表現の規制について考える
ちょっと色々と見ていて思ったのですが、ブログとかしてないので書く場所もなく、とりあえず書きたかったので。
サイト違い感は否めないですよね。
昔から、表現というのは物議を醸し得るものだと思う。
昨今では某大手週刊少年誌のお色気漫画であったり、国の名を冠する放送局がヴァーチャルなキャラクターを起用する等、様々な表現を挙げて、女性に対するハラスメントと批判されているのを、目にする。
私は男であるから、こうした際に女性側が批判し、男性が擁護するという構図を多く目にしてしまうが、恐らく、いや、確実に逆も何度も議論されていることだろう。
正直私は、女性を性的に描いたものが少年誌で連載され売られていようが、男性を性的に描いたものが少女誌で連載され売られていようが、現状程度のものであるならそれほど目くじらを立てずとも良いではないか、と思うタイプだ。
成人誌というジャンルがあり、ある程度の線引きがされているのだから、あまりに逸脱したものは正直ないと思っているからだ。
ただ、そうでない価値観の人間も多々いるであろうことは分かっている。
だから、批判するということ自体は、構わないと思うのだ。
しかし、規制する、となると話は別だとも思っている。
なぜなら全て、『見ない自由』があるはずなのだから。
そして何より、それも、教育機会であると思うからだ。
今回はそう思う理由について、先に挙げた少年誌の案件を軸に描いていきたいと思う。
まず、この少年誌の案件は、子供をメインターゲット層としているにも関わらず、性的に過激な表現がなされている、という事で、ある弁護士が自らの意見を述べたことに発端があるようだ。
その結果、様々な擁護の意見もあったが、問題視する意見も多く、批判の声、そして規制すべきの声が多くあった。
批判の声を見る限り、納得できる意見も多く、わけるなら擁護派に位置する私でも非常に納得できる意見が散見され、なかなかに唸らされたほどだ。
しかし、最初にも述べたが、規制するとまでいくと、私は、それは行き過ぎである、と思うのだ。
というのも、そもそもその少年誌は決して受動的に読めてしまうものではない。
当然、書店を始め、コンビニやスーパーマーケットなど、その書籍を販売物として扱っている場所で購入し、読むものだ。
もしくは、現在ではスマートフォンやパソコンなど、インターネットを介して購入し、読むこともできるだろう。
ともかく、買わねば読めないもの、だ。
つまり、それを読む人間は、自らのお金を用いて買う必要がある。
もしくはまだ働けず、お金を稼ぐことができない子供は、親に買ってもらうことになる。
まず、自らのお金で買える場合は、恐らく16歳を超えているはずだ。
日本で働くことができるのは基本的に16歳以降からであるのだから。
16歳にもなれば、そろそろ現実とフィクションの違いも、自己判断可能になっている年頃だろう。
あくまで創作物であり描かれているようなことをしてはならないことは分からねばならない歳だ。
そして、自己判断の上、読みたくなければ買わなければ良い。
先にも述べたが『見ない自由』はあるのだ。
親に買ってもらう場合は、その段階で親はその少年誌を認識することができるのであるから、もし、その中に子供にふさわしくないと感じる作品があるのなら購入しなければ良いのだ。
どうしてもその中に子供が読みたがる作品があり、親自身もその作品を子供が読んでも構わないものだと思うのなら、単行本という手段もある。
教育に良くない作品だと思うのなら買い与えないのも、親のできる教育だ。
ただ、一つ例外もある。
16歳未満でもお小遣いをもらっている場合だ。
その場合については、買ったものをある程度親が把握し、教育していくしかないであろう。
一気に投げやりになったように見えるかもしれないが、実はこの件に関してはあまり心配していない。
その理由に関してはこれから述べていこう。
ここから先は私の偏見が多分に入るが…あくまでここは私が思うことを書きたい場なので気にせず書くし、どうしても気分を害す方は読むのをやめていただくことを推奨する。そしてそうした方には最初に謝っておこう。
気分を害する文を書いてしまい、心より申し訳なく思う。ごめんなさい。
さて、先ほどの続きを書こう。
理由はいくつかある。
