継がれし瞳
第三層に足を踏み入れた瞬間、世界が“切り替わった”と、リュカはすぐに察した。
これまでの石造りの空間とはまるで違う。
足元の感触が、ない。壁も、ない。天井すら、見えない。
ただ、空間だけがあった。
目を開けているのに、見えているのかどうかすらわからない。
色も、形も、明暗さえ曖昧な場所。けれど、そこには確かに“存在の気配”だけが漂っていた。
無風。無音。だが、たしかに“視られている”。
リュカの隣では、フィオナが魔眼に手を当てていた。
「……見えない。何も……」
「魔眼でも?」
「うん……。まるで、視界が“奪われた”みたい」
フィオナの声が震えている。
これまで魔眼が彼女の支えだったことを、リュカは痛いほど理解していた。
その魔眼が、ここでは“封じられている”。いや、“沈められている”。
それほどまでに、この空間は異質だった。
「ようこそ、選ばれし者たちよ」
突然、空間に“声”が響いた。
重く、深く、どこからともなく、頭の中に直接届くような響き。
男か女かもわからない。年齢もない。ただ“存在”だけがそこにある。
「……誰?」
フィオナが尋ねる。けれど、声は答えない。かわりに、問いを投げてきた。
「その眼に、何を視る。
その心に、何を抱く。
その力に、何を為す」
「……試されてるのか」
リュカは呟いた。
声は、淡々と続ける。
「示せ。
孤独に、歩め。
力なき者よ、意志にて証せ」
そして次の瞬間、足元が崩れた。
「リュカっ――!」
フィオナの手を伸ばしたが、間に合わなかった。
彼女の身体がふっと浮かび、霧のように空間へ吸い込まれていく。
リュカも、同じように“引きずられる”。
気づけば、周囲の空間が変わっていた。
――誰もいない。フィオナの姿も、声も、気配すら感じない。
完全な、分断。
「孤独に歩め」――その言葉通り、リュカ達はまた、それぞれに試されようとしていた。
***
フィオナが辿り着いた空間は、“何もない世界”だった。
音もなく、色もない。感情すらも奪われそうな虚無。
だけど、唯一“視えてしまう”ものがあった。
――それは、またしても“過去”。
村が燃える。
家が壊れる。
人が泣き、倒れ、名前を呼ぶ。
何度も視た光景。何度も、見たくなかった光景。
けれど、今までと違ったのは、“今度はそれが終わらない”ということだった。
何度目を閉じても、頭を振っても、瞼の裏に焼きついたまま消えない。
魔眼は、止まらない。
視たくなくても、視てしまう。
フィオナの魔眼は、暴走こそしないものの、すべてを拒絶できない目として機能し続けていた。
――そして、声が囁く。
『それが、お前の“力”だ』
『視えるということは、知るということだ』
『知れば、背負うことになる』
『それでも、その眼を望むか?』
フィオナの膝が落ちた。
「……望んでなんか、なかった……」
涙が滲む。だが、それも空間に吸われていく。
感情さえ、ここでは意味をなさない。
「魔眼を持って生まれた」というだけで、選べなかった現実。
それでも、自分の力で人を守りたいと願った。
でも……それが本当に“望み”だったのか、わからなくなっていた。
『選ばれし者よ』
『その瞳が視るものの先に、お前は何を残す?』
問いは続く。
選ばれることは、責任だ。
視るということは、知ってしまうということ。
その先で、自分がどう生きるのか、どう“視るのか”を、誰にも代わってもらえない。
フィオナは目を閉じた。
そのとき――
暗闇の中に、淡い光が射した。
誰かの背中。ゆっくりと振り返る、その姿。
またしても、“あの影”が現れた。
霧の中で自分を導いてくれた、同じ瞳を持つ影。
性別も年齢も不明な存在。
だが、その瞳には確かに、フィオナと同じ魔眼が宿っていた。
継承者は、何も言わない。
