揺さぶられる心、試される意思
塔の奥に進んだ先、扉の向こうに広がっていたのは――霧だった。
どこまでも薄白く、流れるように揺れる霧。
床は見えず、壁も曖昧で、空間そのものが霞に溶けているようだった。
「ここが……第二層?」
リュカが小さく呟くと、その声さえも霧に吸い込まれ、周囲に届かないような錯覚を覚える。
霧は冷たくも熱くもない。ただ“感情のない沈黙”を形にしたように、ずっとそこに漂っていた。
「この空気……すごく、重い」
フィオナが魔眼に手を当てた。
光る瞳は霧を見通そうとしていたが、何かを視てしまったのか、わずかに眉をひそめた。
「何か、見える?」
「……わからない。でも、視えてはいけないものまで、視えてくる気がする」
彼女の声は、いつもよりもずっと低く、慎重だった。
そのとき――霧の中に“影”が見えた。
ふらりと立つ、黒い人影。
いや、最初は人に見えたが、近づくにつれてそれは“形のない思念”であることがわかった。
影は声も出さず、ただそこに立ち尽くしている。
「誰かいる……?」
リュカが問いかけても、影は反応しない。
ただ、どこかで見たような背格好――そして、消える瞬間にふっと振り返った“顔”は、自分自身にそっくりだった。
「っ……!」
心臓が冷たくなる。
「今の、リュカ……?」
「わからない。でも……たぶん、僕の記憶の何か……かも」
そう答えながらも、確信があった。
あれは、自分が忘れた“感情”――恐れ、疑念、後悔、そういったものが形になって現れている。
「ここは……“記憶の回廊”。そんな気がする」
フィオナが小さく呟く。
「この霧……何かを思い出させようとしてる。私たちの中にある、過去を。忘れたいこと、封じていたこと……全部、引きずり出そうとしてる」
その言葉に、リュカは息を呑んだ。
そして次の瞬間、足元に何かが浮かび上がる。
割れたガラスのような“記憶の断片”。
その中には、まだ幼い自分が、雨の中で立ち尽くしていた。
叫んでいる。誰かを呼んでいる。でも、その声は誰にも届かない。
「……これ、僕の……!」
咄嗟に目を逸らしたが、断片はすぐに霧に溶けて消えた。
そして別の場所では、フィオナの肩が震えていた。
「フィオナ……?」
彼女の目が、何かを捉えていた。
魔眼の奥で、過去の映像が流れているのか、彼女は口を開くことすらできない様子だった。
「……まただ……やめて……見たくない……!」
彼女の瞳がわずかに脈打ち、光が不規則に揺れ始める。
魔眼の制御が、また――。
「フィオナ!」
リュカが駆け寄ろうとしたそのとき、霧の壁が二人の間に立ちはだかった。
まるで、二人を分断するように。
声は届かない。姿もかすむ。
だけど、リュカには確かに見えた。
フィオナの目の前に、何かが――現れた。
***
霧の壁に阻まれ、フィオナの姿が完全に見えなくなった。
「フィオナ……! 返事をして!」
叫んでも、返ってくる声はなかった。
リュカは霧に手を伸ばすが、まるで生き物のように、指先を拒むように撥ね返してくる。
進もうとすればするほど、霧は濃く、重くなっていく。
「くそっ……!」
同時に、胸の奥に違和感が広がっていた。
フィオナが危ない――そんな直感が、肌を突き刺してくる。
一方その頃、霧の奥では。
フィオナは、倒れ伏していた。
視界が歪み、世界がゆっくりと色を失っていく。
ただひとつ、脳裏に焼き付いた“記憶”だけが、鮮明だった。
――村の中。
赤い炎。悲鳴。瓦礫の中で泣く少女。
フィオナだ。幼い頃の、自分自身。
そしてその前で、倒れたまま動かない人影。
見知らぬ旅人だった。自分をかばってくれた、優しい目をした男。
彼はもう、動かなかった。息もしていなかった。
「やめて……見たくない……!」
フィオナは魔眼を抱くように両手で顔を覆った。
「私のせいじゃない……私は……あの時、ただ……怖くて……!」
言い訳にもならない。そう思った瞬間、頭上から声が降ってくる。
『魔眼を持つ者は、人を不幸にする』
『お前がいるから、人が死ぬ』
『お前は――災いだ』
その声に、胸が裂けそうになった。
震える手が、床を掴む。
けれど、掴んだ感触はない。ただ、霧。空虚。自分すら霞んでいく。
「いやだ……いやだ、また……ひとりに……なりたくない……!」
そのときだった。
――誰かの“手”が、差し出された。
真っ暗な霧の中に浮かぶ、ひとつの影。
その姿は、曖昧だった。男か女か、年齢さえも定かではない。
けれど、その瞳だけははっきりと見えた。
左目に宿る、同じ“魔眼”。
フィオナは、その手を見つめた。
影は何も言わない。ただ、まっすぐにこちらを見て、手を伸ばしている。
まるで、「起きろ」「進め」「ここでは終わらない」と語りかけるように。
フィオナの指先が、そっと、その手に触れた。
瞬間――魔眼が、光を取り戻した。
霧が一気に引き、幻が砕け、空間が変わっていく。
気づけば、目の前には――
「リュカ……!」
霧の壁が消え、フィオナはリュカの元に倒れ込むように戻ってきた。
リュカはすぐに抱きとめ、驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべる。
「大丈夫か!? フィオナ!」
「……うん。たぶん、もう……大丈夫」