まず一つ、こうした件に関して、厳しく批評をし、規制を要請するようなタイプの人間が、子供の購入物を確認しないわけがないと思っているからだ。
そして、もし、批評し規制を要請するにも関わらず購入物を確認していないのなら、むしろそういう方は今すぐ確認した方がいい。
確認し、自らが教育に良くないと思うものであれば、捨てるなり、それを用いて教育を行うなりした方が良い。
自らが教育をしないことを棚に上げ、周りを変えようとするのは順番が違う。
少なくとも私はそう思う。
次に批評も規制もしない、そもそもそういう件に無頓着なタイプの人間についてだ。
恐らくそのタイプは購入物も子供の判断にある程度任せ、放任…というとごへいがあるかもしれないが、自己成長をよしとするタイプなのではないかと思っている。
逆に無頓着なタイプだが、きちんと購入物を管理している、教育しているというのなら、むしろいうことはないであろう。
いいことだと思う。
そして、最後にその中間のようなタイプだ。
これも問題ないだろう。
これは正直、1番確信を持って言える。
何故なら、私の親がそうであったからだ。
眉をひそめ、批判したり取り上げたりはあるだろうが、規制させるまではなかなかないだろう。
というより、もし、規制を声高に叫ぶタイプならこれから書くことを読んでいただきたいところだ。
という事で、私の親の教育エピソードだ。
私は正直今回、これが書きたくてここまで書いた。
私の親は、定期的にお小遣いを渡してはこなかったが、折に触れて私にお小遣いをくれた。
私はそれを使って遊んだり、貯金したり、金銭感覚を学んだものだ。
その中で件の少年誌も買い、読んでいた。
そして、親本人も、確認の意味もあったのだろう、共に読み、楽しんでいたのだ。
当然、その時代の少年誌にもお色気漫画はあったが、それを読みながら親は
「こんなに胸の大きな女性はほぼいない」
「こんなラッキースケベは漫画だけだ」
「貴方がこんなことしたら捕まる」
なんて内容のことを笑いながら、冗談交じりに伝えてきたものだった。
それこそ耳にタコができるほど聞いたセリフであったが、今だからこそわかる。
これこそが、表現教育、性教育であったのだと。
漫画を読み、夢のようなシチュエーションを見ても、漫画だからこその表現だとわかるし、どれほどセクシーな女性がいても、それは普通にはいないこともわかる。
勿論、それほどのセクシーさを持つ女性がいないこともないのかもしれないが、だからと、そのセクシーさこそがスタンダードなどとは思わない。
階段で転んで、女性のパンツの中に顔が挟まることがないことなど、常識だと思える。
これは全て、親が共に自分が触れたものに触れ、それを常識と擦り合わせてくれたおかげなのだ。
もしかしたら親としては、そんなつもりもなく、たた冗談で言っていただけなのかもしれないが、今、私にとってはそれこそが教育だったことがよくわかるのだ。
そして同時に、件の少年誌のみならず共に触れる中で、親本人が教育に良くないと思うものは自らで判断できる年齢になるまで、家庭内で禁止してくれた。
その時は不満しかなかったが、今になって、禁止されたものに類似するものは、決して良くないものであるという、決して真似してはならぬものであるという意識も持てるようになっている。
これこそが、教育ではないだろうか。
法として規制し、そもそも触れられなければ、禁止されることもなく、初めて触れた時に悪しきものという意識も持たなかったかもしれない。
そして、真似したかもしれない。
それ以上に怖いのは、子供ができた時、それをいけないことだと教えられない親に、成長してしまうかも知れない。
それは何より恐ろしいことだ。
良くないものを見えなくするのは簡単だ。
見えなければ触ることはない。
ただ、いつまでも見えないではいられないかもしれない。
見えた時に、触れてしまった時に、きちんと良くないものだと認識できなければ、それはさらなる不幸を招く。
見えてしまった後に導いてくれる存在があるうちに見なければならないものもある。
なんでも簡単に規制してはいけない。
批判、批評は良い。
それを見て、ダメだとわかる。
しかし規制されては、ダメだとわかる機会も失われるのだ。
そのことを、もう一度考えて欲しい。
正直、私親好きで、尊敬してるのでこんな風に書いてありますが、それを間違ってると思う人は多分いっぱいあると思うんですけど。
それでも私はこの親を尊敬してます。