地獄口
ふむふむ、親指は力、人差し指は願い、中指はバランス、薬指は愛、小指は魅力か……。
ああ、つぶらやくん、来ていたのか。いや、指輪をつける位置に関して、ちょっと興味が湧いて調べてみたんだよ。
結婚指輪って左手の薬指につけるだろ? あれって左手の薬指が心臓につながるって信じられるところから、愛情を示す指とされているんだってさ。
これまで指輪はいろいろ見てきたけれど、親指につけている人はめったに見なかったなあ。ほかの指につけている人に比べて。富や権力を持っている人が僕の近くにいなかったからかな……なんて。
でも、あくまでめったに、だ。皆無だったわけじゃない。
いたんだよ。記憶にある限りひとりだけ。親指に指輪をしている子が。その子の話を聞いてみないかい?
冬休みが終わって、訪れる新年。
僕たちの間だと、七草がゆを食べた翌日の一月八日が三学期始業のときだった。学校に行くことはだるいものの、友達に会えるという点は悪くない。なんとも妙な空間だな、学校は。
で、クラスメートのその子が登校してきたとき、指輪をしていることに僕は気づいたんだよ。教室のドアを握る右手の親指、その付け根あたりに小さいビーズを束ねて作った輪をつけていたんだ。
小学生かつ男となると、その手の指輪をつけている奴は非常に珍しかった。女なら大人の真似して、そのようなものを身に着けることもあるかもしれないが、彼にはおままごとのような趣味はない。
年も明けたし、何か心境に変化でもあったのかと思って訪ねてみると、やたら神妙な顔つきで返されたんだ。
昨日の晩に、「地獄口」にあったから、てね。
地獄口。僕たちの地元でまことしやかにささやかれている、怪異のひとつだ。
夜に子供が出歩いているとき、どこからともなく地獄口があらわれて、その子をさらっていってしまう、と伝わっているのさ。
多くは、きれいさっぱりの神隠しなのだけども、ときおり被害者のものと思しき体の一部が発見されることがある。それらの断片は乱暴に食いちぎられたかのように、不安定でぎざぎざとした輪郭のものが多く、昔より獣のたぐいの仕業と思われていた。
それが数十年くらい前より、五体満足で生きて帰る者が増えてきて、彼らが語ったものがでっかい口をした化け物の姿なのだとか。
大型のトラックほどのサイズの、ひたすら大きな口。そのくちびるや歯の並びなどは、人間のそれに酷似し、なかば開いた状態のまま、がちがちと歯をかみ合わせつつこちらへ猛然と向かってくる。
宙に浮いているのではなく、その足元にはむかでを思わせるような小さく無数の足がうごめいているのだという。それをどうにかやり過ごした人々の目撃談は大半が一致しており、今に至る地獄口のありようが伝わっているんだ。
地獄口は図体こそでかいが、まっすぐ進むことしかできない。道を曲がるか、無理ならば道の端へ寄るだけでも避けることができる。僕もそう教えられてきた。
しかし、一度出会ってしまうと地獄口はしばらく、その子へつきまとうようになる傾向にある。おそらく、次の興味を惹かれる相手が現れるまで。
それを避けるために、このビーズの指輪をはめたのだという。
「この親指の指輪には、力がやどるって母ちゃんがいっていてさ。地獄口みたいなやばい連中を遠ざける力があるんだってよ。でも、あくまでお守り程度で、ちょっと相手に嫌がらせするだけだから、頼りすぎんなともいってたんよ」
やたら落ち着きようのある口調に、僕たちは彼が話題づくりに振ったネタだろう、と最初は思ったのさ。
そもそも、聞く限りじゃ地獄口は夜しか現れないもののはず。それが昼間から指輪をつけたところで、意味があるのか? とも考えたんだ。
けれども、友達はこう続ける。
「手の内がばれたら、ずっと同じことをし続けるやつはいない。いずれ決まりを破って、襲ってくるかもしれない。そのための用心だ、と」
まあ、確かに「相手がこれしかできないだろう」と思い込んでいたところで、不意をつかれたらどうしようもないよなあ、とも感じたよ。
そして、ほどなく僕はその言葉の意味を知るところとなる。
もう少し彼から地獄口について詳しく聞こうと、一緒に帰った折のこと。
学校が見えなくなるあたりの坂道へ差し掛かったところで、彼が前を見ながら不意に「地獄口だ!」と叫んだんだ。
あわせて、親指のビーズの指輪も勝手に砕けてしまう。それらの粒がパラパラと下り坂を転がっていき、つい目で追って行って、僕にも地獄口の気配が察せられたんだよ。
言い伝えにあるような、でっかい口の姿などはない。けれども坂道を下りきったところにあるマンホールからこちらへ向かって、「雨が降ってくる」。
空は晴れ渡っているにもかかわらず、こちらへ向かうアスファルトの一部に、たちまち無数の濡れ跡が生まれだしたんだ。まばらな彼らは、数を重ねるとともに身を寄せ合うかっこうになって、どっと崖を駆け上がってくるんだ。
あれが地獄口の持つとされる、むかでのごとき足たちなのか、と僕が目を見張っていると。
「よけろ!」
彼に壁ドンされる。
そのままでは直撃コースだったのを、彼に体当たりされて道の端のブロック塀まで追い詰められたんだ。そこへ彼が両腕をつっかえ棒にしながら、かぶさってきたんだ。
まっすぐにしか地獄口は動けない。端へよけるのは良いかわし方だろうけど……。
――う、動けない……!
彼は両腕のみならず、直後にジャンプしたかと思うと両足もまた大きく広げ、僕を囲いこんだんだ。プロレス技か何かを仕掛けられそうな柔軟さ、器用さ……いや、それどころかどうやってブロック塀に引っ付いているんだ、彼は?
などと思う間に。
ぶしゃり、と音を立てて彼の姿が消えた。瞬間移動の類でないのは、彼の身に着けていたポロシャツの一部がちぎれて落ちたことからわかった。
あの無数の足跡が成す濡れ跡。途中までまっすぐ進んでいたそれが、にわかにこちらへ急カーブし、彼の立っているところまで続いて、消えたんだ。
あまりに多くのことが短時間で起こりすぎて、目をしばらくぱちくりしてしまう僕。やがてブロック塀沿いに、そそそっと横へ這うように動くと、足跡に触れないように坂を駆け下りようとした。自宅がそちら方面だったからだ。
が、坂を下りた先にいた者の姿を見て、急ブレーキ。
彼だ。僕に壁ドンし、いわく地獄口に食べられて消えてしまっただろう、彼の姿が坂の下にある。あのちぎれたポロシャツの状態がそのままだし、まず本人と思った。
地獄口の姿を僕はじかに見ることができない。ひょっとしたら彼は地獄口の中を通って、あそこに至ったのだろうか……いや、ああも平然としているなんて、到底信じられない。
僕はとてつもなく大回りをして、家へ帰った。電話をかけてみると、彼も家に帰っているという。ドキドキしながら彼に代わってもらっていくらか話したけれど、地獄口のことについてはほとんど気にしていないような口ぶりだった。
翌日以降も彼はやってきたが、親指の指輪はもうしてこなかったんだよ。




