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ねじれた朝

 つぶらやくんは、ねじれの位置という概念を覚えているかい?

 そう、ある直線に対して平行でも、交わってもいない位置にある直線のことだね。

 日本人の感覚からすると、妙な感じだ。「ねじれ」という言葉を聞いたら、何かと何かがすり寄り、ぎゅっと身体を巻き付けて締め上げているような感じだ。平行でも、交わってもいないなんて、そっけない距離感とは真逆をいきそうな表現だ。


 調べてみると、こいつは英語の「skew lines」を和訳したためらしい。Skewにはねじれ、ゆがんだ、斜めの、などの意味が含まれている。

 学校で習うねじれの位置といったら、この「斜めの」のニュアンス的なものなのだろうけど、ねじれと訳した結果、不思議な感覚がするわけだ。

 しかし、本来は接する余地がないはずなのに、とても近しいというのはある意味で本質をついているかもしれない。ちょっと外部から力が加われば、簡単に接しうる……そのような状態が、僕たちの現実でもままあるかもしれない。

 ひとつ、僕が昔に体験した「ねじれ」の話を聞いてみないか?


 その日はクラス当番で、早めに学校へ行ったときだった。

 昇降口をくぐって下駄箱へ。上履きへ履き替えて歩き出したところで、違和感を覚えたんだ。

 最初はそれが何か分からず、職員室をのぞいた。先生から日誌を受け取る手はずになっていて、先生が自分の机の引き出しから日誌を出してくれるのだけど、このときにはっきりと気づく。

 職員室に入り、先生の机へまっすぐ向かった場合、先生の机の引き出しは手前側に来るはず。なのに先生はこちらへ背を向けて、奥の引き出しから日誌を取り出したんだ。


 ――机か? あるいは引き出しそのものの位置を変えたのだろうか?


 やろうと思えば、昨日生徒が帰った後で出来なくもないことだ。気にしすぎといったらそれまでなのだろうけど、先ほどの下駄箱の違和感もある。僕はもう一度引き返して、確認してみたんだ。


 廊下の両端に、立ち並ぶ柱。

 その数がこの東校舎側で、増えているような気がしたんだ。先ほど違和感を覚えたのは、いつも見る景色に比べて、増えている柱が目に入ったからだ。

 けれども、これを共有することはできなかった。あとからやってきたクラスのみんなは、ことごとくそのようなことを気にしていなかったからだ。

 普段から意識していなければ、学校の構造などをあらためて問われても正確に応答するのは難しいだろう。僕だって、物好きだからたまたま判断できたに過ぎない。

 そうして周りから否定され続けると、自分の記憶との勝負になってしまう。本当に自分は正しいのだろうか? むしろ、自分だけが間違っていて妙なことになっているのではないか?


 じきに朝の会が始まるものの、僕はどこかうわの空で、ぼんやりと教室内を見回していた。

 そこでも気づいてしまう。みんなとの机の距離感がちょっと開き気味であることを。

 僕の机は教室の真ん中、四方八方をみんなの机に取り囲まれている形になる。その囲う机たちの位置が、いつもに比べて距離を置かれていると感じたんだ。離した机の主たちなどは、寄ったほうの相手の机と完全にくっつくほどとなっている。


 ――これ、なんだ? いじめにしては露骨すぎね? というか、なんでこんな目に?


「日直さん、ちゃんと日誌はつけていますか?」


 先生の声が、はじめて意味を成す言葉となって耳へ飛び込んできた。これまではほとんど意識していなかったから、聞いていなかった。

 しかし、このような注意もまたはじめてだ。日誌はいつもその日の終わりに書く人がほとんどだし、リアルタイムで書いていないからといって、とがめられたことは一度もない。

 なぜ今日になって、今なんだ?

 先生のにらみは厳しい。すっかり黙ってしまい、日誌を開くまでは許さないぞという雰囲気。まわりのクラスメートたちも、こちらを凝視している。

 とことん、今日はおかしな日だ……と、怒り出したい気持ちを抑えながら、朝に先生から受け取った日誌を開く。


「帰 れ」


 ぱっと開いた2ページに、そう書いてあったんだ。

 右に帰、左にれ。それぞれを1ページたっぷりと使った大きさで。

 その並びもまた、現代よりも昔を思わせる表し方。さすがに「れ帰」じゃおかしいからすぐに気づけたものの、おかしいのはそれだけじゃない。

 ボールペンで書いたような細い筆跡。そこから、まるで皮膚に傷をつけて血を出すかのように黒くインクがにじみ出てきて、みるみる字がひとりでに太く鮮やかに、際立ってくるんだ。


「わかりましたね? 帰りなさい」


 先生がそういうや、黒板の端に引っかけてある長い指示棒を手に取り、突きつけてくる。

 まわりのみんなもまた、めいめいでフクロに入ったリコーダーと思しきものを取り出しており、同じように僕へその先を向けてきていた。

 包囲網、いや包囲棒と称した方がいいのか? ここまできたらいじめどころじゃないぞと思ったが、彼らもまた譲る気配はない。

 しぶしぶ、僕は荷物をまとめて廊下へ出たのだけど……足元の感覚が急に消えた。


 落ちた、のだと思う。でも、どちらかというと階段を踏み外したときの、それに近くて。

 がくんと身体が下がったかと思うと、もう尻もちをついていた。

 とたん、その耳に喧騒が飛び込んでくる。

 なぜ、今まで気づかなかったのだろう。自分が先ほどまでいた校舎は職員室と教室しかまともに見ていないが、その先生やクラスメートしか見ていなかった。本来なら居るべき、よそのクラスのみんなの気配をみじんも感じていなかったんだ。

 そうとう、大きな音がしたのだろう。「大丈夫?」とクラスのみんなが飛び出してくる。

 僕の席もまた、妙に距離を取られていることもない。いつも通りだ。

 時刻はすでに朝礼の直前。もう教室へ来ていた先生に、日誌を取りに来なかったことをたしなめられて、席へ着く。

 おかしな話だ。あの追い出されるときに日誌は返したはずなのに、なぜ怒られなくてはいけないんだろう。けれども日誌にはあの「帰 れ」の文字はない。

 修正液などを使った様子もなく、きれいさっぱりなくなっている。そしてみんなに距離を開けられることもなく終わった朝の会のあと、校舎を見て回っても柱の位置も、先生の机の引き出しの位置も、いつも通りだったんだよ。


 あのとき、僕は本来なら触れ合う気配のない「ねじれの位置」にいたのかもしれない。

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