道具の使い手
道具を作る力が、人類をほかの動物と隔絶された存在とした。
この手の話は、歴史を学ぶ上で火、言葉の発明と並んで人類の大きな特徴と教えられるんじゃなかろうか。
動物には道具を扱う力はあっても、作る力はないとされる。石や木の棒などを使って、お目当ての餌を手にする助けにしても、その場限りで終わり。
対する人間は、道具を長く使っていく。必要に応じて改良したり、道具を作っていくための道具であるメタ道具を新たに作っていったり……道具そのものと、そこに生まれた便利な法則をどこまでも使い倒そうとする。
一部のメリットあるケースをのぞき、「車輪の再発明」があまりいい顔されないのも、このような点があると思う。むかしに見つけたことを流用できるときには、それをしたほうが、効率のいいことだとは多くの人が感じているだろう。
だが、裏を返せば「使う」ことに関してならば、人間以上に熟達した存在もいるかもしれない。出会う機会がなければ判断の機会もないだけで、いざ出くわしたならば舌を巻くこともあるかもね。
私がむかしに出会ったことケースだが、聞いてみないかい?
不意打ち、というのは実際になんでもないようなものへ、驚愕要素を与えるに十分なスパイスだ。
家の玄関を出た瞬間、私はとうとつにそいつに襲われたよ。顔へわっと一斉にかぶさってきて、そのねばっこさは気持ちよさなど全然感じられない。
クモの巣だ。
人の身の質量であれば、わけなく突破できるやわさ。とはいえ、へばりついたものを引っぺがすまでの違和感たるや好きになれない。
手に付く、白い糸の塊たちを放り捨てながら「珍しいな」とも思う。
クモの巣が張るとしたら、長いこと放っておかれたり、動かなかったりして、巣を維持しやすいところが選ばれるはずだ。
それが常日頃、人の出入りがあるような玄関先に作るなど、いささかうかつに思う。
ここが空き家ならばともかく、私たち一家の住んでいる一軒家なのだから。こうも簡単に破られるようでは、骨折り損ならぬ巣作り損のくたびれもうけだろう。
あわてんぼうさんのクモもいたもんだよ……と、そのときはたいして問題にしなかったのだけど。
数時間後に戻ってきた我が家。私はまた、同じところでクモの巣に引っかかった。
今朝のことを、もうほとんど頭の隅へ追いやってしまっていたこともあるが、この巣が周囲に溶け込むような極細な糸で構成されていたんだ。
今回は顔にかぶさってからすぐに突破はせず、さっと退いたのだけど、破けてほつれた糸の先以外は、とても肉眼で判別できないほど。よくよく目を凝らせばなんとか疑えるレベルで、普通に歩いていたら十中八九はぶつかるだろう。
玄関の隅、掃除用に置いていたほうきでささっと巣を払ってから中へ入る。出迎えてくれた母親に、今日は外へ出る用事はあったかと尋ねてみると、ほんの1時間前に買い物から帰ってきたばかりだという。
――そんな短い時間で、こうも巣を張れるものなのか? 職人技というか、なんというか……。
感心するやら、あきれるやらで。
そのときから、私は玄関を出入りするときに、この極細の巣がないかどうかよく確かめるようになったのさ。
私が単独で出入りするとき、ほぼ確実に巣は立ちはだかってきた。
では、家族はどうかというと、不思議と引っかからないことに私は気が付く。別段、身内で背が高かったり、低かったりもしすぎないから、ほかのみんながかすりもしないなどは、物理的に考えづらい。
試しに、私がほかの人と一緒に出入りしてみると、巣は邪魔をしてこなかった。その代わり、私一人であったならば途端に姿を見せるものなんだ。
いったん一緒に帰宅し、すぐさま玄関を出てみるといった、ほんの数秒の間でも同じ。先ほどまでなかった巣が、顔へべったりついてくる。
――これ、単純なクモの巣なんかじゃないぞ。
とはいえ、かかった後の様子を見てもらっても、普通にクモの巣破った人にしか思えないのがつらいところ。家族が視線や意識を玄関先へ向けているときは、決まって引っかからず、そっぽを向くやその姿を現す。
私自身や、私の持つものが引っかかり、糸をこびりつければ確かめてはもらえるあたり、壊れればこのステルスじみた性能も発揮できなくなるようだが……いったい、なぜ?
