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鼻からピーナッツ

作者: オサキョン

第一編 こんなはずじゃない。


――こんなはずじゃなかった。


 5月下旬の昼休み、学年上位20名が廊下に貼り出された。そこに私の名前はなかった。


 1位は、A組の栗田さんで平均92点。2位は、C組の落合君で平均91点、3位はF組の椚君で88点。20位は、B組の林田さんで77点だった。


 私は、3週間前から必死に勉強したのにも関わらず平均は51点だった。確かに地区1番の進学校とは言え、ここまで太刀打ちできないとは。授業の予習・復習は毎日欠かさなかったし、居眠りもせず一生懸命メモを取りながら授業を受けていた。


 なぜ、私はこんなにも点数がとれなかったのだろう。この先どうしていいのか全くもって見当がつかず、目の前が真っ暗になった。空っぽの心を引きずったまま、鉛のような足取りで午後の教室へと向かった。



 5限開始のチャイムから数分遅れて入ってきた椎名先生は、私たちの方を見ることなく、黒板の端から端までを数式で黙々と埋めていく。時折、彼は何かをつぶやいているが、その言葉を拾う気力はなく、ただただ黒板に書かれた『異国の言語』をノートに書き写していた。


 不意に押し寄せる焦燥感に下っ腹が痛くなりがら、誰にも顔を見られないように髪をおろして書き続けた。決して私たちを見ない先生に、今は少しばかりの安心感を覚えつつ、時の流れの遅さにうんざりしていた。



キーン、コーン、カーン、コーン・・・



いつもよりもチャイムが大きく鳴り響いた。


「ふぅ・・・」


自然と溜息が出た。あと2時間も授業があることが、実に耐え難い。



――何もかもを投げ捨てて、教室から消えてしまいたい。



 生まれて初めて湧き上がる衝動に、どうしていいかわからず身動きがとれなくなっていた。次の授業は、化学基礎。筆記用具と教科書を持って、特別教室棟に移動しなければならない。実験をやるわけではないのに、なぜか実験室で授業を受ける。昨日まで当たり前だったこの事実が、やけに鬱陶しい。



日和ひより、次、化学室だから急がないと桑田に嫌味言われるよ。」


 高校に入学して最初に出来た友人、香織はいつも通りの爽やかさで声をかけてきた。冬の透明感と夏の明るさを共存させている彼女に強い憧れを抱きつつも、『なぜ香織は私なんかと友達になってくれたんだろう』という疑問が拭い去れずにいた。


「そうだね、急がなきゃね。桑田、遅刻に厳しいもんね。」


 なるべく普段通りになるように返事をしたが、香織の顔を見ることができなかった。二人横並びで早歩き気味に、化学室へ向かう。



「椎名って誰に向かって授業してんだろうね。生徒に理解させる気あんのかな?」


 香織は多分、私の異変に気付いている。『日和は、数学についていけていないで落ち込んでいる』と彼女に映っていることが確信できる。彼女の優しさを無視して、私は自分勝手な質問をぶつけた。


「香織は、今回の中間テスト、平均どれくらいだった?」


 私はなんて汚い人間なんだろうか。『もしかしたら、香織は私よりも平均が低いかもしれない』という期待を込めて、尋ねたのだ。少し間をおいて、香織は答えた。


「私なりに頑張ったんだけど、平均68点だったよ。やっぱり、うちの学校は甘くないよね。期末はもっと頑張んないと、置いてかれちゃうよね。」


 言葉が出なかった。歩みを止め、湧き出る涙を抑えることができず、その場にうずくまってしまった。絶望、裏切り、無力感の黒い渦に飲み込まれ、どうすることもできなかった。


「日和、どうしたの?大丈夫?」


 必死の呼びかけにも応じられない、応じたくない。


「日和、ちょっと待ってて。桑田と担任のところに行ってくる!」


 香織の足音が遠ざかっていく。その足音が聞こえなくなった頃、廊下の壁に背をつけて体育座りのまま、顔を伏せて私は小さくなった。



キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 6限開始のチャイムだ。桑田に嫌味を言われるだろうが、どうでもよかった。『そう言えば化学基礎も勉強した割に、点数取れなかったな・・・。電子のエネルギー準位なんて教科書にも問題集にも載ってないのに、なんで桑田は授業でやるんだよ。あいつのテスト、どうやっても対策立てらんないだろ。』なんてことを考えていたら、不思議と涙は止まっていた。



――香織、遅いな?どうしたんだろう?私、このままいればいいのかな?



 水泳後の脱力感のような気怠さを感じながら、廊下の天井を見上げた。



 トットットットッ・・・



 香織の足音が近づいてきた。


「日和、一緒に早退しよ!二人でちょっとさぼろうよ!」


 彼女の提案は全く予想していないものであった。



「支度して一緒に帰ろう!駅前のアウェケンにでも行こうよ!」


 アウェケンは、杉田駅前にあるAwakening of Loveというレトロな喫茶店のことで、前々からいつか一緒に行こうと話していた。杉田駅は、私たちが通う学校―木武士きぶし高校―の最寄り駅である木歩士駅から電車で10分くらいの位置にあり、そこは私と香織、それぞれの自宅からの最寄り駅でもあった。


「そうだね、アウェケン行こうか。」


「よし、パッと帰っちゃおう!」


 誰もいない教室で二人、帰り支度をして校舎を後にした。学校をさぼるのは初めてだったので罪悪感はあったが、気にするほどのものではなかった。それよりも、重たい校舎から解放された喜びの方が大きく、さっきまでの息苦しさが噓のようであった。


「アウェケンってどんなメニューあるのかな?」


 香織は笑顔で問いかける。


「ググってみよっか?」


 今度は、しっかり香織の顔を見て答えられた。


「あー、やっぱり行ってからのお楽しみにしようよ。その方がワクワクするじゃん。」


「うん、そうだね。行ってからの楽しみにしよう!」


 自然と笑顔が出た。


 そろそろ木歩士駅に着こうかという頃、けたたましいバイクの音が近づいてくる。振り返ると、真っ黒なフルフェイスのヘルメットを被ったライダーが、ミニバイクで近付いてくる。あっという間に私たちの横を通り過ぎ、少し先の公園に止まった。


 ライダーは公園の茂みにミニバイクを隠し、何かごそごそしている。ヘルメットを脱いだライダーが私たちの方に向かって歩いてくる。


 髪は短髪の茶髪で、イワトビペンギンのようにツンツンしている。外国人女性のモノクロ写真がプリントされた白いTシャツに、黒いダボダボのズボンを履いている。



――若いな、高校生?もしかして、あれがヤンキー?



 木歩士駅周辺にある高校は、木歩士高校だけ。超進学校である木歩士高校にヤンキーがいる訳がない。



――そっか、どっかの高校のヤンキーがさぼって帰宅したんだな。悩みがなさそうでいいな・・・



 とりあえず勝手な妄想で私は納得した。かったるそうに歩く彼との距離が近づいてくる。



「あれ?おーい、落合!今頃、登校かよ!」


 香織が叫んだ。


――えっ、知り合い?


 状況が飲み込めない。登校って、どこへ?


「今日、思いっきり寝坊しちゃったんだよ。とりあえず7限だけ受けに来た。原チャ、チクんなよ。」


――イワトビがしゃべった。えっ、イワトビは木歩士生?


「チクんないよ。うちらは今日さぼり。じゃあね~」


 香織はイワトビに手を振った。


「彼、知り合い?」


「うん、C組の落合だよ。小中高ってずっと一緒。腐れ縁だね。」


「へぇ~、10年間一緒ってすごいね」



――ん?C組の落合?あれ、どこかで聞いたぞ。・・・あっ、思い出した!


「C組の落合って、学年2位の!?」


 今日一の大声で、叫んだ。


「う、うん。そうだよ。あいつ、ああ見えて頭良いんだよね。」


――なんで、バイク乗っている下品なイワトビが平均91点も取れるの?


 私はまたしても、虚無感に襲われた。校則も守れない、ヤンキーイワトビが学年2位でいいはずがない。流石にその現実は受け入れることはできない。香織に負けるのは仕方ない。私とは元々の出来が違うのだ。



 しかし、イワトビは別だ。


――高校入って2カ月も経っていないのに、すでに校則違反の権化だ。授業だってきちんと受けているはずがない。いい点数とったのも、カンニングもしくはテスト問題を事前に盗み見たに違いない。


 私は、とりあえず心の中でケリをつけて平常を取り戻した。その後は、香織とたわいもない話をしながら、アウェケンに向かった。昭和の雰囲気が漂うアウェケンは、クラシック音楽がゆったりと流れ、コーヒーの香りに包まれていた。


 私たちは紅茶とかぼちゃケーキを食べながら、木歩士高校の悪口に花を咲かせた。



 17時半頃、私たちはアウェケンを出てそれぞれの帰路に着いた。薄暗くなった帰り道を歩きながら、今日の出来事を思い出していた。短い時間の中で、色々な感情がうごめいて、なんだか整理がつかなくなってしまい、考えるのが面倒くさくなってしまった。


ただ、一つどうしても拭い去れない思いがある。イワトビだ。


――ヤンキーイワトビは、どうやって平均91点を叩き出したのか?


