はぐくみ蝶
郷に入っては郷に従え。
よく知られたことわざとは思う。ある郷に入ったとき、そこにある服装、趣向、しきたりなどから外れたものは、大いに目立つからだ。自然とその場にいづらくなってしまうだろう。
自己主張とまわりに認められているものは、しばしばぶつかる。
これらの完全一致が生まれてから死ぬまでずっと続くのであれば、それはたぐいまれな豪運だろうな。幸せかどうかは、別問題としてね。
無用なトラブルを避けつつも、自らの世界を広げんとしていく。このバランスの難しさが生きることの難しさであり、面白さにつながるところだろうね。ひょっとしたら、こうして過ごしている我々の近くでも、世界を広げんと試みているものがいるかもしれない。
以前、私が体験したことなのだけど、聞いてみないか?
タンポポといえば、食べられる野草のひとつであることは、よく知られているだろう。
食用とされるセイヨウタンポポなどは、ビタミンなどの栄養素も含んでおり、身体へプラスの影響をもたらすことが期待される。子供のころからすでに、私たちもそう教えられて育ったものだ。
しかし、ちょっとした例外も身近に存在していた。私たちはそれらを「はぐくみタンポポ」と呼んでおり、常日頃、出会えるときを心待ちにしていたんだ。
はぐくみタンポポは、固定された種にあらず。俗に「はぐくみ蝶」という蝶の存在によってもたらされるものだった。
はぐくみ蝶は、その飛ぶ姿だけを見るならばモンシロチョウなどと区別がつかない。花などにとまり、呼吸をするようにゆったりと羽を開閉するときにのみ、判別することができる存在だった。
はぐくみ蝶の白い羽は、広げると青みを帯び、縮めると赤みを帯びる。その色の転換はなめらかに行われて、古来、芸術的な生き物とみなされながら、その生態はいまだ謎に包まれている。というのも、このはぐくみ蝶はいったん捕まえてしまうと、この不思議な色合いを永遠に失い、ほかの凡百な蝶と変わりない性質へ様変わりしてしまうからだ。
どのような手段をもってしても、自然から切り離された時点でこうなるので、環境変化のストレスに対してきわめて敏感な生き物なのだと思われているとか聞いたな。
そして、このはぐくみ蝶が羽を休めたタンポポは、極上の味を持った可食植物へ変貌をとげる。
蝶が自然に飛び去ったあとのこのタンポポを食むと、その人が今まさに味わいたいと思っている理想の味をもたらすんだ。
一本のタンポポ相応の大きさゆえ、腹を満たすには量が圧倒的に足りない。が、それくらいだからこそ、興味を持ち続けられたのかもしれない。
いくら美味でも、満腹を感じ始めるその瞬間から「マンネリ」感を覚え始め、惰性が楽しみを奪ってしまうだろう。
対象の欲がみなぎっているうちにやってきて、冷めやらぬ間に去っていく。後ろ髪を引かれてこそリピーターとなる可能性が高まるというもの。
はぐくみ蝶は春から夏にかけて、黄色く花開くタンポポへその身をおろし、休んでいく。そのため、毎年の新学期が始まることははぐくみ蝶のあらわれるのを私たちはとっても楽しみにしていたのさ。
――今はやらないのか、て?
