夜空をむこう
ふう~、少しだけ冬の寒さもやわらいできたと思わない? 2月も半ばを過ぎたし、ぼつぼつ春の気配とやらが、漂ってきてもいいころだと感じるのだけどね。
それでも、身体はトイレを求める。寒くなるとやたらトイレが近くなるという経験、たいていの人がしているんじゃないかな? 寒さによって交感神経が緊張してしまうと、尿を溜め込む機能も満足に働かなくなってしまい、トイレに行きたくなってしまいやすいのだという。
人間の機能は非常にデリケートで、ちょっとした異常でも大きな変化をもたらしかねない。マイナスな部分のみならず、プラスな部分においてもだ。
超能力のたぐいが人気なのも、それがかかわっているかもしれない。身近さというかね。少し何かが掛け違えば使えるようになるかも……という期待がある。ファンタジーよりSFに近い要素扱いされるわけさ。
大人になると、ついいろいろな影響を考えてしまい、冒険に二の足を踏みがち。けれどもケツを大人がもってくれる子供であるなら、無鉄砲な行動もしやすいもの。そのぶん、不可解なできごとに遭いやすいのも道理かもしれないね。
僕のむかしの話なのだけど、聞いてみない?
あれは幼稚園の年長くらいのときだったかな。
一緒に幼稚園で遊んでいた友達のひとりから、こんなことを聞いたんだ。
「夜空ってね、むくことができるんだよ」と。
むく、とはどういうことか。顔を向けるとかなら、問題なくできるだろうけれど。
そんなことを返すと、「ちがうちがう」と手を振られて、友達はみかんを手に持って皮をむくようなしぐさをしてみせる。
「ぺろり、ぺろりとね、おかしなくらいだよ。でもおかあさんたちの見ている前じゃだめだよ。むけなくなっちゃうからね」
実におもしろそうだ。それに大人には秘密ってことか、と解釈した僕は、彼にさっそくやり方を尋ねてみたんだ。
すると彼は、ポケットから小石をひとつ取り出してみせる。
三角錐の形をした真っ白い石だった。幼稚園児の手でも握りこめるほどの小ささだったが、その表面は異様につるつるしていて、陶器のかけらのようなものに思えたよ。
こいつの出どころ、大人になった今なら気になるけれど、期待感に満ち満ちていた当時の僕は疑問に思うことなく、しげしげとこれを眺めていた。
「そいつにね、おしっこをかけるのがはじまりさ」
彼がそういったのを聞いて、ついその顔を見てしまう。
自分のおしっこの世話といったら、当時はいつぞやの尿検査の時くらいで、まだほとんど関心がなかった。ないゆえに立小便などもほぼ抵抗なくできていたのだけど、それでも自分の尿をかけるというのは、ちょっと非日常のレベルに達している気がした。
「それから湯気が出たら成功だよ。その湯気に指をかざしてさ。ほんのり湿ったら、夜の空に向かってさ。皮をむくようにしてみなよ。きっと夜空がむけるから」
にやにやとした笑いが、顔にこびりついていた。「そんな恥ずかしいマネ、できないだろう」とでも言いたげだったよ。
そうなると意地でも「できらぁ!」と返したくなるわけで。さっそくその晩にでも、実行に移そうと思ったんだよ。
夜の9時前。僕にとっては就寝時間の一歩手前くらいだった。
寝る前にはトイレに行っておきなさいとは、もう耳にタコができるほど聞かされている。実際、トイレにも行きたくなる頃合いだったよ。
だから、例のことを試すにはちょうど良かったんだ。家族が思い思いの時間を過ごし始める中で、僕はひとり、そっと庭へと出た。
預かった石を取り出し、相変わらずつるつるした表面をひとしきり投げてから、ぽんと足もとに転がした僕は、そのままズボンに手をかける。
やはり人目ははばかりたいし、前後左右、誰もこちらに気付きそうなものがいないか確認し、僕はファスナーを下ろした。
結論から言うと、聞きしにまさるってところか。
湯気と聞いて、僕は最初やかんが吐き出すそれのようなものと思ったけど、あれはドライアイス並みだった。
かけたとたん、上ばかりでなく僕自身の足もとをすっかり覆い隠すほど広範囲に、白いもやが広がっていく。石そのものも、ぐんぐんと小さくなっていくじゃないか。
驚きこそしたが、まだ試みは終わっていない。僕は彼に言われたとおり、立ち昇る湯気の上へ手をかざしてみた。
いくらかぬくいその手触りは、先ほど飛び出てきたばかりの僕の身体の熱さだろうか。ほんのり指が湿ったのを確かめると、僕はくっと指を空へと向けた。
どこかをつまむようにしてやったほうが、仕草をしやすい。手近な明るい星のひとつに狙いをしぼると、左手でそれをつまむように。右手でその近辺の夜空へ向け、アバウトに指たちをすぼめながら、きゅっと数センチほど下へずらしたんだ。
夜空の向こうは、確かにあった。
指を下ろした軌跡に沿って、暗闇に沈んでいたはずの空はぺろりとはがれて、真っ黄色の空間がそこに現れたんだ。まるで、空の澄んだころに見られる月の光のごとくだった。
でも、その真っ黄色はたちまち汚される。その空間からはチョコチップと見まごうような、小さく細かい粒たちが、ふちから続々とあふれ出てきたのさ。
ただこぼれていくわけじゃなかった。むいていた僕の指へ乗り移り、腕を駆け上がりながらも、どんどん肌の下へ潜り込んでいったんだ。実際に腕そのものが何度も、何か所も盛り上がっては、へこんでいくことを繰り返したよ。
夢中で手を引っこめると、むけたはずの夜空はもうそこにはなかった。真っ黄色の空間はあっという間に消えてしまったんだ。
気づくと湯気の出もおさまっている。あの石そのものも、最初から存在しなかったように姿を消し、どこを探しても見つからなかった。
僕の腕はレントゲンなどで診てもらっても異常はなかったけれど、あのときに感じた蟻走感は今でも思い出したように、両腕を走ることがある。
石をくれた彼はというと、翌日以降、さっぱり石に関することや夜空をむくことにかんして忘れてしまったみたいでさ。迫っても困惑してばかりだから、まるで僕が悪者になってしまう心地がしたよ。
いや、そもそもあのときむいたのが、本当に「夜空」だったのかはわからないけれどね。




