第十一章 救世の女神に重ねて祈りを捧げましょう
"「来たる日」
「聖暦741年6月17日 19:46」
「カウントダウン -23:59:59」
シャルルが目を開けると、見慣れた天井と、ゆっくりと消えていく白銀の光幕が視界に入った。
身を起こして座る。シミュレーションの中の自分はすでに1時間眠っており、精神的な疲労は依然として残っているものの、肉体的な疲れは少し和らいでいた。
彼女はキャンバス地のバッグ を手に取り、交換で手に入れた二冊のノートをその中にしまい込む。自分のノートは元の場所に置いたまま。
今回のシミュレーションは現実と1時間しか違わない。途中で起こったことをノートに記録する必要はないだろう。何しろ、ずっと寝ていただけなのだから。
新しく買った黒いマントを羽織り、ナイフと弾が3発入ったリボルバーをキャンバスバッグに隠す。
準備を整えると、シャルルはバッグを肩にかけ家を出た。振り返ってしっかりとドアに鍵をかけ、姉が働くマッチ工場へとまっすぐ向かった。
追跡者の存在などないかのように振る舞い、自分の足取りを隠そうともしない。下手に動いて相手を警戒させないためだ。
シャルルはただ、追跡者に自分の行動が「合理的」だと思わせるだけでよかった。
2ブロック ほど歩くと、姉のいるマッチ工場に着いた。この時間、工員たちはちょうど食事を終え、工場の外で三人五組になって雑談しながら、作業開始の時間を待っているところだった。
シャルルはすぐに、入り口に立つ金髪の後ろ姿に気づいた。その人物――リチィはシャルルに背を向け、目の前にいる3人の男と何か話している。身振りがやや激しく、怒っているようにも見えた。
シャルルは無意識に歩を速めたが、少し近づくと、どうやら姉が誰かにいじめられているわけではないらしいことに気づいた。
三人の屈強な男たちは、まるでひよこのように、リチィの前でうなだれ、おどおどしながら彼女の叱責を聞いている。
「一瞬目を離した隙にいなくなった、ですって? 今あの子が戻ってきたからよかったものの……」
男の一人が、リチィの後ろ、少し離れたところにいるシャルルに気づき、小声でリチィに知らせた。リチィはようやく振り返り、少し驚いた顔でシャルルを見た。
「シャルルちゃん?」リチィはシャルルを見ると、早足で駆け寄り、その手を引いてマッチ工場から離れる方へと歩き出した。「こんな臭いところに、どうして来たの?」
マッチ工場の環境は劣悪だ。シャルルは少し近づいただけでも、むせ返るような刺激臭――リンの煙の匂いを嗅ぎ取った。腐敗や腐食といったあらゆるものを連想させる、嫌な臭いだ。
「マスクをしなきゃダメって言ったでしょ?」シャルルはリチィの目をじっと見つめる。
シャルルはリチィのために、いくつか自作の布マスクを作って渡していた。大した効果がないことは分かっていたが、気休めにはなる。
リンの蒸気を長期間吸い込むと、下顎骨の壊死を引き起こしやすい。これは燐顎症 と呼ばれ、マッチ工場の労働者によく見られる職業病だ。最終的には下顎骨が重度に壊死・腐敗し、死に至る可能性もある。
この時代、これはほぼ不治の病だ。だからこそシャルルは、大学進学よりも先に仕事を見つけ、リチィをこの劣悪な労働環境から一刻も早く連れ出すことを急いでいた。
「まだ仕事始まってないから大丈夫だって」リチィはどこか気にしていない様子で肩をすくめ、にこやかにシャルルを見つめる。まるで、そんなことを全く意に介していないかのようだ。
学がないこと、そして一部の職業病に対する認識不足が、リチィにここで働くことへの危機感を抱かせずにいた。他の皆がここで働けるのだから、自分も大丈夫だろう、と。
「これから、クロックタワーの救世教会に寄っていくつもりなの」シャルルは口を開いた。
リチィに顔を見せに来たのは、一つには、リチィが何か用事で先に帰宅して自分と行き違いになるのを避けるため。もう一つは、あの追跡者に疑念を抱かせないためだ。
今まで一度も教会に行ったことのない自分が、突然教会へ? きっと何か裏があるに違いない、と勘繰られるかもしれない。
だが、もともと信者であるリチィと話してから行けば、会話を聞き取れない追跡者は勝手に事情を「補完」してくれるだろう。相手を警戒させるリスクを減らせる。
「ふーん……あ、教会に行く気になったの?」リチィは頷き、手を伸ばしてシャルルの頬をつねった。「いいじゃない。メル牧師によろしく言っといてね」と笑った。
クロックタワー横丁では、救世女神教会はまさに一強と言える存在で、労働者のほとんどが信仰する教会だった。
