清く、貧しく
皆さんこんにちは。中辺路友紀と申します。
本作のテーマは『人の愛情を知らずに育った人間が、人とのふれあいの中で成長すること』です。
主人公とたった一人の家族である年の離れた妹の運命の物語が、いま始まろうとしています。
夜遅くまで馬車馬みたいに働いて疲れ切った俺は、エレベータもない社宅の五階まで這うようにして登ってきた。何時もは向かいの婆さんが五月蠅いから静かにドアを閉めるんだが、余りにも疲れていてうっかり乱暴にドアを閉めちまった。
「ちょっとお兄、玄関くらい静かに閉めてよ。明日お向かいのお婆さんに怒られるの私なんだよ?」
「すまん、はな。つい…」
たった一人の家族である我が妹よ、許してくれ…
「ゴメン。言い過ぎた。あたしを女子高に通わせる為に毎日お兄は朝から夜中まで働いてくれてるんだもんね!お疲れさまっ!いつもありがとねっ!」
俺はつい妹に声を荒げそうになる自分を制してボソボソと妹に釘を刺した。
「俺は、はなの幸せの為に働くのが生き甲斐、いや生きている理由なんだ。俺が好きでやってる事にいちいち礼なんか言う必要はない」
「お兄はさぁ、いつもそうやって言ってくれるけど…そんな兄の愛情を受けて育った少女が感謝の心とか気遣いとか無いとでも思う?」
「…解ってるさ、はな。俺が言いたいのは、気持ちは十分伝わっているから、いちいち口に出さなくていいってことだ」
「はいはい、わかってますよん。今日も一日ありがとっ!お風呂沸いてるから先に入っておいで。今からご飯の支度するから」
「え?今何時だと思ってんだ、夜の九時半だぞ。まさか、はなも飯食ってないのか?」
「一人でご飯なんてつまんないよ。お兄と一緒にこれから食べるの!まあ、これも妹の愛情だと思って受け止めてくれるとありがたいな。さあ、早く!お風呂冷めちゃうよ」
そう言ってはなは俺にタオルとパジャマを優しく投げると台所に戻っていった。俺が風呂から上がると、小さなテーブルに所狭しと様々な料理が並んでいた。唐揚げ、サラダ、煮物…タオルで髪を拭いていると首筋にキンキンに冷えた物体が押し付けられる。
「…っ、何しやがる!」
「ああ〜、そんな事言ってもいいワケ?折角お兄の大好きななビール、冷やしておいたのに〜。じゃあコレは無しって事で」
頼む。それだけは勘弁してくれ。俺は悪戯っぽく笑みを浮かべるはなに詫びを入れると、ビールを片手に椅子に座った。
「いただきま〜す!」
飯を食いながら、はなは今日も学校であった事を楽しそうに話してくれた。その表情を眺めながら、俺は無理してでもはなを女子高に行かせて良かったと思った。
二人きりの楽しい晩飯を済ませた後、はなは後片付けを済ませて床についた。俺は台所で独り、明日の弁当に差し支えないよう細心の注意を払いながら夕飯の残りをアテに焼酎を呷っていた。
こうして独りでいると、思い出したくない過去が記憶の片隅から湧き出してくる…
今、家族は俺とはなの兄妹二人だけ。正確に言うと俺たちは神が造り給うたものではないから、生物学上父母がいないということはない。敢えて言うなら父母は『いた』ことになる。
あれははながまだ赤ん坊の頃だった。中山県のとある地方都市(小学校の教科書にも出て来る有名な火力発電所よりも南、温泉とパンダで有名な街より少し北あたり)で暮らしていた俺たちには、確かに父母がいた。クソ真面目で、工場の仕事が終わったら繁華街の飲み屋で一杯やるわけでもなく家に飛んで帰ってくる父親がある日突然俺たちに何の断りもなく家を出た。俺は、いつかある日『私よりあの女がいいならそいつの所へ行けばいいじゃない!』とか喚いていたのを聞いていたし、父親がいなくなってから俺だけには『君のお父さんは家族を捨てたんだ』と言っていたので何が起きたかは子供なりに理解していたつもりだった。俺はあの時『父親は俺たちを捨てた。これからは母親と俺とはなの三人で生きていく』もんだと思ったのを何となく覚えている。
