眠りの街エリュデア
街が見えるはずの地平線は、白い霧に覆われていた。
馬車の揺れがようやく止まり、御者がひとつ深いため息をつく。
「……この先が“エリュデア”です。ですが……ご忠告を」
御者は振り向きもせずに言った。
「この街は、“夢”に呑まれています。目を覚まさない者が増えている……何が起きているのかも、誰も知りません」
リュカとフィオナは、霧の中に一歩足を踏み出す。
「……変な感覚。肌に、何かが触れてるみたい」
フィオナがそう言った瞬間、彼女の左目がわずかに疼く。
魔眼が、“何か”に反応している。
街の門には、ひとりの警備兵が立っていた。
槍を握る手は力が抜け、目は焦点を結ばず、ただ空を見つめている。
「……入るのか?」
「はい。調査のために来ました。ギルドからの紹介です」
リュカが証明書を見せると、男は無言で首を縦に振った。
「……意味ねぇのにな。みんな……起きなくなったやつらを、ただ見てるだけなんだ」
その言葉が、やけに冷たく耳に残った。
エリュデアの街は静かだった。
いや、“死んでいる”と言ってもいい。
霧が昼でも薄暗く、通りには人影がまばら。
家の窓から、ぼんやりと外を見つめるだけの老人や、抱きかかえられた子供たちの姿が見える。
「……街の空気、重すぎる」
フィオナがぼそりと呟いた。
彼女の魔眼が、霧の奥に“うごめく気配”を感じ取っている。
しばらく歩いた先で、ひとりの女が声をかけてきた。
顔色の悪い中年の女性。腕の中には、小さな少女が抱えられていた。
「あなたたち……旅の人? 医者……じゃないのね」
「その子は……」
「寝たまま、目を覚まさないの。何日も前から……」
リュカが少女の額に手を触れる。熱はない。呼吸も落ち着いている。
ただ、“目を開けようとしない”のだ。
「夢の中で、迷子になってるのよ……きっと……」
そう言って、女は目を伏せた。
その言葉に、フィオナの魔眼が再び僅かに反応した。
左目が、霧の中に“かすかな揺らぎ”を見る。
「……この街、やっぱり“夢”が干渉してる」
そのとき、小さな教会の鐘が鳴った。
音色はどこか濁っていて、目覚めを告げるどころか――“沈黙”を誘うような、不穏な響きだった。
リュカとフィオナは、確信する。
この街――エリュデアには、“夢”が棲みついている。
ただの病気じゃない。これは“継承”の前兆だ。
霧の奥から、名もなき声が囁く。
「……つぎは、だれ……?」
***
その晩、リュカとフィオナは街外れの宿に身を寄せていた。
古びた木造の建物。宿主の老婆はほとんど言葉を発さず、ただ部屋の鍵だけを無言で差し出した。
「……この街の人たち、皆“どこかを見てる”みたい」
「うん。目の前じゃなくて……もっと遠く、夢の向こうみたいな」
夜になっても霧は晴れず、窓の外は灰色のままだった。
フィオナはベッドに横たわりながら、じっと左目を押さえる。
「……行ってみる。向こう側に」
「無理は……」
「大丈夫。この街の中なら、共鳴で“夢の層”に入れる。……リュカが隣にいてくれたら」
静かに頷き、リュカはフィオナの手を握る。
彼女の瞼が閉じ、意識が沈みゆく。
***
――霧。
重く、湿った空気。すべてが白く、形が曖昧な世界。
フィオナは立っていた。
見覚えのない場所、でもどこか既視感のある場所。
足元には、枯れた草原。空は白く、風もない。
ただ一つ、遠くに“誰かの影”が立っていた。
少女だった。
年の頃は十歳ほど。痩せた体に淡い布をまとい、表情はほとんど無い。
その両目のうち――左目だけが、ぼんやりと“色”を帯びていた。
「……あなた、は」
問いかけようとしたその瞬間、少女の左目がフィオナを捉えた。
ぶわり、と視界が揺れる。