ただ、歩き出す。
足元に光の線が伸びる。
“視るべき道”が、そこにあった。
フィオナは、震える足を一歩前に出した。
恐れを拭えたわけじゃない。覚悟が完全に定まったわけでもない。
けれど――
「……私は、“私の視たい未来”を視る」
その言葉と共に、彼女の魔眼が、再び静かに輝きを取り戻した。
空間が、音もなく崩れ始める。
試練の前半が、終わろうとしていた。
***
足元の感触もない。風も音もない。ただ、闇の中にリュカだけが浮かんでいた。
何も見えないのに、何かに見られている気配だけが、確かにそこにあった。
『本当に、お前はここに来てよかったのか?』
不意に、声が響いた。
背筋が凍るような、けれど、どこか懐かしい響き。
その瞬間、視界に“二つの影”が浮かび上がる。
――父と、母だった。
懐かしいはずの顔が、まるで別人のように冷たかった。
『お前には、何の価値もない。そう、最初から分かっていた』
『スキルが発現しても、それが“無意識強化”なんて……何の役に立つの?』
声が刺さる。心の奥に、鋭い氷の杭が突き立てられる。
『あの時、私たちが期待したのは……もっと“目に見える成果”だった』
『けれどお前は、何も残さなかった。何の証明もできなかった』
「……やめて……」
リュカは呟いた。
「僕は……僕なりに頑張ってきた……。何も残せなかったかもしれないけど……それでも……!」
『何もできない者が、何を守れる?』
両親の幻影が、背を向けて歩き出す。
その背中を追いかけようとして、手が出ない。
それでも、あの言葉は焼きついていた。
『お前には、何の価値もない。そう、最初から分かっていた』
***
空間が歪む。
今度は、新たな影が現れた。
――デュランと、サラ。
かつて一緒に冒険をしていた仲間。僕を追放した二人だった。
『お前、まだ勘違いしてるのか?』
デュランの声は笑っていた。けれど、それはあざけるような笑み。
『自分がパーティを支えてた? 冗談も休み休みにしろよ』
『リュカ。あなたがいたから、私たちの判断が鈍ったこと、何度もあった。
あなたがいたから、足を引っ張られた』
サラの声は静かで、それが余計に痛かった。
『スキルもなかった。力もなかった。
でも“なんとなく察してる”って顔して、後ろで黙ってた――』
『……そのくせ、支えてた“つもり”だったんだろ?』
「……っ」
目を逸らしたくても、逸らせない。
胸の奥で、確かに揺らいでいた。
“自分は無力じゃなかった”なんて、言い切れるほどのものはない。
『結局、君は“気づかれないまま”、無能として終わった。
追い出されて、当然だった』
足が、すくんだ。
自分の存在が、音を立てて崩れていくのがわかる。
――ああ、やっぱり、僕は“何も持ってなかった”んだ。
『君がまた誰かと組んでも、どうせ、また裏切られるよ』
『今度は、“君のせいで”仲間が傷つく』
その言葉が、心を深く抉った。
手が、震える。足が動かない。
視界のない空間の中で、リュカは、自分自身を見失いかけていた。
***
そのときだった。
耳元で、柔らかな声がした。
『――私は、違うよ』
暗闇に差し込んだ光のように、静かに、けれど力強く。
それは、幻影じゃなかった。
過去の記憶でもない。
今を共にする仲間の声――フィオナの声だった。
『私は、あなたに何度も助けられた』
『気づいてくれた。守ろうとしてくれた。
私が何も言わなくても、そばにいてくれた――それが、どれだけ嬉しかったか』
涙が、滲む。
リュカは、声にならない声を漏らした。
『スキルなんて、名前なんて関係ない。
私は、リュカがいてくれたから、ここまで来られたの。
私は、あなたと一緒に歩きたい――“今”も、“これから”も』
その言葉は、確かに心に届いた。
幻影たちは、もう何も言わなかった。
