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疑え自分

 ん、どうやら雨が止んだみたいですね、先輩。まわりの人たちがぽつぽつ傘を畳んでいるみたいですし、これでひと安心です。


 ――俺がとっくに傘閉じているだろうが?


 いやあ、先輩はいまいち信用ならないというか……あ、性格とかそういうことじゃないですよ。

 やたら怖い話、奇妙な話に飛びつく先輩は、知らぬ間におかしな感覚にとらわれているんじゃないか、という懸念です。ほら、自分に関心を持ってくれる相手へ、自然自然と距離を詰めがちじゃないですか? 魂っていうのは。

 先輩も知らぬ間に、その怖いもの、奇妙なものに近寄られて感覚がへんてこになっている恐れがありますからねえ。それに騙されているんじゃないかと。


 ――結局、個人攻撃に変わりないじゃあないか?


 いやあ、お気を悪くされたならすいませんです。とはいえ、かくいう私が経験者なものでして。先輩が思うよりずっと、私は私自身のことを信じていないんですよ。ですから、他の人がやっていることを判断基準にするよう心がけているんです、できる限りね。

 先輩もぼんやりしたことじゃ納得できないでしょうし、ひとつ話をしましょうか。この「幻の雨」についてのお話を。


 私も記憶にないころの話からになりますが、どうも私は雨降りの中、さしていた傘を急に閉じてしまうことがあったらしいんですよ。

「雨を浴びなきゃ」なんてつぶやきながら、先を急ぐ様子もなく降水の中をくるくる回って踊るかのようなふるまい。両親もその様子を見て、はじめはぽかんとしてしまったらしいですが、すぐに私が濡れないようあらためて傘をさしつつ理由を尋ねたようです。

 それでも、そのときの私は「浴びなきゃ」と答えるばかりで、傘のまもりから自ら外れようとするばかりで。家に帰るまでが大変だった、と話していましたよ。いったん家の中へ入ってしまえば、ぴったり落ち着くんですけどね。


 で、それから年を重ねた私は変わらずに、雨降りにもかかわらず、開いていた傘をいきなり閉じる奇行を重ねていたのですが、このときはもう記憶がありましたよ。

「浴びなきゃ」なんて、強迫観念めいたものに動かされてじゃありません。降っているはずの雨がですね、不意に止んでしまったように感じられるんです。

 雨のしずくの気配、水たまりに広がる波紋、傘を伝わる衝撃、服を濡らす冷たさ……それらがいちどきに感じられなくなっちゃいましてね。「あれ、やんだかな?」と錯覚しちゃうんです。

 当初は私一人だけのときに起こっていたので、しばらく気づくことができませんでした。けれども、いくらか人のいる中で自分だけ傘を閉じ、周りの人は変わらずそのまま……というのを何度か体験すると、気味が悪くなってくるものでした。

 私にとっては、傘をさしているみんなのほうが異様なんです。これまで雨が降っていた姿は私も見ていますし、それが止んだのならば傘を畳む仕草に入ってもおかしくないはずなのに。

 気づかずに歩き続ける人もいますが、出会う人、出会う人がひとりも例外がないとなると……ねえ。


 私にとって、この時間はどのような季節であれ、ぬくくて過ごしやすい、いい気候に感じられるというのは共通していまして。ちょっとでも長い時間、その暖かさを肌に受けていたいと感じてしまうんですよ。

 もっとも、それはまやかしなのも確かなようで。家へ帰り着いたとたん、とてつもなくびしょ濡れになっている私が、その場に現れる。いや、帰ってくると表現した方がいいのでしょうか。

 麻痺していたものがいっぺんに呼び戻され、私は震えんばかりに冷たさに襲われて、大きなくしゃみを一発。聞きつけた母がタオル持って走ってきて、さっさとお風呂にはいりなさいと注意してきます。

 雨の日は、私がしばしばこのありさまで帰ってきますからね。たいていは準備がすでにされているというわけです。


 なので、私はすっかり自分の感覚が信じられなくなりまして。それから意地でも、雨の日は傘をさしたまま歩こうと思ったんです。

 自分がどう感じようと、お構いなしに。そうすれば、みんなが傘をさしている中でひとりだけ恥をかくような真似をせずに済むのだから。


 ――雨がっぱを使えばいいのではないか?


 ええ、私もそう思って試したことがあります。

 でも、どうやら全身を余計に覆ってしまうのが、その奇妙な現象にはマイナスに働くようでして。

 熱気が、すさまじいんです。まさに北風と太陽の、なお極端バージョンというか。雨ガッパの中がまるきり灼熱地獄と化して、脱がずにはいられないんです。

 体験したなら、分かると思います……焼けますよ。

 それほど苦しむなら、傘のほうが10倍は気楽。そう学んだ私は、たとえ空がからりと晴れたように感じられても、できるだけ人のいるところまで移動し、本当に雨が降っていないかどうかを確かめるようにしていたんです。

 もし、誰も傘を畳まないようならば、私も引き続き傘を開いていく。それで確かに家へ帰るやお風呂へ直行を要する、というほどのぐしょぬれは避けられたんですが。


 あの日は、忘れもしません。

 傘をさしている私へ、いつもよりもずっと激しく暖気が取り巻いてきたんです。

 雨ガッパを着ているときに及ぶかというくらいで、すぐさま異様さに気付きましたよ。あの、私にしか感じられないタイプのやつだと。

 しんどさはありましたが、家まではもう歩いて数分。これをこらえられないようなら、今後同じようなことがあったとき、私はいいようにされてしまうだけ。

 その意地みたいなもので、先を急いでいたのですが。

 ふと、傘を持つ手へにわかにジンマシンのようなものが浮き出てきたんです。「ん」と目をやったときには、すでにその無数のジンマシンたちが赤く染まりはじめまして。そこからぷしゅ、ぷしゅと小さく赤い噴水をあげ始めたんです。


 血、でした。

 ひとつの穴から出るものは多くありませんが、その数は文字通りの完膚なきまでで。肌どころか、私の服さえも内側からどんどん赤く染まっていくんです。全然痛みのないままに。

 これはまずい、ととっさに傘を投げだして止血しようとしましたが、身体をさらけ出したとたんに、ぴたりと出血は止まってしまったんです。

 私を包む暖気は、わずかに緩みましたがやはり強いまま。私を見やりながら、追い抜いていった他の通行人がいるところを見ると、実際には雨が降り続いていたのでしょう。


 小さいころの私は「浴びなきゃ」ということを、本能的に分かっていてああいう行動に出ていたんですね。それを年とってから、ふと逆らいたい気持ちが湧いてああなったと。

 原因は少なくとも、いまのお医者さまには分からないようです。特異な体質なのかもしれませんが、私が自分をあてにしなくなるには十分だったんです。

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