灰の塔の影
塔の影は、まだ遠い。
けれど、リュカとフィオナの胸の奥では、確かにその存在が重く沈んでいた。
二人は街のギルド本部、その地下にある資料庫で見た記憶。依頼に先立ち、塔に関する記録を調べたのだが、そこに書かれていた事実は受け入れがたいものだった。
木棚に並ぶ書物は年代も内容も雑多だったが、受付の職員が示した一角に、古ぼけた“探索記録”と書かれた革表紙の冊子があった。
「これが……塔に入った人たちの記録?」
「正確には、“戻ってきた者”の記録、ね。……少ないけど」
フィオナがページをめくる。そこには手書きの文字で、各探索者の簡単な報告や証言が残されていた。
一人目の記録には、こうあった。
『塔の中は、階段も通路も見知ったものに見えて、次の瞬間には形が変わる。確かなのは、目に頼ることができないという事実。』
『奥へ進むたびに、まるで“過去の記憶”の中に囚われていくようだった。……気づけば、自分が誰なのかも曖昧になっていた』
二人は顔を見合わせた。
「記憶を……奪う?」
「あるいは、見せるのかも。自分の記憶を、ね」
フィオナの声にかすかな震えが混じる。リュカは黙ってその隣に立ち、別の記録を読み上げた。
『塔の道はすべて閉ざされているように見えるが、一部の者は“正しい道”を見通せるらしい』
『魔眼を持つ者は、塔と“共鳴”する。道が見えるというより、道が“語りかけてくる”ような感覚……』
その一節を読み終えたとき、フィオナはページの上で手を止めた。
「……私、きっと“見える側”なんだね」
リュカが振り返ると、フィオナは本を閉じて言った。
「知ってたはずなのに……あらためて文字で見ると、なんだか、ずっと重く感じる」
「怖い?」
「……うん。だって、“自分の記憶”を見せられるって、想像以上に怖いよ。何が出てくるか分からない」
リュカは言葉を探した。
フィオナの過去。奴隷として扱われていた時間。魔眼を“呪い”だと言われ、ただ一人で生きてきた年月。
もし塔がその記憶を“試す”のだとしたら──それは、確かに恐ろしい。
そして同時に、魔眼の持つ力と、彼女の出自にまつわる“本当の記憶”が眠っている可能性もある。
どちらにせよ、避けて通れない。
*
「……これも、読んで」
フィオナが差し出したのは、やや新しめの探索報告書だった。冒険者として塔に挑み、途中で撤退した者の記録らしい。
『第3階層に入った直後、仲間の一人が“もう一人の自分”に襲われたと錯乱。視界もおかしく、前と後ろの区別がつかなくなる。』
『逃げる途中、自分の目の中に“誰かの記憶”が流れ込んできたような感覚があった』
「……目の中に、誰かの記憶」
「やっぱり、魔眼だけの現象じゃない……?」
フィオナはぽつりとつぶやいた。
資料の最後には、こう書かれていた。
『塔の最奥には“原始の魔眼”と呼ばれるものが安置されているという。実在は未確認だが、全ての魔眼の原初……という説もある』
「原始の魔眼……」
フィオナの両目に、淡く魔眼の光が宿る。だがすぐに伏せられた。
彼女はしばらく黙り込み、それからぽつりとつぶやいた。
「……見たい気もする。でも、見たくない気持ちもある」
彼女の手は、わずかに震えていた。
それを見て、リュカはそっと言った。
「無理にとは言わない。でも……僕は、君が“知りたい”って思うなら、一緒に行きたい」
その言葉にフィオナは驚いたように顔を上げ、そして小さく微笑んだ。
「……ずるいね、リュカは」
その笑みに、少しだけ決意の色が混ざっていた。
資料庫を後にした二人は、紹介された人物を訪ねるために街の東側、古びた木造の長屋へ向かっていた。
その人物──エルミナという名の女性は、かつてギルド所属の冒険者として名を馳せていたが、今は静かに隠居生活を送っているという。
