どうも、編集の稲田です。
初めまして、編集部に勤めて1年目になる稲田と申します。本日は、担当させて頂いている作家様のお宅へ原稿を受け取りに来ました。
以前は新聞社に勤めておりましたが、今は畑違いの仕事をさせて頂いております。本を作るお仕事に携わりたいと常々思っておりましたので、念願が叶った形であります。
入社してすぐ配属されたそこは……未知の世界でした。
作家様のお宅のベルを鳴らすと、すぐにドアが開きました。中から出て来たのは、予想していた方ではなく、ラフな格好をしつつも節度ある私服姿の別の社の担当さんです。どことなく、救いを求める目をしている気が致しますが、何かあったのでしょうか。
「稲田さぁ~ん。今日はニアミスの日だったんですねぇ!!」
「どうやらそのようですね」
他社の編集担当とニアミスすることなど滅多にありません。それも、私が担当する作家様がニアミスを起こすことなく創作を行える力量をお持ちだったからです。しかし今回は、兵藤さんもいらっしゃるようです。
救いを求めていた目元が、わずかに半泣きになっているような気が致します。作家様の身に何かあったのでしょうか。心配でなりません。
「浅夢様に何かあったのですか?」
「いえ…輪廻人さんには何も……」
ここで、勘の鋭い方はお分かりになったことでしょう。そう、私が担当するのはBLです。そして新人編集者の兵藤さんが担当するのは、純文学です。生真面目だけが取り柄の私ですが、理解を超えた世界に足を踏み入れたため、1年という歳月は長くもあり短くもありと苦難の連続です。
ともあれ今は浅夢様のことが気がかりです。失礼して、人の気配のあるリビングへと足早に、しかしながら丁寧に入室のお伺いを立てながら向かいます。そこには、普段とお変わりない様子の浅夢様がソファーに座っていらっしゃいました。どうやら本当に浅夢様には変わったことはなかったようです。私を見つけると、いつものように招き入れて下さいました。
「来たのね。原稿ならコレよ。間違えて兵藤に渡しちゃったから、兵藤のパソコンを見て」
コレ、と指さされたパソコンの画面には、確かに原稿が表示されていました。それも、致しちゃってる内容の部分です。兵藤さんが半泣きになった理由が分かった気が致しました。彼は、この手のお話に弱いのです。BLという未知の深淵を私以上に理解できないのでしょう。
ともあれ、私はこれでも浅夢様を担当させて頂いて早1年、これぐらいのことで怯むことはありません。萌えやBLの神髄への共感は得られていませんが、一編集者として、しっかりと作家様を導きたいと思っております。いざ、拝読……
泡を吹く寸前な兵藤さんの突き刺さる視線を受けながら読み終え、率直に作品の感想を述べさせて頂きます。
「もっとここの結合時の表現をセンシティブにしてみてはいかがでしょうか」
「さすが稲田!! 分かってるじゃないのっ」
「ちょっ、結合…じ、とか言うの止めて下さいよ!!」
真っ赤な顔で憤慨しているのやら恥ずかしがっているのやらな兵藤さんのヤジが飛んで来ましたが、気に致しません。私は編集者なのです。より良い作品になるよう、誠心誠意作家様に向き合い、意見を申し、時にはぶつかり合いながら作品を作っていくことがお仕事なのです。表現の仕方への詳細なダメ出しも勿論行います。その間兵藤さんは、耳を塞いで悶絶しているように見えましたが気に致しません。これもお仕事なのですから。
嬌声の上げ方が少しわざとらしいしあざとい、もっと恥ずかしがって我慢している方がリアリティがある、この受けのキャラクターで淫乱は不自然等、細かい指摘を行わせて頂きました。それに対して浅夢様は、確かにちょっと妄想を入れ込み過ぎたと、リアリティがモットーだと自覚しておいでなのか反省しておられます。すぐに書き直すから少し待っててと仰り、リビングを出られました。
しばしの休憩、と言ったところでしょうか。浅夢様はすぐ直すと仰ると1時間も経たずに書き直されるので、とても凄い作家様だと自負しております。さて、待たせて頂いている間にコーヒーでも入れさせて頂きましょうか。浅夢様が大好きなブルーマウンテンを入れてお待ちすることに致しましょう。
キッチンへ向かうと、兵藤さんがげっそりとした顔でついて来ました。何やら物思いに耽っている様子です。
「凄いですね稲田さん。全く興味のないジャンルなのに、あそこまで熱意を持って作家さんと向き会えるだなんて…」
俺にはとても無理です…と自信喪失していらっしゃる模様。何故でしょう。純文学という、とても素晴らしいジャンルを担当させて頂いているのに、何を思い悩むことがあるのでしょう。
不思議に思っていると、兵藤さんは急に私の手を両手で掴み、どうか秘儀を教えてくださいっと仰いました。はて、秘儀とは何のお話でしょうかと思っておりましたら、玄関がガチャリと開いて、その勢いのまま軽快な足音と共にリビングに入って来ました。
「お姉ちゃんただいまぁ~!! 今週の金曜日のことなんだけどぉ~……」
言いかけた口が止まり、手に持っていたカバンと手提げ袋が落下します。目を真ん丸にしてこちらを見ているその子は、浅夢様の弟の未来くんでした。
「ひゃ~~!!」
メンズラブメンズラブとはしゃぎまわり、しまいには、大ニュースだよお姉ちゃんっと階段を駆け上がって行きました。止める間もなく、誤解を解く間もありませんでした。未来くんの将来が心配です。
因みにお隣の大人も、固まったまま動かなくなりました。メデューサにでも睨まれたのでしょうか。こちらも心配です。
気を取り直して、珈琲豆を煎るところから始めることに致しましょう。それから、未来くんには苺ミルクを作って差し上げなくては。