木下柚香
「それでは、日勤チームのミーティングを始めます!」
私の憧れの看護師長、強さと優しさを兼ね備えた白衣の天使。ああ、声まで素敵…
「こらっ、辻さん!何ボーっとしてるの?しっかりして頂戴。貴女、腕前と判断力はウチでもピカイチだけど、時々そうやって気が抜けるのが怖いわ」
「す、スミマセン。以後気を付けます」
さあ、気を取り直して。
「本日、県立総合病院から女性患者が一名転院して来られます。送られてきたサマリーによると、極度のトラウマによって人格が崩壊しつつあり予後不良。自傷行為を度々繰り返しているようね。あと、重要なことが一つ。彼女は心肥大症に罹患しているの」
一同がざわつく。
「そんな患者さんだったら県立総合病院に入院し続けたほうが…」
師長もやや合点がいかない様子で応答する。
「それがね、私も向こうの看護師に知り合いがいるからそれとなく探りを入れてみたんだけど、県立総合病院にいるってこと自体がトラウマの一つらしいの」
私には何のことかさっぱりわからない。
「で…本人と主治医が相談した結果、全く土地勘のない所にある病院でゆっくり療養しましょうって話になったそうよ」
「で、うちのサナトリウムって訳ですか」
師長は溜息をつくと、頷いた。
「長期療養型医療施設を標榜する以上、この手の患者さんを受け入れるのが普通ってこと。で、皆に注意して欲しい事があるの。彼女、時々パニックを起こす時があるみたいなのね。そうなると、心肥大症が悪化する恐れがあるんだって」
「じゃあどうやって対処すればいいんですか?いっそ四六時中薬で眠っててもらうとか?」
「そんなこと、人権侵害も甚だしいわ」
不満そうに声を上げた先輩を、看護師長がピシャリと制する。
「正直、私もどうしたらいいのか考えている最中なの。先生もまだ漠然とした治療方針しか…あ、そうだ。辻さん、貴女ならどう接したらいいと思う?」
ここで私に振ってくるとは夢にも思わなかった。え~っと、どうしようかな…
「あの、何かこう上手く言えないんですけど…パニックを起こしちゃったらそこは薬で何とか、とは思うんですが、普段どう接するか…そうですねぇ、先ずは適度な距離感を持って寄り添う感じからスタートして、お互いの信頼関係が形成されてきたら少しずつ距離を詰めてみるとか…余計なパニック発作を招かないためには過度な干渉をしたり、逆に疎外感みたいな感情を持たれると良くないような気がして…まあ、患者さんは彼女だけじゃないんでそんなに手厚くするなんて難しいですけどね…参ったなこりゃ。これ以上何も思いつかないです」
ミーティングの時に笑顔なんて見せたことがない看護師長が突然微笑む。あの、逆に怖いんですけど…
「実は先生と私も同じこと考えてたのよ。やるわね辻さん♪まあ、貴女が言ったみたいに年中かかりっきりって訳にはいかないけど、彼女がサナトリウムに慣れるまでは暫く辻さんがそれとなく傍にいてもらうことにしましょうか。総務課か医事課にお願いして新たにシフトを組んでもらうわ」
「ふえぇぇっ」
空に向かって変な溜息をつきながら、私はサナトリウムの正面玄関で患者さんの到着を待っている。あの日、私に向かって紡ぎ出された師長の一言が私のメンタルと胃粘膜を容赦なく攻撃する。緊張で何か吐きそうだ。
予定時刻より少し遅れて県立総合病院の車が到着した。荷物の運搬を職員さんにお願いすると、私は彼女を診察室へと導く。
「初めまして。私は看護師の辻と申します。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる彼女は、何かの映画にでも出てきそうな凄い美人だ。どこかの休日みたいな麗しい人。でもその表情からは儚げな、消えかけの灯の様な危うさが垣間見える。
「先ずはお名前を確認させて下さい。お名前は…木下柚香さんですね」
彼女は頷くと、躊躇いがちに呟いた。
「冬至に生まれたから柚子の香りと書いて柚香。私ね…棄てられた子だから、生まれた時から施設で育ったの。だから名字も名前も施設の人が適当に付けた名前。だから名字には何の意味もない。ただ、名前だけは気に入っているんだけど…」
私は一瞬言葉に詰まりそうになったけど、ここで気まずくなったら一生上手くいかないような気がして次の言葉を必死に探す。
「あ!じゃあ、これからは柚香さんって呼んでもいいですか?何なら先生や他の看護師にも頼んでみますけど…?」
そう言うと彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「私、今まであちこちの病院に入院してきたけど、そんな気遣いしてくれたのは貴女が初めてだなあ」
「まあ、手術とか検査の時はどうしてもフルネームで呼ばないといけませんが…」
「そりゃそうね。その時は私も我慢する」
柚香さんが先だったか、私が先だったかは覚えていないけど何方かがプッと吹きだす。こうなるともう止まらない。二人で暫く笑っていた。
「ところで、辻さんのお名前はなんて言うの?」
私は再び言葉に詰まりそうになる。
「あ、綾乃って言います。いとへんの綾に乃木大将の乃です。字は違うけど、歌手に同姓同名の方がおられまして、よく笑われるんですよね~。アハハ」
「あら、笑うなんて失礼な人ね…綾乃さんって素敵な名前じゃない。私、音楽を聴くのが趣味だけど、彼女の曲は大好きよ」
柚香さんはそう言って微笑んだ。
「さあ、そろそろ診察のお時間です。先生を呼んできますので、少々お待ちくださいね」
そう言って廊下に出ると、すでに先生はスタンバイ済み。
「先生、お願い事が…」
「さっきから話は聞いとった。名字禁止、やろ?診察の間に、師長にも言うときや」
「はい!ありがとうございますっ!」
廊下を駆け出した私は考えを巡らせる。う~ん、医事課と師長、どっちが先かなぁ…
先生の診察後に、私が案内した病室の入口には『柚香』とだけ書かれたネームプレートが掲げられていた。先に看護師長にお願いしておいて良かったけど、ここまでやるか普通?
