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貴女の浮かび

 今日、死んでもいい覚悟と、生きていい覚悟を常にしとくべきである。

 私の父が生前にしばしば話していたことでした。

 いわく、人生とは「受験日」がいつ来るか分からず、過程を積み重ね続ける時間ばかりが横たわるもの。

 その受験がひょいと、今日行われるかもしれないし、行われないかもしれない。そのいずれにしても後悔しないようにせよ……という意味合いだそうな。

 やり残しがあったなら心残りに直結しますし、かといって今日も限りと自分の物理的、精神的な預金をすべて切り崩し、もしも生きてしまったら今後が大変に辛くなりましょう。

 今現在のことを当然と思わず、めいっぱい堪能しておく。

 父自身、少し不思議な思い出があるようでして、その話をしてもらったことがあります。そのことが父の考えの源のひとつになっているかもですが。

 先輩もよかったら、聞いてみませんか?



 父は物心ついたときから、想っていた異性がいたそうなんです。

 二次元、三次元を問わず、初恋というのは本人にとって特別なものですが、父の場合は少々特殊なようでして、どこの誰かがよく分からないのだそうです。

 たまたますれ違った人に、ひとめ惚れでもしたのか……というと、それともまた違う。

 まさに脳内のみの人物といいますか。家族とも親戚とも現実の知人ともテレビの中で見る者たちとも当てはまらない。

 それでいて、いざ考えると心が安らぐような、あるいは胸のドキドキが高鳴ってくるような、いつもそばにいてほしく感じていた相手だった、といいます。

 彼女のことは、ちょっと想えばいつでも鮮明に脳裏へ描ける存在だったのだと。


 ――そもそも、どういった容姿なのかを話せ? 判断がつかん?


 ごもっともですが、あいにく彼女に決まった容姿はありません。

 そのときどきの父が考える、理想形の女性の姿となって脳内に浮かび上がるんだそうです。しばしば、決まった相手ひとりで満足しない男の話は聞きますが、そのときの気分が異なるんでしょうかね?

 ここまで聞けば、たいしたイマジナリー女だとは思いますが、やがて父に転機が訪れます。


 小学生になった父が、バスに乗ろうとしたおりにケガをしたことがあったみたいです。

 乗り込むための最初のステップで、つるりと足を滑らせてしまいまして。残りのステップのてっぺん部分へ、ごちんと頭をぶつけてしまったんですね。そのとき切ったというまぶたの傷痕は今でも残っていまして、見せてもらったことがありますよ。

 しかし、そのとき持ち合わせていたばんそうこうで、傷の処置をしたばかりにとどまりません。かの、イマジナリー女に変化が起こったのです。

 これまで父の中で豊かに見た目と表情を変えていた女ですが、このときを境に、石像と化してしまったそうなのです。


 目を閉じ、灰色一色と化して手を合わせたその女性は、容姿もまた固定されます。

 腰まで届く長い髪を、背中側で扇状に広げた姿。現実であったなら風、重力、その他の要因があわさり、長く保つことができない一瞬。それが切り取られ、永遠に固定されたといえましょう。

 微動だにしない女の像を、正面から見るアングル。それでもって父のイマジナリー女は固まってしまったのです。

 目を閉じたその顔のラインは、これまで見てきたイマジナリー女のひとりに違いありませんが、困ったことに父はこの像以外を想像することができなくなってしまったのです。


 これまでのように、好き勝手なタイミングでイメージすることにとどまりません。

 考えごとをするとき、黙想をするとき、眠りに入るとき……あらゆる原因で視界への集中が途切れるとき、真っ先にこの石像の女が浮かんでくるのです。他の女へ、意識的に変えようとしてもダメだったのだとか。

 先輩もなったことがありませんか? 集中してものを感じられなくなるほどの疲れ、だるさ、いらつき……他のものへ意識を向けようとしても、つい手を払って遠ざけたくなるようなうっとおしさ。

 それが目を閉じたり、ぼーっとしたりするたびに付きまとってきまして。父はほとほと疲れ果ててしまったようです。そして一緒に思いました。

 こうなることになるなら、もっと自由に選べる時間を大事にしておけばよかった。いや、そもそもこのような思いを最初から知ることがなければ、もっと楽でいられたのに……。

 まだ幼い父にとっては、自分の中の思いがあのときから一気に汚されてしまった気がして、すこぶる気分がよくなかったと話していましたね。


 そして小学校の卒業式の日。

 家へ帰るや、父は強いめまいを覚えてすぐ休んでしまったそうです。

 目を閉じると、もはや何度拝んだか分からないくだんの石像の女の姿が浮かんできましたが、いつもとは明らかに様子が違います。

 石の身体は、全身にひびが入っていました。頭頂部から、長いスカートに隠れた足元へかけて長い長いひびが、太さを問わず無数にくだり、幾本もの川に肌も服も区切られています。

 その状態で、長くは持ちません。石像は亀裂の大きいところから、次々にずり落ちては、はがれてゆき、それが他のひびへ伝播して……数年間、父のまなこの裏の一番槍を保っていた女は砂へと化しました。

 それもまた、父にとっては映画を見ているかのごとく、途中で他のことへ意識をうつすことはかなわないまま、石の女が崩れ去っていくのを見届けることになったとか。


 それからもう、あの女の姿が頭に浮かんでくることはなくなったそうです。

 いえ、父も意識して、かつては想った女たちの顔をよみがえらそうと頑張ったみたいですが、どうもしっくりこなかったようです。

 物心ついたばかりのときとは違い、モチーフをたくさん取り入れてしまったがために、そのいずれかをどうしても参考にしてしまう。そもそもが輪郭からしてすでにぼやけてしまい、まるで夢から覚めてしまったかのような後だとか。

 今はこうして母と家庭を作り、私ももうけたわけで、生活に支障はないし未練もなかったそうですが、あの目をつむった石像のことはよく覚えていたそうです。

 結局、父が例の女とどこかで再会できたかは、私どもにも分からずじまいなんですね。

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