 イワトビはC組、私はH組。彼はバイク通学だし、私は電車。どうやっても接点はない。


――香織と一緒にいれば、自然と話せるようになるかな?


 そう言えば、イワトビは部活に入っているのだろうか?バイクに乗っているくらいだから、アルバイトもしているかもしれない。そう言えば、昼休みに購買行くなら、C組の前通れるな。久々に購買もいいかも。


「ただいま~、お母さん、明日お弁当いらないや。購買で友達とパン買うことにした。」


――あれ?こんなはずじゃなかったのに・・・









第二編 人は見かけによらない。


――人は見かけによらない。


 大人は常に自分にとって都合の良い方向に物事を運ぶ。


 「人は中身が大切だ」と1年間言い続けた中学校の『熱血』担任は、俺が木歩士高校に合格すると、「たまたま受かったからっていい気になるな」と中学最後の日に耳元で捨て台詞を吐いた。


 母親は、俺が木歩士高校に合格したことを親戚中に自慢しているが、合格した俺に祝福の言葉はなかった。


 木歩士高校に入学して間もなく誕生日を迎えた。俺は、直ちに原付の免許を取り、先輩からHONDAのNSR50―通称、Nチビ―という小さな原付を安く譲ってもらった。


 初めてNチビに乗った日のことは鮮明に覚えている。今までは誰かに連れて行ってもらうしかなかった遠くの地へ自分の力で行ける。


 NSR50という無機質は、今まで出会った誰よりも、俺に自由をもたらしてくれた。



 木歩士高校の校風も俺には合っていた。髪を茶髪にしても特にうるさく言われることはないし、Tシャツで登校してもOKだ。


 流石に原付がバレると停学になるらしいが、これで直接高校に行く訳ではないし、大丈夫だろう。中学と違って、高校の授業は面白い。物事の見方や考え方、異国の風習、過去の文化について先生方は熱く語ってくれる。


 授業に出るだけで、俺は遠くのアフリカにも行けるし、見ることのできない電子の挙動までも身近に感じることができる。木歩士高校は、俺に時空間を超える自由をもたらしてくれた。


  

 しかし、本当に今日は失敗した。昨日の化学基礎で出てきたフラーレンについて調べていたら、いつの間にか朝になっていた。シャワーを浴びた後、ベッドの上で少し休憩したら寝てしまい、目覚めたら昼を過ぎていた。


――しまった、寝過ごした。6個も授業を無駄にした。やっぱり徹夜はダメだ。今からでも、7限は間に合うし、急いで行くか。


 7限は椎名先生の数学。確か、確率の続きのはず。桑田先生が「電子の挙動は、確率で表す」と言っていたし、確率はしっかり受けておきたい。


 ただ、杉田駅から電車に乗って向かったんじゃ間に合わないな。Nチビで木歩士駅近くまで行くか。


 さっと支度を済ませ、Nチビのエンジンをかけた。甲高い排気音と、ガスの匂いがたまらない。渋滞している国道をすり抜け、裏道を通って駅近くの公園に向かった。



――あれ?女子二人が早退してる。サボりか?


 木歩士高校にもサボる奴がいるのは驚いた。なんて勿体ないことをするんだろう。まぁ、俺には関係ないが。とりあえず、公園の物陰にでもNチビは隠しておけば大丈夫だろう。



――ん?あれ、早退してんの香織じゃねえか。


「あれ?おーい、落合!今頃、登校かよ!」


――うるせぇな、大声出すなよ。ヤバい、Nチビ見られたな・・・


「今日、思いっきり寝坊しちゃったんだよ。とりあえず7限だけ受けに来た。原チャ、チクんなよ。」


 香織はガサツだけどチクるような奴じゃない。隣の女は誰だ?見たことないけど、大人しそうだし大丈夫だろう。香織はわかるけど、あんな真面目そうな子でもサボるんだな。やっぱり人は見かけによらない。


 教室に着くと、クラスメイトの根本が走り寄ってきた。


夏生なつき、お前すげーじゃん!学年2位だぜ!」


「あぁ、そうなの?まぁ、まぐれだよ。」


 正直、順位はどうでもよかった。それよりも、椎名先生の授業に間に合ってほっとした。


キーン、コーン、カーン、コーン・・・


 授業開始のチャイムから少し遅れて、先生は入ってきた。早速、黒板に黙々と数式を連ねる。この静けさとチョークの音が心地よい。実に美しく式が展開されていく。


 俺は、先生の一行先をノートに展開する。そして、チョークの音が途切れた一瞬、黒板に目をやり、自分の展開と先生の展開が一致しているかを確かめる。俺と先生は、50分間ずっとこのように会話しているのだ。



キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 瞬く間に対話は終わってしまった。木歩士高校の授業は退屈しない。帰りのホームルームが始まると、担任が教壇から声をかけてきた。


「おー、落合、今日はどうした?寝坊か?」


コクッと頷くと、


「学年2位だってな。お前、すごいな。期末も頑張れよ。」


皆の前で言われた。


 クラスメイトたちは、歓声と共に拍手を送ってくれた。照れ臭かったが、悪い気はしなかった。今日は数学しか授業受けられなかったけど、何となく良い日だった。あとは、Nチビでちょっと寄り道してから家に帰るか。


・・・ん?・・・待てよ・・・



――しまった!皆一斉に下校するから、Nチビ取りに行ったらバレるじゃん・・・



 迂闊だ。ほとんどの生徒が木歩士駅に向かうのに、なぜ俺は駅前の公園にNチビを隠したのだろうか。仕方ない、暗くなるまで杉田駅周辺で時間潰すか。


 いつも通り根本と一緒に木歩士駅に向かった。途中、横目でNチビが無事なことを確認し、根本とは改札口で別れた。


 5分ほどホームで待つと、電車が到着した。


 電車の中は木歩士生で溢れているが、皆それぞれ自分のことをやっている。流れる景色を眺めていると、日々少しずつ変化していることに気付く。葉の色が濃くなり、水田も徐々に緑色に染まっている。Nチビで走り抜けるのもいいが、電車に身を委ねるのもそれはそれで良い。


 杉田駅に到着すると、パチンコ屋の駐車場に向かった。セブンスターを1本取り出し、火をつけてゆっくりと煙を吸い込んだ。


――ふぅ・・・、今日は色々と失敗だったな・・・


 タバコを吸いながら反省した。実にミスの多い1日だった。


――アウェケンにでも行くか・・・


 アウェケンは、高校生がいないから落ち着いて本が読める素晴らしい喫茶店だ。注文するのは、決まってアウェケンオリジナルブレンド。いつかはマンデリンやグァテマラも飲んでみたい。


 なるべくスマートにアウェケンの入り口を開けようとした瞬間、とんでもないものが目に入った。



――香織じゃねーか!なんで、ここにいんだよ!さっきいた真面目サボり女も一緒だ・・・


 俺は静かに後ずさりして、アウェケンの扉をそっと閉めた。


 仕方なく駅ビルに行き、書店で平積みの本を立ち読みして時間をつぶした。18時を回って辺りが暗くなった頃、公園に隠したNチビのもとへ向かった。


――良かった、無事だ。もう、こいつで登校するのは止めておこう。


 Nチビに跨り、俺は帰路についた。夜、風を切ってバイクを走らせるのは気持ちがいい。自由を手に入れていることを肌で実感できる、俺だけの世界だ。


「ただいま。」


「おかえり、夕飯どうするの?自分で作るの?」


母親は弟と夕食を食べながら、俺に背を向けたまま聞いてきた。


「適当に自分でやるよ。」


 母親と弟の夕食が終わるのを自室で待ってから台所へ行き、卵かけ御飯を作って食べた。早くこの家から抜け出して、自分で生きていきたい。風呂と歯磨きを済ませ、早目に床についた。


――真面目女はなんでサボったんだろう?香織にそそのかされたのかな?可哀相に・・・


 そんなことを考えているうちに、俺は深い眠りに落ちていった。


 リリリリリリリ・・・


――朝か、今日はよく寝られたな・・・


 朝6時に起きて、納豆御飯を食べて身支度を終え、6時半には家を出た。Nチビのエンジンをかけ、十分アイドリングした後、杉田駅に向かった。


 朝は車も少なく、ひんやりした空気が心地よい。20分程で杉田駅の駐輪場に到着した。改札を抜けホームで電車を待った。木歩士生の姿はほとんどない。


 最近、気になっていることがある。先日、英語の授業で、黒人差別の話が出てきた。先生は、「表面上、差別はない。しかし、実際は続いている。」と言っていた。


 俺は、差別を目の当たりにしたことがない。差別する側の気持ちもされる側のことも正直よくわからない。人種や出身、信条等を理由に、公然と不利益を被る人々が世界中にいて、未だに解決されないのはなぜなんだろう。