まあ、俺たちを捨てたのは父親だけじゃなかったんだが。その事の真相を俺たちは数日後に知ることになる……
バンバンバンと乱暴にドアを叩く音がする。これは…ああ、また今日も怒られるんだ…
恐る恐る、静かにドアを開けたあたしの前には、お向かいのお婆さんの姿があった。
「ちょっと後藤さんっ?何度言ったら解るのよ!夜遅くに玄関ドアの開閉したら五月蠅いって!」
「スミマセン、御迷惑おかけしてます…」
「まったくもう、最近の若い子は常識の欠片もないんだから!夜遅くまで莫迦みたいに遊び呆けているんじゃないわよ!」
言いたい事だけ言うと、お婆さんは我が家のドアを乱暴に閉めて自室に戻っていった。一応お兄の名誉のために言っておくけど、お兄は別に遊び呆けて夜遅くなってるわけじゃない。残業や変則勤務で帰りが遅くなったり早朝になったりする、という事実にお婆さんは気付いていないようだ。業界の中では準大手と呼ばれる企業とはいえ、一応日本全国が営業エリアの運送屋さんなんだから朝早くから夜遅くまで(正確にいうと二十四時間体制で)働いている人もいるんだから夜遅くなったって不思議じゃないのに…一体お隣さんは何時に戻ってきてるんだろう…
「お〜い、セラくん」
俺のことを一番嫌な方法で呼んだ奴がいる。
「所長、その呼び方は止めて下さい。確かに俺の名前は星來ですが…」
「そう?いい名前だと思うんだけど…」
「そもそも名前なんてのは人を識別する符号みたいなもんです。この営業所に後藤は俺一人しかいないんだから、わざわざ下の名前で呼ぶ必要はないでしょ」
「解った。君がそんなに嫌がるんなら止めておくよ。ところで後藤くん」
「はあ、なんですか」
「最近の勤務状況なんだけどね…凄く熱心に働いてくれているのは有り難いんだが…」
真面目に働いているんだからそれでいいだろう。何が気に食わないんだ。
「はっきり言おう。君をこれ以上長い時間働かせる事はできない」
「何故ですか所長!俺は妹を養うためにもっと稼がなきゃいけないんですよ?」
理由は他にもあるんだけどな…
「法律の壁、ですよ」
「法律?」
「そう。労働基準法では労働時間の上限ってものがある。後藤くんの場合、通常勤務時間プラス総残業時間がほぼ上限に達している。これ以上残業させたら我が社は法令違反になってしまう」
「…それ以上は働くな、と」
「そういうこと。来月から勤務シフトの調整に入るんで、後藤くんの出番は少なくなるかも知れないけど悪く思わないでね」
何も言わずに俯いている俺に、所長は更に続けた。
「いきなり給料上げるだなんて事は出来ないけど、扶養手当なんかで出来る限りのことはやらせてもらっているし、社宅も最安値クラスの部屋を提供して…」
「もういいです。わかりました。身体のことを心配して頂いてありがとうございます」
それだけ言うと俺は仕事に戻った。さて、あと一本走ったら今日の仕事は終わりだ。まあ、いつも通り帰りは遅くなるだろうけど…
夜遅くに俺が帰宅すると、台所のテーブルにエプロンをしたままのはなが突っ伏して居眠りしていた。料理するのにエプロン使う位なら、いっそ家に戻ってきたらセーラー服から私服に着替えればいいのにと思うんだが、それを口にするとはなに怒られそうなので今までそれを言ったことはない。テーブルの上にはラップをかけた料理の数々。はな、お前は昭和のドラマに出てくる新妻か…
苦笑いしながら作業着を脱ごうとした時、俺はテーブルに二通の書留郵便が置かれているのを見つけた。
うちに郵便なんてまず来ないのに、しかも書留?何だろう、嫌な予感しかしない。二通とも無機質な印刷で『後藤星來殿』と書かれていた。俺宛か。まあ高校生のはなに書留なんて来ないだろうが…
一通目。債権譲渡の通知。はなに見せたくなかったな…銀行から届いてる時点で察しがつくだろうが…
