牡丹華
当方、歴史に無学でありますので、違和感のある部分があるかもしれません。
ご宥恕のほどよろしくお願いいたします。
趙文暢は画夫を目指していた。
その夢の為に図画院へと入るための試験を受けた。
図画院とは、朝廷が管轄する書画工房のことである。
この時代はそういった文物が尊ばれる気風が在った。
内容は試験官の言う題に沿って、各々が思った通りに描くというものである。
文暢は、その会場の庭に植わっている梅の花を忠実に描いた。
紅白梅の咲く様は、己が題とするのに不可分が無いと思ったのである。
縦三尺、横一尺の紙に精魂を尽くして描いたそれの輪郭は絹糸のように細く、なめらかで均一であった。
色彩も実物と見紛うほどの、陽光が透けて見えそうな色合いであった。
自分が思っていた通りの、或いはそれ以上の出来である。
文暢は満足して提出すると、己はまず間違いなく受かったであろうと確信してその場を後にした。
数日の後のことである。
文暢は落第した。
その訳というものが寸評として記されていた。
曰く、志の有らざるというものだった。
その言葉の意味を考えてみると、納得はできる。
己は実物を忠実に描写することを至高として、それに忠実に描いてきた。
しかし、この頃に重く見られたのは、それとは真逆の己の思念と向き合った心情画である。
精緻であることが悪いわけではない。しかし、文暢の描く絵は物体に忠実でありすぎた。
文暢は肩を落とし、己の思念と世情との乖離に苛まれた。
北宋の徽宗、趙佶の時である。
開封には多くの文人が棲んでいる。
趙文暢はその一人であり、友に多志悍がいる。
多志悍もまた、図画院に入ることを夢見て上京し、そしてその夢は泡沫と消えた。
文暢と志悍はその経緯も画風も似ていたせいか、すぐに意気投合した。
しかし、彼我の意識というものはどこかが違った。
文暢は理屈をこねたがるが、志悍は空想者である。
文暢は唯物論者であるが、志悍は唯心論者である。
しかし、それであっても、二人の心は共鳴していた。
二人ともが画夫になろうとしていたが、それだけで銭を稼ぐのには大きな苦労があった。
それ故に、二人で開封城下に軒を借り、その牀を共にして寝た。
飢えに苦しんだ時も二人で銭を工面して、何とかその飢えをしのいだ。
文暢と志悍は誠の友である、と各々を評していた。
そういった二人が、苦労をしながらも開封という国都から離れられないのは、その地に残る己の夢の残滓というものに纏われているからかもしれなかった。
望郷の念もあるが、二人にとっては開封に残ることこそが生きがいであった。
二人は共通した師を持っていた。
程央甫という木彫りをする翁である。
この翁は観音を好み、そればかりを彫る偏向者であったが、二人の絵をよく見てはあれこれと評論をした。
その口調は時に悪罵とも謂えるようなものであったが、絵を持っていけば必ずそれを見た。
世間では安絵売りの貧乏人であった二人ではあるが、この翁の下では高尚な理想家としてふるまえたのである。
そういった二人であったが、五年ほどで家を別にした。
多志悍が妻帯したのである。
妻は李瑶と謂った。
趙文暢は同志の娶嫁を嫌味なく言祝ぎ、祝いに桃李の花を描いて贈った。銭の無い文暢にとっての、せいいっぱいの贈答品である。
志悍もまた、そのこころづくしを喜んだ。
それより数年、お互いに交友を続けていたものの、文暢にも戯画や壁装の仕事の手が回るようになって、幾月ばかり会えない日が続いた。
季節は晩冬である。雪が滾々と降り続いていた。
道は二寸ほどの深さの雪で覆いつくされている。
入り組んだ城衢を半里ほど歩きとおした。
多志悍の家についた趙文暢は、嚢の中から脩を取り出して、その戸を叩いた。
中から李瑶が出てきた。文暢は志悍の体調を訊ねた。
瑶は顰蹙した。
文暢はただならぬ気配を受けて、瑶に詰め寄った。
