塔の陰り
灰の塔を攻略してから、数日。
リュカとフィオナは、ふたたびグランティスへと戻ってきた。
塔からの帰路は平穏だった。
魔物の気配も少なく、空も澄み渡っていたが――それがかえって、不気味でもあった。
あれほどの異質な存在を放っていた塔の圧力が消えたというのに、自然はあまりに静かだった。
「……ほんとに、終わったんだよね」
街の門が見えた頃、フィオナがぽつりと呟いた。
リュカは頷きながら、彼女の隣を歩き続ける。
「うん。でも……何かが変わった気がする。僕らも、この街も」
その言葉に、フィオナはわずかに目を伏せた。
――魔眼が、共鳴していた。
塔での戦い、幻影との対峙。
それらは、確かに彼女の“内側”に何かを残していた。
街の門をくぐると、数人の衛兵が驚いたように彼らに視線を送ってきた。
一人が駆け寄ってきて、息を呑むように言った。
「……戻られたんですか!? 塔に入った者が、生きて戻ったと……」
「うん。ただ、もう“中身”は空っぽだったよ。あそこに何があったのかは……たぶん、もう誰にもわからない」
そう応えたリュカに、衛兵は戸惑いを浮かべたまま敬礼し、そのままギルドへ向かうよう案内した。
ギルドに入ると、中は少しざわついていた。
彼らの姿を見つけた数人の職員が目を見開き、小さな歓声があがる。
「本当に戻ってきた……! 灰の塔を、攻略したって……!」
ふたりの前に現れたのは、ギルドマスターのバルドだった。
分厚いマントに無精ひげ、鋭い目元の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
だが、その視線は鋼のように真っ直ぐだった。
「……話は聞いている。詳細を、別室で聞かせてもらおうか」
案内された部屋は質素だが静かで、外のざわめきはまるで届かない。
バルドが椅子に腰を下ろすと、真剣な眼差しでリュカとフィオナを見据えた。
「塔の内部で何が起きた? 幻覚が見えたと聞いている。夢を見させるような……魔眼に関わる何かがあったのか?」
「……ありました。夢のような光景。でも、それは現実と見分けがつかないほど鮮明で……」
フィオナの声には、わずかな震えがあった。
リュカはそっとその手を取り、静かに寄り添う。
バルドはしばらく黙考した後、重い声で続けた。
「つまり……あの塔は“精神”に干渉する仕組みを持っていた。そして、君の魔眼がそれに反応した可能性がある」
「フィオナがいたから、進めたんです。いなかったら……僕たちはあの中で、自分を失ってたかもしれない」
リュカの言葉に、フィオナは顔を上げて、ほんの少し微笑んだ。
バルドは腕を組み、その様子を静かに見つめる。
「……君たちが無事でよかった。そして、あの塔を超えたという事実――それ自体が、この国にとってひとつの“転機”になるだろう」
「転機、ですか……?」
「ああ。あの塔は、長年“触れてはならぬ領域”として語られてきた。だが、君たちがその扉を開いた。もう、誰も見て見ぬふりはできない」
バルドの声は低く、だが確信に満ちていた。
***
ギルドを後にして、ふたりは街中を歩いた。
塔での報告を終えた今、ようやく日常に戻れる――そんな錯覚があった。
だが現実は、そう甘くはなかった。
「……見て、あの子たちよ」
「本当に塔から帰ってきたんだって」
「……あの女の子、魔眼持ちらしいわよ」
囁き声が、背中に刺さる。
はっきり聞こえる声もあれば、わざとらしく耳元をかすめるような声もあった。
リュカは何も言わずに歩く。
だが、フィオナの手にわずかな力がこもるのを感じて、彼はそっと手を重ねた。
フィオナは黙っていた。
だが、その視線は地面を見つめたままだ。
あの塔で心の奥まで見られ、傷を暴かれたばかりの彼女にとって、今のこれは――
苦しめるには、十分すぎる状況だった。
市場を抜けた先、小さな広場に差し掛かったときのことだった。
「ねぇ、あれが……魔眼のお姉ちゃん?」
幼い声が響いた。
フィオナがびくりと肩を揺らす。
リュカがそちらを見ると、小さな子どもが母親の服を掴んで指を差していた。
母親は慌てて手を引き、「見ちゃだめ」と言ってその場を離れた。
フィオナの顔は、俯いたまま。
何も言わずに、その場から一歩、二歩と下がる。
「……大丈夫」
リュカが静かに言い、そっと肩に手を置く。
フィオナは目を閉じ、深く息を吐いた。
少しの沈黙の後、彼女はかすかに笑ってみせた。
「ありがと。でも……ちょっとだけ、傷つくね」
リュカは言葉を探しながら、でも見つからずに、ただ彼女の隣に立った。
ギルドを出たときから、冒険者たちの視線も感じていた。
賞賛と警戒、尊敬と嫉妬――複雑な感情が交錯しているのが、肌でわかる。
「塔を攻略したって話、ほんとかよ」
「魔眼の力だってさ。やっぱあいつら、普通じゃねぇんだよ」
「関わらんほうがいい。ああいうのは、最後は災いを呼ぶ」
そんな言葉を後ろに残しながら、リュカはふと、ひとつの気配に気づいた。
誰かが、こちらを“見ている”。
背筋がわずかに冷える。
それは普通の視線ではない。探るような、刺すような、ただの好奇心では済まない“何か”。
リュカはさりげなく視線を巡らせた。
──だが、それらしき人物は見つからない。
「……誰かに、見られてる?」
フィオナもまた、同じものを感じていたようだった。
「うん。でも、たぶん……今はまだ、動かない」
リュカはそう答えたが、胸の奥にわだかまる違和感は消えなかった。
その夜、ふたりは町の外れにある安宿に泊まった。
狭いが清潔な部屋で、フィオナはぼんやりと窓の外を見ていた。
広場の灯りがちらちらと揺れている。
「……私、やっぱり変わらなきゃいけないのかな」
「え?」
「誰かに怖がられないように。避けられないように……“普通”にならなきゃいけないのかなって、思っちゃった」
その言葉に、リュカは少しだけ黙った。
「……でも、普通って、なんなのかな」
彼はぽつりと言った。
「僕は、今のフィオナがいいと思うよ。泣いたり笑ったり、強がったり弱音吐いたり……そういうの、全部込みで」
「リュカ……」
「無理に変わらなくてもいい。ただ……一緒に進んでくれたら、それでいい」
フィオナはしばらく黙っていたが、やがてそっと微笑んだ。
「……ずるいな、そういうの」
リュカも笑って返す。
「うん。僕はずるいから」
***
夜は静かに更けていく。
だが、その静けさの裏で、確かに世界は“ざわついて”いた。
リュカとフィオナの名は、すでにギルドを通じていくつもの地へ届き始めていた。
そして――その名を、聞きつけた者もいる。
塔を攻略した者。魔眼を持つ少女。そして、共に歩む少年。
月明かりの下、黒い外套を纏った影が、町の入り口で立ち止まり、静かに空を見上げていた。
「ようやく、始まるか」
男の呟きが、風に消える。
二章にこれから入っていきたいと思います!
一章を一気に投稿したこともあって、一章ほどのペースは無理ですが、これからもぼちぼち投稿していければと!
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