フィオナの左目――“真眼”が反応し、意図せず魔力が奔った。
「っ……!」
空間が軋む。
少女の左目と、フィオナの左目が“共鳴”しようとする。
だが、その繋がりはまだ不完全だった。
少女の意識は曖昧で、名もなく、個もない。
フィオナは一歩踏み出し、手を伸ばす。
「――あなたは、“夢幻眼”を継ごうとしてるの?」
少女は何も答えなかった。ただ、フィオナの方へ一歩、歩み寄る。
そして、かすかに唇が動いた。
「……わたしは、まだ……じゃ、ない」
その瞬間、空間にひびが走る。
夢の層が崩れかけ、霧の中に“別の気配”が滲み出る。
「っ……なにか、来る……!」
少女の背後に、ぼやけた影が現れる。
黒い蛇のようなシルエット。
それは、夢の世界に干渉する“何か”だった。
フィオナの左目が強く疼き、彼女の意識が引き戻される。
***
「……フィオナッ!」
リュカの声で、彼女は飛び起きた。
汗に濡れた額。左目がじんじんと熱を持っている。
「っ……見た。……“器”が、いた」
「器?」
「夢幻眼を……次に継ぐべき、“少女”が。まだ名もない、存在の薄い子……でも、確かに、そこにいた」
フィオナはベッドの上で体を起こし、窓の外を見る。
霧の中に、あの夢で見た少女の姿が――一瞬、映った気がした。
「……この街に、いる」
「じゃあ、探そう。……彼女を、見つけよう」
***
翌朝、ふたりは町の教会を訪れた。
小高い丘の上に建てられた石造りの礼拝堂。
霧の中でも、その場所だけは静かに祈りを湛えていた。
教会の神父は、やつれた顔でふたりを迎え入れた。
「……旅の方ですか。ここには何人か、身寄りのない子を預かっています。
その中に……“最初の眠り病”の少女がいます」
案内された先、柔らかな陽の差す部屋。
そこに、夢で見た少女がいた。
ぼんやりと外を見つめるその姿は、昨夜の夢の中とまったく同じ。
淡い布のワンピース、痩せた腕、無表情な横顔。
そして――左目に宿る、わずかな“紅”。
フィオナは少女に近づき、そっと膝をつく。
「……あなた、名前は?」
少女は答えなかった。目線はただ、遠くを見ている。
神父が後ろで小さく囁く。
「この子は、言葉を失っています。眠るように目を開いたまま、意識が“どこか”にあるようで……」
フィオナは少女の手を取る。
冷たい。でも、どこか――自分に似ている。
「……名前がないなら、私たちが“呼ぶ”よ。そうすれば……きっと、ここに戻ってこられる」
少女の瞳が、微かに動いた。
「……っ」
そのとき、教会の窓が“カタリ”と揺れる。
誰も触れていないのに、重い風が吹いたように。
外に目をやったリュカが、眉をひそめる。
「……誰かが、見てる。遠くから、“この子”を」
フィオナの魔眼が疼く。
霧の中に、黒い気配がちらついた気がした。
その晩、少女は眠っていた。
まるで深く静かな湖の底にいるように、動かず、息を整えて。
フィオナはその傍らで、そっと囁いた。
「……私の名前は、フィオナ。魔眼の継承者。君と同じ、魔眼の継承者……」
少女は答えない。
けれど、その左目に――ほんの僅かに、“紅い光”が宿った。
継承は、始まろうとしている。
ただの偶然じゃない。これは“連鎖”。
かつて自分も、名を呼ばれて目覚めたように――
今度は、自分が“呼ぶ番”だ。
フィオナの左目が、夜の霧の中に浮かび上がる。
「……大丈夫。君は、ここにいる。まだ、間に合う」
その言葉に応えるように、少女の指が、微かに動いた。
夜の霧は、少しだけ薄らいだ気がした。
その先に、次なる試練の気配が――忍び寄っていた。
少しでも面白い、続きが気になると思ってもらえたら評価やブックマーク、感想を残していただけると、とてもとても励みになります!
是非よろしくお願いします!!!!




