主役と主人公
ふむ……「全員が主役!」「みんなが主人公!」か。この手のスローガン、ぽつぽつ増えてきたような気がするね。誰もが、ものごとの中心になりたいのだと思っている。学芸会とかだったら、親御さんへの配慮になるのかな?
そういえば主役と主人公の違いって、考えたことがあるかい、つぶらやくん? ややもすれば同一の存在とみなされ、そうとらえて問題ない作りの話というのも少なくない。でも、それならどうして二つの言葉に分けられたのだろうか。
かつて、僕が師匠と呼んでいた人は、こう話していた。
主役は物事を引き起こし、主人公は物事にケリをつける、と。これをどちらも同じ人物がやってのけるなら、主役と主人公は同義になるという。
あるものの封印を解いたり、禁断の地へ赴いたり、昔の知人の誘いに乗ったり、意図せず巻き込まれたり……いずれにせよ発端を作ったなら、そいつは主役足りえると。ひょっとしたら物語の終わり際まで現れず、あるいは伝聞の中だけで存在感を示すのみかもしれない。
そうして起こったものに対し、何かしらの終わり、決着、一区切りを与えるものが主人公だ。事態は解決、鎮静、悪化、先延ばしと様々に変わるだろうが、少なくとも主人公が現れる前とは状態が変わっている。主人公は劇的なビフォーアフターを告げる使者なのだ。
これはあくまで師匠の受け売り。「なにをバカいってる。全然違うわ」という意見があるのも当然だ。
しかし、もしスローガン通りに全員が主役という発端係になるなら、どでかいことが起こりそうな気がしないかい? 何より、演劇の中に限らず、こうして生きている以上、僕たちはみんな主役で、ことの発端になり得るのだから……。
むかし、僕の経験した話なのだけど、聞いてみないかい?
「次、お前が『ガバ水』の世話だからな」
朝、学校へ行くとクラスメートのひとりから、そのようなことをいわれた。
――ああ、そういやもう、当番の時期か。
がば水というのは、当時の僕たちがたまたま見つけた、とある家の雨どいを指していた。厳密には屋根から地面へ雨水を流す、パイプの部分のことだったけれど。
その家は僕たちが集団下校しているおりに、たまたま学区内で発見した。10人を超える大所帯での下校だったが、子供たちにとってまっすぐ家に帰るだけ、という道中を面白く感じられるはずがなく、道草を食っていたんだ。
誰の家からも遠い学区の端。いくつもの田んぼが連なった細い小道の脇に、その一軒家は立っていた。
四階建てと、普通の住まいにしては背が高い。一階部分は横幅にずんぐりと広く土台のイメージだ。階を重ねていくうち幅がすぼまっていき、三角錐に近い格好へなっていく。
その「錐」はドアも窓も、道路側にしか設けられておらず、ほかの三面は赤茶けた壁面でしっかりカバーされていた。採光や風通しを考えると、もう少し窓が多くてもいいのではないかなあ……などと考えてしまう。
そうやって観察している間も、僕たちの耳を打ち続けていたのがガバガバという水の出る音。
それが家の右横手にある、屋根の雨どいと地面をつなぐパイプの口から出ていることに気付いた。パイプの口と真下の地面の穴には、30センチほどの空間が不自然に用意されている。おそらく、もともとはここが完全につながっていたのだろう。
そこが壊れて水がまき散らされている、というわけだろうけど、奇妙な点があった。
今日は雨どいの世話になるような、悪天候じゃない。雲は多少出ているものの、雨粒のひとつも降り落ちてきてはいないのだ。
そしてもう一つ、このガバガバと音を立てて落ち来る水は、パイプの口に布地をあてがわれたうえでの状況だということ。
中央のみを黒ずませた、その白い布地はさして傷んでいる様子もなく、目も特別あらいといった風でもない。これを設置した主が、流れを食い止めるのに手を抜いているわけでもないだろう。にもかかわらず、その願いはかなわずにいたのだ。
「……なあ、この布のことさ。手伝ってやらね?」
不思議がる僕たちに、そう声をかけてきたのが、その彼だったわけだ。
自分の願いがかなわない。それは誰にとっても辛いことに変わりない。ならば手助けをしてあげよう、というわけだった。