 中学の担任が、俺を蔑んだ目で見ていたのは差別なのだろうか。あいつはどんな気持ちで、俺に「いい気になるな」と耳打ちしたのだろう。



 そんなことを考えているうちに、木歩士駅に着いた。


 俺は、中学の授業が嫌いだった。教科書を読めばわかることを、何時間もかけてわかりにくく説明する教員にいつも怒りを覚えていた。校則も納得いかなかった。ジェルで髪を固めて登校した際、生徒指導に捕まり、流しに頭を押し付けられて無理矢理洗われたことは屈辱だった。今、思い出してもどす黒い感情でいっぱいになる。


 ただ、英語の先生の一言で、「もしかしたら中学の教員らを差別していたのは、俺の方だったかもしれない」と気付いた。


 昇降口に着くと、まっすぐ図書室へと向かった。


 うちの学校の図書室は、鍵が開いたままだ。


 差別について考えるようになってから、アメリカの南北戦争に興味がわいた。黒人差別、奴隷制度、戦争といった醜態の結晶を知ることは、自分の疑問を解決するきっかけになるのではないかと期待していた。


 資料を探すうちに、『若草物語』という小説の存在やそれが『愛の若草物語』としてアニメになって放映されていたことを知った。当時のアニメは、現在ネットに上がっているので、それを見てみることにした。



 キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 ホームルーム5分前のチャイムが鳴った。


 渋々、教室に向かうと、廊下は生徒たちでごった返していた。自分のペースで歩けず、実に鬱陶しい。


 ただ、今日もまた新しい気付きがあるかと思うと、授業への期待に胸が膨らむ。1限は古文。古い慣習を知り、現在とのギャップや共通点を探るのが面白い。古文の小森先生は、一人劇をしながら話を進めるので、当時の風景を想像しやすく、俺は我を忘れて没入することができる。



 キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 午前中の授業が終わった。どれも充実したものだった。やはり、椎名先生の数学は特別感がある。


「ふぅ・・・疲れた・・・。」


 自然と声が漏れた。50分ごとに頭を切り替えるのは、ひどく疲れる。どうせなら、まとめて100分やってほしい。



 昼休みになった瞬間、根本が走って近づいてきた。


「夏生、購買行こうぜ。今日はどこで食べる?」


「そうだな、学校裏の神社でも行かね?」


「いいね、あそこならバレないよな。」



 根本もタバコを吸うので、昼休みは毎回一緒に学校を抜け出して一服している。根本と二人、昇降口横にある購買に向かった。


「夏生は何食べんの?」


「フィッシュバーガーにしようかな。根本は?」


「俺は焼きそばパンとコロッケパン、あとはコーヒー牛乳だな。」


「お前、それ炭水化物ばっかだぞ。ちっとは体大事にしろよ。」


「セブンスター吸ってるお前に言われたくねぇよ。炭水化物と油は、幸福の欠片なんだよ。これ真理な。」


 易々と真理に辿り着けるセンス、刹那的幸福の追求、素早い切り返しを兼ね備えたこいつが俺は大好きだ。生活習慣病にいつ罹ってもおかしくない彼の体形も愛おしい。昇降口横の購買は長蛇の列。購買のおばちゃんは、恐るべき暗算速度と記憶力で着々と売りさばいていく。



――あれ?前にいるの、真面目サボり女じゃね?今日は、香織と一緒じゃないんだな・・・



 真面目サボり女は何を買うのだろう?予想は、ラスクか蒸しパン、チョコチップメロンパンだ。いや待てよ、華奢な真面目サボり女がメロンパンのようなカロリー爆弾を食べているはずがない。ラスクはポロポロとカスが落ちるし、きっと蒸しパンだな。あれなら、あいつにぴったりだ。おっ、真面目サボり女が買うぞ。



――な、なにぃ~?ベ、ベーコンエピ・・・



 あの固くて長いパンを、子ウサギのような真面目サボり女が食べるのか。


「夏生、お前何見とれてんだよ。」


「うるせーな、見とれてねぇよ。フィッシュバーガーがまだ残っているか見てただけだって。」



――華奢な真面目サボり女でも、ベーコンエピを食べるんだな。やっぱり、人は見かけによらない。









第三編 教えてよ。


――私に、誰か教えてよ。


 下品なヤンキーイワトビが学年2位で、先生や両親の言うことを聞いて真面目にやってきた私が51点。どう考えても納得がいかない。香織が気分転換に連れ出してくれたけど、一人になるとやっぱり怖い。


 これからどうすればいいんだろう。今までと同じように勉強しても、きっと期末も上手くいかない。でも、他のやり方も思いつかないし、やり方を変えてもっと点数が悪くなったら、多分立ち直れない。



――眠れないよ・・・。



 明日からどうやって授業受ければいいんだろう。


 お父さんもお母さんも木歩士高校に受かったときは、心から喜んでくれたし、いつも私のことを応援してくれている。大学も旧帝大や難関私立に入ってほしいんだろうな。私が勉強についていけてないって知ったら、二人とも悲しむだろうな。



 結局、一睡もできなかった。空が薄明るくなった頃、眠るのを諦めて支度を始めた。


「おはよう。あら、今日はずいぶん早いのね。」


「うん、ちょっと早目に行って勉強しようと思って。」


 私はお母さんにまた嘘をついた。どんどん汚い自分になっていく。木歩士高校じゃなく、もう少し下の高校に行っていれば違ったのかもしれない。お母さんが用意してくれた焼き鮭とみそ汁の朝食は、あまり味がしなかった。


「行ってくるね。」


「日和、少し元気ないんじゃない?大丈夫?」


「うん、大丈夫。じゃあ、行ってきます。」


――全然、大丈夫じゃない。


 また、嘘を重ねた。これからもずっとお母さんに嘘をついていくのだろうか。7時頃、杉田駅に着いた。歩いている間、ほとんど無心だった。改札を抜け、ホームで電車を待った。辺りを見渡しても木歩士生はほとんどいな・・・


――い、いた!ヤンキーイワトビ。あいつ、電車通学だったのか!


 私はキヨスクの裏に隠れ、イワトビに見つからないよう電車を待った。


――あいつ、なんでこんな早く学校行くんだろう?研究室にでも忍び込んで、テストを盗むのか?


 よし、あいつの悪事を見つけて、いかに真面目に生きることが大切か教えてやる。私は、イワトビに見つからないように隣の車両に乗った。


――イワトビ、座らないでずっと外を眺めてる。席、空いているのに…


 私は座席の端に座り、何となく英語の教科書を開いた。そこには調べた英単語の意味と先生の説明がびっしりメモしてある。


――私、こんなに頑張ったのに、全然点数とれなかった…


 中学校の定期テストは、ノートをきれいにとって教科書を覚え、配られた問題集を繰り返し解けば高得点をとれた。


 でも、木歩士高校では通じなかった。特に数学と英語は悲惨だった。数学のテストは、開始10分で解ける問題はなくなったし、英語のテストは半分くらい解き終わらなかった。期末テストまでの一カ月どうすればいいんだろう。


 木歩士駅まではすぐだった。


 イワトビに気付かれないように、ひっそりと後をつける。あいつは当たり前のように制服を着てない。今日のTシャツは、鮮やかな紫色。よく恥ずかしげもなく着てこれるな。そもそも、イワトビを注意しない高校の先生もダメだ。だから、あのツンツン頭が調子に乗るんだ。


――やばっ、昇降口だ。隠れなきゃ!


 危ない、危ない。あいつに気付かれたら、せっかくの尾行が台無しになるところだった。イワトビが靴を履き替えて姿を消したのを確認してから、昇降口に入ろう。


――よし、行った。後を追わなきゃ!