「灰の塔に挑んで、生還した数少ない人物」
その一文が、フィオナの背中をわずかに強張らせていた。
***
戸を叩くと、しばらくして中からゆっくりとした足音が近づき、年老いた女性が顔を出した。
「……あら、あんたたち、見ない顔だね」
「ギルドの紹介で来ました。灰の塔について、話を伺いたくて」
そう言ってリュカが名乗ると、女性──エルミナはしばし目を細めて二人を見つめた。そしてフィオナの顔に視線を移し、少しだけ表情を変えた。
「……なるほど。あんた、“見える人”かい」
「……はい」
フィオナは静かに答える。
「まあ、上がんなさい。寒いし、座って話そうか」
***
室内は清潔で、簡素ながら手入れの行き届いた空間だった。囲炉裏のそばに腰を下ろし、二人はエルミナの語りを聞いた。
「私はもう二十年も前になるかね。塔の探索に加わったのは。三人のパーティで挑んだんだけどね……戻ってこれたのは、私だけだったよ」
「……中で、何が?」
「塔の中は、最初は静かだったよ。崩れかけの石の壁、迷路のような通路、黙ってると自分の足音しか聞こえない……でもね、進むごとにおかしくなるんだ」
エルミナの目が、過去を見つめるように細められる。
「仲間の一人が、自分の弟の幻を見たって叫んで、斧を振り回したの。……でもね、私には何も見えなかった」
「幻覚……?」
「いや、“幻視”だろうね。あれは自分の記憶や恐怖を映してくるんだよ。フィオナ、あんたもきっと見るよ。自分でも忘れてたような、心の底の何かを」
フィオナは膝の上で手を握りしめた。
「……その人たちは、どうなったんですか」
「ひとりは、自分の影と戦って……足を滑らせて落ちた。もう一人は、無言で塔の奥へ進んでいったよ。まるで、導かれるように。私は、怖くて逃げた。情けない話だけどね」
「情けなくなんて……命を守ったんです」
リュカが言うと、エルミナはかすかに微笑んだ。
「優しい子だね。……でもね、私は未だに夢に見るんだ。塔の中で、何かが呼んでる気がしてさ。“見ろ”って、“戻れ”って」
「“見ろ”……」
フィオナが小さくつぶやいた。魔眼を持つ自分に、どこか重なる言葉だった。
「塔は、ただの遺跡じゃない。あれは人を試す場所だよ。心を暴いて、選別する。あんたの中に“揺らぎ”があるなら……きっと、そこに触れてくる」
エルミナの言葉は、どこか呪いのようだった。
フィオナの肩がわずかに震えたのを、リュカは横目で捉えていた。
***
帰り道、空は茜色に染まりかけていた。夕陽が長い影を路地に落とす。
フィオナはずっと黙っていた。足取りは一定だったが、その横顔には強張りが残っていた。
「……リュカ、もし」
不意に、彼女が立ち止まった。
「もし、私が塔で……おかしくなったら。……あなたを傷つけてしまったら」
その声はかすれていた。
「私は、自分を信じきれないんだ。……この目が、何を映すのかすら分からない。自分の記憶すら、私には……」
言葉が詰まった。
リュカは、しばらく空を見上げていたが、ゆっくりと振り返った。
「フィオナ」
その名を、はっきりと呼ぶ。
「僕は君のすべてを知ってるわけじゃない。でも、一緒に旅してきた時間で分かったことがあるよ」
「……なに?」
「君は優しくて、怖がりで、誰かのために泣ける人だ。だから……もし塔の中で迷ったとしても、僕がちゃんと君を見つける」
その声は、まっすぐで、揺るぎなかった。
「それでも怖いって思うなら、それでもいい。僕も怖い。でも、“怖いからやめよう”とは、思わない」
フィオナはその場に立ち尽くしたまま、目を伏せた。
夕暮れの光が、魔眼の縁をわずかに照らす。
そして、ほんの少し──口元に、笑みのような何かが灯った。
***
宿の窓から差し込む月明かりが、部屋の中を静かに照らしていた。