瑶曰く、志悍は肺腑に病を患って、その体を牀から起こすことが困難なのだという。
文暢は医者を呼んだかと訊いたが、瑶はそれどころではなかったと言った。
それを聞いた文暢は、すぐに医者のもとへと駆け込んだ。
韓徒徳という医者は、煎じた薬を志悍に飲ませると、文暢に向かって辛い顔をした。
その口から出た言葉に、文暢は動揺した。
助かるか否かは十分の一であり、本人の心気にも依るのだという。
しかし志悍は己の行く末を悲観しているのだ、と。
幾ら生きようとも、己に生きる意志がない限り、それは無駄であるとすら言った。
文暢は医者になけなしの銭を手渡してその背を見送ると、志悍の寝る牀の横に腰を下ろした。
志悍は宿痾に疲弊した身ながら、盟友の来訪を感じ取っていた。
その目は爛々として、牖の外を見遣っている。
文暢はその眼に映る風景が気になって、志悍に訊ねた。
志悍は消えかかったような声で、こう言った。
そこに九つ、牡丹の華が在るだろう。
文暢は牖の外を見た。確かに、九つの牡丹の花が紅色の花弁を咲かせている。
しかし、その言葉の意味を掴みかねた。
文暢はその真意が何なのかと思い、志悍に再び問うた。
すると志悍は、その牡丹を見つめながら言った。
あれは、私の命数だ。
文暢はその言葉を聞いた時、この志悍という男が死を望んでいるように聞こえた。
盟友が己の生を諦めかけていると思った文暢は、日暮れまで志悍を励ました。
多志悍が肺腑を患っていると聞いてから、趙文暢は多志悍の家を訪ない続けた。
日に日に病に弱り続ける志悍の瘦躯を見ながら、己の無力さというものを愧じ続ける日々でもあった。
文暢は連日、韓徒徳を呼びつけ、薬を煎じさせた。
徒徳は薬を煎じながらも、この患者に生きる意志がない限りよくはならない、と忠告をした。
妻の李瑶も薬を煎じられないとはいえ、夫たる志悍をよく看病した。
湯を沸かし、盥に注いで、そこに浸した布巾で顔に付いた垢を拭いてやっていた。
そうしてはたらいている二人の横で、ただその枕頭にいることしかできない己にやれることはないかと、文暢は思索した。
己には、志悍と過ごした日々がある。それこそ、志悍の妻である瑶よりも長い付き合いがある。
あの牡丹に感じるその志悍の志というものを、己ならば解ってやれるのではないか。
そう思った文暢は、志悍に、あの牡丹が何を表していると思うのか、訊ねてみることにした。
志悍は、趙文暢がそんなことを聞くとは、と少し笑った後に己の心の風景を話した。
曰く、あの牡丹は気の揺らぎというものを鋭敏に受け取っているのだという。
そして、その気の揺らぎは何なのかといえば、極楽浄土から来迎する阿弥陀如来の足音であり、阿弥陀如来の足音が近づいて来る度に、あの幹に付いている牡丹は一輪ずつ、その花弁を落とすのだ、と。
文暢はその理屈を聞いて、己の物質にこだわった物の見方とは違った見方に、驚いた。
驚くとともに、嘆いた。その想像力こそが、この多志悍という男を死に至らしめるのだと思うと、恨めしかった。
この男を、その絶望の淵から救えるものは無いのか、文暢は考えた。
すると、ひとつ思い当たるものがあった。
師匠である程央甫ならば、この憐れな病人の為に、為してくれることがあるはずだ。
確信した文暢は、志悍の家を後にした。
程央甫の家には多くの浮屠像が飾られている。しかし、その多くは観音の像である。
趙文暢は央甫の姿を見つけると、ひとつの頼みごとをした。
多志悍のための観音をひとつ、欲したのである。
出来合いのもので良い、粗雑なもので良い、何でも良いからひとつ譲ってくれと頼んだ。
央甫は、何故そんなに欲するのかと文暢に問うた。
文暢は、これまでの経緯を隠匿することなく話した。
多志悍の病、軒先に植わる牡丹と、それに対しての志悍の感情の機微。
文暢は己でも知らぬ間に、落涙しながら話していた。
