それでも連載は終わらない その1
あたし−−この少女マンガではエレナ王女と呼ばれている存在−−は、靴のヒールをガツガツと踏み鳴らして石の階段を駆け昇った。ドレスの長いスカートが邪魔だ。両手で掴み上げ、脚を剥き出しにして走った。
スカートを介助する役目のメイドもいない。あたしの振る舞いを叱る乳母もいない。
みんなあたしの周りから消え去ってしまった。
追放ざまぁってやつか。
追放されてるのはあたしだし、ざまぁされてるのもあたしだから、ちょっと違うか。
宮殿内の扉をバンッと両手で押し開ける。踏み込んだ先は、あたしの部屋だ。
黒いタキシードを着た男がニコニコしながらあたしを迎えた。
「お帰りなさいませ。ご飯にします? お風呂にします? それとも……」
「風呂!」
あたしは言い放つと奥の部屋に入ってドレスを脱ぎ始めた。ゴテゴテと装飾過剰で重たいドレスだ。メイドの手を借りなければ着るのも脱ぐのも難しい。無理に脱ごうとしたら腕が引っかかって脱げなくなった。
両腕が変な形に捻じれてしまう。動けなくなったあたしのところへ、タキシードの男がニコニコしながら歩み寄ってきた。
「お手伝いしましょうか?」
「手伝え」
ところで。この男は誰だろう。
歳は三十歳ぐらい。黒髪を七三わけにして銀縁のメガネをかけている。背は低い。165センチぐらいしかない。
見覚えはまったくなかったけれども、多分、執事か何かだろう。王家に仕える使用人は多い。いちいち顔なんか憶えていられない。
男の手を借りてドレスを脱いだあたしは、ハイヒールを蹴飛ばすようにして脱ぐと、バスルームに向かった。
男はニコニコしながらついてくる。
庶民の娘たちは、男の前で肌を露出すると悲鳴をあげるらしいではないか。
だが、あたしたち高貴な身分の女は、使用人の男など、同じ人間だと思っていない。だから肌を見られても恥ずかしくない。
犬や猫に裸を見られて悲鳴をあげて恥じらう、なんてことはないだろう? それと同じだ。
男が語りかけてくる。
「湯船には適温の湯をはっておきましたが……。生き血風呂のほうが良かったでしょうかね?」
若さと美貌を保つために、若い娘から搾り取った血の風呂に浸かった伯爵夫人がいた、というオカルト話なら、知っている。
「サンシアの生き血風呂に入れるなら、悪魔に魂を売ったっていい!」
男は「あはは」と軽薄に笑った。
「悪魔に聞かれたらどうするんです。本気にされますよ。あいつら、冗談は通じませんから」
「お前がその悪魔なのではないか」
あたしが睨みつけると男はまたも軽薄に笑った。
否定はしなかった。不気味だ。
*
「ああー。生き返るわー」
あたしは浴槽に身を沈めた。心地よい湯の温もりが肌に染みる。
「日本人に生まれて良かったわー」
カーテンの向こうで男がクスクスと笑った。
「あなたは日本人じゃないでしょう。設定を忘れてもらっては困りますね」
湯気が濛々と立っている。男はさすがにあたしの全裸を見ることは遠慮して、間仕切りのカーテンの外に立つ。影だけがボンヤリと見えた。
「フン。いいのよどうせ。ヒロインが皇太子様と結ばれて、悪役のあたしは不幸のどん底。読んでる読者は大喜び。これで最終回。連載終了でしょう? もうローラシアの王女を演じる理由もないわ」
「いやぁ……そうだといいんですけどねぇ……」
「なによ、その含みのある言い方。こんなマンガ、さっさと終わらせなさいよ」
「いやぁ……困ったなぁ……」
カーテンで顔は見えないけれど、男はきっと、誠実さのかけらもない笑みを浮かべているのに違いない。
あたしはなんだか少し不安になってきた。
同時に疑問も涌いた。
「ねぇ、ちょっと」
「なんです」
「変なことを聞くかもしれないけど……」
「なんでしょう」
「あたしってさぁ、どうして突然、自我が芽生えたの?」
男がギクリ、と身をこわばらせたように見えた。
あたしは喋り続ける。