 急いで上履きに履き替え、イワトビの後をついて行く。やっぱり、あいつ研究室に忍び込む気だ。研究室のある管理棟へ向かっていくぞ。どんどん階段を上っていく。1階と2階を過ぎたってことは、理科関係の研究室じゃないんだな。忍び込むのは数学か社会、国語、英語のどれかだな。あっ、3階で曲がった。社会の研究室に入る気だな。


――あれ?あいつ、図書室に入った。こんな時間から図書室開いてるのか、知らなかった…。


 でも、これで図書室の中までついて行ったら、尾行してたことがバレちゃう。入り口から様子を見ることにしようっと。


――なんか一生懸命、本を探している…あいつ、自分で勉強してるんだ…。


 私、イワトビのことを見た目だけで勝手に判断して、悪い奴・ズルい奴だって決めつけてた。


 よくよく考えてみれば、昨日7限だけ授業受けに来るって真面目だよね。香織に点数を聞いたことといい、お母さんに嘘をついたことといい、イワトビを悪い奴って決めつけてたことといい、私、全然良い子じゃない。


 点数がとれないからって、勝手に卑屈になって周りのせいにして、一番ズルかったな。教室で勉強しよう…。


 誰もいない教室に入り、もう一度英語の教科書を開いた。


 ロッカーから中間テストを引っ張り出してきて、一問一問丁寧に振り返ってみることにした。


 教科書にびっしり単語の意味が書かれているけど、これって本当に必要だったのかな。和訳しなきゃいけない問題なんて数問しか出てないじゃん。もっと、音読すれば良かったかもしれない。



 8時を過ぎた頃、少しずつクラスメイトが登校してきた。


「日和、おはよう。今日、早いね。」


「おはよう、ちょっと勉強しないと期末ヤバいなと思って。」


「わかる、わかる。私、平均48点でかなり焦ったもん。結構、勉強したのになぁ。」


「えっ、そうなの?私も思ったより点数とれなくて、めっちゃ落ち込んでたんだ。」


 私だけじゃないんだ、落ち込んでるの。ちょっと安心。皆、余裕で高得点取ってると思ってた。よし、気分を切り替えて、また今日から頑張ろう。



「日和、おはよう。今日は大丈夫?」


 香織が声をかけてくれた。


「うん、もう大丈夫。昨日はありがとうね。お陰で元気出たよ。」


「良かったよ、本当に心配したんだよ。でも、たまにはサボるのもいいね♪」


「そうだね、期末も点数悪かったらサボるしかないね。」


 自然と笑顔で返事ができた。きっと香織は、私じゃない誰かが落ち込んでいても、優しく声をかけたに違いない。私にはない、優しさと余裕だ。私は彼女のそこに憧れ、勝手に嫉妬し、彼女の時間を不本意にも奪ってしまった。私が自律しない限り、香織の友人にはなれないかもしれない。



 キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 朝のホームルーム5分前のチャイムが鳴った。既に担任は教室にいて、連絡事項を黒板に書いている。



 キーン、コーン、カーン、コーン・・・



 朝のホームルームが始まった。


「おい、花井、体調大丈夫か?」


 担任が教壇の上から皆の前で声をかけた。このデリカシーの無さは大人とは思えない。だから、いい歳して独身なんだ。


「はい、大丈夫です。」


「おお、良かったな。朝比奈はどうだ?」


 今度は香織に声をかけた。


「先生、そういうのは大声で聞かないでくださいよ。色々あるんですよ。」


「悪い、悪い。まぁ、大丈夫そうだな。」


 流石、香織。サラッと指摘する。そして担任は何もわかってない。きっと、あいつはまた同じように無神経に振る舞うに違いない。これからもきっと独身のままだ。さぁ、午前中の授業は集中して頑張るぞ。期末は絶対に失敗できないしな。


 キーン、コーン、カーン、コーン・・・


――最悪だ・・・、4時間ぐっすり寝てしまった・・・。


 徹夜明けに椎名の数学はキツ過ぎる。一定のリズムで刻まれるチョークの音は、まるで催眠術のように深い眠りへと誘ってくれた。そもそも、椎名は生徒の方を見ない。普通、生徒が寝ていたら起こすもんじゃないのか。木歩士高校の先生はやる気あるのか?


――あっ、そうだ!今日は、購買行かなきゃ!


 財布を握りしめ、急いで購買に向かった。ちょっと遠回りをしてC組の前を通ってイワトビを探した。なんか男友達とイチャイチャしてる。


 イワトビとは結局、一言も言葉を交わしてないけど、あいつのお陰でちょっとだけ変われた気もする。でも、やっぱり校則違反は許せない。絶対、もっと悪いことしてるに決まってる。


 購買は既に長蛇の列だ。何買おうかな…。メロンパンは無駄に大きいんだよな。半分くらいで飽きちゃうし。ラスクは美味しいけど、カスが落ちるのが嫌だな。惣菜パン系は、炭水化物オン炭水化物だから無し。蒸しパン一択。



「お嬢ちゃん、何にするの?」


――あっ、もう私の番だ…、ええっと…それ…


 咄嗟に言葉が出なかったので、無言のまま指差した。


「これね、220円。」


――おばちゃん、それ違う。私が指差したのは、その奥の蒸しパン…


「ん、どうしたの?混んでるから、パッと出して。」


「あっ、はい。」


 よくわからないクネクネしたパンに220円も払ってしまった。なんだこれ?カチコチだ。ベーコンエピ?初めて見た。


 はぁ、最悪だ…。どうしよう、美味しいのかな、これ。どこで食べようかな…、教室は何か嫌だな。一人になれるところないかな。


 私は昇降口で下履きに履き替えて、校舎裏の見晴らしのいい高台へ上った。


――なんか、ここいいな。誰もいないし、風も気持ちいい。あんなところに神社があるんだ。知らなかった。


 不本意に購入してしまったベーコンエピにかぶりついてみた。


――硬っ…


 やはり、カチコチだ。でも意外と美味しい。顎は疲れるし、口の中の水分持っていかれるけど、悪くない。…ん?あれ、イワトビじゃん…、神社で何してんだろう?


――あっー!!あいつ、タバコ吸ってる!!やっぱり悪い奴じゃん!隣の太っちょも吸ってる!



 イワトビは何なんだ。朝早く来て図書館で勉強してるかと思えば、バイクに乗るわタバコ吸うわ、制服無視するわ。でも、成績は学年2位。私は真面目に勉強してるのに、あいつに全く及ばない。隣の太っちょと楽しそうにお昼食べてるし、何かムカつく。


――イワトビはいいな、きっと香織と一緒で何でも器用にこなすんだろうな。それに比べ、私はパンを買うのも上手くいかない。このまま帰りたい。


 いやいやいや、それはダメだ。さっき、期末に向けて頑張るって決めたばかりじゃないか。午前中の授業はたっぷり寝てしまったし、午後の3時間くらいは頑張らねば!


 キーン、コーン、カーン、コーン・・・


――マジ最悪だ・・・、午後も3時間ぐっすり寝てしまった・・・。



「日和、どうしたの?今日、ずっと寝てたね。」


 香織はやはり優しい。でも、これ以上心配はかけられない。大切な友人なんだ。


「うん、今日は寝る日だったみたい。朝の占いでもそう言ってたし。」


「…日和、大丈夫?」


――あぁ、本当に私はダメダメだ。何を言っているんだろう。



「ごめん、ごめん。寝ぼけてたみたい。大丈夫、大丈夫。」


 帰りのホームルームが終わり、木歩士駅へ一人で向かった。香織は、今日は部活に出るそう。昨日も、もしかして部活あったのかな?あー、もう嫌だ。何もかも上手くいかない。私は淡々と前に出る自分の足だけを見ながら、改札を抜けてホームへ向かった。



 ドンッ


――しまった、ぶつかっちゃった。



「ご、ごめんなさい。前見てなくて。」


「あぁ、大丈夫か。流石にホームで前見ないのは危ねぇぞ。」



――あっ、イワトビだ。謝って損した。


「C組の落合君だよね、香織の友達の…」


「友達って言うか、香織とは腐れ縁だな。お前、昨日サボってただろう。サボんの良くないぞ。」



――はぁあああ、タバコ吸ってバイク乗って、制服無視してる奴に言われたくないんですけど!



 ガタン、ガタン・・・電車が来た。



「おー、じゃあな、ちゃんと前見ろよ。授業もちゃんと出ろよ。」


――だから、お前に言われたくないって!



「ちょっと待って!」


 私はイワトビの後をついて電車に飛び乗った。



「な、何だよ。大きい声出すなよ。」


「私、見たよ。」


「何を?」


「昼休み、神社でタバ…」


「バカッ!ちょっ、シッー!!」


――イワトビに手で口を押えられた。私に触るな、タバコ臭い!



「落ち着け、落ち着け。どうした、どうした。話聞くから、声は小さくな、な。」


「昼休み、タバコ吸ってるの見えたよ。校舎の裏から丸見えだよ。」



「マジか…、あそこならバレないと思ったんだけどな。でも、お前なんで校舎裏なんかいたの?」


「何となく…、別にいいじゃん。」



「ふーん、ベーコンエピそんな所で食ってたのか。」


「ちょっと!何でそんなこと知ってんのよ!」


「だから声でかいって!」


――イワトビにまた口を押えられた。触るな、触るな!



