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作者: 千葉彰雄

『男』


「お前、一流大学をトップレベルで卒業したのかなんなのか知らねえけどよ、そんなの実社会じゃ通用しねえだ。わかる? わかりますか? その暗記型のオツムで考えてみなさいよ」

俺は口角沫を飛ばして眼前の男を睨みつけた。その男の顔は蒼白で、落ち窪んだ目はカルデラのように陥没している。男の顔を見ているだけで、胃に穴があくほどの怒りを覚えたが、俺はありったけの自制心を集めて大きく深呼吸した。

「まあ、いいや。いいか、この世の中は甘くねぇんだよ。矛盾、不条理、そんなの当たり前。あなたが大学で勉強してきた2+2=4なんて世界じゃないのよ、2+2が5にも6にもなる。奇麗事だけでやっていけるわけじゃないんだ。お前みたいな甘ちゃんが、私は高学歴でございなんてちゃんちゃらおかしいんだよ」

男は黙っている。正論に何も言えないのだろう。人間は正論を言われれば逆に反発を覚えるものだ。その証拠に男の顔は歪み、唇も震えていた。

「この国の政治家や官僚を見てみろよ。実態をなにひとつ分かりゃしねぇのに、机上の空論でそろばん弾いて、国民のため、なんてほざいてやがる。国民と……いいか、国民と為政者には開きがあるんだよ、開きが! この齟齬に気づかない無能な政治家どもにいったい何ができる? できるわけないよなあ、なあ、なあ、なあー」

ん……? ちょっと頭痛がしてきた。持病の血圧が上昇しているらしい。

俺は再び深呼吸を繰り返すと、チアノーゼのように唇を紫色に染めた男に向かって再度口を開いた。

「だから高学歴者は嫌いなんだよ。プライドだけはやたらと高いくせに、かといや中身は冷めたフライドポテトのようにしなしなだ。軟弱なんだよ。さっきお前は、この世の中は矛盾してる、と言ってたけどな、矛盾していることを一番してるのはお前自身なんだよ。いいかげんに気づけよ、いいかげんに。馬鹿じゃないんだろ、なんせ高学歴なんだから。もうどうでもいい、どうにでもなれ、と口走り、やっても意味のないと思っていることをやっている。自分の意思に反したことを言ったり、やったり……、お前はムチャクチャなんだよ、自己矛盾なんだよ、自己矛盾。わかる? わかりますか? その暗記型のオムツで考えてみなさいよ」

目の前の男が微笑を浮かべている―ように見えた。我慢しているようだが、堪えきれないといった様子だ。俺が興奮してオツムをオムツと言い間違えたことを笑っているのだ。

「お、お前……、ひ、人が貴重な時間を、さ、割いて、ご高説を承っているときになんだ、その態度は……。ナメてんのか? オツムだろうが、オムツだろうがなんだっていいんだよ、そんなことは。なんならパンパース穿いてやろうか!」

ズキズキと後頭部が痛み出した。胸ポケットから降圧剤をとり出して、それを口にふくもうとした、そのときだった。薬が手からすべり落ち、コロコロと転がった。不覚にも動揺してしまった。

ハッと顔を上げると。男は、笑ってはいなかった。その軽蔑する顔は挑発しているようにも見えた。

俺はそれまでのヒトラーのような熱狂的演説から一転、声のトーンを落とした。そして分娩直前の妊婦がそうするように、ヒーヒーフーを三回繰り返すと、再度男を睨みすえた。

「許せない……、許さないぞ―」

そう言って打ち震える拳を男めがけて振った。男も応戦してくる。だが、俺の拳のほうが速かった。確かな手応えがあった。

拳にするどい痛み―、男の顔は歪み涎を垂らしていた。

右拳がざっくり切れて骨が覗いている。そのとき、インターホンが鳴った。

ピンポーン、ピンポピンポーン―俺は仕方なく玄関まで行きドアを開けた。するとそこには鬼の形相をした隣人が立っていた。

「さっきからいったいなんなんですか。うちの子寝てるんです、警察呼びますよ」

そう言われて俺は慌てた。

「す、すいません、もう大丈夫です。ハハハ、ご迷惑お掛けしました」

ペコペコとこめつきバッタのように頭を下げてドアを閉める。

俺は踵を返して箒とちりとりを手に洗面所へ向かった。

そこには割れた鏡の破片が散乱していた。

                                      完


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