混沌と静寂
今日も電車が止まった。
惨劇を目の前にすると不思議と
羨ましいという気持ちがわいてくる。
硬い何かが弾ける音、肉が潰れる音、
周囲にちった生ぬるいような、血。
一瞬の静寂。
直ちに訪れる人々の恐怖、注目、悲鳴、
散乱したものを凝視したまま、
ただただ立っている人。口を開けてそれを食べようとしているのか。
うずくまって泣いている人、
それに当たって腹が痛いのか。
スマホに散った血液を、
白いハンカチーフで拭いて、
その場に捨てる。
一部赤黒く染まったハンカチーフは、
為すすべ無くひらひらと落ちてゆく。
あの人もそうだった。
まるで直前で操り人形の糸を切られたかのように
為すすべ無く優雅にひらひらと空を歩いて、
それから散った。
他人の死を間近で見ることが出来たこと、
感謝するよ。
誰だか知らないが、飛び散ってくれてありがとう。
空を歩く前に脱げた彼の黒く光った靴を
ビジネスバッグに入れて持ち帰った。
恐る恐る会社に電話をした。
体調が優れないので休みます。
電話越しに聞こえる怒号は
あの人の生も物語っているような。
もうどうだっていい事なので最後まで聞かず
電話を切った。
またかかってくると面倒なので、
電源を切った。
そして早速、
先程持ち帰った黒く光った靴を鞄から出し、
着いた血液はそのままに頬を擦りつけた。
靴を愛でる大人よ、死を愛でる大人よ。
脱ぎたてではないが、少しあたたかさが残っている。
血にも靴にも。
この空気中に、実体を持たないあの人が
蝶さながら彷徨っている。
途方に暮れて迷って踏み出した一歩も、
無駄足だと気付かされるように。
だが、彼は幸せ者だ。
こうやって、自身を愛でてくれる人がいるのだから。
最も意識も体もない状態ではあるが。
彼に踏み出せた一歩を
殆どの人は踏み出せないだろう。
殆どの人が踏み出せた一歩を
彼は踏み出せ無かったのだろう。
生と死に愛されたからこその一歩。
これを羨ましがらないわけにはいかない。
勇気、とは少し違うが、
勇気に似たそれを貰わないわけにはいかない。
彼の意思、を受け継がないわけにはいかない。
軋む縄の音は聞き飽きた。
倒れる椅子の申し訳無さにハッとする。
踏み出す一歩の大きさにゾッとする。
今日もまた、
どこかの、混沌と静寂は繰り返している。