「なんで、私がベーコンエピ買ったこと知ってんのよ、変態。」


「たまたま、お前の後ろに並んでただけだよ。そう簡単に変態呼ばわりすんな。」



「ねぇ、なんで成績いいの?どうやって勉強してんの?」


「ちゃんと授業聞いてるだけだよ。」



「私だってちゃんと聞いてるわよ!でも、全然ダメなの…、どうしても点数がとれないの…」


 思わず大声で叫んでしまった。乗客たちの視線が集まったのがよくわかる。でも、どうしても涙が溢れ出て止まらない。


「泣くなよ、ちょっと待てって。落ち着け、落ち着けってマジで…。」


――イワトビが私の肩に手をかけてオロオロしてる。だから触るなってば…



「もう、どうしていいかわかんない…」


 涙は止まらないし、次に何を話せばいいかわからない。



「だから泣くなよ。困ったな…」


「ねぇ、勉強教えてよ。」


「はぁ?なんで俺が?自分でやれよ。」


――こいつ、イワトビじゃない。鬼だ。人が困っているのに、簡単に見捨てる。



「いいじゃん、朝早く図書室いるんだから、少しくらい勉強教えてよ。」


「お、お前、何でそんなこと知ってんだよ!」


「うっ、うるさい!バイク…」


「バカッ!ちょっ、シッー!!」


――イワトビに口を押えられた。3回目だ、噛んでやる!


「痛たたたっ、噛むなって!!」


「勉強、教えてよ。こんなに頼んでんじゃん。」


「わかったよ、でも朝だけな。図書室来たら教えてやるよ。でも、点数上がるかは知らねぇよ。」



「点数上がんなかったら、先生に色々バラしてやる。」


「マジ最悪だ…、お前多分、結婚できないぞ。」


――マジでデリカシーない。木歩士高校の教師も生徒も男は全員そうなのか?


「約束したからね、明日からしっかり勉強教えてよね。」








第四編 マジ、最悪だ。


――マジで、最悪だ。


 杉田駅の改札を出て、いつも通りパチンコ屋の駐車場に向かった。タバコに火をつけて、ゆっくり煙を吸い込んだ。


――ふぅ、碌なことがないな、最近…。


 真面目サボり女に出会ったことで、勉強を教える羽目になった。


 しかも、タバコとNチビをネタに脅されてだ。


 自由であることが何よりも大切なのに、この現状はキツい。後ろめたさを抱えたままの『自由』は、本当の自由とは程遠いものなのかもしれない。


 それにしても朝の貴重な時間をあいつに奪われるのは、癪だな。サッサと点数を上げて、束縛から解放されるしかない。そもそも、あいつ点数悪いみたいだし、授業サボるし、脅すし、噛むし、全然真面目じゃないじゃん。


 何か別の名前を考えよう。ん?そう言えば、あいつの名前知らないな。


 一服を終えると駐輪場に向かい、Nチビに跨った。


 今日は、時間もあるからちょっとツーリングしよう。


 駅前の通りを抜け、河川沿いの広い農道を駆け抜けていく。対向車も前方の車もなく、俺一人だけの時間。家に帰ったら、牢獄のような息苦しさの中に体を埋めなきゃいけない。


 それまでの大事な時間、明るかった空が段々と赤く紫色になり、暗くなるまでの短いほんの一時、ここだけは誰にも邪魔されたくない。ヘルメットの中の自分こそが本当の自分だ。


 河川敷に降りられる細い道を下り、エンジンを切った。


 川辺の大きめの岩に腰を掛け、タバコに火をつけた。深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐く。


 川の流れは、同じ姿を二度と見せない。風もそうだ。同じ風は二度と吹かない。俺の毎日もそう、俺の意思とは無関係に時間は過ぎていくし、みんなの必然が重なり合って、偶然が生まれる。


 今日、あいつに駅で出会ったのは偶然だけど、あいつはあいつの時間で必然的に行動していて、俺も俺の時間で行動していて、それが重なっただけ。タバコで脅されたのも、勉強教える羽目になったのもなるべくしてなったのかもしれない。



――暗くなったし、家に帰るか。



「ただいま。」



 返事がない。リビングに行くと、一切れのメモと1000円札がテーブルにあった。


「みんなで夕飯食べてくるから、これで適当に食べておいてね。母より」


 まぁ、俺がいても空気が悪くなるだけだし、家族がいない方が俺ものんびりできる。夕飯は家にあるもので適当に済ませて、この1000円はありがたくいただいておこう。


 そう言えば、あいつ勉強教えてほしいって言ってたけど、何を教えてほしいんだ?苦手教科とか得意教科とか俺知らないぞ。



――香織に、ちとLINEで聞いてみるか。


「聞きたいことあるんだけどいい?」


「なに?」


 おっ、レスが早い。



「昨日、お前と一緒にサボってた奴いるじゃん。あいつ、名前何ていうの?」


「えっ、なに落合。気になってんの?」


「そうじゃねぇよ、色々あって勉強教えることになったんだけど、名前知らないから知っておこうと思っただけ。」


「なに色々って?」


「色々は色々だよ。で、あいつの名前は?」


「いや~、それは人に物をきく態度じゃないな~落合くん」


「あいつ勉強で悩んでるみたいで電車の中でいきなり泣かれたんだよ。それで話しているうちに俺が勉強教えることになったんだよ。で、あいつの名前は?」


「そうなんだ。勉強って何の?(笑)」



――最低だ、こいつ。きっとこいつも結婚できない。



「普通の勉強だよ。で、あいつの名前は?」


「花井日和だよ。可愛くて真面目なんだから、悪いこと教えちゃダメだよ。」


「教えねーよ。大体、悪いことしてねぇし。」


「はいはい、じゃあ日和に勉強教えてあげてね。」


「もう一つお願い。あいつに勉強教えるって約束したんだけど、何の教科教えてほしいのか聞いてなかったんだよ。お前から花井に、教えてほしい教科の勉強道具持って来いって伝えてくんね?」


「自分で言いなよ」


「俺、連絡先知らねーもん」


「今回だけね、明日からは自分たちでちゃんとやってね、じゃあお休み」


「おー、ありがとな」


 明日から朝の貴重な時間を奪われるから、今度からは家で調べ物進めようかな。『愛の若草物語』の続きでも観てから寝るか。



 リリリリリリリ・・・



――もう朝か、結構遅くまで観ちゃったから寝不足気味だな。


 いつもの時間に起きて支度を済ませ、家を出た。杉田駅のホームに着くと、花井の姿があった。


「よう、おはよう。」


「うん、おはよう。」



「昨日、香織から連絡あったよ。色々考えてくれてありがとう。」


「あぁ、いいよ。何教わりたいの?」



「数学。」


「数学ね、わかった。」



 ガタン、ガタン・・・電車が来た。花井と一緒に乗り込んだ。



「落合君、座んないの?席空いてるよ。」


「あぁ、座るか。」



「昨日はごめんね。」


「何が?」



「噛んじゃって…。」


「本当だよ、マジで痛かったぞ。もう噛むなよ。」



「ごめん…。」


――こういうとき、何を話せばいいんだろう?香織みたいな奴だったら気を使わないで済むのに、よくわかんないから沈黙がキツい。



 ガタン、ガタン・・・



 電車の音だけが静かに響く。俺は黙ったまま、木歩士駅に早く到着することを願った。いつもより長い移動時間が過ぎ、やっと駅に着いた。あいつは俺の後ろをピコピコついてくる。お前は、インプリンティングされた鳥の雛か。昇降口で靴を履き替え、図書室に向かった。


「図書室ってこんな時間から空いてるんだ。知らなかった。」


「ここはいつも鍵かかってないんだよ。」



 図書館に奥の方の机に向い合せに座った。



「数学のどこがわかんないの?」


「全部…、もうどこから手をつけていいかわかんない。」



「ちと、ノート見せてみ。」


「うん、これ。」


 しっかりと椎名先生の展開がノートに書いてある。恐ろしいまでの再現性だ。ただ、自分で考えた軌跡がない。こいつ、ただ何も考えずに黒板写してるだけだな。


「お前さ、これ黒板写してるだけじゃん。ダメだよ、これじゃ。」


「お前って言うな。」



「は?んじゃ、花井。これじゃ意味ないんだよ。」


「なんで?だって、ノートは黒板を写すものでしょ?何がいけないの?」



「あのな、黒板写してもテストの点数は上がんないんだよ。テストで『黒板になんて書いてあったでしょう?』なんて出るか?出ないだろう?」


「まぁ、そうだけど。じゃあ、どうすんのよ。」



「先生と一緒に考えんだよ。『先生は次、どう式を展開するかな?』『先生が熱く語る理由は何だろう?』とか、自分がその時に考えた軌跡と一緒にノートに書くんだよ。先生と自分の考え方が近くなるほど、テストは解きやすくなるの。」


「なるほど、そんな風に考えたことなかった。」



「これ、俺のノート。見てみる?」


「あっ、私と全然違う。自分と先生の違いや気付いたこと、面白いと思ったこと、自分の中のことがいっぱい書いてある。ノートってこうやってとるんだ。」


 俺は花井に、色々なことを語った。学問の前では先生も生徒も大した差はないこと、テストは結局、自分の中の気付きが頼りになること、授業では絶対に疑問をもつこと、問題集の解説をアウトプットすることが重要なこと。


