第六話 終わりと始まりと泡沫のユメ~前編~
ドラフト1位指名されました(ヤキュウナニソレオイシイノ
どうやら中間管理職になるようです(絶望
今から胃が痛いです(オワタ
久方ぶりに魔力を全力で開放した。
モルディギアンを内側から破る時も、地球を荒廃させる時も、セクメトは全力など出していない。
出す必要がない。
セクメトは破壊の神だ。
薄い紙を破るのに全力を出す者が居ないように、セクメトにとってモルディギアンも地球という惑星も、等しく全力を出すに値しないということだ。
「少々魔力を込めすぎたか」
本来はこの肉体、芽香美を一度殺すつもりで魔術を行使したのだが、分身体の方がもたなかった。
いかにセクメトが創り出した魔道具であろうとも、セクメトの全力を受け止めるには器が足りなかったようである。
「永い時は我をも蝕むか」
封印される前ならば、こんな読み違いは起こさなかったと確信できる。
劣化しているのは芽香美の記憶にあった魔術師ばかりでなく、セクメト自身も含まれているようだ。
「小娘。貴様は我の領域に至った時、果たして耐えきれるか?」
セクメトは、聞こえない問いかけを投げかけた。
耐えてもらわなければセクメトの方が困るのだが、肉体は人間のものでしかない。
芽香美にとって死は意味の無いものだが、いつまで経ってもセクメトの全力が操れないようでは繰り返す原因を解明することも叶わないだろう。
敵は旧支配者などではない。
おそらく旧神だ。
封印される前のセクメトですら、同じ舞台に立たねば抗うことが出来ない領域に居る。
芽香美はまだ、舞台に立つどころかセクメトの力すら操り切れていない。
「だが、我の力を思い知ったであろう? ならば、貴様は抗うしかないはずだ」
多少の手違いはあったものの、セクメトは芽香美に最大限の贈り物を送った。
人間という枠組みから逸脱している芽香美ならば、そう遠くない未来にセクメトの力を十全に行使することが出来るようになるだろう。
これ以上の贈り物は必要ない。
郁坂芽香美という存在は必ず魔術を理解し、セクメトの力に耐え、想いに応える。
目の前にぶら下げられた『死』の可能性に縋りつく限り、それは必ずだ。
あとは期を待つのみだった。
いつも少しうるさいくらい元気なのに、今日の成美は朝から静かだと明日香は感じていた。
九咲幼稚園すみれ組は賑やかで、その中心にはいつも成美がいる。
明日香は基本的に誰とでも遊ぶし誰とでもケンカをするが、成美とはケンカをしたことはない。成美には良く話しかけられるし、こちらから話しかけることも多く、他の子よりは少しだけ仲が良かった。
成美は転べばすぐ泣くし、楽しいことがあれば皆に話して皆で笑う。失敗すればすぐに落ち込むし、良いことがあれば満面の笑みで嬉しそうにしている。
変に強がったりせず、良い子ぶることもなく、泣いたり笑ったり、とにかく全力だ。
明るくて素直な子。
明日香は成美に対してそんなことを思っていた。
それなのに今日は朝の挨拶の時から静かで、昼ご飯も食べたし昼寝もしたというのに、いつまで経っても元気な姿を見せない。
他の子に話しかけるでもなく、遊ぶでもなく、今は床に座ったままおもちゃ箱をじっと眺めていた。
周りの子も気になっているのか、たまに成美の方を見て首を傾げている。
誰も遊びに誘ったり話しかけたりしないのは、成美の反応が鈍いからだろう。明日香も朝の内に遊びに誘ってみたが、気のない返事をするばかりで、それからは話しかるのをためらっていた。
(お母さんにでも怒られたんでしょうか)
考えられるのはそれくらいだった。
明日香にも経験がある。
朝ご飯で嫌いなピーマンを残した時や、お皿を割ってしまった時、嘘をついてしまった時など、母親や父親によく叱られた。三つ年上の兄とテレビ番組の取り合いでケンカをした時などは、もっと怒られた記憶がある。
きっと成美も叱られたから元気がないのだろう。
(もう、しょうがないですわね。私が元気づけてあげますわ)
お姉さん役でもしてみようと、明日香は読んでいた絵本を片付けて立ち上がった。
