『主任とバディ、妻と子ども』
『発令、後藤攻殿。本日付け、作業主任を命ず』
その日は突然やって来た。今まで僕が働く部署にいた作業主任(僕を命がけで蹴飛ばしてくれたあの人だ!)の栄転による所謂『玉突き人事』。内々に打診があったときは『家族のことがあるんで』と断ったんだけれど…柚香のことは会社に伝えてあったし、これまでにも何度か柚香さんがパニックを起こした時に早退とかさせて貰っていたから。
それでも『どうしても』と言うので僕は思い切って柚香に相談することにした。
「サラリーマンなんだから、会社の方針に逆らうのは良くないと思うわ。私のことならきっと大丈夫。何かあったらスーパーお兄ちゃん、星來がいてくれるし♪」
彼女はそう言って微笑んだが、その裏側に存在した『初めて会った時に見た、危うげで儚い感じ』を僕が見抜けなかった瞬間から、家族のの歯車は噛み合わなくなり始めたんだということを後になって思い知ることになる。
僕が作業主任になってから暫くは順調、というか平和な毎日だった。僕みたいな不安全行動で怪我をする莫迦もいなかったし、工程の都合で残業が続くことはあっても柚香さんは『頑張ってね。星來とはなのことは私に任せて』と言ってくれた(後になって思えば、それが『すれ違い』を生み出すトリガーになっていたんだ、畜生!)けど、家に居る時は家族とのコミュニケーションを大切にするように細心の注意を払っていた。はなも優しくて大人しい子で、柚香さんがパニックを起こすようなこともなかったから『このまま行けば大丈夫』みたいな根拠のない安全神話的な気持ちが僕を支配し始めた。柚香さんの気持ちなんかそっちのけで…
新年度を迎え、我が部署に新人がやって来た。工業高校から新卒採用された女の子だ。
「初めまして、新人の大川知美と申します。皆さん、宜しくお願いします!」
やや強張った表情で挨拶する彼女を、皆は二通りの表情で出迎える。『ようこそ我が社に、っていう歓迎の意思』と、正反対の『負の感情』。昔ながらの古い考えの人達は、あからさまに『女に何が出来る?』的な冷たい視線を向けていた(視線だけじゃなくその感情を態度で示してしまったもんだから、彼女のプレッシャーは相当大きなものだったと思う)。
作業主任という立場上、僕が付きっきりで彼女に仕事を教えることになったんだけど、作業の合間に『女だからって莫迦にされてたまるか』とか『私がしっかりしないと、後輩の就職まで危うくなる』とか言いながら自身のモチベーションを鼓舞する彼女を危うく感じるようになった。このままじゃいつか大きな失敗か労働災害でも起こしそうだ。そう確信した僕は口を酸っぱくして『変に気負うと注意力散漫になるから、余計な事は考えずに目の前にある作業に集中する』よう事あるごとに注意喚起しながら遅れがちの工程を気にする毎日が続いた。
大川さんが気負い過ぎだったのか単に鈍臭かったのかはよく解らなかったけど、とにかく彼女は危なっかしかった。思い込みと気負い。間違った方向にベクトルが向き始めた感情が、結果的に空回りして作業が止まることも多々あったので段々と皆の雰囲気も悪くなりかけていた。
マズい!
これではいけないと思い、僕は一日の作業が終わった後も大川さんに粘り強く作業手順を教え続けた。少しでも皆の作業について行けるように…
その頃だ。これじゃいけない、と思いながらも僕は家に帰るのが遅くなるのが当たり前のようになりつつあった。そう、大切な家族である心が折れそうな妻と二人の乳幼児を放ったらかしにして仕事に没頭していた。
「最近、お仕事大変そうね。そんなに忙しいの?」
やや疲れた表情をしながら、柚香さんが僕の顔を覗き込む。
「いや…春に入社してきた新人さんが中々上手く仕事ができなくってさ。で、付きっきりになって教える羽目になったんだ。技術系の仕事に進出してきた女の子ってどう接したらいいか解らなくって…」
僕がそう言った瞬間、柚香さんの顔色が変わった。育児疲れで消耗しきって顔色が良くない彼女の目つきが変わる。余計な事を言わなけりゃ良かったかな、と思ったが後の祭り。
「ああ、そうなんだ。今、貴方は女の子に仕事を教えてるんだ。そりゃ大変ね」
その日以降、柚香さんの僕に対する当たりが明らかに変わった。『自分と星來とはなという大切な家族より新入社員の事を大事にするようになったんだ』って彼女は勘違いし始めたようだ。僕はただ、家族の為に頑張って働いているだけなのに…
ある日、柚香さんは遂に僕のせいでパニックを起こした。いつものように夜遅く帰宅した僕を、柚香さんは冷ややかに迎え入れる。
「今日も遅くまでお疲れさま。仕事のバディが女の子だったらお仕事も楽しそうね。それともお仕事以外にも何か…?」
「何を言ってんだ、そんなわけないだろ!僕はただ、家族の為に、会社の為に働いているだけだ!」
つい大声になった僕を柚香さんが諫める。
「し~っ、大声出さないで!うちには小さな子供が二人もいるんだから…」
柚香さんは眉を顰めると、口に人差し指を当てて囁くように言った。
僕が一生懸命築き上げてきた『家族』が、今まさに崩壊しようとしている…
その日から、医者でも家族でもない奴が見ても容易に想像できるくらい柚香さんの症状は悪化の一途を辿り出した。いくら僕の想い、本当の気持ちを伝えようとしても彼女の中では『私以外の女性に入れあげている』絵は変わることは無い。遂に彼女は『私よりあの女がいいならそいつの所へ行けばいいじゃない!』とかいう言葉を吐くようになった。僕は単なる誤解だと思っていたから最初はそれでもいいと思っていた。いつか誤解は解けるんだ、そう頑なに信じていたのに…だけど、日を追うごとにその誤解はいつしか既成事実のようになり始めた。まるで、それが真実であるかのように…
だって、柚香さんはその言葉を星來とはなの前で平然と言うようになったから。
柚香さんが毎日のようにその言葉を口にするたび、星來はまだ何も解らないはなを抱きしめて、ただ黙って時が過ぎるのを待っていた……




