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夏の匂いが恋しい日に・看板を出していないお店で・招待状を・少しばかり拝借しました。

 人生設計は完璧だった。スポーツに打ち込んで勉学に励み、一流企業に揉まれながら泣き言も漏らさずに毎日出社し、同僚を蹴散らすまでもなく次々に知識を吸収し、気が付いたら出世頭になっている。安定した給与、従順な妻とやんちゃな子供、マイホーム、好きな車を買うことが出来る生活を送っている。世間一般から見ても幸せな生活といえるだろう。不況や物価高にあえぐ人々の気持ちはそこまで分からない。多少妻が渋い顔をしているが、それでも買えないということはないから実害もない。マイホームでねだられて飼った犬と猫がいる。犬がしっぽを振って全力で親愛を示しながら、べろべろと顔を舐めてくるのが幸せな時間だ。子供は手を離れると、もうパパがいいだのと甘えてはこなくなる。だが犬はそのままだ。ずっと家主が誰かを分かって忠誠を誓ってくる。会社にも私に心酔してくる部下も何人かいる。やはり幸せな生活を送っているといえるだろう。だが私の心は時折どうしようもない空虚に襲われることがあった。

 まるで道を歩いていて突然マンホールが外れて落下するかのような、突然私以外に誰もいなくなる感覚に陥るのだ。家でくつろいでいるとき、大きなプロジェクトをやり遂げた後、皆周囲にいる者は幸せで仕方ないといった面もちなのに、何故か私だけが不幸である。だが私の立場は不幸ではない。だが気持ちは不幸である。その落差に苦しむことがあるが、誰にもその悩みは言えないでいた。その感覚は、日に日に増えていって、たまにこれでいいのかと悩むことがある。だが贅沢な悩みである。マイホームのローンだって残っているし、ここで転職や離職などに苦しむ必要はまったく無い。だがただ苦しい。そんな時に、私はいつも心を慰めるためにやることがあった。招待状を見ることだ。目にも派手な水引や、エンボス加工の薔薇。幸せの象徴である豪勢な招待状を見ると、何故か私の心はいつも慰められた。

 自分なりにこの心情を解析してみると、これからの門出を祝うというのは私の生活には無いフレッシュな感情に満ちあふれている。パーティへの招待も同様だ。何かめでたいことがあった時に人は招待状を発行し、それを目に付く人々に贈る。その幸せのかけらが、非日常の歓びに満ちていて、私は好きなのだ。だが人脈がいくら広くとも、私の元にそうそう招待状が届くわけではない。結婚の便りはあるものの、招待してくれるのは部下ぐらいなものだ。全社員が私を招待してくれるわけではない。だから招待状はそこまで集まらない。とはいえ、過去にもらった招待状を眺めるだけで、私はそのうきうきとした心持ちを取り戻し、明日への活力に繋げることが出来る。だが何度も眺めていると、その新鮮も失せてきてしまった。だから私は新しい招待状を求めてしまっていた。それが他人の招待状でもいいと思えている。だから手始めに、妻の元にくる招待状を一度覗かせてもらった。妻の大学時代の友人からだという紙を、妻了承の元に覗いたときの私の歓びといったら。誰の名前も分からないが、席次を眺めているだけでその場の空気が伝わってくるようで、美しく並ぶ料理や新郎新婦の晴れやかな姿を想像するとなんだか私までうれしくなってくる。まだ子供は手が掛かる時期だったが、私は妻に行っておいでと伝えてベビーシッターを手配した。妻は感謝するし、私は満足だ。子供は他人に遊んでもらえて社会性も身について一石二鳥である。だが妻の元に何枚も招待状が届くわけではない。私の方が圧倒的に招待状が届く機会は多い。だから妻のもので解消する、というわけにはいかなかった。

 今の私には招待状はあまり届かない。同業種のパーティは相変わらずあるものの、それは葉書一枚で済まされる。そのような案内ではなく、趣向を凝らしたあの招待状が私は見たいのだが、そんな悩みを誰かに打ち明けることは出来ずに、悶々としながら日々を過ごしていた。そんなある日のこと。看板を出していない鮨屋に私はいた。同業種の社長の紹介で入ることが出来る隠れた名店だ。まだ若い大将が握る鮨の味を気に入り、私はなんどか足を運んでいる。私以外には一組のカップルが来ていた。女は年若く、男は私と同等の中年に見える。彼らは仲むつまじく鮨をたしなみ、お会計というところで女がバッグから何かを取り出した。

 「これ、招待状。大将も来て」

 女のつけ爪の隙間から、あの真っ白でエンボス加工のある招待状が見えたのだ。私はそれに釘付けになった。

 「ありがとうございます」

 大将は一礼し、その招待状を受け取った。どうやら結婚式の招待状であるらしく、彼らは花嫁衣装のことだとか日取りだとかの苦労話を語っている。結婚式の招待状。それが私が見たくてたまらない憧れのそのものだ。二人はその後席を立ち、大将は手を拭くと招待状を奥の厨房に持って行こうとする。いやだ、待ってくれ。それを見せてくれ頼む頼む頼む頼む頼む頼む! 私の願いが通じたのだろうか、厨房の奥でがしゃんと何かが落ちる音がした。

 「申し訳ございません。少々席を外させていただきます」

 「ああ、いいよいいよ。気にしないで」

 私は常連であるので、大将も気を許して奥へと引っ込んでいく。私は千載一遇の機会に飛びついた。招待状を急いで手に取ると、どくどくと脳の血管が脈打つのを感じながら妙に冷静に、封を切らぬように慎重に開く。招待状の中はやはり結婚式のものだ。だが、印刷された席次の横に、手書きの女の文字が書かれている。

 「あなたを一生愛します」

 なんて背徳的な一文だろう。女が真に愛しているのは大将だったのか。あんなに仲むつまじい夫婦だと思ったのに、私もまだ人の見る目がない。私は満足し、封をきらぬように慎重に元に戻すと、何事もなかったかのように着席した。少量の日本酒を嗜んでいたが、それはやけに美味く感じる。その後戻ってきた大将に、私はつまみに何か切ってくれと頼むと彼も何事もないように承知してくれる。私は満たされていた。だがこのような招待状を見てしまうと、これからもこの趣味は終わらせそうにもない。

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