強さは誰かのために
白い霧が、静かに山道を包んでいた。
ぼんやりと揺れる木々の影が、まるで生き物のように揺らめいて見える。
「……なんか、不気味だね」
リュカがぽつりと呟いた。
「うん。でも、この先の峠を越えれば、次の町に着くはずだよ」
フィオナは小さく笑いながら、肩掛けのマントを揺らす。
霧に包まれた山道を、二人は慎重に歩いていく。
けれどその足取りは、どこかぎこちない。
特にリュカの表情には、迷いが浮かんでいた。
フィオナの魔眼が暴走した時──
あのときリュカは、確かに彼女を抱きとめた。
恐ろしいほどの“圧”の中、それでも彼女を放っておけなかった。
(あれは……本当に、僕の意志だったのかな)
「ねぇ、リュカ」
フィオナがぽつりと声を落とす。
「……私のこと、怖くなった?」
リュカは驚いて顔を上げた。
「えっ、いや、そんなこと……!」
「本当?」
フィオナの声は淡々としていたが、その瞳の奥に微かな不安が揺れていた。
「この目のせいで、私は……人から何度も拒まれてきたの。今さら怖がられても、驚かないつもりだけど……」
「違うよ」
リュカは首を振る。
「怖いのは……僕のほうなんだ」
フィオナがきょとんとする。
「僕は、誰かを守れるような人間じゃない。君の力を見て、正直、すごく圧倒されたし……僕じゃあ、何もできないんじゃないかって……」
言葉を絞り出すように口にするリュカに、フィオナはそっと足を止めた。
彼女の瞳が、霧の中で静かに揺れる。
「……ありがとう。そう言ってくれて」
「え……?」
「自分の弱さを、ちゃんと口にできる人って、少ないから」
そう言って、フィオナはまた歩き出した。
その背中が、少しだけ小さく見えた。
***
山道はやがて急斜面に差しかかり、足場の悪い岩肌が現れる。
リュカは先に進んでいたフィオナを見て、「気をつけて」と声をかけた、まさにその時──
「きゃっ……!」
フィオナが足を滑らせた。
「フィオナ!!」
咄嗟に手を伸ばす。
でも──
(動かない……!?)
体が強張り、思うように動かない。
あの“無意識の力”は、発動しない。
(どうして……!)
リュカはもどかしさを噛みしめながら、それでも力任せに手を伸ばし──
二人して、斜面の草むらに倒れ込んだ。
「痛っ……!」
「フィオナ、大丈夫……?」
フィオナはわずかに顔をしかめたが、すぐに笑みを浮かべた。
「大丈夫。私こそ、足を引っ張ってごめんね」
その笑顔が、リュカの胸に刺さる。
(僕はまた……守れなかった)
⸻
その夜、二人は簡素な野営を組んだ。
焚き火の炎が揺れる中、リュカは手の平を見つめる。
(あのとき、どうして動けなかったんだろう)
(“守りたい”って思った。でも、それだけじゃ……)
「リュカ?」
フィオナがそっと近づき、リュカの腕の擦り傷に薬草を塗ってくれる。
「……ありがとう」
リュカは視線を落としながら呟いた。
「僕は、君みたいに強くなれない。何かを守る力が欲しいって思ってるのに……全然、うまくいかない」
その言葉に、フィオナは少しだけ驚いたような顔をして──ふっと微笑んだ。
「リュカ。私、嬉しかったよ。あのとき、滑り落ちそうになった時、真っ先に私に手を伸ばしてくれた」
「でも、結局助けきれなかった」
「ううん。リュカは“私を守ろうとした”の。それだけで、私はもう救われてるんだ」
焚き火の音だけが、しばらく響いた。
⸻
その時だった。
茂みの奥で、“カサリ”と草を踏む音がした。
「……来るよ」
フィオナが即座に立ち上がる。
姿を現したのは、小型の魔物──“ハウルフォックス”。
霧の中に潜む、音もなく忍び寄る危険な獣。
フィオナが構えた瞬間、魔物が飛びかかる。
「やめろッ!!」
リュカが体を張って、フィオナの前に飛び出した。
──でも、力は発動しない。
それでも、動いた。
(怖い。怖いけど……)
(それでも、僕は──彼女を守りたいんだ!)
その身体は魔物の爪を受けた。
痛みが走る。
フィオナの瞳が一瞬、紅に光った。
「リュカ、下がって!」
光が走り、小石が魔力を帯びて飛び、魔物の顔面を撃った。
怯んだ魔物が逃げ去っていく。
──静寂が戻る。
「大丈夫!?」
フィオナが駆け寄ってくる。
リュカは、息を切らしながら小さく笑った。
「うん、なんとか……。ねぇ、フィオナ」
「……?」
「また、力は出なかった。でも、僕は……もう逃げない。絶対に、君を守るって、そう決めたから」
フィオナの目が、わずかに潤んだ。
「……ありがとう」
焚き火の炎が、二人の影を長く伸ばしていた。
白い霧の奥から、微かに新たな気配が迫りつつあることに、まだ二人は気づいていなかった──。
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