すれ違い始めた心
ある晩、僕は夢を見た。柚香さんがまだ入院していた頃の夢を。
今まで僕に優しく接してくれていた柚香さんが、冷めた表情で僕を見つめる。そこに言葉はない。
何も言わないまま、彼女は僕の元から立ち去ろうとする。
「柚香さん、どうしたの…?どこへ行くの…?」
彼女は涙を流しながら、僕に向かって微笑んだ。
貴方は、私の事を騙していたのね。
さようなら。お元気で。
唖然としている僕の視界が少しずつ闇に支配される。
暗闇から、誰かの声が響く。
『すれ違い始めた心は、もう誰にも止められない』
「……っ!」
布団から飛び起きるようにして僕は目覚めた。
僕はゆっくりと周りを見渡す。ああ、これは夢なんだ。僕と柚香さんの心はまだ繋がっている…その時僕はそう信じていた。でも、それはまやかしだったことを後に痛感することになるんだけど…
僕一人しかいない部屋(柚香さんが露骨に嫌な顔をするうえに、星來やはなに変なことを言い出すので仕方なく部屋を分けていた)で身支度を整えると、居間にいる三人に声をかける。
「じゃあ、僕は仕事に行ってくるよ。今日は定時で帰って来れると思うから」
柚香さんからは何の返事もなかった。ドアの向こうではなが何か言っているようだったけど、柚香さんと星來は何も答えちゃくれなかった。
嫌な予感とともに仕事を終えて家に戻った僕は駐車場に車を駐めてアパートの玄関に辿り着いたその時、異変に気付いた。僕の作業服と着替えが洗濯かごに放り込まれて、玄関脇に積んである。
まさか…!
慌てて玄関の鍵を開けようとしたんだけど、開かない。鍵が回らない。暗がりで目を凝らしてよく見ると、シリンダー錠が新しいものに交換されている。道理で開かない訳だ。要するに、僕は家から閉め出されたっていうことか。
インターホンを押してもうんともすんとも言わない。故障とかじゃなくて、明らかに電源がカットされている。呼び出し音すら鳴らない。大声出してドアをドンドン叩いたら近所迷惑になるからそっとドアを叩いて呼びかけてみたんだけど、返事はない。ただ、中からは人の気配がするし電気も点いている。て言うか玄関ドアのすぐ向こうに人の気配がする。間違いなく三人は中にいるんだけど、僕の存在を無視するかのように反応してくれない。
慌てて外に飛び出す。
人気のない所で携帯電話を取り出し、柚香さんへコール。数回の呼び出し音の後、彼女の携帯電話から応答があった。
「一体どうしたんだ?お願いだから鍵を開けてくれないか…一度落ち着いて話をしようよ。柚香さんは何か大きな勘違いをしているんだって」
暫くの沈黙が、僕にはとても長く感じられた。柚香さんは、一言も言葉を発してくれない。
嫌な沈黙の後、彼女のすすり泣く声が聞こえる。
やがて通話は途切れ、その日以降電話は通じなくなった。
でも僕は諦めない。諦めてたまるか。きちんと話し合って、また四人で楽しく暮らすんだ!
つまらない誤解さえ解ければ、また四人で楽しく暮らせる筈だ!
解決策を模索した僕は、家と工場の間に古いアパートを借りて柚香さんの誤解を解くつもりで待機することにした。電話は繋がらない(数日後に電話したら、解約されていた!)し行っても鍵を開けてくれないどころか相手にもしてもらえないので、僕は彼女に何度も手紙を送った。ゆっくり話し合おう、僕は待ってるからって。仮住まいの住所と連絡先を書いたメモを添えて、僕は祈るようにポストに投函し続けた。
数日後。
郵政局からの不在連絡票がポストに放り込まれているのを見て僕は凍り付いた。差出人の名前は『木下柚香』。何だこれ…一体柚香さんは何を考えてこんなことを…僕の家族なんだから彼女の名前は『後藤柚香』だろ。それとも何か…木下性を名乗って小包を送ってきたということは僕に対する決別の意思表示なのか…?
彼女から届いた小包の封を開けると、残酷な事実が僕の目の前に突きつけられた。
同封されていたのは、離婚届と僕が子供の頃からつけていた日記、あとは彼女が解約した携帯電話。日記は読んじゃ駄目だよってずっと言っていたし読まれたような形跡は今まで全くなかったけど、今回は明らかに読まれていると僕は確信した。
ページがくしゃくしゃになっているし、柚香の誤解が始まった頃からのページに、水滴の跡がいくつもあった。まさか彼女、これを読んで泣いていた…?
僕は日記に嘘なんて一切書いたことはない。もし、彼女がこれを読んで誤解だってことに気付いてくれたなら…?
ラストチャンス!