その正体は、もうしばらく経ってからほのかに見えてくるようになる。
私がクモの巣を取り除けるときに、使っていたほうき。
それがぽっきりと折れてしまったんだ。どこかへ強くぶつけたわけでもなく、立てかけている最中に、いきなりね。
かのほうき、買ってからさほど時間が経っておらず、最初にクモの巣を取り除けたときにはほぼ新品の状態だった。
それが巣の掃除に使われはじめた、およそ2週間ですっかりヴィンテージもののような傷み具合を見せていたんだ。水色だった柄はくすんだ灰となり、整っていた毛先も天然パーマよりぼさぼさで、あさってやしあさっての方向を向きっぱなしときていた。
そうしてこの再起不能ぶり。すっかり歳を食ってしまったようにしか思えない。
歳。
このときはふと直感で思ったことだったが、このときに前後して我が家の家電がどんどんと寿命を迎えていくことになった。
急な出費になったのもそうだが、レンジなどは買い換えて数日程度でたちまち故障。無理な扱いをしたわけでもないのに、壊れる前にはどんどんと外観にも錆や汚れが浮き出していて、あっという間に年をとってしまったとしか思えなかった。
親たちが首をかしげる中で、私は考えたね。あの私にしか引っかからないクモの巣らしきものがカギを握っているんじゃないかと。
夜、みんなが寝静まったころ。
私はこっそり起き出して、玄関へ向かった。
しめやかにカギを開け、戸を開いてみる。春先とは思えない、涼しげな風が吹き抜けていった。
そのまま外に出ようとしてみる。案の定、あのクモの巣もどきはしっかりそこへあって、顔へ被さってきたんだ。
べとつく感じはやはり好きになれないが、今回ばかりは覚悟のうえ。
私は糸をはぐのもほどほどに、すぐまた引き返して玄関の外から中へ入ってみせる。
予想はしていたが、また巣らしきものができあがっていた。この刹那に。
あらためて、異様さが裏打ちされるも私は二度目を突き破り、続いて三度目、四度目と何回も玄関の出入りを繰り返す。
他に誰かが気に留めれば、たちまちかき消えてしまうこの糸。その因縁にとことん付き合い、断ち切ってしまう腹積もりだったんだ。
それからいったい、どれくらい玄関を出入りしただろうか。肩に積もらせた糸たちは、こんもり山のようになってきて、払う腕にもまた籠手のように巻き付きだしている。
すでに思考停止の機械になりかけていた私の顔が、急にすんなりと玄関を通り抜けた。
麻痺しかけていた感覚が、ぴんと戻ってきた。
――すり抜けた? すり抜けたよね、いま。
また出入りしてみる。やはりなんともない。
終わったのか、と思ったのもつかの間。つむじにツンと痛みが走る。
ほどなく、髪の毛と一緒に頭皮をもじゃもじゃといじる気配。自分が頭に手をやってくしゃくしゃとするときのようだが、気配はじょじょに頭の前のほうへ。
ぱっと、それが離れると、ほこりの塊を思わせるような灰色をしたものが足元へ落ちる。
判然としなかったけれど、それには米粒のように小さい脚らしきものが無数についていてさ。それらをちょこまか動かして、玄関より外へ逃げ出していってしまったんだ。
それから、奇妙な巣に悩まされることはなくなり、物が急激に傷むことはなくなったのだけど……一つ問題がある。
私自身さ。あれから5年くらいのうちに、私は今と大差ない老け顔になってしまったんだ。ほら、写真で見てもほとんど変わらないだろう?
どうもものが傷む現象すべてを、私は引き受けてしまったらしい。あの巣を取り払う道具としてね。
なんの道具かって? あのほこりっぽい姿で頭にひそんでいたものだよ。
相手が操られているとも分からぬように、道具として扱っていく……ひょっとしたら人間相手に造作もなくできる手合いかもしれないな。