 花井は律儀にメモをとりながら、話を聴いている。



――なんか、こういうのいいな。俺の話をこんなに一生懸命に聴いてくれるって嬉しいな。



 この日の朝の時間はあっという間に過ぎた。LINEを交換し、期末テストまで毎朝、図書室で一緒に勉強する約束をした。


 梅雨で雨が続く日もスポーツ祭の朝も、花井は毎朝かかさずにホームにいた。花井は飲み込みが早く、少し教えればどんどん理解していく。


 多分、もうしばらくしたら俺から教わらなくても大丈夫だろう。あいつが一人で勉強できるようになったら、もう図書室に来ないのかな。


 昼休みは相変わらず、根本と一緒に過ごしていた。惣菜パンばかり食べていたあいつが、チョココロネとメロンパンに目覚め、ほぼ毎日食べるようになっていた。毎日会っているので体形の変化に気付きにくかったが、いつの間にか奴のベルトは腹の肉によって見えなくなっていた。


「なぁ、根本。チョココロネとメロンパンばかりは流石にやばくね?」


「やっぱり炭水化物は罪だよな。俺はすっかりこいつらの虜だよ。お前も食べてみたらわかるって。」


 食べ続けた結果が目の前にいる。絶対に俺は食べない。そう言えば、根本はどうやって勉強してるんだろう。あまり勉強の話、したことないな。


「根本って、どうやってテスト勉強してんの?」


「暗記だよ、暗記。教科書と問題集とノートを全部、暗記。」



「すげぇな。それで何点くらい取れるの?」


「お前ほどじゃないけど、平均70点くらいは行くよ。」



「今度の期末は科目数増えるけど、暗記しまくるの?」


「大丈夫だよ。モンエナとコーヒー、アンパンを夜食にすればいける、いける。」



 こいつの体がマジで心配だ。残念ながらきっと短命だろう。



「そう言えば、お前、H組の日和ちゃんと毎朝、勉強してるんだって?」


「何でそれ知ってんだよ!」



「香織ちゃんから聞いた。」


「お前、香織と知り合いなの?」



「知り合いっていうか、彼女。」


「えええっ~!!!!」


 まさか、香織が根本と付き合っているとは。香織の好みは、モデルのような端正な顔立ちでスポーツマンだとばかり思っていた。


「いつから付き合ってんの?」


「スポーツ祭の後くらいからかな?」



「どっちから告ったの?」


「香織ちゃん。」



「マジか…」


「おいおいおい、夏生くん。失礼でないかい?」



「ごめん、ごめん。ちょっとビックリし過ぎて、言葉が出なくてさ。でも、良かったな、彼女できて。」


「香織ちゃんは、俺のダンスに一目惚れしたらしいよ。」



「ダンスって、スポーツ祭閉会式の?」


「そうそう、それで惚れちゃったんだってよ。」


 根本はスポーツ祭の閉会式で、スポーツ祭委員長の挨拶の最中に壇上に上がって、爆音のBGMと共にゲリラ的にブレイクダンスを披露した強者だ。確かに歓声と惜しみない拍手に会場は包まれたが、生徒会顧問の先生たちに担ぎ出されていた。


 計り知れない奴だとは思っていたが、ここまでぶっ飛んでいるとは思わなかった。


「お前は日和ちゃんと付き合わないの?」


「付き合わねぇよ。大体、花井は俺と違って真面目なんだよ。きっと真面目な奴が好みなんだろ。」


「ふーん…。」


――ニヤニヤすんなバカ。仮に、彼女ができたとしてもお前には絶対に言うもんか。つうか、ちと痩せろ、マジで。高校生で生活習慣病は笑えないぞ。


 あーあ、根本とは真面目な話はできないな。


 差別とか人権とか、南北戦争とかについて意見聞いてみたかったけど、止めておこう。今までもずっと自分で調べ物して、一人で納得してたしな。別に誰かに聞いてもらう必要ないもんな。


 いよいよ期末テスト期間が始まった。中間テストは5科目だったけど、今度は10科目だ。


 俺はとりあえず順調にテストをこなすことができた。根本は、ほとんどのテストを開始10分で諦めて寝ている。多分、赤点連発で夏休みは補習の嵐になるに違いない。


 そう言えば、花井は無事解けているだろうか。朝、勉強したところもばっちり出題されてるし、少しは点数上がるだろう。


 期末テストが終わり、テスト返却の1日目。今日、返却された分の平均は89点。中間より少し下がったけど、まぁこんなもんだろう。花井はどうだったんだろう?LINEで聞いてみるか。


「テストどうだった?」


「今のところ、平均70点!上がったよ!」


「すげぇじゃん!頑張ったな。」


 テスト返却2日間の分も合わせると、俺は平均88点。花井は、72点だった。廊下に貼り出された順位を今回は見に行くことにした。


 1位から順にみていく。俺は2位だった。花井の名前はあるのか?20位まで目を通したが、花井の名前はなかった。20位はB組の林田。平均75点だった。あと、3点か。



 クイッ



 Tシャツの裾を後ろから引っ張られた。振り返ると花井がいた。


「あと3点だった。」


「もう少しだな。でも、すげぇ点数上がったじゃん。」



「うん、ありがとうね。」


「俺の力じゃねぇよ。最初に言っただろ、テストは自分の中の気付きで解くんだよ。お前が自分の力で取ったんだよ。」



「うん、でもありがとうね。」


「これで約束は果たしたな。あとは自分で勉強できるだろう。」



「嫌だ。20位以内に入るまで落合君に教わりたい。」


「それ、約束違う…」



「言っちゃうよ、バイクとタバ…」


「バカッ!ちょっ、シッー!!」



「じゃあ、20位以内に入るまで教えてくれる?」


「仕方ねぇな。20位以内になったらもう自分でやれよ。」


――マジ、最悪だ。2学期以降も毎朝、こいつとの勉強が続くのか。



 俺は、1学期の終業式が終わると、杉田駅の駅ビルの書店に向かった。有名予備校講師が書いている参考書に目を通した。


――ふぅん、こういう教え方もあるんだな。教え方って一通りじゃないんだな。






  



  

第五編 落下運動の行方


――平均72点。あと3点で20位!


 私は嬉しかった。イワトビに言われた通りに授業を受けたら、どんどんわかるようになった。


 テストもしっかり解けた。もう少し慣れてくれば、もっと点数は上がると思う。


 次は絶対、20位以内に入れる。そして、今日から夏休み。イワトビは何してんのかな?勉強か?いや、ヤンキーだからきっと海とか行って『Yeah』とか『Yo』とか言ってるに違いない。私も海行きたいな。



――イワトビにLINEしてみようかな?



「夏休みって何やんの?」


 返信が来ない。既読にもならない。やっぱり、『Yeah』とか『Yo』とか言ってるんだ。ムカつく。バイトでもしようかな。でも、特に欲しいものもないし、面倒くさいな。



 ピロン…



――あっ、返信が来た♪


「返事遅くなってごめん。色々やってる。」



――はぁ?それを聞いてるんですけど!?


「色々って何?」


「お前、すぐバラそうとするから言わない。」



「教えてくれなかったら、バラすよ。」


「嫌な奴」



「夏休み、何やんの?」


「教習所で、中型バイクの免許とんだよ。言うなよ。」



「忙しいの?」


「まぁ、そこそこ。」



「夏休みの課題、教えてよ。」


「そんなん自分でできるだろう。」



「教習所にタバコにバイクか、楽しいんだろうな~」


「嫌な奴。教習無い時間だったらいいよ。どこでやる?」



「学校の図書館は?」


「嫌だ。Nチビで行けないし。」



「じゃあ、杉田駅の駅ビルのスタバは?」


「金かかるじゃん。駅ビルの階段のベンチでよくね?」


――駅ビルのベンチ?本当に無神経だな。頭の中、スカスカじゃないの?コンコンコンって叩いたら、カラカラカラって鳴るんじゃないの?