「あたしってさぁ、このマンガの脇役の一人だったわけじゃない? ウチの先生の決めた通りにサンシアをぶったりイジメたり罠にはめたりしてたんだけどさぁ、別に自分の意志なんて、そんなものはなかったわけよ」
ウチの先生、っていうのは、あたしたちを創作した少女マンガ家のことだ。
「それなのに、どうして急にあたしは自分で考えたり、勝手に行動したりし始めたの? 脇役のあんたと、こんな話をしてるのだって、おかしいじゃない」
「それは、こういうことですよ」
「どういうことよ」 「マンガや小説の登場人物が、ですね、物語の中で勝手に動き出す、ってのは、よくある話でしてね」
「まぁ、よく聞く話ではあるけどね」
「今のあなたがソレなんですよ。作者の思惑を越えてイキイキとキャラクターが動き出した、ってわけです」
それで納得しろっってのも、無理のある話よね。
あたしは湯船から出た。身体をぬぐってくれるメイドもいないので、自分でタオルで拭いてバスローブを着た。
カーテンを開ける。
「あんたの正体がわかったわ」
「へえ? 何者だと思います?」
「最初は悪魔かと思った。だけど違う。悪魔に似た何者か」
「なんです?」
「編集者よ。ウチの先生の担当編集者。このマンガを外の世界から支配してい る」
男はニヤーッと厭味ったらしく笑った。
「ご明察」
そしてわざとらしく胸に片手を当てて、深々と頭をお辞儀した。
「物語の中では宮廷執事のレンと名乗っております。お見知り置きを」
あたしは「ふん」と鼻を鳴らした。それからちょっと首を傾げた。
「編集者が物語に介入してくるなんて。どういうこと?」
「編集部の方針が変わりましてね。それでまぁ……」
「テコ入れってわけね? 前の担当編集者はどうなったの」
「絵本の編集部に移動になりましたよ。『前々からやりたかった仕事だった』って喜んでました。うちも日本有数の巨大出版社ですから、いろいろな分野の本や雑誌を出していましてね。まぁ、自分がやりたかった分野の編集部に配属されることは滅多にないんですけれど」
「あんたが後任ってわけ。……とてもじゃないけれど、少女マンガの編集がしたくて入社したとは思えない顔つきね」
レンは否定はしなかった。
「それで、あたしは最終的にどうなるの。この物語の中で」
「あっ、はい」
レンはどこから取り出したのか、スマホをいじる。
「何を見てるの」
「以前にウチの先生から送られてきたメールですよ。最終回の構想が添付されてまして。ははぁ、なるほどなるほど」
「なによ」
「エレナ王女の今後はですねぇ、騎馬民族の王のもとに嫁ぎます」
「なにそれ」
「ローラシア大陸のさらに東には、広大な草原地帯が広がっています」
「それで?」
「草原で暮らしている遊牧民族の王のところへ、あなた様は嫁ぎます」
「誰が決めたのよ! そんな話、受けた憶えはないわよ、あたし」
レンはニヤーッと笑った。
「政略結婚ですから。本人の意思とは無関係に国と国とで決められるものです」
レンは添付ファイルを読み進めていく。
「……ローラシア大帝国と草原の遊牧民族は、長年にわたって戦争状態にありましたが、エレナ王女の政略結婚によって和平条約が結ばれて、平和な帝都でサンシア皇女はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、という最終回です」
「あたしを政略結婚のダシにして自分たちだけノホホンと生きていこうっての? そっちのほうが悪魔の所業よ!」
レンはあたしの顔を覗き込んできた。
「とうてい、受け入れられないですよねぇ?」
「当たり前よ!」
「それなら、わたしと手を組みませんか」
「えっ、急に、なに?」
「我々編集部としましても、ですね、15年も続いた人気マンガに、ここで終わってほしくないんですよ。まだまだ続けてほしぃなぁ〜って、思ってるんです」
あたしは急いで思案を巡らせた。この男は、いったい何を言っているのか。
「……シリーズの引き延ばし?」
「そのとぉ〜り!」
レンは鼻の穴を膨らませて笑った。