ロウソクを落とし、ベッドの上で横になっていたリュカは、薄暗がりの中でわずかな衣擦れの音を聞いた。
隣のベッドから、フィオナが起き上がる気配。
「……眠れないの?」
問いかけると、しばらく間があってから返事が来た。
「うん……」
フィオナは、カーテンの隙間から夜空を見つめていた。背中越しでもわかる。何かを考えて、迷っているのだ。
リュカも体を起こし、ベッドの縁に腰を下ろした。
「……私ね、昔、“人に見せてはいけないもの”って、言われたの」
ぽつり、とフィオナが言った。
「それはこの目。だから、ずっと……目を逸らしてきた。見たらいけない、見せちゃいけないって。でも、塔は……その“見たくないもの”を見せようとしてくる」
言葉を吐き出すように続ける。
「自分の過去も、間違いも、隠してきたことも全部。……そこに行ったら、私はもう、私じゃいられなくなるかもしれない。そうなっても、ちゃんと帰ってこられるのか……それが、すごく怖いの」
その声は震えていた。無理もない。フィオナは、自分を試される場所に、今、足を踏み入れようとしている。
リュカはしばらく黙っていたが、やがて柔らかく口を開いた。
「……それでも、行くんだよね?」
フィオナは少し目を伏せ、呟く。
「リュカも怖いんでしょ?」
「うん、でも僕は怖いから、行くんだと思う」
リュカの声は低く、けれどしっかりと響いていた。
「僕も、怖いよ。塔の中で、何があるかなんて分からない。でも、それでも一緒に行きたいと思うのは──君が“そこで何を見ても”君のままでいてほしいから」
フィオナが振り向く。その表情は、戸惑いと揺らぎの中にあった。
「……私が、私じゃなくなったら?」
「僕がちゃんと“君を君として見続ける”よ」
その言葉に、フィオナは少しだけ口元を緩めた。まるで、張りつめていた糸が緩んだかのように。
そして──ぽつりと、言った。
「……ありがとう」
それは小さな声だった。でも、しっかりと届く声だった。
フィオナはもう一度窓の外を見た。月は高く、塔がある方角の空が、どこか遠くで微かに光っている気がした。
その光は、道を照らすものか。それとも──心を試すための灯か。
答えはまだ、見えない。
けれど確かに、歩き出す準備は、整いつつあった。
***
朝の空は静かに晴れていた。雲ひとつない青の下、街の北門をくぐるリュカとフィオナの姿があった。
リュカは腰の剣を確かめ、荷物を背にしっかりと結び直す。フィオナも、旅装の上から外套を羽織り、視線をまっすぐ前へ向けていた。
迷いは、もうない。
二人の前には長い街道が伸びている。道はやがて分かれ、山の麓を抜けた先に、灰の塔がそびえるという。
「……あっちだね」
フィオナが、うっすらと遠くの空を指さす。
視線の先──雲と空の境目に、かすかに“柱”のような影が浮かんでいた。空に向かって真っすぐ伸びる、黒灰色の塔の輪郭。
まだ遠い。けれど、それは確かにそこにある。
「……あれが、“灰の塔”か」
リュカがつぶやく。
フィオナはわずかに目を細め、静かに頷いた。
「……この目が、あの塔に“呼ばれている”なら。ちゃんと、見届けなくちゃいけないと思うの」
「じゃあ、行こう」
リュカは隣に立ち、そっと言った。
「君が見たことを、僕も一緒に見る。だから……一人じゃないよ」
その言葉に、フィオナの瞳がわずかに潤んだように見えた。
彼女は笑った。とても静かに、でも確かに。
「うん。……ありがとう、リュカ」
朝の光を浴びながら、二人は歩き出す。
塔の影が伸びる先へ。
過去と、真実と、選ばれた記憶が眠る場所へ──
その歩みが、試練の幕を開けることになるとも知らずに。
たった一件のブックマークで心が躍る……。
小説を書くって素晴らしい。
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