ちょうど昨日、兄と一緒に見ていたアニメで姉が妹を慰めるシーンがあった。明日香には妹も弟もおらず、むしろ兄に慰めてもらってばかりだ。
たまには明日香も年上ぶりたい。
そんな気持ちで、明日香は成美に近寄った。
「成美ちゃん、朝からずっと元気ないですけど、どうしてですの?」
「明日香ちゃん……」
振り向いた成美の顔は、暗く落ち込んでいた。こんな表情の成美はやはり珍しい。
「すごく怖い夢を見たんだよ~……」
成美は女の子座りのまま俯き、そんなことを言った。
「怖い夢ですの?」
それで成美に元気がないのかと、明日香は納得したような良く解らないような、曖昧な気持ちになった。
親に怒られて落ち込んでいるわけではないらしいが、怖い夢を見たというだけでここまで落ち込んでいるというのは、明日香にはよく解らないことだ。
怖い夢自体は明日香も見たことがあるし、泣きながら起きて母親や兄に慰めてもらったこともある。
それでも夢は夢。時間が経てば忘れてしまうもので、どれだけ怖い夢を見ても半日もせずに忘れてしまうのがほとんどだ。
素直な子だとは思っていたが、半日以上も夢のことを引きずっているとは思いもしなかった。
「どんな夢ですの?」
「あのね、怪物にね、みんな食べられちゃうんだよ~……」
たどたどしく不安気にしゃべる成美だったが、明日香は根気よく話を聞くことにした。
怪物にみんな食べられるというところから始まったその夢は、海から大きな怪物が現れ、街が破壊され、人々は食べられてしまうというもの。
簡単に言えばそんな内容だった。
(お兄様が好きそうなお話ですわね)
男の子が好きそうな怪獣映画や特撮ドラマみたいだなと明日香は思う。
寝る前にそういうテレビ番組を見ていたのではないかとも思ったが、成美がそういうのを見るとは聞いたことがない。どちらかというと女の子向けのアニメや絵本の話が多く、明日香ともそれについて話をしたことがある。
もちろん明日香は兄と一緒に男の子向けの番組も見たことがあるのだが、たいていの場合は五人組や巨人に変身するヒーローが表れて怪物を倒してくれるのがほとんどだった。
成美の夢には登場しなかったらしい。
「大丈夫ですわ、成美ちゃん」
「明日香ちゃん……」
明日香は成美の頭を抱えて抱きしめた。
アニメでも姉が妹を抱きしめて慰めていた。それの真似をしたかったというのもあるが、半分泣きかけている成美を見ていたら自然と身体が動いていた。
落ち込んでいる成美に共感する部分もあるが、それよりも夢を怖がる成美を可愛いと感じる。
妹がいたら、こういう気分なのかもしれない。
「うぅ~……」
抱きしめられて我慢できなくなったのか、成美は顔を明日香の肩に埋めてくぐもった泣き声を上げた。
明日香は成美の背中を優しく撫でる。
自分より大きい家族とは違い、同じ背丈なのに小さく感じる成美の温もりに自然と微笑みがこぼれた。
幼い明日香が知らないその感情は、あえて言い表すならば親愛だろうか。
明日香は成美が落ち着くまでしばらくの間、ずっと抱きしめていた。
「ありがとう、明日香ちゃん」
泣いたことで気持ちの整理がついたのか、未だ鼻をすすっているものの数分後にはいつもの笑顔が戻っていた。
「どういたしましてですわ」
明日香も笑顔をもって応え、二人そろって恥ずかしそうに笑い合った。
芽香美はゴミが点在する砂の海岸に寝そべっていた。
衣服は砂利と海水にまみれており、身体のいたるところに打撲痕や裂傷が出来ている。
分身体の魔術を目の当たりにした芽香美は、茫然としたまま海へと落下し、そこから意識がなく、気が付いたらこの状態である。
運よく溺死せず、この島に漂着したのだろう。
もしかしたら今頭上を漂っている銀色の光、ニトクリスの鏡が何かしらの魔術で助けてくれたのかもしれないが、芽香美にはどうでも良いことだ。
先ほど意識を取り戻してからずっと、ひたすらにぼんやりと空を眺め、分身体が放った魔術のことだけを考えている。
(死んでも時間が戻るとか……そんなもん関係ねぇくらいの魔術だった……)
魂までをも砕かれた。
