この手は、守るために
霧の中を進むリュカとフィオナの足取りは、静かで、重たかった。
周囲を包むのは、不気味なほど濃密な霧。まるで世界そのものがぼやけていくような錯覚に囚われる。
(……私のせいで、リュカは危険に巻き込まれている)
(この力がなければ……普通の旅だったなら)
何も言わず歩くリュカの背中を見ながら、フィオナは心の奥底で自問する。
今はまだ何も起きていない。だが、また“あのとき”のように魔眼が暴走したら──。
「リュカ」
立ち止まって声をかけると、彼は振り返り、優しく微笑んだ。
「どうしたの?」
「……私、やっぱり一人で行った方がいいと思う。リュカまで巻き込みたくない」
リュカは驚いたように瞬きをし、それから小さく首を振った。
「そんなこと、言わないで。僕は、フィオナがそばにいてくれてよかったと思ってるよ」
「でも……」
「僕も怖いよ。あのときの暴走も、フィオナの魔眼の力も、全部理解できてるわけじゃない。でもね、それでも君のそばにいたいんだ」
その言葉に、フィオナは返す言葉を失った。
目の奥が熱くなり、思わず視線を逸らす。
(……リュカ)
リュカが前を歩きながら、時折フィオナを振り返る。
「……大丈夫?」
「ええ、平気。ちょっと……息苦しいだけ」
フィオナの返事は、やや間を置いて返ってきた。けれどその瞳は揺れていた。
――私は忌み子……
心に刺さった言葉が、フィオナの胸を締めつけていた。
自分がそばにいることで、リュカが危険に巻き込まれているかもしれない。その不安が、胸の奥に静かに芽生え続けていた。
霧はますます深くなる。足元すらおぼつかない。
そんな中、唐突に、リュカが立ち止まった。
「……何か、いる」
リュカが低く呟いた直後、草を踏みしめる音が耳に届いた。霧の向こう、木立の陰で何かが動いている。
「隠れて」
咄嗟にリュカがフィオナを庇うように前に出た。その手には、旅の途中で拾った一本の鉄の棒。まるで剣のように握りしめている。
霧が、ざわりと動いた。
その中から現れたのは、異形の魔物――全身をもやのような鱗で覆った、獣にも似た巨体。
口元からは赤黒いヨダレを垂らしながら、獰猛な眼でこちらを睨みつけている。
「……あれは、霧喰いの魔獣……?」
予想を遥かに上回る存在感だった。
霧喰いの魔獣、ランクで言うならB〜Aランクに相当する。
リュカの心がわずかに揺らぐ。握りしめた棒が微かに震える。
――戦うんだ。フィオナを守るって決めたんだ。
――でも、本当に……守りきれるのか?
かつての自分なら、無意識のままスキルが発動して戦えてたかもしれない。けれど今は、それを自覚している。自覚してしまったからこそ、無意識に頼ることはできない。
魔獣が吠えた。
その一瞬の爆音で、頭が真っ白になる。リュカの足がすくむ。
次の瞬間、魔獣が跳ねるように飛びかかってきた。
「リュカ!」
フィオナの声と同時に、リュカは棒を振るって身を守ろうとしたが――
鈍い音が響いた。
リュカの身体が地面に叩きつけられる。
「……くっ……!」
脇腹に激痛が走る。鉄棒は地面に転がった。
霞む視界の中で、魔獣がフィオナに向かって踏み出すのが見えた。
――ダメだ、動けない。
体が、動かない。心は叫んでいるのに、手も足も反応してくれない。
そんなリュカの前に、影が滑り込んだ。
「やめて……お願い、もうやめて!!」
それは、フィオナだった。
魔獣の前に、震える足で立ちはだかる。
「リュカを……これ以上は、やらせない……!」
フィオナの眼が、淡く光り始める。
胸に手を当て、何かを噛み締めるように瞳を閉じた。
霧喰いの魔獣の巨体が、フィオナに向かって咆哮とともに跳びかかる。
その一撃を、フィオナは魔眼の直感で回避しようとするも、霧に満ちた視界では完全に読み切れず、爪が肩をかすめて血が飛んだ。
「ぐっ……!」
痛みに顔を歪めながらも、フィオナは怯まず立ち上がる。リュカを守るため、踏みとどまった。だが、彼女の動きは徐々に鈍くなっていく。
霧喰いの魔獣はフィオナの防戦一方の状況を嘲るように、ぐるりと彼女を囲むように歩き、再び爪を振り下ろす。
それを見たリュカの胸が、締め付けられるように痛んだ。
(……フィオナが、やられる……!)
体が震える。足が動かない。自分の無力さが、また彼女を危険にさらしている。
思い出すのは、かつて自分が無意識に力を暴走させた夜。フィオナを、周囲を、すべて巻き込んでしまうのではと怯え、何もできず立ち尽くした夜。
だが――
「守りたい……!」
その瞬間、リュカの胸の奥で、何かが爆ぜた。
ズシン、と全身に圧が走る。頭が熱い。視界が赤く滲んでいく。
脳裏に浮かぶのは、フィオナの倒れかけた姿。そして、その身体を覆った紅紫の魔眼の光。
「フィオナを……守らなきゃ!」
全身から迸るような力が湧き上がる。
筋肉が異様に膨れ、視界が冴え、心臓が怒涛のように脈打つ。リュカのスキル《無意識強化》が、感情に呼応して発動した。
「おい、こっちだぁああああ!!」
霧喰いの魔獣に向かって、リュカが怒声を上げながら走り出した。
瞬間、地面がえぐれた。足元の土を蹴っただけで、爆風のような砂埃が舞う。
魔獣が振り向く。その瞳に映るのは、明確な“敵意”を持ったリュカ。
「うぉおおおおおおっ!」
拳を握りしめ、そのまま魔獣の顎へと叩き込む。
――ガンッ!!
信じられない音とともに、魔獣の頭部がのけぞり、数メートル吹き飛んだ。
「な、なんで……こんな力が……!」
驚いている暇もなく、リュカは連撃を叩き込んだ。拳、肘、膝、回し蹴り。
まるで修練を積んだ武道家のような動き。だが、彼にそんな経験はない。
ただ「守りたい」という強い一心だけが、体を動かし、力を引き出していた。
霧喰いの魔獣は、吠え声を上げながら暴れまわるが、リュカの身体能力はもはやそれを凌駕していた。反応速度も、動きも、すべてが異常なまでに研ぎ澄まされている。
そして――
「終わりだぁああっ!!」
リュカは地面を踏みしめ、跳躍。空中から渾身の一撃を、魔獣の頭上へと叩き込んだ。
ドォン!!
霧と血煙が爆ぜ、魔獣が沈黙した。
直後、リュカは膝をつく。視界が歪む。鼓動が荒れ、呼吸が苦しい。
暴走する力が、身体を蝕んでいる。
(……もう、力が……)
膝が崩れる。倒れるその瞬間――
「リュカ!!」
フィオナが駆け寄り、傷だらけの腕で彼を支えた。
「大丈夫!? リュカ……!」
その声を聞いた瞬間、リュカの全身から力が抜けた。
「フィオナ……無事で、よかった……」
安堵の笑みを浮かべ、リュカはそのまま彼女の腕の中で気を失った。
頬に、ぽた、と滴が落ちる。
フィオナの瞳から、涙が溢れていた。
「ありがとう、リュカ……」
優しく、そっと彼を抱きしめる。
霧が静かに晴れはじめ、夜の森に、かすかな朝の気配が差し込んでいた。
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