よそ見犬
間違い探し。
生涯でこの遊びを一度も触れない、やったことがないという人はまれなんじゃないかと思う。
二つの絵を見比べて、どの部分が間違っているのかを探る。簡単な目立つものから、細かくてひっそりしたものまで、難易度の調整も様々に行えるものだ。
こいつは視覚探索の練習のひとつとして、雑多な本の中から目的の一冊を見つけたり、人ごみの中から友達を見つけたりする力へつなげる効果があるという。これらが積み重なると、あとあとバカにできないくらいの時間の差が生まれてくるものだ。
そして、何も効率の話だけにとどまらない。
普段とは、どこか違う箇所がある。現実世界においても、そのささやかな変化へ目を向けられることは、決して損にはならない。君は、それらに鋭く気付く自信はあるか?
僕のだいぶ前の話なのだけど、聞いてみないかい?
僕の地元の島は、お犬様の像がたくさんおいてある。
ずっと昔に、あの地域では犬を神様の使いとあがめていた時期があったらしくって。今もその名残として像がたくさん残っているんだ。
人をかたどった像にはべる姿もあれば、単独でそびえたつものもある。全身で輪を描くように横たわって、くつろいでいるかのようなものもある。
僕の家の近くにあるのは、最後のくつろいでいるタイプのものだ。石柱の上の像は、その閉じ切ったまぶたははっきりと刻まれ、全身を台座部分にぴっとりつけて眠っているかのよう。
柱に刻まれた銘によると、「よそ見犬」という名前が。
この島の平均年齢は、当時の全国で見ても珍しく低めで、若者たちが集中していた。
いかにも眠っていて何も見ていないようなのに、なぜよそ見犬なのか。
それはよからぬことが起こるとき、このよそ見犬がそっぽを向くらしいのさ。
そのよそ見は対象となる人間にしか、認識できない。そうして明後日の方向をむかれた者には遅かれ早かれ、大小の差はあれどもよろしくないことが起こるというのさ。
僕の実家のすぐ近くにある、よそ見犬は、向かって右。東を向いて寝転んでいる。当たり前すぎて、ついそのまま通りすぎてしまいそうになるが、ときおりその角度が変わる。
北東だったり、南東だったり、さらにはその間の北北東や、南南東を向いていることがあるんだ。それに気が付けると、これから何か起こるんじゃないかと警戒が可能なわけだ。
注意することで、ちょっと石につまずくとか、物を落とすもすぐ拾うことができるとか、小さい問題で済ませられる場合もある。あらためて犬を見やるとき、その向きがもとに戻っていたならば、それを乗り越えることができたという証左になる。
どの家も、少し歩けばおのおのの注意するべき、よそ見犬の姿があった。こいつがある限り、僕たちはあらゆることを覚悟し、心の準備ができる……そう信じてやまなかったのだけど。
その日、日帰りで遠くからやってきた祖父が、ふと漏らしたんだ。祖父は実に二十数年ぶりに訪れたのだが、よそ見犬を見てこうつぶやいたんだ。
「はて。ここの犬は南を向いていなかったかのう?」と。
僕は生まれてこの方、ずっとここで暮らしてきていて、よそ見犬が東を向いている姿しか知らない。父母もこちらへ越してきたばかりのときから、犬はずっと東を向いていたと思うが、と答えた。
しかし祖父は、昔はこのよそ見犬は南を向いていたはずと、ゆずらない。
僕たちは思う。
祖父のみが南を向いていたはず、というならば、祖父はよそ見犬に被害を予見された身として注意をせねばならないだろう、
けれども、もしもその反対。
祖父の記憶が正しくて、僕たち全員がこの長い間、ずっとよそ見犬の異なる向きを見続けていたのであれば。
それはこの一帯に影響が出る何かのきざしでは……。
そう思った矢先に、島全体を地震が襲った。
激烈に大きなものではなかったが、建物への被害はなきにしもあらず、という強いもの。けがをする人が何名かは出た。
しかし、それより大きかったのが島の通信を担う、海底ケーブルの損傷だ。復旧されるまでの間、僕たちはネットワーク関連に大きな被害をこうむることになる。命に直接影響は出ずとも、暮らしの上では大変な被害だった。
そうしてよそ見犬はというと、いつの間にか祖父の言うとおりに南を向いていたのだという。
けれども、僕は疑問に思っていることがある。
ただの突発的な地震であるならばこれほど時間をかけて、犬はよそ見を続けているものじゃないはずだ。
祖父の言う通り、数十年の間のよそ見を続けていたのなら、ケーブル損傷に至った真なる原因がここにいて、どこかへ去ったということになりはしないだろうか。
海底深くに潜んでいた何かは、島を離れていま、どこへ行ったのだろう。