つまり、このパイプよりの排出を塞いでやろうという判断だ。
あまりに音を立てるそれを、僕たちは「ガバ水」と呼ぶことにした。
ガバ水はハンカチ、ティッシュといったものでは、いささかも勢いを落とすことはなかった。手できっちり力を込めて押さえつけても、痛みを覚えるほどの強さで皮膚を打つ。
これはタダの水じゃないぞ。居合わせた子は、僕をふくめて、みんながそう思ったことだろう。ならば、片っ端から試してみるのみ。
試行錯誤のすえ、算数の授業中に配られた計算用の紙。勉強熱心な子が持ち歩いていた紙片を口へ押し当ててやると、これまでの苦労が嘘のようにピタリと水が止まってしまったんだ。試した子いわく、トリックなどを仕掛けたわけではないという。
いったんはがして、他の者たちで検証したところ、どうも鉛筆やシャープペンシルで何かしら書きつけた部分をあてがうのが有効、と分かったんだ。
そのときは自由帳の一片を貼り付け、水を食い止めた。そこから学校の行き帰りに様子をうかがったところ、紙そのものを引っぺがされはしなかったが、水はそこを突き抜け、またガバガバと音を立てていたんだ。
以降、僕たちはローテーションで「ガバ水」を見張り、紙を貼り付けて勢いを削ぐ……ということを続けていた。
当初のように、破れかけた目的の手助けという正義感もあっただろうが、自分たちでコントロールできる事象との出会い、というのが心地よかったのだとおもう。
親をはじめとする、いろいろなものにあれやれ、これやれと好き勝手させてもらえない年ごろ。たまには自分も好き勝手する側にまわりたい。
そのためには対処を知っている相手がいるべきで、僕たちにとってガバ水がそれだったんだ。自分のいいようにできるおもちゃと、それによって偉い存在になれたような高揚感。
狭い世界に生きていた子供も、その味を占めたらやめられない。ローテが回ってきた僕も、似たような気持ちだったんだ。
放課後。
僕はあらかじめ下手くそな絵を書きなぐった自由帳の紙片を持ち、ガバ水のもとへ向かったよ。
家は相変わらずの様子。ここまで一か月半は様子を見てきたが、人の出入りする気配は全く感じられずにいた。そのことも、僕たちを調子づかせる要素のひとつだったよ。
ガバ水の音がする。見ると、みんながこれまで幾重にも貼り付けていた紙たちを突き抜け、やはり水は飛び出していた。
最後にローテが回ってきたのは2週間前。水の勢いは単純に比較できないが、貼り付けたときには、てきめんに効果が出るのは確かだ。
僕も先駆者に、そして過去の自分にならい、今また新しい紙を貼り付ける。
押さえつけると水の勢いは一気に弱まる。その間にテープでふちをおさえて固定にかかるのが、いつものやり方だったのだけど。
この日は違った。
僕がテープを引き出すより先に、別のかん高い音が家の上から響く。いくらか遅れて、バラバラと家の前へ降り落ちるものたち。
ガラスだ。大小のガラスの破片。見上げると4階に相当する窓が、粉々に砕けていたんだ。
封鎖されていたがために保たれていた防音機能が失われたか、部屋のうちからかすかに響くのは、とぷんとぷんという水音。さらに見上げる僕の前で割れた窓から飛び降りてきたものがあった。
ヘビだったかもしれない。ウナギだったかもしれない。
僕の身体など一飲みにできそうな、ぶっとい縄状の影が飛び出し、地面へ真っ逆さま。そのままガラスの散らばったあたりに落ちるが、なお止まらず。突き抜ける勢いで地面を掘り進み、大穴を開けてそれっきりだった。
あの場に居合わせたのは、僕しかいない。
みんなに信じてもらえたのも、割れた窓と、いまだ響く水音と地面の穴を見てもらったがゆえだ。
家の持ち主に謝罪するべきところで、事情を聞いた親と一緒に持ち主を調べようとしたのだけど、不思議と誰にも行きつくことがなく。僕たちは詫びる先を失ってしまった。
僕たちはあの家に変化をもたらした「主役」であり、共犯者だ。でも、事態はまだ続いている。
いつの日か、今度は「主人公」として自分たちの行ったことにケリをつけるときが訪れるかもしれない。