実際、あれを喰らったらそうなると確信するほどに、芽香美という存在は分身体の魔術を認めていた。
認めざるを得ないだろう。
芽香美は今まで死と生を繰り返し、歪みながらにもありとあらゆることを考え、実行し、失敗し、殺されて、成功し、自殺して、それでも生き続けてきた。
クトゥグァの炎に何度殺されたかも解らないが、クトゥグァによる死は恐れなかった。
むしろ、芽香美は死んでも生き返ることこそを恐れていたのだ。
芽香美が怖いと思うモノは、繰り返すこの生命でしかない。
その芽香美が、無に還ると直感するほどの魔術。
今までの全てが無駄に、無意味に、呆気なく、存在そのものが消されるという恐怖を味わった。
知らない恐怖だった。
そして何よりも、そんな魔術があるというのに、セクメトが芽香美を殺していないことが不可解でならない。
(あんな魔術があって……何で私を殺さない……)
セクメトでは芽香美を殺せないから、繰り返す理由を芽香美自身に突き止めさせようとしているのだと思っていた。
多分、それは正解なのだろう。
けれど、芽香美そのものを滅する魔術があるのならば、何も考えずあの魔術を行使すれば良いだけの話だ。
(あれを喰らっても死なねぇってのか……?)
存在そのものを消されると評価したのはただの直感だ。
実際はそこまでの効果はないのかもしれない。
否。
どちらにせよ、セクメトはおそらく試したのだろう。それでも芽香美は滅することなく繰り返したのだ。
「はは……」
あんな魔術を喰らっても。
芽香美は消滅を悟ったというのに。
「はは……ははははは……」
それはどんな化け物なのだろうか。
セクメトは芽香美を殺せない。
そんなもの、人間ではない。
芽香美は自分を普通の人間ではないと思い知っているが、ここまでオカシナ存在だとは思っていなかった。
破壊を司る者にすら破壊できない人間など、居て良いわけがない。
いや、セクメトですら芽香美を「人間なのか」と問いかけてきたではないか。
破壊の神を名乗る相手ですら芽香美という存在が理解できていないのだ。
「あはははははは……!」
これ以上狂いようがないと思っていた芽香美は、芽香美が思っている以上に狂っているようだった。
「あははははははははははははははっ!」
オカシクて仕方がない。
自分は一体なんなのだろうか。
世界のバグなのか。
それとも繰り返すことに理由があるのか。
宇宙の真理が生み出したシステムの一つなのだろうか。
ならば、芽香美という人間が時を繰り返すことで世界にどんなメリットがあるのだろう。
「あははははははははは……はは、は……下らねぇ……」
芽香美は己の思考を否定する。
たった一人の人間に、そんな大層な役割は無い。そもそも、生物などという現象に宇宙的な理由などあるはずが無い。
少なくとも芽香美はそう考えている。
繰り返す中には神を信じていたこともあった。
破壊の神と名乗るセクメトにも出会った。
だが、今の芽香美は神を信じていない。芽香美が信じた神など存在しないのだから。
どれだけ願っても永遠の死はやってこなかった。
それが全てだ。
もしも全知全能の神などというモノが存在し、芽香美に時を繰り返す役目を与えたのだとするならば、それは芽香美にとって悪魔でしかない。
「よぉ、てめぇのご主人様は何がしてぇんだ……?」
芽香美は頭上をたゆたっているニトクリスの鏡に声をかけた。
いかに芽香美の分身体といえど、あの魔術は芽香美が行使できるような魔術ではなく、あらかじめ込められていた魔力量では到底足りないはずだ。
ならば、セクメトが介入したとしか考えられないだろう。
では、何のために。
『私は貴女の助けとなるために 遣わされた ただそれだけの存在』
知らないと言いたいらしい。
(クソが)
芽香美は内心悪態を吐いた。
ただの人間ではないということを知らしめるためだったのか。
セクメトの力がいかに強大なのかということを教えるためだったのか。
限界を超えて魔術を使用すれば分身体のように死ぬだけだと言いたかったのか。
それとも。
(逃げんな、ってか?)