毎日無料の食料を配給し、休日に祈祷に行けば数ペンスの硬貨をもらえる。それに加えて、最大の理由がもう一つあった――労働者たちが毎日午後6時半に退勤してから1時間半の休憩時間を取れるようになったのは、救世女神教会が勝ち取った権利だったのだ。
クロックタワー横丁の中心にそびえ立つ巨大な時計塔は、救世女神教会が建てたもので、時計塔自体も教会の一部だ。それは毎晩6時半に鳴らされ、工場の経営者たちに労働者を休ませる時間だと告げるのだった。
リチィも当然信者であり、何度もシャルルを祈祷に連れて行っていた。だがシャルルは、数回行ってみて聖光術を使うような牧師がいないと分かると、教会への興味を失ってしまった。
何と言っても、彼女は無神論者なのだから。
リチィと別れた後、シャルルは大通りに沿って教会の方向へと歩いて行った。
道中、特に変わったことは何も起こらず、シャルルはすぐに教会の入り口にたどり着いた。
今日は木曜日で、日曜日の休日ではない。食料配給の時間もとっくに過ぎており、人影はまばらだった。質素な黒い修道服を着た老修道女が一人、入り口で埃を掃いているだけだ。
「女神があなたの苦難を取り除かれんことを」
シャルルが階段を上り、修道女のそばを通り過ぎようとした時、修道女は右手を胸に当て、シャルルに挨拶した。
シャルルは彼女に軽く頷いただけで、返事はしなかった。自分は信者ではないので、そういった祝福の言葉を口にする必要はない。
教会の中に入ると、シャルルは左右を見回した。今日の教会は、普段に増してがらんとしている。いつもなら誰かしらいる「幸運箱」 の前にも誰もいない。
幸運箱とは、日本の賽銭箱や、中国のお寺にある功徳箱のようなものだ。違いは、お金持ちは硬貨を投げ入れることもできるし、下部にあるボタンを押して中から落ちてくる数枚のペンスを受け取ることもできる点だ。お金を入れるにせよ取るにせよ、どちらも幸運を祈る象徴とされている。
シャルルは幸運箱の隣まで歩いて行き、ボタンを押して、中から落ちてきた3枚の硬貨を受け取った。心の中で「女神様のご加護を」と念じる。
[システム] 「いやいや、お嬢さん、頼み事する相手から金取るってどういう神経してんの?」
白銀のスクリーンがシャルルの目の前で明滅し、システムの文字が表示された。
「お金をもらうのも祈りよ」シャルルは心の中でそう言い返すと、少し考え、再び1ペンス硬貨を中に投入し、もう一度心で念じた。「女神様のご加護を」
二重の祈りだ。もし本当に女神がいるなら、これには感動してくれるはずだ。
教会身廊には誰もいない。普段はいつも説教壇にいるはずの牧師の姿も見えなかった。シャルルが来たのは、その牧師に用があったからだ。
外出中? それとも食事中?
あるいは、彼女の女神への祈りが聞き届けられたのかもしれない。側廊 へ通じる扉が開き、中から二人の人物が出てきた。
先頭にいるのはメル牧師だ。この慈悲深い老婦人は黒い長衣をまとい、胸には救世女神教会の楕円形の徽章をつけている。彼女は歩きながら、隣にいる人物に身を寄せ、小声で何かを話していた。
その人物は全身を黒い教袍に覆われている。だが、メル牧師の質素な黒衣とは違い、その人物の教袍の裾には複雑な白い模様が施されていた。顔には白い仮面をつけている。仮面には目と鼻を象徴するいくつかの単純な幾何学模様が描かれているが、鼻から下は空白だった。
メル牧師は、入り口の幸運箱のそばにいるシャルルに気づいたようで、微笑んで頷くと、そのまま後ろの人物を見送り続けた。
シャルルは軽く身をかわし、二人が通り過ぎるための場所を礼儀正しく空けた。しかし、後ろの仮面の人物が通り過ぎようとしたまさにその時、シャルルは彼女たちの小声の会話を耳にした。
「ユーリス大司祭 ……もしこちらで情報が……真っ先にあなたにご連絡……」
ユーリス大司祭?
あのノートにあった、上級司祭から昇進したという大司祭? 救世女神教会の超越者?
シャルルは無意識にその後ろ姿を見上げた。声をかけるべきか躊躇しているうちに、教会の前庭には、メル牧師と、入り口の石段で掃除をしていた修道女しか残っていなかった。
そしてシャルルの瞳にも、次第にわずかな戸惑いの色が浮かび始めた。
私、何しに来たんだっけ……そう……メル牧師に用事が……
いや、違う!
「【冷静思考 Lv.1】」
清涼な感覚がシャルルの脳裏を駆け巡り、瞬間、シャルルは自分が何をしようとしていたのか思い出した。
「ユ……」その名前がシャルルの口から出かかった次の瞬間、彼女は温かい手が、後ろからゆっくりと自分の首に回されるのを感じた。
「あなたはとても苦しんでいる……」
透き通るような声が、シャルルの耳元で響いた。
「でも大丈夫。女神がすべてを良くしてくださるから……」"




