何故、何もしなかったのか
無理しなくていいから、と僕は言ったんだけど柚香さんは入院に至る経過を少しずつ話し始めた。
高校三年生の夏、下校途中。駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームに同級生の女の子が佇んでいる。殆ど話をしたことのない子だったけれど、顔と名前は何となく知ってる子。ふと目が合い、会釈程度の挨拶を交わした…次の瞬間、彼女は躊躇いもなく向かいのホームを通過する快速列車に飛び込んだ。
彼女は二年生の時に同級生から酷いいじめを受けていたらしくて(現場検証やら、その後のスクールカウンセラーとの面談やら何やらで嫌ほど聞かされたらしい)、彼女はその傷を引きずったまま進級。いじめは収まったものの孤独感とトラウマが彼女を衝動的な死に追いやったようだ。
何故、止められなかった?
何故、彼女の孤独に気付かなかった?
何故、何もしなかった?
柚香さんの心に、毎日のようにその声が響き渡る。
言っておくが柚香さんに責任なんて欠片もない。ただ、顔見知りで最後に目を合わせただけ。でも、凄惨な現場の記憶は彼女の心を蝕んだ。それ以来、彼女は電車に乗れないどころか登校も出来なくなり、遂には自殺未遂までやらかして入院したそうだ。いつも隠していたからこの時に初めて気づいたけど、手首のリストカット跡が彼女の傷の深さを物語っていた。
「ごめんなさい、貴方を巻き込むつもりはなかったんだけど…」
柚香さんが項垂れる。どんな表情だったのかは長い黒髪に隠されて解らなかったけど、床のタイルに滴る涙が僕に全てを教えてくれた。
「あの、私…明日から屋上に来るのを止めます。これ以上貴方に…」
何かの衝動が僕を突き動かす。それが何かは僕にも解らない。
「何言ってるんですか!明日からも来なくちゃいけない。来るんだ!」
彼女の泣き腫らした目が、驚いたように僕を見つめる。
「僕はいま話で聞いただけだし、苦しんでいる本人でもないから無責任な言い方かも知れないけど…自分の辛いこと、苦しいことを曝け出しただけで物事を終わりにしちゃいけないよっ!」
柚香さんが驚いた表情で僕に問いかけた。
「じゃあ、明日から私はここで何をすればいいって言うの?」
「ここへ来て、にっこり笑って『おはよう』とか『こんにちは』とか『また明日ね♪』って言えばいいんだ。まずはそこからじゃない?それを積み重ねて行けばそのうち何か貴女の未来を照らしてくれる光明みたいなもんがきっとどこかに…」
僕が言葉に詰まった瞬間、彼女がフッと微笑む。今まで見たことのないような、優しいながらも憂いを帯びたような表情が僕をゾクッとさせる。
「変わった人…物好きが過ぎると言うか、お人好しにも程があると言うか」
僕はこの時既に、彼女を一人の女性として認識していた。いや、正直に言おう。惚れていた。嵐の中で、今にも倒れそうな一輪の花が美しく、愛おしく思えた。
明日も屋上に来いとか偉そうに言っておきながら、翌日から僕はリハビリ漬けで屋上に行く暇が無くなってしまった。ただ、僕がリハビリ室にいる事を彼女は知っていたので、柚香さんの居場所は屋上からリハビリ室前のロビーに変わった。リハビリを終えた僕に彼女が用意してくれたハンドタオルは僕が使っている手拭とは違った、ふんわりとした甘い香りが……
この頃から、僕は柚香さんに惚れていた。僕は彼女とずっと一緒にいたい。これからの人生で、僕が添い遂げたい女性は彼女しかいないと確信し始めていた。彼女がどう思ってくれているのかはよく解らなかったけど…
リハビリは順調に進み、いよいよ明日僕は退院する。柚香さんは外出許可が下りないので、僕は思い切って彼女を屋上でのデートに誘った。何時もはお互い部屋着とかジャージだったけど、この日だけは飛びっ切りのお洒落をして……
夏の晴れた日。僕はTシャツにデニムのパンツ。彼女は、薄い水色のワンピースに白い麦わら帽子。僕の恰好はともかく、彼女のワンピースはとても良くお似合いだった。
「えへへ。どの服来て行こうかなって看護師さんと相談して決めたんだ」
よく似合うよ、と褒めた僕に、彼女が恥ずかしそうに答える。
「あのね、今日は…」
彼女がモジモジしながら手許の手提げバスケットに視線を落とす。
「一緒に食べようって思って、お昼ご飯を用意してきたの。刃物や火は使わせてもらえないから、売店で買ったものを詰め替えただけなんだけど…」
「えっ、そうなの!火とか使えないのは仕方ないけど、そんなに頑張ってくれてたんだ!嬉しいよ!ありがとう!」
「そんなに喜んでくれるんなら、頑張った甲斐があったわ。さあ、戴きましょう」
僕達はお昼ご飯を食べながら、そして食べ終わっても屋上が施錠される時間になり追い出される迄色んな事を話した。
「あ、あの…」
「なあに?」
恐る恐る切り出した僕に、彼女が優しく反応する。
「明日……僕は退院するけど、時々会いに来てもいいかな?」
彼女は儚げな微笑みを湛えながら、呟くように答えた。
「待ってる。時々、じゃなく毎日でも」
それからも僕は暇を見つけては彼女の病室を訪れた。儚げで危うい感じはそのままだったけど、顔を合わせる度に少しずつ元気を取り戻しかけている感じがした。




