おきて破り
なんで、このルールを守んなきゃいけないんだろう?
生きていて、幾度となくこのようなことを考える機会があると思う。誰だって自由に生きたいと思うが、真に自由といえるのは生まれた瞬間のみだろう。すぐに親、家族、とりまく環境に抱きしめられて、束縛ばかりになってしまう。
しかし、本当に全員に自由が約束されたなら大変だ。それはつまり隣の人を今すぐ、どのように害するかも自由というわけで、許可が出た瞬間に自分の命がたちどころになくなったって文句はいえない。
自分は死なない、なんてはかないバイアスに過ぎなくて、大勢はわけもわからずに死に、生き残った者もいつやってくるか分からない死におびえ続けなくちゃいけない。
なんだよ、自由になったはずが全然自由になっていないじゃないか。結局、我々はルールに縛られなきゃ、自分でいることさえできないのか。
実際、その通りなのかもしれない。そう感じた昔の話を聞いてみないかい?
我々の身近にある重大な規則のひとつ。交通ルール。
ごくごく小さいうちから学ばされ、一生を通じて守り続けることになるだろう、偉大な決まりだ。
なにせ家から一歩出たとたん、人はみな通行人となる。そこにおける決まりを守らずして、命の保証はできない。いや、守ったとしても命の保証はできない。
相手がいることだからだ。無法な乱暴者に出会った瞬間、いくら品行方正、清廉潔白を盾に堂々としていようが無意味。ただ蹂躙されるのみだ。
無法に対し、アドリブで対処する機敏さ。これも持ち合わせなくては、ある日、あっけなく命を落としてしまうかもしれない。無事が重なると、軽んじ始める現実がそこにある。
だから僕も、その日の赤信号を無視してしまった。
信号は赤の間はとまり、青になったら進むもの。けれど、車通りが全然ない道路を目の前にして、対岸に用事があるというのに、わざわざ足を止めている意味があるのだろうか。
時は金なり、タイムパフォーマンスを鑑みるなら、一秒でも早く先へ進むべきだろう。なあに、今までやむにやまれずやったときだって、なんともなかったじゃないか。
そうやって愚者は自分の経験を頼みに、今日も大丈夫なはずさと、期待をかけて規則を破る。
その横断歩道半ばまで渡ったあたりで。
不意に僕はクラクションを鳴らされた。自分の左手のほうからだ。とっさにそちらを見るも、車の姿は影も形もない。
けれども、痛みが走った。両足の膝小僧の裏側を思いきり蹴り飛ばされたよう。いわば、強力な「膝かっくん」で、ついその場にひざまづいてしまう。
すぐに立ち上がれこそしたけれど、相変わらず正体が分からず。そのまま、よたよたと向かいの歩道まで渡っていった。
赤信号は終わり、青信号に切り替わる。僕以外の通行人はおらず、切り替わった信号側の車道にも新たに車が現れる気配はない。普段に比べると、あまりにもさびしい姿だったよ。
ようやく違和感を覚えた僕は、足早に自分の家の自室へ引き返したのだけど。
痛い。
あの膝かっくんを喰らったあたりが、じわじわと熱を持ち始めたんだ。水などで冷やしにかかっても、ごまかせるのは一時だけ。
こうね、電源をONにしたままの機械をずっと肌にくっつけている感じよ。バッテリーが絶賛稼働中でね。この我慢しようと思えば、我慢できなくもない絶妙な温度加減が僕のちっぽけな自尊心を刺激する。
誰にも迷惑を、いや知られることなく事態を解決したい、とね。自然な回復力に期待をしたわけだ。
そのまま夕飯、お風呂、日ごろの楽しみを済ませてしまい、寝間着に着替えて布団に入った僕だけど……あの翌朝のことは忘れられない。
目覚めたとき、すでに僕は足に違和感を覚えた。
強くテーピングをされたかと思う圧を感じる。昨日、猛烈に蹴られた両ひざの裏側からだ。下手に曲げ伸ばしをしようとすると、ピリリと痛みも走る。
「なんだ?」と起き上がってみて、僕は膝裏よりも先に、敷布団へ目をやってつい悲鳴をあげちゃったよ。
そこにはさ、べっとりと僕の皮膚と血の断片が張り付いていたんだ。一対の正方形みたいな形で。しかもその位置、僕のちょうど両ひざ裏あたりだ。
まさか、と手で触れてみて、自分のいま両ひざ裏にくっついているのが皮ではなく、布団の生地だということに気づいたんだよ。
――単に布団の生地がはがれて、くっついただけだろ? て。
ちゃうでしょ。それだったら、はがれた布団の残り部分なりが、のぞいているべきでしょ。同じように僕の皮膚がはがれただけなら、膝の裏が大惨事になってなきゃおかしいじゃないか。
入れ替わっていたんだよ。僕の膝裏と布団の生地とがさ。
神経さえ通っているかと思う、その部分を引っぺがして、元通りに皮が張りなおすまでにはちょ~っと大変な目にあったけれどね。どうにか今は平常通りだよ。
あのとき、僕の体は本来異物であるべき布団を受け入れ、布団もまた僕の体を受け入れようとしていた。
僕が決まりを破ったのを見て、彼らもまた破ろうとしたのだろう。あのとき膝かっくんをかましてきた、見えないやつの導きで。