まあ、できることならまた、はぐくみ蝶のとまったタンポポを食べたい気持ちはある。
けれども、ちょっと苦めな経験があってからは、どうも二の足を踏んでしまいがちなのだよねえ。
あの日の下校際。
信号待ちをしていた私たちの眼前を、すいっと一羽の蝶が横切ったんだ。
「あれ、はぐくみ蝶じゃね?」
先に話したように、はぐくみ蝶か否かを判断できるのはタンポポにとまって羽を休めるときのみ。ならばそれ以外は、あらゆる個体を疑ってかかるよりない。
私たちは飛んでいく蝶のあとを追っていく。季節がら、タンポポそのものはあちらこちらで顔をのぞかせているが、どこにとまるかは蝶に任せるしかない。
あのときは、実に1~2キロ程度におよぶ長時間飛行だったと思う。最初は6人近くいた仲間も、家から離れすぎちゃうんでと、追っている途中でどんどん脱落。
最終的に蝶が羽を休めたときには、私と友達の2人きりになっていた。
蝶が体を休めたのは、まわりにあるタンポポたちよりも頭一つ抜き出た、せいたかのっぽの黄色い花だった。
私たちは2人して、蝶の羽に目をこらす。これまでの追っかけが骨折り損だったか否かがかかっているのだ。是が非でも力が入った。
やがて蝶がゆっくりと羽を閉じていくと、その白い羽はぐんぐんと赤みを帯びていき、ぴたりと閉じ合わせたときには、目にも鮮やかな紅色をたたえる。
そうして開いていくときには、赤みはみるみる薄れていき、羽が地面と平行へ近づくにつれて、今度は青みを帯びていく。広げきったときにはもう、海のそれと見まごう蒼のじゅうたんが横たわる。
間違いない。はぐくみ蝶だ。
私と友達は顔を見合わせると、じっと蝶の様子を観察する。
はぐくみ蝶が自然と立ち去るのを待たなければ、タンポポは満足する味に仕上がらないと聞いていたからだ。私たちははぐくみ蝶が再びおのずから飛んでくれるときを待ったが、それはかなわなかった。
蝶がとまってから5分以上がたち、これまで追いかけてきた疲れもあって、私たちがやきもきし始めたころ。生えているタンポポの背後、トタンでできた壁のてっぺんから、にわかに飛び降りてきた影があったんだ。
両手で抱えられるサイズの三毛猫。
猫そのものはタンポポからわずかに離れたところへ降り立ち、そのまましゃんと姿勢を正して、すたすたと向こうへ歩いて行ってしまう。蝶もタンポポも関係なく、ただ地面を歩いて移動したい気まぐれにかられたのだろう。
しかし、はぐくみ蝶にそのようなことがわかるはずもない。突然、降り立ってタンポポを揺らした新手の姿に、ぱっと算を乱して逃げ去ってしまう。その羽は先ほどと比べ物にならない早さで開閉を繰り返すも、二度とあの色合いを発することはない。
たちまち私たち以外の気配がその場から失せ、わずかに揺れるタンポポのみがはぐくみ蝶の存在を物語るのみとなった。
――このまま、「はい、さようなら」の流れとかどうなのよ?
こんなくたびれもうけをしたいがために、このようなところまで来たんじゃない。
そのもったいなさが、私たちを突き動かした。いまだ揺れの止まらないタンポポを手に取ると、茎半ばからぽっきり折った。そこからもう一度、ぷちりと折って、友達は花に近い側を、私は残った茎のほうを手に取ると、そのまま加えこんだ。
思い浮かべるはメロンソーダ。健康志向の我が家ではめったに飲めない甘味料の香りと炭酸の刺激を強くイメージする。いつもであればはぐくまれたタンポポは、それにたがわない味を口いっぱいへもたらしてくれるのだが。
私も友達も、いくらも持たずに「べっ」とタンポポを吐き出していた。
互いに、思った味とは程遠い、痛みさえ覚えるきっつい苦味。甘党によりがちな子供舌ではなおさらしんどい代物だ。
そうして吐き出されたタンポポの断片には、花の黄色も、茎の緑も見られない。
銀色ばかりだった。学校の給食で使うフォークやスプーンを思わせる色合いの破片が、足元の歩道にまき散らされたんだ。
それだけじゃない。こちらはほかになにも衝撃を与えていないのに、タンポポだった銀色たちはおのずから細かい破片に分かれていき、それが生き物であるかのように四方へ這って動いていったんだ。
毛虫芋虫など比べ物にならない、飛ぶような速さだった、不意を突かれたこともあって、気付いた時にはすっかりあいつらを見失っていたよ。
そのことがあってから、私も友達もはぐくみ蝶を探すことはやめた。
みんなに話しても信じてもらえなかったけれど、きっとあの蝶によってタンポポは様々に組み替えられているのだろう。私たちには得体のしれない技術でもって。
それがあの蝶の、あるいはその裏にいる回し者による、郷への溶け込み方なのかもしれない。




