お前は何だ
自分の理解できない相手ほど、怖いものはない。
ホラーの襲い手たちも「なぜ襲ってくる? なんでそんなことができる?」と理解できないままに迫ってくるから怖い。
個人的には、ろくに背景とかが明かされないほうがいいかなあ。論理的に考えられるようになると、絶対に「怖い」以外の印象に邪魔される。いっそ得体のしれない手合いであるまま終わったほうが、納得はできずとも、感じ取ることはできよう。
現実に、作品そのままの脅威に襲われるかはわからないが、いつどのようなきっかけで恐怖が迫ってくるかは読めない。君にはそのような怖さに襲われた経験、ないだろうか?
僕は以前、少し奇妙なことに出くわしたことがあってね。そのときのこと、聞いてみないかい?
あれは学生時代。珍しく朝寝坊しかけたときだった。
起きて時計を見るや、ぎりぎりの時間と分かった際の機敏さは、火事場のバカ力の一種といおうか。
バナナ一本だけをかじり、最寄り駅までダッシュした。駅まで徒歩10分程度と近いか遠いか微妙な感じだが、駐輪場を借りるお金を払うのはちょっと気が引ける。
交通量が控えめだったことも手伝い、赤信号も左右を見て、大丈夫と判断したらどんどん渡る。
その甲斐あって、いつもよりも数分程度遅れて駅へ到着。定期通いをいいことに改札へ直行した。小さな駅で、券売機の横がすぐに改札になっている。
列をなしている人たちを横目に、改札を通ろうと定期券を出したところで。
ぼかり、と後頭部をぶっ叩かれた。
こぶしじゃなかった。もっと小さく、鋭い痛み。
振り返ると、券売機の先頭に立っていた老人がこちらへ、手に持つステッキを伸ばしていたんだ。
無言だったが、その禿頭が怒りに満ちているのはひと目で見て取れたよ。何より、音を立てながら歯ぎしりする犬歯が、これまで見た人の中でもひときわ目立つ長さだったから。
――はあ? 先に乗るのが気に食わないってか? 冗談じゃないよ、それくらいでよ。
幸いにも、いつも乗る電車がホームへ入ってくるアナウンスが流れる。
僕は老人を無視して改札を通過し、電車へ向かった。これがもし電車が来るまで待つ時間があったら、気が気でなかった。例の老人が自分を追っかけてくるんじゃないかと思ってね。
逃げるように電車へ乗って、それからはろくに辺りも見ずに、通学カバンの中の単語帳を開いた。
タイミング的に、老人はこの電車には乗れないはず。犬にでもかまれたと思って、とっとと忘れてしまおうと努めたよ。
で、学校の授業を受け終わったまでは良かった。
今日は親から頼まれていた用事があって、寄り道はできない。まっすぐに下校して電車へ乗ったまでは良かった。
ところが、いざ最寄り駅のホームへ車両が入っていったとき。
たまたま窓の外を見ていた僕は、緩まっていく電車のスピードに伴い、とらえやすくなる景色の中で、あの老人を見つけてしまう。
老人はホームの端っこへ立っていた。車両の停まる最後尾の位置、すなわちこれから入る電車の全容を見届けることができる、ポジションにいたんだ。
何より、あの顔が一気に鳥肌を立たせる。朝に見た時と同じ、犬歯をむき出しにした怒りの表情のそのものだったからだ。
よもや、と思った。
このとき、乗っていたのは電車の最前車両。老人を遠く見送り、この駅の改札に一番近い位置取りでもある。
やがて完全に電車が停まり、ぱっと外へ出てホームのかなた。あの老人が立っていたほうに一瞥をくれるや、僕はもう逃げ出していた。
老人が追ってくるんだ。
後部車両から出てくる乗客たちを、遠慮なく押しのけながらこちらへ迫ってくる。
僕がターゲットである、という保証はない。が、今朝のことを考えれば、同じようなパターンがないとも限らない。
改札を抜け、ひとしきり走った後に僕は振り返る。
老人も改札を抜けて、なお走ってくるところだった。
四方へ散っていくほかの客たちへ目もくれず、僕に向かって一直線。ステッキをわしづかみにしたまま、ろくに地面へ着けずに迫ってくる。
――そんな健脚なら、ステッキも電車も使わずに、歩けばいいだろ、このヤロがー!
心の中だけで毒づき、僕は再び逃走へ。
この調子だと、家まで着いて来る恐れ80パーセントオーバーというところだろう。どこかに逃げ込んでも、こちらが出てくるまで待ち伏せされてはたまったものじゃない。
交番が数少ない選択肢だろうが、駅そばのものをすでに通り越してしまっていたのが悔やまれる。普段、どこに交番があるかなど気にしていなかったから、走りながら頭の中に地図を思い浮かべていったが。
――なんか……静かだな?
今朝以上におとなしい……どころか、全く見ない車通り。
朝に通ってきた交差点のひとつへ差し掛かっても、一台も通ることはない。車用の信号はというと真ん中の黄色を点滅させ「注意しながら通れ」との合図。
夜中ならともかく、今はせいぜい夕方あたり。このような場面には会ったことがなかった。歩行者信号となると、もはや青も赤もなく、明かりを消したまま沈黙している。
車道に沿った、いずれの信号も同じ状態。気付いた僕が逡巡したおり。
今朝のように、後頭部を鋭く打たれた。
今度は痛みだけでは済まない。思わずうつむいてしまった顔から、盛大なげっぷが飛び出す。
口からのみではない。鼻から、目から、下向くあらゆる顔の穴から突き抜ける感覚が、何秒も何秒も続く。痛みを伴い、まともに動くこともできない。
止まらないげっぷは、やがて色を帯びる。血にしてはやや明るい赤を、僕の目、口、鼻がどんどん足元へ垂らしていったかと思うと。
喧騒が僕を包んだ。
そこにはいつも通りの車通り、人通りの中、赤信号を前にして立つ僕の姿があった。
車道側、歩行者側、いずれの信号もしっかり機能している。
あたりを見回しても、あの老人の姿はなかった。それでも後頭部には、あのステッキで叩かれたであろう痛みが残っていたんだよ。
何に老人が起こっていたかは、定かじゃあない。でも老人のアクションがなけりゃあ、僕はこうしていなかったかもしれない、となんとなく思うんだ。