その話を聞き終えた央甫は肩を揺らし、そして哄笑した。
何が可笑しいのか、と文暢は嚇怒した。
己の友が死の淵にいるというのに、それを嘲笑う央甫は如何なる神経をしているのか。
その疑問を持った文暢が問うでもなく、央甫は自ずと話した。
牡丹如きに己の天命を図るなどという愚者が、生きていて何になる。単なる物質に己の命数の全てを掛けることのなんと馬鹿馬鹿しいことか。思えばきさまらは物の姿を写し取るばかりで、画夫らしき気概も無いのだから、大人しくその殻に閉じこもっていれば良いものを、無駄に想像して行く先を悲観し、挙句の果てに己の感性とは程遠い神仏に縋ろうという魂胆を発言したのだ。なんとまあ浅はかであることか。
この言を聞いた文暢は思いやりの無さにさらに憤って、木彫りにしか能がない老いぼれめ、と罵倒したが、央甫は色ばむことも無く、答えた。
われの致すところは尚志である。
その言葉を放った口ぶりは高慢であった。文暢は棚に在った観音の像を一体、投げ捨てた。
央甫に、もう関わるまいと示したのである。
ひと月の後、多志悍の容体は恢復に向かいつつあった。
医者の韓徒徳は、十分の五は全快するであろうと見立てた。
この言葉に、趙文暢と李瑶は喜んだ。まだ予断を許さないとはいえ、助かる見込みができたのである。
この頃になると志悍は言葉尻もはっきりして、よく話すようになった。
志悍はしきりに言った。
最後の一輪となった牡丹が落ちずにいてくれている。だから良くなっているのだ、と。
文暢は元々そういった話を信用しない性格であったが、今回ばかりは、何か見えない力があったのだろうと、天に感謝した。
喜びを三人で表していると、徒徳が口を挟んできた。
徒徳曰く、同じように肺腑を病んだ人がまた居るのだという。その名を程央甫と謂うのだが、知らないか、と。
文暢も志悍も、その名はよく知っている。だが諍いがあった後は、会話にその名が出たことは無い。
徒徳は、その央甫という患者は、文暢と志悍の名を頻りに出しているのだと言った。
文暢は、あれ程のことをして絶交を示したのに、なぜ己の名を呼ぶのかと不思議に思った。
志悍はそのことを知らないせいか、きっと心配してくれたのだろうと無邪気な反応をしていた。
それからまた半月が経って、多志悍の病気は全快した。
趙文暢も李瑶も、大いに喜んで、ささやかながらに祝いの肴を用意した。
季節はすでに、桃の花が咲く頃合いである。
桃の花を見ようと、牖の外を見た。
その時三人は、おや、と思った。
濃い緑色の葉の中に、いまだ牡丹の花が一輪咲いているのである。
奇妙なこともあったものだと三人は外に出て、その花のもとに近寄ってみた。
どこからどう見ても牡丹の花であったが、よく見てみると、その後ろから紐が伸びている。
紐の結び目を解いてみると、牡丹の花がぽとりと落ちた。
文暢がそれを拾い上げてみると、それは精巧な木彫の牡丹華であった。
三人は愕然とした。牡丹の華を己が命数の指標としていた志悍にとっては、この牡丹の木彫を施した人物は命の恩人である。
これを施したのは誰かと考えた。
そういえば、己の周りで木彫を得意とする人間は一人しかわからぬ。
程央甫に之の元の所在を尋ねてみようと思い、文暢と志悍は央甫の家を訪ねた。
央甫の家に着くと、その戸口から韓徒徳が出てきたところであった。
徒徳は愁眉している。もしや、と思い二人は程央甫の病状を訊くと、徒徳は首を横に振った。
二人は家の中に駆け入って牀に近寄ると、生気を失った央甫が横たわっていた。
徒徳は、今しがた息を引き取ったのだと言った。
枕頭には牡丹の花が一輪、置いてあった。
読んでいただいてわかる通り、O・ヘンリーの「最後の一葉」をもとに中国風のアレンジを加えて書いてみました。
至らない部分が多いかと思いますが、楽しんでいただけましたなら幸いです。