「あ、ネームプレートも名前だけにして下さったのね。何か、変に気を遣わせちゃったみたいでごめんなさい」
「いやいや、私は先生と看護師長にお願いしてみただけで…私もまさかここまでやるとは思ってなかったです」
彼女がクスッと微笑む。
「今まで色んな病院をたらい回しにされてきたけど、下の名前だけで患者名を書いてあるのって自分も他人も含めて初めて見たわ」
会話を自分から途切れさせたくなかった私は、話を続ける。
「お洒落でいいかもしれませんよ。あ…ほら。女優さんの楽屋みたいで」
「ホントだ。そう考えると素敵かも知れない」
私達はそうやって暫く笑っていた。
病棟の決まり事を一通り案内し、当分の間柚香さんには行動制限がかかることを説明するとき、彼女が一つの反応を示した。
「入院していてずっと部屋の中にいると気が滅入る、なんていう患者さんもおられるので午後の三時間だけは屋上に上がれるように…」
「…屋上は…行かなくてもいい。行っちゃ駄目なの…」
彼女は消え入りそうな声で答える。嫌な予感がしたので、私はそれ以上屋上について話をするのを止めた。
「じゃあ、説明はこれ位ですね…もし、不明な点やご要望等があればナースステーションまで遠慮なく仰ってください。では、失礼します」
「あ、待って辻さん」
柚香さんが不意に私を呼び止める。
「はい、何でしょう?」
「あの、名前の件…ありがとう」
「気に入ってもらえたみたいで良かったです。あ、あと病院のスタッフにも柚香さんが喜んでたって伝えておきますね。皆もきっと喜びますよ」
柚香さんは微笑んだ。
「辻さんってとても優しい方なのね。私、この病院に来て良かったかも」
「いや、そう言われると何だか…恐縮しちゃいますね」
私は照れ隠しに頭をぼりぼり掻いた。
「実はね、私…木下っていう名字が大嫌いだったの」
え、そうだったんだ…
「私は生まれてすぐ、冬の寒空に公園に棄てられていたところをお巡りさんに助けられたの。で、親が見つからない時は市長さんとか町長さんが名付け親になる決まりがあるらしいんだけど、私は『公園の木の下で発見されたから』っていう理由だけで木下姓を名乗ることになってしまって…」
へえ…そんな決まりがあるんだ…て言うかその安直な命名ってどうなんだろう。
「それで、さっき『名字には何の意味もない』と仰ってたんですね…」
「そう。本当は名前も同じような感じで適当に付けられる段取りになっていたんだけど、私を助けてくれたお巡りさんがそれを聞いて激怒したらしくって。で、『俺が名付け親になる』って役所に直談判してくれて『柚香』になったんだって」
突然そんなカミングアウトされても反応の仕方が解らない。先生、師長…私を助けて…!とは言ってもここには柚香さんと私しかいない。ええい、ここは正直に行こう。
「という事は…そのお巡りさんって柚香さんの命を救ってくれた大恩人でもあり、素敵な名前を授けて下さった方でもあるんですよね…もう、柚香さんにとっては神様みたいな人ですねぇ」
「でしょ?そのお巡りさんがいなかったら申請書の書き方見本みたいな適当な名前を名乗らされていたかもしれないし、そもそも発見されずに死んでたかも知れない」
彼女はどこか儚げな表情で微笑んだ。
「師長、遅くなりました。スミマセン」
いつもは厳しい表情しか見せない師長が、私を温かく迎え入れる。
「柚香さんと辻さんのやり取りを病室の廊下でずっと聞いていたわ。先生と一緒に、ね。上々な滑り出しだと思うけど、先生はどう仰るかしら」
ナースステーションに入ってきた先生が親指を突き上げる。
「ツカミはオッケー、ちゅう奴や。辻さん、おおきに」
柚香さんに接するうちに、看護師長と私の間で様々なルールが決められていく。同時に、師長が県立総合病院の知り合いに探りを入れてくれたことで色んなことが解ってきた。
・名字で呼ぶことはゼッタイ禁止
・本人が話題にしない限り、家族のことを聞いたり話したりしない
・鉄道事故を目撃したトラウマがあるので、電車の話はしない
・『屋上』にも何かトラウマがあるみたいなので不用意に案内しない
そうすることで、ある程度コントロールできるようにはなってきた。ただ、もともと抱えているトラウマが再燃するのはある程度仕方ないことだって先生が仰っていた。