諦めることは許されないということだろうか。
あの魔術は正真正銘、セクメトから芽香美へ向けられた最後の愛情だ。
これ以上の介入はセクメトもしてこない。というより、出来ないだろう。
間違いなくあの魔術はセクメトの全てだった。
芽香美一人に向けて良い規模の威力ではない。
きっと、あの魔術は惑星単位で影響を及ぼすだろう。
実際に放たれていたとしたら、おそらく人類は滅亡する。
巨大なクレーターを生じさせると共に海水は干上がり、膨大な水蒸気と噴煙に包まれた地球は一気に寒冷化するだろう。
それだけで人類は終わる。
ともすれば地球の核にすら影響を及ぼし、地球そのものが崩壊するかもしれない。
さらに、あれが全力だと判断することも出来はしなかった。
魔術を行使したのはあくまでも芽香美の分身体だ。セクメトが介入したのだとしても、魔道具が造り出した偽りの存在では存分に力を発揮することは出来なかっただろう。
本来の威力は芽香美が想定するより遥か上なのかもしれない。
(バケモノが……ッ)
どちらにせよ、地球の一つや二つセクメトは簡単に壊すことが出来るらしい。
魔術を知った今の芽香美ですら、まるでアニメか映画のような話だと思う。
それがセクメトという存在だ。
分身体は耐え切れずに魔術を放つ前に消えてしまったが、芽香美はその力を存分に奮うことが出来る。
つまり、芽香美が想定しているクトゥグァやモルディギアンといった神の獣という敵ではなく、セクメトはさらに上の存在を示唆しているということだった。
彼のモルディギアンがあの魔術に耐えられないことくらいは、いくら魔術に触れて日が浅い芽香美にでも解る。
アレはそんなものではない。
まさしく破壊神の一撃だった。
それを教えられた。
セクメトは使えと言っているのだ。
強くなれと嘲笑しているのだ。
セクメトの立つ領域にまで足を踏み入れ、その力を使って芽香美が死ぬ方法を探れと命じている。
(クソ猫女がッ)
ただの人間に課して良い運命ではない。
そう、普通の人間ではない芽香美だからこそ与えられた命題だ。
(私が死ぬ前にてめぇを殺してやるよッ!)