彼女は小さく息を吐き、顔を上げた。
「誰かが……私を導いてくれた。見たこともない人。でも、同じ目を持ってた」
「魔眼を……?」
フィオナは頷いた。
「たぶん……過去にこの塔を訪れた、“継承者”の記憶。
それが、私を助けてくれた。……まるで、あの人たちが“私を選んだ”みたいに」
リュカはしばらく何も言わなかった。
けれど、その表情はとても優しく、穏やかだった。
「……よかった。君が戻ってきてくれて」
フィオナは目を伏せ、そっと呟いた。
「ありがとう。私、やっぱり……この目と、ちゃんと向き合いたい。
逃げるんじゃなくて、怖がるんじゃなくて、誰かのために……」
その言葉が、心の底からの“決意”であることを、リュカはすぐに察した。
そして、霧の奥から――今度は、リュカの“記憶”が現れようとしていた。
フィオナを取り戻して、ほっと息をついたのも束の間だった。
今度は――リュカの視界が、暗転した。
「……え?」
立っていたはずの塔の通路が消え、リュカは“何もない空間”に放り出された。
足元も、空も、色がない。白でも黒でもない、無の世界。
そしてそこに、懐かしい声が響いた。
『リュカ……』
振り返ると、そこには二人の人影があった。
男と女。
ぼんやりとした光に照らされて、はっきり顔は見えない。けれど、その声、その立ち姿――
それが、リュカの“両親”であることに、疑う余地はなかった。
「……お父さん……お母さん……?」
足が自然と動いていた。近づきたい。触れたい。確かめたい。
でも――
『どうして、迎えに来てくれなかったの……?』
その言葉に、胸を刃で貫かれたような衝撃が走る。
『俺たちは、あのとき助けを求めていたのに……』
『あなたは、来なかった』
『見捨てたんだ』
「違う……僕は……!」
そのときの記憶が、脳裏にフラッシュバックした。
まだ幼かったリュカには、何もできなかった。
両親が遠征任務に出たまま戻らず、ただ無力に待ち続けるしかなかった。
その無力感。その悔しさ。
“何もできなかった”あのときの自分が、いま目の前に立っていた。
――もうひとりの“僕”。
涙を流し、ただ立ち尽くしていた子どもの自分。
その姿が、今の自分に重なっていた。
『君には、何も守れない』
『力も、知恵も、勇気も足りない』
『君がそばにいたところで、誰も救えない』
「やめろ……」
『また、誰かを失うだけだ』
「やめてくれ……!」
リュカは頭を抱え、膝をついた。
心の奥から、あのときの恐怖が這い出してくる。
――どうせ、僕じゃ何もできない。
その声に飲み込まれかけたそのとき。
手が伸びてきた。
温かく、しっかりとした手。
リュカを強く引き戻そうとする力。
そして、耳元で聞こえた声。
「リュカ、君はもう、あの頃のままじゃない」
顔を上げると、そこにいたのは――フィオナだった。
霧の中から現れた彼女は、まるでさっきまでの自分を見ていたかのような眼差しで、リュカに手を差し伸べていた。
「君は、私を助けてくれた。
だから今度は、私が君を連れ戻す番だよ」
彼女の瞳はまっすぐだった。
魔眼はすでに封じられていた。けれどその目は、僕の奥にあるものをすべて見通すかのように、深く優しかった。
「フィオナ……」
リュカは、その手を取った。
すると――目の前の“幻”が、音もなく崩れ落ちた。
両親の姿も、幼い自分の幻影も、すべては塔が見せた影だった。
でも、確かにそこにあった感情は、嘘じゃない。
リュカは、ずっと怖かった。
誰かを失うことが。誰かの前で、無力になることが。
けれど。
「……もう、大丈夫だよ。僕は、“今”の僕を信じる」
その言葉に、霧が晴れた。
世界が、色を取り戻していく。
まるで長い夢から覚めたかのように、二人はゆっくりと立ち上がった。
周囲は静かだった。
霧も幻影も消え、そこにはただ、古びた石の床と、無音の空間が広がっている。
「……終わった、のかな」
リュカの呟きに、フィオナが静かに頷く。
「たぶん。あの霧は、私たち自身の中にある“何か”に向き合わせるためのものだった。
逃げずに見つめる覚悟がなければ、きっとあのまま、心を飲まれてた」
彼女の声は、どこか強さを帯びていた。
さっきまでの震えや迷いはもうない。
それを見て、リュカは少しだけ胸を張る。
「うん……僕も。今は、ちゃんと信じられるよ。僕自身のことも、フィオナのことも」
そして、二人が歩みを進めたその先に。
──石壁が、音もなく割れた。
無数の文様が淡く輝き、そこにひとつの“扉”が現れる。
霧とは違う、確かな現実の手触り。
そして、その奥からかすかに響く“声”のようなもの。
それは、人ではなかった。
言葉ではない。けれど、心に直接届くような、深く、重く、冷たい何か。
──継承は進む。
──さらに深くへ来い。
──その眼が真に“視る”時を待つ。
フィオナが顔を上げた。
目に、怯えはなかった。
「この塔には、まだ“誰か”がいる。きっと、それが“試して”いるんだ。
私たちが、進むべきかどうかを」
「なら……進むしかないね」
二人は視線を交わし、揃って一歩を踏み出した。
扉が開く音がした。
そして、光のない奥へと、二人の姿が溶けていった。
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