さつりくの嵐
5月も半ばに入るかあ、早いものだな。もう一年の半分に達しようとしているんだぜ?
これから梅雨が来て、台風が来てと……なまじ先の流れが読めてしまうというのも、考えものと思わないか? 知らないなら知らないで、無鉄砲にも思えるエネルギーを発揮できるが、知っているといろいろ計算してしまい、やる前から疲れてしまったりする。
子供のときなら力いっぱい好き勝手して、あとはよろしくと親へ頼みながら力尽きてもよかったんだが、大人側だとまさに子供の尻拭いをさせられることしばしば。
へたばるわけにはいかないペース配分と、下り坂になりがちな体力とテンションをコントロールする苦労を思うと、なかなか足腰重くなるものよ。
それでも自然は関係なく、力を振るってくるわけなのだけど、うっとおしく思うばかりじゃあまずいときもある。
自然の中の同じ現象でも、我々のように個人差が存在する。大きく影響を及ぼしてくるその違いを、大人としては見極めなきゃあいかんのかもな。
俺が以前に父親から聞いた台風、というか嵐にまつわる「差」の話もそれのひとつだろう。聞いてみないか?
父親の暮らしていた地元は、夏になるとほぼ毎年台風の被害にある南の地域。
屋根をしっくいで固め、家のまわりには樹を植えて風を防ぐための壁としている家が一般的。およそ平面で構成される家の壁が、何トンもの重みがある風の直撃を受けるとヤバいからな。できる限りダメージを押さえるわけだ。
家でさえそれなのだから、人だったらその被害は甚大になるわな。嵐がやってこようものなら頑丈な建物や、それに準ずるところへ避難しやり過ごしていくのが尋常なところ。
しかし、あえてその身を嵐のただ中にさらさなくてはいけないケースもあったのだとか。
その嵐がやってくる前には、決まって犬狼のものとおぼしき遠吠えが響き渡るのだという。途中に切れ目をはさんで三度、長く響く声を聞いてほどなく、雨風があらわれ始めると地元の誰もが「ああ、『さつりくの嵐』だ」と憂鬱に思うのだとか。
さつりくの嵐がやってくると、ローテーションで決まっている当番が指定された見張り台のてっぺんに立つ。屋根を持たないその空間の中央には、船の帆柱を思わせる巨大な柱が地上から貫いて佇んでおり、当番はそこと自分を丈夫な綱でしっかりと結んでおくのだという。
そして強まる雨風の中、雨具などを用意することなく着のみ着のままでそれらを全身で受け止めることが求められるんだ。
もし、訪れた嵐が本当にさつりくの嵐であったならば、ほかの家屋にいる者たちは風に揺れる家屋を感じれども、その屋根や壁面が雨に濡れることなど一切ないという。
その代わり、かの見張り台にいるものは徹底した風雨にさらされる。さながら悪天候の海へひとり船をこぎ出したかのごときで、一種の人身御供といえるかもしれない。当番の者は嵐が過ぎ去るまで、ひとりでこの状態と戦い続けなくてはいけないんだ。
言い伝えによると、さつりくの嵐は土地の神様が用意するものであり、純粋な苦しみを欲する場合に起こすとされる。
柱に身を縛る当番は、その苦しみを捧げる代表となって神様のご機嫌取りの役割を果たすんだ。そのため、身を守るすべを用意することは望まれず、受けるがまま苦しむことが望まれるというわけだ。
命を奪うことは、まずされないという。死は多くのものに終わりをもたらすが、それは苦しみもまた途切れてしまうわけで、長く味わおうと思うのならば生かしておいたほうがいいのは道理だ。
その嵐がやってきてから通り過ぎるまでの間、ひとりが自分の身と時間と苦痛を捧げることによって、多くの者へ安寧がもたらされるのだけど。
長い歴史の中で、これが満足に果たされないこともあった。
直近であったとされる例だと、さつりくの嵐が来てより1時間あまりは、ただ家の戸や壁ががたがた揺れるに過ぎなかったのが、にわかに雨粒が当たるようになってきたという。
普段通りの「さつりくの嵐」ならば、こうはならないと見張り台に近い家に住まう男が様子を見るべく、強まる雨風の中を走った。
見張り台は村一番高く、4階層分はある。その階段を駆け上がっている間、男は何度も外へ投げ出されそうになり、そのときどきで眼下から響く木や石が砕けるような音を耳にした。
覗き込んでみると、いくつかの家は周囲に生やした木が根っこごと引き抜かれて飛んでいき、別の家屋へ突き刺さっている様子が見受けられたのだそうだ。
串刺しを免れた家屋も、吹きすさぶ風に屋根を引きはがされたり、壁の一部を砕かれて持っていかれたりと、嵐のさつりくをおおいに許してしまっている。
しかし、それに伴うだろう人の悲鳴、叫び声に類するものは聞こえてこない。
ただひたすらの破壊音に、大勢の声が劣るとも考えづらい。まるでこの見張り台が、人のことなど知らないとばかりに事態を見下ろす、天の上であるかのごとく彼には感じられたとか。
そうしてようやくてっぺんにたどり着いたとき、柱に身を結んだまま、こうべを垂れている当番の男を彼は見る。声をかけても、体を揺さぶっても彼の反応はいっさいなく、こときれてしまっていたのだ。
過去、彼が何度か病の発作に苦しんだのを見たことがある。この当番のときに限ってそれが来てしまったのだろうか。
急ぎ、様子を見に来た男自身が縄に縛られると、見張り台より下の被害はぴたりとおさまったのだという。