愛そう。
全力を駆使して芽香美はセクメトを愛してやろうと誓う。
愛しく感じていた想いは、ここに至って確固たる真実の愛へと昇華した。
共に朽ち果てよう。
殺すのならば殺してみせよう。
セクメトが芽香美を利用するならば、芽香美もセクメトの力を利用する。
持ちつ持たれつ。
運命共同体。
奇しくも、セクメトと同じ解答を芽香美も得るに至った。
「まずは、身体を癒さねぇとな……」
最期に盛大に愛し合うためには、力をつけなければならない。
そのためにも、まずは漂流者の如き無残な姿となったこの肉体を休めなければならないだろう。
芽香美は立ち上がり、空を舞う。
「飯でも食うか」
腹が減っていた。
大陸から最も離れた海域は、海流からも見放された場所である。
有機物に乏しいその場所は生物の個体数が少なく、人工衛星の墓場として利用されている。
ポイント・ネモ。
そう称されていた。
これまでに数多くの鉄屑が埋葬されてきたその墓所に、時折、人影が垣間見えるのは夢か幻か。
海上を舐めるように吹き荒ぶ温暖な強風と冷たい海水が奇跡的に描き出した蜃気楼のように、影は明滅を繰り返し不定形に揺らめいている。
まるでシュレディンガーの猫のようにあやふやな状態にある。
ならば、この海域を確かめる者が現れた時、この影はどうなってしまうのだろう。
消えるのか。
はたまた、確固たる人として存在を確立するのか。
それはまだ解らない。
観測者は未だ、現れていなかった。
夕方、成美と明日香はそれぞれの母親の手にひかれて帰宅の途についていた。
通園バスで帰宅することの多い二人だが、今日はたまたま静子も明日香の母親も迎えに来る時間がとれたらしい。
成美も明日香も元から普通の友だちとして仲が良かったが、落ち込んでいた成美を明日香が慰めた件でさらに仲良くなり、昼からはずっと二人で遊んでいた。
帰る時間になって少し寂しい気持ちになっていた成美は、もう少し一緒にいたいと願ったところ、偶然にも途中まで同じ帰り道だと判明し、分かれ道に差し掛かるまでは一緒に帰る運びとなった。
まだ悪夢の恐怖は心の奥に燻っているものの、繋いでいる母親と並んで歩く明日香の存在が安心感を与えてくれる。
「えへへ。お母さん、明日香ちゃん、ありがとうだよ~」
成美はそのことが嬉しくて、静子と明日香に笑顔を向ける。
「ん~? どうしたのよ突然」
「何ですの?」
静子と明日香は揃って顔を向けてきた。
「ん~ん、今日はいっぱい助けてもらったから、そのお礼だよ~」
「ああ、なるほど。明日香ちゃん、おばさんからもお礼を言うわ、成美をかまってくれてありがとうね」
「いやですわ静子さん、おばさんなんて歳ではないじゃありませんこと?」
明日香の母親がそんなことを静子に言い、「そんなそんな私なんて奥さんに比べたら」、「いえいえ私の方こそもう小じわが」と、親同士で謙遜のし合いが始まった。
成美はそれを聞き流しつつ、空いている手で明日香の手を握る。
「お手て、繋いで良い?」
「ふふ、成美ちゃんったら、もう繋いでるじゃないですの」
明日香も笑顔になってくれた。
成美はやはり、笑顔が好きなようだ。母親の笑顔も、今見た明日香の笑顔も、成美にとっては宝物。
それを見ているだけで、成美まで元気になれる。
見た夢は怖いけれど、成美は笑顔でいようと思った。
皆の笑顔で成美が元気になれるように、成美の笑顔もきっと誰かの元気になれる。
そんなことを考えられる頭は幼い成美にはない。
だが、そう感じたのは事実だ。
成美は笑顔が好きだ。
きっと、今ならハンバーグよりも好きだと答えられるだろう。
──そんな成美だからこそ、気付けたのかもしれない。
「あれ?」
向こうから歩いてくる一人の女性を見て、成美は立ち止った。
黒いコートを羽織っているその女性は、ゆっくりと、ただ歩いている。
まだ距離があるため顔は影になって見えない。
見えないはずなのに、成美にはその女性が泣いていると解った。
何故かは解らない。漠然と、涙を流しているのだと直感した。
「どうしたの?」
「どうしたんですの?」
「あのお姉さん、どうしたのかなって思ったの」
静子と明日香から疑問の声が上がり、成美は正直に答える。