高校を出て直ぐに『稼ぎが良さそうだった』という理由だけで俺は運送屋に就職した。あと、今の会社は福利厚生が充実していて『各営業拠点に社宅があった』というのも理由の一つ。就職すると施設を出ないといけない。だけど、はなを施設で独りぼっちにしたくなかった。内定が出てから会社に事情を説明すると中山県から遠く離れた、本社があるここ鞆浦市に配属して貰えた。働き始めた俺は、はなを養うためにとにかく金が必要だった。とはいえ、高卒でまだ免許も無かった俺が出来る事なんて知れていた。引退寸前のオッサンの助手として必死に働いたが、収入なんて知れたもん。(実際、ほかの高卒連中と比べると稼ぎは良かったが扶養家族がいるぶん出費も多かった)で、俺は必然的に借金をした。大手の銀行が学歴もない未成年に簡単に金を貸してくれる筈もなく、行く先はサラ金だった。最近は奴らも不景気なんだろう。どんどん大手銀行の傘下に入っていく。俺の借金も、ついにそうなったって事だ。
参考までに、と書かれた前月末の残高を見て俺は軽い目眩を覚えた。一体いつ終わるんだこの借金は…働き始めた頃は借りまくり、最近は家計をやり繰りして返済しても元本は殆ど減らない、そんな現状に未来はあるのか…
二通目。何だこれ?『中山県弁護士会所属・弁護士 長谷川 光子』と書かれた差出人に心当たりはない。中山県?俺の嫌な予感は最高潮に達した。
後藤星來 殿
後藤はな 殿(後見人 後藤星來 殿)
後藤 攻氏相続手続の開始について(通知)
拝啓 秋の風が爽やかに感じられる今日この頃、ますますご活躍のことと存じます。
この度は、突然のお手紙を差し上げ失礼します。当職は、標記の件に関する手続を受任しております弁護士でございます。
貴殿の父であります後藤 攻殿におかれましては、昨年十二月八日に御逝去されました。当職は、攻氏より生前に『自身の死後、相続手続を一任したい』との依頼を受け、これを受任しておりました次第でございます。
つきましては、手続の着手にあたりお伝えしたい事がございますので、当職あて御連絡戴きたく、お願い申し上げます。なお、詳細については追ってご通知申し上げます。
敬具
何だこれ?たちの悪い悪戯か?
てか何を今更『父親』だ?他所に女作って、家庭を捨てて出て行った奴が『父親』?ふざけるのもいい加減にしろ!
俺は届いた手紙をそのまま捨てようとしたが、何か躊躇いのようなものがあった。俺は軽く舌打ちをすると、その手紙をはなの目につかないところに隠すように仕舞った。
もし仮に、俺たちを捨てて出て行ったあの男が死んだというのが事実だったとしたら…
もういい。俺たちには関係ない。生きていようが死んでいようが、あいつが家を出て行った時点で家族でも何でもない。赤の他人みたいなもんだ。
台所に戻ると、丁度はなが目を覚ましたところだった。
「あ、おかえりお兄。て言うか帰ってきたんなら声かけるとか起こすとかしてよ!」
「思い切りドアでも閉めれば良かったか?」
「うわっ、それだけは止めて」
「ははは、冗談だ」
「うっわ〜。普段冗談言わない人が言うとキツい〜。そりゃそうとお兄、手紙が来てたけど何かあったの?」
「はなには関係ない事だ。心配しなくていい」
「ふ〜ん」
はなはそれ以上何も言わなかった。言っても俺は答えないし、俺がはなに気を遣わせまいとして態とそうしているのを察しているだろうから。はなならきっと、そんなこと言わなくても俺の心中は察してくれているはずだ。
「それよりもな、はな…」
「何?ご飯の支度なら直ぐに出来るよ」
「お前、テーブルに突っ伏して寝てただろ?おでこに寝型付いてるぞ」
「ええっ?やだ恥ずかしい!てかお兄、そういうデリカシーの欠片もないようなこと、お年頃のレディに言うもんじゃないわよっ!」
この手紙が、俺たちの運命を大きく変えることになる。
コミュニケーション能力の乏しい私がこんな物語を紡ぎ出していることを知人なんかに知られたら、きっと大笑いされるでしょう。
ですが他人様になんと言われようが『人と人との繋がり』をテーマに物語を紡ぎ出すのが私の作風です。
もしご興味がありなら、の話ですが次回以降もお付き合いいただけると幸いです。
では、またお会いしましょう。中辺路友紀でした。