辻さん
処置室に入ると、俺に気づいたはながベッドから半身を起こす。
「お兄、ごめんね。色んなことが起こりすぎて混乱しちゃって…」
「少しは元気になったみたいだな…さっき電話したら、リコさんも心配してたぞ」
「あとで連絡してみる…こんな時、あたしが頼れるのはやっぱりお兄とリコさんしかいない。あたし、お兄やリコさんみたいな強くて優しい人になりたい…」
そう言うはなの目には、何か強い決意のようなものが見えた気がした。
「なれるさ、きっと。まあ、目標にするんなら俺じゃなくてリコさんにしておけ」
俺は苦笑いしながら答えた。リコさんはともかく、俺は決して強い人間でもないし、優しい人間でもない。不運と失敗の繰り返しで、後悔しながら生きているようなもんだ…俺は、はなに幸せになってほしいというそれだけの思いで生きているだけだから。
「あら、もう具合は良くなった?」
そう言うと、処置室に一人の看護師さんが入って来る。
「はあ、まあ少しは落ち着きました。心配させちゃってスミマセン」
「あ、そうだ。私はここの閉鎖病棟で看護師長をしている辻といいます。入院しておられる患者さんのうち、自分自身を傷つけてしまったりとか他人に危害を及ぼしたりする恐れのある方々を収容するところ。外から鍵をかけちゃうから行動の自由は制限されるんだけどね」
何を言っているのかよく解らずにぽかんとしていた俺たちに、辻さんは告げた。
「私ねぇ…看護師の資格を取ってからずっとこの病院に勤務してるんだけど、私がまだ若かった頃にあなたたちのお母さま、柚香さんが入院して来られたの」
俺とはなは一斉に口を開いた。
「え、じゃあ…」
「入院してから亡くなられるまで、ずっと看ていたわ」
「母のこと、あたしたちに教えてください!母は一体、どんな人で…」
辻さんは微笑むと、処置室の掛け時計を眺める。
「それよりも君たち、お腹空いてない?明け方に駆け込んできて、今はお昼過ぎでしょ?てことは昨日の晩から何も食べていないんじゃ?」
「ええ、まあそうですが…この近所で食堂かコンビニでも探して…」
「残念ながら、近所にそんな便利なモン無いわよ」
彼女は吐き捨てるように呟く。
「車で来てるんで、少し走れば何かあるんじゃ…」
「無い。食事するんならそれよりもいい所がある」
「え、じゃあその場所を教えてください」
それまで凛とした看護師の姿をしていた辻さんが急に相好を崩すと俺に微笑む。
「私も丁度勤務が終わったところ。これからご飯でもって思ってたからついておいで♪」
彼女が運転する車に俺とはなは同乗させてもらい、サナトリウムに登る山道を下ったかと思うと、今度は別の山を越え始めた。
「あの、辻さん…俺たちは一体どこへ向かっているんですか」
「ああ、そうだ。まだ言ってなかったわね。サナトリウムがある町の隣にある内削村ってところよ。そこでお昼ご飯にしましょう」
俺は数日前のことを思い出した。あの村、確か何もなかったはずだぞ…あまり変なことを言って辻さんに不快な思いをさせても悪いので、俺は何も言わず黙っていた。
「さあ、着いたわ」
そこは食堂というより農家のようなところ。表に看板も何もない。俺とはなは建物の入口を見て凍り付いた。そこにあったのは『辻』と書かれた表札。
「え、まさかここって…」
「私の家よ?」
「へえ、この村にはそんな習慣が…」
食後のお茶を戴きながら、はなが不思議そうな顔をしていた。
「そう。だからこの村に飲食店の類は必要ないの。皆でおかずを持ち寄って和気藹々とごはん、っていうのがこの村の伝統。村ではそれが当たり前だから保育所や小学校、中学校にも給食はないのよ」
「ほへぇ~っ。あたし、この村に住んでみたいかも」
「あら、はなちゃんにはお似合いかもしれないわね」
俺はその時、軽い違和感を覚えた。
「辻さん、どうしてはなの名前を?」
彼女は何かを思い出すような表情で、はなの方を向いて微笑む。
「嵐の中で、倒れそうになっても咲き続ける一輪の美しい、愛おしい花。それが貴女の名前の由来よ」
次に俺の方を見て彼女は話を続ける。
「フランス語で『Sera』は未来を表す動詞。そしてもう一つの意味は『意思』。君が輝かしい未来へ確固たる意思を持って進むことを願って、そして空に星が瞬き始める時にこの世に生を受けたから『星來』だったわね」
はなが呆気にとられる。
「知らなかった…あたし達の名前にそんな意味があったなんて…」
父親の日記はドタバタしててはなに渡せていないけど、家に帰ったらはなにもじっくり読んでもらおう。はなにも知る権利があるし、知っておく義務があると思うから。
「でも、辻さん…どうしてそこまで俺達のことを…はなは診察してもらった時に保険証を見せたから名前は解るだろうけど、俺のことまで何故…」
彼女は、少し不思議そうな表情をした。
「あら、私のいる病棟に柚香さんが入院してたってさっき言ったでしょ?孤児だった柚香さんが亡くなられた直後に、柚香さんの家族だって血相変えて飛び込んできた女の子を見て、あ、これは娘さんに違いないって思ったの。泣き崩れる娘さんを介抱するたった一人の家族、それはお兄さん以外にいない。あ、あと一つ。君たちが離れ離れになっていた期間と入院していた期間はほぼ同じ。その長い間ずっと一緒にいたんだから、そりゃ身の上話もするわ」
はなが急に身を乗り出す。
「え、じゃあ家族が離れ離れになっちゃった理由も?」
「全てのことを話してくれたわけじゃないだろうから、何でも知ってるって訳じゃないけど」
そう言うと彼女は突然立ち上がり、箪笥の引き出しから封筒に入った何かを大切そうに取り出した。封筒の中にあったのは、まだ赤ん坊の時のはなを宝物のように抱きしめる俺の写真。
「柚香さんがね、私の一番の宝物を辻さんにだけ自慢するんだって何年か前に託してくれた物なの。はなちゃんが生まれて間もない頃の写真だって」
辻さんは俺たちを真っ直ぐに見つめると、語気を強めた。
「長い話になるわよ。私がこれから話そうとしていることは、君たちにとって受け入れ難いものだったり、不都合なものだったりするかもしれない。さあ、覚悟はできた?」
俺とはなは、同時に頷いた。