「あのお姉さん、何で泣いてるのかな~……」
成美は悲しい気持ちになった。
今しがた笑顔が好きなのだと自覚した成美は、同時に泣き顔が苦手なのだと自覚する。
「私には暗くてよく見えませんわ。泣いてますの?」
明日香は首を傾げながらそう述べるが、静子と明日香の母親は困ったように顔を見つめ合わせている。
「あんまり人をじろじろ見るものじゃないわよ? 逆に失礼になっちゃうわ」
静子はそう言って、軽く成美の手を引っ張って歩き出そうとする。
「うん……」
成美には難しいことが解らない。
静子がそう言うのならば、きっとそれが正しいのだろう。
それでも、見てしまったからには気になってしまう。
こちらに向かって歩いてくる女性との距離は少しずつ縮まり、今歩き出せばすぐにすれ違うことになるだろう。
顔はもう影に隠れておらず、はっきりと視認できる。
涙は、浮かんでいなかった。
女性は泣いてなどいない。
ただ、その瞳は少しだけ赤かった。
成美にはその瞳からこぼれる雫が視える。
視えてしまう。
この女性はナニカが違う。
そのナニカが何なのかまでは解らない。
重要なのは、泣いているという事実のみだった。
成美は静子と明日香と手を繋いだまま、再び歩き出す。
数秒もせずにすぐそこまで距離が縮まる。
誰も、何も言わない。
そういう空気ではないのだろう。すれ違ってしまえば先ほどまでのように談笑が戻ってくるのだろうが、それまではしゃべるような雰囲気ではない。
なんとなく、成美はそれを感じ取っていた。
そうしてすれ違う。
「お姉さんどうしたの?」
だが、成美は我慢できなかった。
静子には失礼になると言われても、視線を向けずにはいられなかった。
「こ、こら成美! すみません、うちの子が急に……」
静子はとっさに成美の手を引いて女性に頭を下げる。
やはり怒られてしまった。
だが後悔はない。
「いや、大丈夫……です」
そう言って、成美に視線をくれたその女性は、静かに微笑んだ。
優しそうな笑顔で、成美が好きな笑顔で。
その瞳に、もう涙は浮かんでいなかった。
「……ありがとう」
女性は成美に向かってそう呟き、静子と明日香の母親に軽く会釈すると、そのまま去って行った。
十分距離が開いたところで、静子が口を開く。
「もう、駄目じゃないの! 知らない人に声をかけないの。優しそうな人だったから良かったけど、もし怖い人だったらどうするの?」
「そうよ? もし誰もいなくて、相手が怖い人なら、そのまま連れ去られちゃうかもしれないのよ?」
知らない人に声をかける危険性を静子と明日香の母親が指摘する。
なんとなくではあるが、いけないことなのだということは成美にも解った。
「ごめんなさい……」
成美は素直に謝るが、声をかけたのは間違いではなかったとも思う。
誰に対しても声をかけたのではないのだ。
あの女性が泣いていたから声をかけた。
ただそれだけのことである。
「ふふ、成美ちゃんは優しいんですのね」
成美にだけ聞こえる声で、小さく明日香が呟いた。
「えへへ……」
成美は静子に怒られて地面を見つめているが、顔を上げられないのは明日香の言葉で照れ臭くなったのも要因の一つだった。
成美はしばらくそのまま歩き、分かれ道へと差し掛かる。
その頃には元気を取り戻し、明日香とはまた明日も遊ぼうという約束を交わして別れることとなった。
「お夕飯、何が良い?」
「カレーライスが食べたいよ~」
「また~? まぁ良いわ。帰ったら作るわね」
「やった~!」
親子二人での帰り道、成美と静子はそんな何でもない日常の会話を交わしつつ自宅へと向かっていった。
成美は知らない。
翌日、声をかけた女性が新聞の片隅にビルから飛び降りた自殺者として掲載されることを。
静子は知らない。
成美が声をかけた女性が本当に泣いていたことを。
明日香は知らない。
女性が成美だけでなく、明日香にも視線を向けていたことを。
明日香の母親は知らない。
この女性を知る者がこの街に誰もいないということを。
女性だけは知っている。
女性だけが、知っていた。
翌日。
芽香美は身代わりにしていたもう一つの分身体と入れ替わる形で家に戻り、十分な食事と休息を経て活力と魔力が充実したのを見計らって、再び分身体を身代わりにして街へと繰り出していた。
