃さえなんとかなれば、助かる見込みは万に一つぐらいはあった。
「こいつって? ……いいえ、プランは?」
「胴体着陸だ! 池を最後のブレーキに使う!!」
それは言うまでもなく、未体験の領域だった。
ハドソン川に着水した前例もあるが、参考にならない。
知識と経験は別だ。知った気で挑めば、必ず足元をすくわれる。
「こちら、機長。これより緊急着陸を行う」
客室に通じる無線に言葉を乗せ、最低限の勤めを果たす。
我に返らせてくれた少女に感謝しつつ、着陸地点を調整した。
――そこで訪れるのは、接地。
「「…………ッッッッ!!!!!!!」」
両翼が樹々をなぎ倒し、胴体が芝生を削り、機内は激しく揺れる。
接地後、爆発してもおかしくなかったが、どういうわけか耐えていた。
あの少女がやったのだと言い聞かせ、横転しないように機首を水平に保つ。
――そして。
「………………………………たす、かった」
映画でも見ているような気分ながら、感想を口に漏らす。
ユーモラスな言葉を添える余裕はなく、起きた事実を述べた。
「やるじゃん。……で、早速だけど、専門的な知恵を貸してもらえる? どれなら助かりそ?」
生を実感する暇もないまま、聞き覚えのない声が聞こえた。
隣にはフルフェイスマスクの少女。視線の先には墜落する航空機。
よく見れば機内の窓は突き破られ、そこから侵入されていたようだった。
――もはや、現れた理由は何でもいい。
彼女の言い分を察するに、当機のような事例を探している。
落ちる角度に恵まれ、胴体着陸が可能となるようなパターンだ。
諸々の事情をどうにか呑み込み、パイロットの見地から結論を下す。
「無理だ……どれも間に合わん」
「そっか……。そうだよね……」
時間が止まるような奇跡はなく、航空機は街に降り注ぐ。
ビルや建物をことごとく破壊し、不運だった人の死を見届けた。
――この出会いが、全ての始まり。
終わりの見えない、生ある者たちの狂詩曲。
死の街と化したマンハッタンの旅路が幕を切った。