「うん、わかった。駅ビルのベンチね(怒)」


「怒んなよ。じゃあ、スタバでいいよ。でも、あまり金使いたくないんだよ。」



 イワトビは夏休みの間、なんだかんだ言って私がお願いしたらいつでも勉強を教えに来てくれた。スタバに行った日もあれば、駅ビルの階段のベンチで勉強するときもあったし、駅から少し離れたショッピングモールのフードコートで勉強することもあった。


 教習所に通って中型バイクの免許をとったらYAMAHAのR1-Zというバイクを買いたいこと、差別問題や人権問題に興味があること、国公立大学を目指していることなど、勉強以外にも色んな話をした。


 イワトビはヤンキーだけど、私よりもずっと真剣に考えている。


 イワトビと一緒に『愛の若草物語』を見て、戦争による被害は戦闘による死亡者よりも間接的被害の方が大きいのではないか、奴隷制度という差別は姿を変えて現在も潜在しているのではないか、エイミーが行う低い鼻の矯正は効果があったのか、といったことについて真剣に意見交換した。


 戦争や差別のことは難しくて覚えていないけど、エイミーの鼻についての話は印象に残っている。


 私が「エイミーが鼻を高くしたくて、洗濯バサミで矯正しようとしていたのは気持ちがわかる」と言ったら、イワトビは「寝ている間に洗濯バサミをつけても、寝返りをうったりしたら外れてしまう。


 仮に矯正が上手くいったとしても、スピノサウルスの帆のような鼻になる」と返してきた。ムッとした私は、「じゃあ、鼻を高くしたいときはどうすればいいの?」と聞くと、イワトビはちょっと考えて「鼻の穴に縦長の何かを詰めた方がいいんじゃないか?」と言った。


 「縦長の何かって何?」と聞くと、「サイズ的にピーナッツとかいいんじゃないか」と提案された。「ピーナッツを鼻に詰める少女なんて文学として夢がない」と少しバカにして返すと、真剣な顔して「確かに、ピーナッツはX線透過性だから気管に入ると危険だな。寝るときに詰めるのは危ないから、日中に詰めるのがいいんじゃないか」と言われた。


 イワトビは、頭良いんだけど、何かズレてる。


 そう言えば、もう一つ印象に残っていることがある。


 実は私がイワトビのことを、イワトビと心の中であだ名をつけていることを告げると、「ペンギンはお腹に骨があるんだよ。俺は人間だからお腹に骨はない。全然似てない。」と言われた。


 そういうことじゃなく、髪型がツンツンしているからだと説明したら、「人を見かけで決めつけるのは悪い癖だぞ、真面目サボり女」と言われて頭に来たので、イワトビの頭をぐしゃぐしゃにしてやった。


 夏休みが終わり2学期に入ると文化祭があった。


 私たちのクラスはメイド喫茶、イワトビのクラスはクラブだった。


 イワトビは根本君と一緒にうちのクラスに来てくれたけど、1杯コーヒーだけ飲んでイワトビは根本君を置いてサッサと帰ってしまった。根本君は、香織のメイド姿を何枚も写真に撮っていた。


 私も香織と一緒にC組のクラブに行ったけど、根本君のオンステージでまさに高校生版芋洗坂係長だった。イワトビはドリンクを運ぶ係をやっていた。せっかく来てあげたのに、やっぱりイワトビは何だか素っ気ない。


 文化祭も終わり、2学期の中間テストが近づいてきた。


 イワトビと一緒の勉強会は毎朝継続している。どんどん勉強の手ごたえが出てきた。授業もわかるし、闇雲に暗記もしなくなった。


 意見交換や疑問を持つ重要性が、心底わかった。授業を『真面目』に受けていた私は、他人に責任を転嫁していただけで、主体的に学ぼうとしていなかったのだ。


 2学期の中間テストでは、イワトビは学年3位。私はついに学年15位になった。「20位以内に入ったから、勉強会は終わりな」と言われるかと心配したが、意外にもそれはなかった。20位以内に入っても当たり前のように勉強会は続いたし、登下校も一緒にするようになっていた。


 2学期の期末ではもっと成績が上がり、ついに10位以内に入ることができた。冬休みも夏休み同様に勉強会を続けた。初詣も一緒に行って、大学合格祈願をした。おみくじを引いたら、私が小吉でイワトビは大吉だったので念のため交換してもらった。あいつにこれ以上の運はいらないと思う。


 冬休みは、イワトビがバイクになんで拘っているのかを尋ねた。一人きりになれること、風が心地よいこと、どこでも行ける自由が嬉しいことを教えてくれた。


 お気に入りの場所もあるらしく、誰にも言わない条件で河川敷の大きな岩の上でよく一服していることも教えてくれた。Google Mapで見てみると、あまり人が行かなそうで、確かに景色も良さそうなポイントだった。また、念願のR1-Zを買えそうだと嬉しそうに言っていた。


 3学期になり、いよいよ冬の寒さも厳しくなった。インフルエンザが流行りだし、皆マスクをつけるようになった。イワトビがマスクをつけるとヤンキーというか、もはや人相の悪いギャングだ。私は顔の半分以上がマスクで隠れてしまい、マスク星人だ。


 なんだかんだ1年近く続いた勉強会だけど、2年生になっても3年生になっても続けていいんだろうか?学年末テストが近づいてきて、不安になった私は意を決して聞いてみることにした。


「ねぇ、2年生になっても勉強会って続けていいの?」


「お前がいてもいなくても俺は図書室に通うよ。来たきゃ来ればいいんじゃね?」


 実にイワトビらしい返事だ。きっとイワトビから私に何かをしてくれることはないんだろうな。あーあ、香織と根本君みたいにもっと仲良くできないかな。イワトビは多分、自分から距離を縮めてくることはない。私から行くしかないか。


「学年末テストで私が5位以内に入ったら、春分の日に一緒にアウェケン行こうよ。」


「何だよ急に。別にアウェケンくらい、いつ行ってもいいだろう。」


「私、春分の日、誕生日なんだよ。」


「そうなんだ、じゃあ5位以内に入れたら奢ってやるよ。」


「よし!約束ね!絶対、5位以内に入ってやる!」


「はいはい、頑張ってね。」


 学年末テストはこの1年間の中で最も手ごたえがあった。勉強会といってもイワトビに質問することはないし、同じ空間で黙々と勉強しているだけ。


 イワトビのお陰で本当に成長できた。もし、5位以内に入れなくても、春分の日にアウェケンに行けなくても別にいい。2年生になって行ければいいし、イワトビの誕生日に行ってもいい。


 いよいよテスト返却が始まった。10科目の平均はなんと89点。過去最高点を記録した!イワトビも私と同じ89点。ついに肩を並べることができた。順位発表はイワトビと一緒に見に行った。私とイワトビは学年3位だった。


「仕方ねぇな、春分の日、アウェケン行ってやるよ。奢ってやるから何がいいか考えとけよ。」


「うん♪楽しみにしてる♪」


 やった!春分の日にアウェケンに行ける!何着ていこうかな?あと3日で春分の日だ!香織に買い物付き合ってもらおうかな。


 しかし、次の日の朝、ホームにイワトビの姿がなかった。LINEで「今日、どうしたの?寝坊?」と送ったが、既読にならない。私は一人で図書室に行き、小説『若草物語』を手に取った。


 イワトビはなんで差別や自由に拘ってるんだろう?そう言えば、イワトビのお父さんやお母さんってどんな人なのかな?中学校時代のイワトビってどんな感じだったんだろう?


 結局、イワトビに送ったメッセージは既読にならないまま、朝のホームルームが始まった。学年レクと大掃除をやって今日は終わり。何のために学校来たんだかわからない日だった。帰り道、私のスマホが鳴った。



「わりぃ、ちと風邪ひいた。春分の日までには治すから絶対。」



――そっか、風邪だったのか?


「大丈夫?ちゃんと病院行った?」



 LINEを送ったが、既読にならなかった。しばらくしたら、既読になるだろうと思い、特に心配せずに帰路についた。そして翌日の朝、スマホを見てみると、まだ既読になってなかった。朝のホームにイワトビの姿はなく、今日も欠席のようだ。



――明日、大丈夫かな?重病になったりしてないかな?


 LINEはやはり既読にならない。明日、どうすればいいんだろう?モヤモヤした気持ちのまま、1日を過ごした。そして、帰り道スマホが鳴った。


「返信できなくてごめん。明日は絶対行くから、アウェケンに11時半ね。」


「風邪治ったの?大丈夫?無理しないでね。」



「大丈夫。ちょっと遅れるかもしれないから、先にアウェケンに入ってて。」


「わかった。体調悪かったら、絶対教えてね。」



「治ったから大丈夫だよ。じゃあ、明日ね。」


――やった!良かった!イワトビとアウェケン♪何着ていこうかな~♪


 その晩はワクワクして中々眠れなかったが、気付いたら部屋の電気を付けたまま眠っていたようだ。起きたら朝9時。中々、時間的に厳しい。シャワーを急いで浴びた。髪も少し巻いてみようかな。


 ドタバタ支度をして急いで家を出た。アウェケンに着いたのは、ジャスト11時半。まだイワトビは来てないみたい。


 窓側の席に座り、イワトビが来るのを待った。5分くらいして、イワトビが来るのが見えた。何やら大きい箱を抱えている。



 カラン、カラン…



 アウェケンの扉が開いた。イワトビだ。こっちに向かってくる。


「ごめん、待たせたな。これ、プレゼント。」


「えっ!ありがとう!開けていい?」



「いや、ダメだ。帰ってから開けろ。」


「えー、そうなの?見たいなぁ。」



「少し我慢しろ。何、注文する?」


「うーん、ロイヤルミルクティーにしようかな。」



「OK、俺はマンデリンにしよう。」


――イワトビは何だか鼻声だ。やっぱりまだ風邪なんだ。マスクもしてるし、無理して来てくれたのかな?