五歳に戻って二日が経っている。
早ければ今日、ビルの上から女が降ってきて赤い花を咲かせるだろう。
晴天に恵まれた青空と、穏やかな街並み。
唐突な事件に、街の一角は賑わうだろう。それはもうお祭りの如く。
(降ってくるなら早くしろっつーの)
この時期に上を眺めながら街を歩くのは、もう芽香美の習慣だった。
これまでの繰り返しで、女の死体を見なかった回は一度たりともない。
別に見なくても良いのだろう。
今の芽香美は限りない自由があり、見たくなければ昨日までのように海の上に居れば良いのだ。
それでも芽香美は、女が降ってくるのを待つ。
全ての始まりだ。
女が降ってきて死んだところから、芽香美の全てが始まった。
前回、流されて生きているだけの時でも、その無残な光景だけは芽香美の意思で求めた。
視なければならない。
もはや強迫観念に近いだろう。
住宅街を抜け、芽香美はビルが立ち並ぶ駅前へとやってくる。
この時間に芽香美のような小さな子が一人で歩いていると、善意か悪意を持つ誰かに声をかけられてしまうが、そこは魔術の出番だった。周囲の認識をずらすように魔術を展開し、ここに芽香美が居ても不自然だと思われないようにして練り歩く。
見慣れた景色だ。
あまりにも不変。
ここ数日──五歳に戻ってから一週間前後──に限って言えば、芽香美はこの駅前周辺において知らないことは無いと断じることが出来る。
街行く人の一人ひとりの名前を知っている。
どんな気分で、何を考え、どこに向かっているのか、一人ひとり知っている。
必要にかられて知ろうと思ったわけではない。何度となく繰り返すうちに、自然と頭に入ってきただけのことだ。
女を救おうとしたときに仕入れた無駄な知識に過ぎない。
最初は夕方だった。
幼稚園からの帰り道、母親と共にこの近辺を歩いている際、落下してきた女に巻き込まれて死んだ。
その次も、そのまた次も同じだった。
芽香美も抗い、家を出ないと我がままを言って親を困らせた。
それでも死んだ。
死に続け、回避できるようになるまで何回繰り返しただろうか。
今となっては懐かしい記憶である。
「ん?」
上を見ながら歩いていると、ふと高層ビルの屋上に小さな影を発見した。
嗚呼、アレだ──芽香美は確信する。
頭上に降ってくる。
芽香美は余裕をもってそれを回避した。
今の芽香美なら受け止めることも出来たのかもしれない。
死なせず、救うことも出来ただろう。
それでも芽香美は地面に激突する女を冷静に見つめていた。
頭部からアスファルトへ衝突し、頭蓋骨を砕いて破裂するかのように飛び散る脳みそと血液を目の当たりにする。
肉体は激突の衝撃で崩壊し、片腕は千切れ、もう片腕と足は曲がってはいけない方向へと折れている。
まだ綺麗な方だ。
四肢が全て飛び散らないだけマシだろう。落ち方が悪ければもっと悲惨なことになっていた。
芽香美はそれを知っている。
「きゃーっ!?」
周囲から悲鳴が轟いた。
人の死に慣れていない世間一般は、たった一人の女の死体にかき乱されて祭りのような騒々しさに包まれる。
時を待たず、救急車やパトカーといった緊急車両や野次馬でごった返すことになるだろう。
それも毎回のことだ。
芽香美には見慣れた光景でしかない。
いつもと変わらない、見ず知らずの女が飛び降り自殺しただけの光景。
「……ふん」
何も変わらない。
全ての始まりとなった女の死体は、相も変わらず血と肉片をばら撒いて死んでいる。
これまでも。
これからも。
この女は芽香美の目の前で死に続けるのだろう。
ただ──、
(見てやがった……?)
──地面と衝突する一瞬のはざま、視線が交差した気がした。
気のせいだろうか。
あまりにも芽香美が一方的に女のことを知っているせいで、幻覚がそう見せただけなのかもしれない。
明確なのは、毎度変わらず死体となった女に、かすかな違和感を抱いたということだった。
誤字脱字、読みにくい部分などありましたら申し訳ありません。
また、評価や感想などもらえると嬉しいです。(嬉しいです)
次回更新予定→27日前後(予定は未定)
【28日追記】100人以上の顔と名前が一致するまで延期します(白目)