気づけば、彼らの姿は薄れていた。
デュランも、サラも。
父も、母も。
誰もが、何も言わずに――霧のように、消えていった。
代わりに、リュカの足元に光が差す。
薄く、淡い光。けれど、確かな道標。
その先に、“フィオナ”がいる。
「……ありがとう、フィオナ」
拳を、握る。
「もう、迷わない。
僕は、“僕自身”として――君の隣に立つ」
足を、一歩。
また、一歩。
その歩みに、力が戻っていく。
視えなくてもいい。
誰にも証明されなくてもいい。
信じてくれる“今”の仲間を、信じたい。
歩き出したその先に――光の扉が浮かんでいた。
試練の先に待つもの。
それが、何であれ。
――もう、僕は“逃げない”。
***
扉の向こうにあったのは、静かな光だった。
淡く青白いその光は、さきほどまでの闇が嘘のように、リュカを優しく包んだ。
床は石畳。
壁には、幾何学模様が刻まれている。
“塔の内側”――けれど、どこか外の世界とは切り離された空間。
そして――
「……リュカ!」
声が、響いた。
目を向けると、そこに――
フィオナがいた。
光の先。扉の前。小さく肩で息をしながら、リュカを見つめていた。
服に大きな乱れはないが、頬にうっすらと土埃がついている。
額には汗がにじみ、目元には疲労の色があった。
けれどその瞳は、まっすぐ僕を捉えていた。
「……フィオナ!」
リュカは駆け寄った。
彼女の前で立ち止まり、言葉を探そうとして――何も出てこなかった。
でも、それでよかった。
フィオナのほうから、そっと手を伸ばしてくれた。
リュカの袖を、ぎゅっとつかんだ。
「……怖かった。けど、あなたの声が聞こえたから……だから、進めた」
「僕も……君の声が、届いた。
あの声がなかったら……きっと、折れてた」
見つめ合ったまま、二人は微笑んだ。
言葉以上に、伝わるものがあった。
互いが互いを必要として、ここに辿り着いた。
それは、偶然じゃなく、選ばれた結果だと――そう思えた。
そのときだった。
塔全体が、低く唸るような振動を放った。
天井の模様が光り出す。
足元の石畳に、魔法陣のような紋様が浮かび上がる。
リュカ達は思わず身構えた。
――そして、空間の中心に、“それ”は現れた。
半透明の、霧のような人影。
人の形をしているが、顔も服も定かではない。
ただ、まとう空気が“異質”だった。
「……誰?」
リュカが問いかけると、影は一歩だけ近づいてきた。
だが、答えは返ってこない。
その代わり、空中にひとつの“印”が浮かび上がった。
――魔眼。
フィオナの左目に刻まれた紋と同じ形。
だがそれは、彼女の瞳ではなく、空間に浮かぶ象徴として、燦然と輝いていた。
「継承……?」
フィオナが呟く。
その瞬間、彼女の魔眼が――青く、静かに輝いた。
塔の空間が“彼女を認識した”ように、光が彼女に向かって流れ込む。
魔眼の輝きが強くなり――そして、不意に、それがリュカにも向いた。
「……っ!?」
左目の奥が、熱い。
痛みではなく、何かが共鳴するような感覚。
フィオナも驚いた顔でリュカを見た。
そのとき、また声なき声が、頭に直接響いてきた。
『資格――確認完了』
『継承者、仮認定』
『双き者、試練完了』
「……双き者……?」
フィオナが言った。
「私たち、二人で――資格を得たってこと?」
「わからない。でも……これで終わりじゃない。きっと、始まりなんだ」
***
空間の光が、徐々に収まっていく。
霧の影は、何も言わずに消えた。
魔眼の紋は空中に残り、ゆっくりと扉の奥へと進んでいくように動いた。
“導かれている”。
リュカ達は無言のまま、顔を見合わせた。
その表情に、もう迷いはなかった。
「行こう」
フィオナが言う。
リュカはうなずく。
そして、二人でその光の先へと――歩き出した。