「ねぇ、まだ風邪治ってないんじゃない?」


「大丈夫だって。」



 マンデリンとロイヤルミルクティーが運ばれてきた。シナモンスティックでロイヤルミルクティーを一混ぜし、口をつけた。


「あっ、美味しい!」


「良かったな。俺もマンデリン、飲んでみたかったんだよな。」



 イワトビはマスクをずらし、カップに口をつけた。・・・あれ?



――イワトビ、鼻に何か付いてる?



「あれ?イワトビ、鼻に…何それ?」




「えっ…?あっ!!」



 イワトビの鼻の穴には、縦にピーナッツが詰まっていた。



 そして、「ぽっちょん…」とマンデリンの中にそれらは自由落下した。



 マンデリンには二つのピーナッツが浮いている。



 私はマンデリンに浮かぶピーナッツに目を奪われていたが、はっとして恐る恐るイワトビの顔を見た。



――耳まで真っ赤っかだ!!顔中、赤くなってる…どうしよう、どうしよう…



「帰る…」


――えっ?何て言った?



「もう帰る!じゃあな!!もう勉強会も無し、無し、無し、無しだっ!」


――えええっー!!!!



 イワトビは会計を済ませ、私とマンデリンとでっかいプレゼントを置いて出て行った。


 何が起きたかわからず、私はしばらく呆然とした。


 味のしないロイヤルミルクティーをとりあえず飲み干し、でっかい箱を抱えてアウェケンを後にした。


 そして、駅ビルに入ってベンチで箱を開けてみることにした。



――ワインレッドのフルフェイスのヘルメットだ。右側に小さくローマ字で、Hiyoriってステッカーが貼ってある。手作りだ。



 私は涙が止まらなかった。


 イワトビはずっと私のことを考えてくれてた。


 すぐにLINEを送ったが、既にブロックされていた。


 しばらくベンチで泣いた後、ヘルメットを抱えて家路についた。強い虚無感に襲われ、心にぽっかりと穴が開いてしまった。


 春休み、私は何をするわけでもなく、YouTubeをひたすら流し続ける日々を送った。


 2年生になってクラス替えがあり、香織とはまた一緒のクラスだった。イワトビは、たまにホームや図書室で姿を見かけたが、私もイワトビに近づかないようにした。


 定期テスト後に貼られる順位にはイワトビと私の名前がいつも隣同士で並んでいた。


 2年生の修学旅行前、クラスメイトの男子に告白されたが、どうしても付き合う気になれず断ってしまった。冬になって、いよいよ受験校も考え始めるようになった。私は、1年生のときに立てた目標の通り、旧帝大を目指した。


 3年生になってからは受験勉強で忙しく、イワトビのことも段々思い出さなくなってきた。


 貼り出される順位にも興味がなくなり、3年の1学期期末にはもう見に行かなくなった。


 私は第1希望を北海道大学にした。秋の模試ではC判定だったけど、この調子で行けば射程圏内には入るだろう。


 1月の共通テストも滞りなく解くことができ、自己採点の判定結果はB判定だった。2月に入ると高校は、自由登校になった。


 いくつか私大を受けて、2月末に北海道大学の二次試験を受けた。手ごたえは正直、微妙だった。3月の卒業式までの数日間、本当にやることがなくなってしまった。


 そして3月1日の夜、ずっと目を背けてきたものに向き合うことにした。


 クローゼットの奥にしまい込んだ、でっかい箱だ。



 箱を開けると、きれいなワインレッドのヘルメットが新品のまま眠っている。Hiyoriのステッカーもそのままだ。


――よし、原付の免許取りに行こう!



 私は原付の免許を取りに行き、3月3日にはバイク屋さんに足を運んだ。買うバイクは決めてある。イタリアのVESPAだ。


 小学生の頃から貯めてきた貯金を全て使って、その日のうちに購入した。なるべく早く整備してほしかったので、無理を言って3月6日には納車してもらった。私はどうしても卒業式前に行きたいところがあった。イワトビが教えてくれた河川敷の大きな岩の上だ。


 3月6日の夕方、段々と空が緋色になってきた頃、ワインレッドのヘルメットを被ってVESPAに乗り、イワトビが教えてくれた場所に向かった。


――なんて気持ちいいんだろう!これが自由か…


 緋色と紫色が混ざる頃、私は河川敷の岩の横に着いた。ヘルメットを脱いで、岩の上に登った。



――これが、イワトビがいつも見ていた風景か。もう一回、イワトビに会いたいな。


 涙が出そうになったけど、ぐっと堪えた。日が沈むのを見届けてから、VESPAの元へ戻ろうとしたとき、けたたましい排気音が3台近づいてくる。


「あれ?これVESPAじゃん!」


「いいバイク乗ってるね!これ貸してよ!」


――ヤバい、本当のヤンキーだ…どうしよう…怖い、怖いよ。



「ねー、ねー鍵貸してよ。ちょっと乗らして。」


――怖い、どうしよう。



 ブゥゥゥゥゥーイィィィーン…


――もう1台来た…どうしよう、せっかく買ったのに…やっぱりバイクなんか買うんじゃなかった…


 真っ黒なヘルメットに白いバイク。バイクから降りてこっちにどんどん近づいてくる。



――怖い、もうダメだ。


 ドカッ、バキッ、ゴッ…ドカッ、ドカッ、バキッ、バキッ…


 恐る恐る目を開けると、ヤンキー達が鼻血をどくどく出して倒れている。



「勝手にここに来るなよ、秘密だって言っただろう。早く帰れ。」


――あれ?聞いたことある声だ…、どこで聞いたっけ?


「早く帰れって!!」


 ヘルメット男に怒鳴られた。私は急いでヘルメットを被り、VESPAに跨ってエンジンをかけた。彼のバイクにはYAMAHA R1-Zって書いてあった。



――そうだ、思い出した。イワトビだ。


 私は泣きながらVESPAで家へ向かった。明日は卒業式、絶対にイワトビにお礼を言うぞ!何があっても捕まえてやる!


 そして、卒業式。一人ひとり担任から呼名される。イワトビの名前は呼ばれたが、返事はなかった。


 卒業式には来てないようだった。


 卒業式が終わった後、ホームルームで担任の熱い話を冷ややかに聴いた。長い話が終わるとすぐに香織のところへ駆け寄って、イワトビについて聞いてみた。


「香織、落合君って卒業式に出てなかったみたいだけど、どうしたのかな?」


「あいつバカだから、卒業式前日に他校の生徒と乱闘騒ぎ起こして停学2週間だって。一人だけで卒業式やるらしいよ。最後までバカだねぇ。」


――言葉が出なかった。イワトビは悪くない。


 2週間後、私は校門でイワトビを待っていた。昼過ぎに一人、卒業証書の筒を持ってワトビが歩いてきた。



「おいっ、イワトビ!」


 私はできる限りの大きい声でイワトビを呼んだ。



「うるせぇな、なんだよ。声でけぇよ!」


 私はイワトビに近づいていき、思いっきり奴の頬を引っ叩いた。



「痛っ!何すんだよ!」


 そして、ポケットにぎっしり詰め込んだピーナッツをどんどんぶつけてやった。



「なんだお前、マメぶつけるなよ!」


「うるさいバカ!鼻にピーナッツ入れてたのがバレたくらいで、2年間も無視しやがって!!私だって鼻にピーナッツくらい入れられるんだから!」



「やめろって、痛いぞ。やめろよ。」


「うるさいバカ!じゃあ、もう1回アウェケンからやり直せ!」



 私は無理矢理イワトビをアウェケンに連れていった。


 注文したのは、もちろんマンデリンとロイヤルミルクティー。



「早く飲め、マンデリン。」


「わかったよ、うるせぇな。」



 イワトビがカップに口を付けようとした瞬間、私は2粒のピーナッツをマンデリンに入れた。



「ほれ、飲んでみそ。あの時からもう一度、やり直し♪」


「うるせぇな、今回は逃げねぇよ。」



――人はな、いつだってやる気になれば時を戻せるんだよイワトビ君♪


ある日、妻から「『鼻からピーナッツ』で物語書いてよ」と唐突に言われて、書いてみた短編小説です。


実際に小説を書いてみると非常に面白く、すっかり小説を書く魅力にはまってしまいました。


人物や場面の設定を考えたり伏線を敷いたりするのが、特に楽しかったです。


NSR50とR1-Zというバイクは、昔、私自身が購入についてかなり悩んだ末に諦めたものの今でも魅力的に感じています。


Awakening of Loveという喫茶店の名前は、日本語訳で「恋心」となります。これは、私も妻も大好きなB'zの曲から取りました。この曲の中で、「ミルクティー」が出てくるので日和にもミルクティーを飲ませました。


落合夏生と花井日和は、夏生で「ナッツ」、二人並べて「落花生」と「日井夏生ピーナッツ」になるようにしてみました。


感想や意見をいただけますと幸いです。

どうぞ、よろしくお願いします。

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