僕はアパートを飛び出し、家に向かって突っ走る。
柚香さん、お願いだから鍵を開けて!
「……」
運命の女神様は、僕に微笑んでくれることはなかったようだ。飛んで帰った我が家はもぬけの殻。僕が色々と想定していた中で、最悪の結末だった。
呆然と立ち尽くす僕に、これまで仲良くしてくれていたお隣のおばさんが言いにくそうに言葉を紡ぎ出す。
「昨日のお昼前にね…家に誰かが訪ねて来たの。何か役所か警察っぽい感じの人たちと看護師さんとかお医者さんかな…多分、彼らは奥さんと子供ちゃん二人のことを保護するために来てくれたんだと思うんだけど…で、ひと悶着あった後に奥さんが大声で『子供たちを施設に預けるなんてゼッタイに嫌だ!』って言って激しく抵抗してたの。でも福祉だか病院の人だかに宥められて、最後は車に乗って何処かへ行ってしまった。奥さん、憔悴しきっていて俯いたまま何も言えずに子供ちゃんと別の車でどこかへ行っちゃったみたい。あとは引っ越し屋さんみたいなのが来て家の中のものを全部…」
僕はこの瞬間、全てを失ってしまった事を悟った。三人が家を出て、荷物まで引き払ってしまったと言うことは、もう僕達が一緒に暮らすことが出来なくなったという残酷な事実がそこにあると言うことだ。
翌日、僕は会社を休んで僕と柚香さんが出会ったあの総合病院にも行ってみた。柚香さんとお付き合いを始めた頃に主治医をしておられた先生がまだ精神科に在籍しておられたので、無理矢理頼み込んで診察時間外の休憩中に話をさせて貰ったんだけど、いくらお願いしても会わせてはくれなかった。先生は『患者の状況については医師としての守秘義務があるからお話しすることは出来ない』と、とりつく島も無いような感じで僕を突き放した。まあ、『一般的なことだけど』と先生は前置きした上でパニックを起こした彼女がとても人に会えるような状態ではなかった事と、第二のトラウマ(僕が原因だ!)に心を蝕まれた病院では生活できないこと、今はもう転院してここにはいない事をやんわりと匂わせていた。そうか、ここに来ても柚香さんにもう会えないんだ…
「だから言っただろう。『すれ違い始めた心は、もう誰にも止められない』んだ」
先生の最後の一言は、僕にとっては死刑宣告のようなものだった…
次に追いかけた子供たちはもっと悲惨で、残酷な事実を突きつけられた。
県内の児童養護施設を片っ端から当たってみたけど、門前払いで話すら聞いて貰えなかった。そりゃそうだ。経過が何であれ、僕は妻と子供を捨てたんだから。
失意のどん底にあった僕は、長年勤めた工場も辞めてしまい家を引き払って中山県内を当ても無く彷徨っていた。もう家族や知り合いには会いたくない。かと言って死ぬ度胸もないから、家族も知り合いもいない所で静かに暮らそうかな、なんて思いながら…
通勤に使っていた軽自動車で山奥の田舎道をぼんやりと走っていたその時、僕はある村で偶然求人の貼り紙を目にして急ブレーキを踏んだ。達筆で書かれていた「クレーン・電気工事経験者求厶。資格取得者・経験者優遇。社員寮アリ」の文言に僕は飛びついた。
「ほう、それでウチに飛び込んで来たって訳かい」
工務店の事務所で僕の話を黙って聞いていたお婆さんが徐に口を開く。
「ええ、まあそういう事でして…僕は家族を捨て、何もかも失ってここへ来ました」
「で、あんたは工事の経験とか資格はあるのかい?」
「工場で働いてたんで、屋内なら天井走行クレーン、出先ならユニックも使えます。電気工事も資格と実務経験がありますから、戸建住宅やこぢんまりしたビルの配線工事位なら…」
お婆さんは僕を真っ直ぐに見据えると、優しくもあり厳しくもある口調で告げた。
「あんたがその気ならウチで働いてくれたらいい。社員寮っていってもこの敷地内で半分居候みたいな生活になるけど、覚悟はいいかい?」
僕は、お婆さんの目を見て大きく頷いた。僕に残された道はそれしかない。
「ようこそ内削村へ。我が景浦工務店へ」
僕は翌日から必死に働いた。忙しさは寂しさを忘れさせる、とか言うけどまさにその通り。僕は寂しさを紛らわせる為に、『子供を捨てた』という現実から逃避する為に働き続けた。
仕事を始めてから、せめてもの罪滅ぼしというか単なる自己満足でしかないんだけど、僕は地元の信用金庫で貯金を始めた。星來とはな、それぞれに口座を作ると収入がある度に同じ額を貯金した。いつか会える日が…もしそんな自分勝手な願いが叶うなら、きちんと二人にお詫びしてこれを渡そう。




